第二十二話


「なるほど……では、ずいぶん気の長い計画だったのですね」

 セイラのつぶやきは、幸(さいわ)いなことに、打ちしおれてうつむいている命婦(みょうぶ)の耳にまでは届かなかった。

「それがいつの頃からか、物の怪(もののけ)は二の宮さまのたたりだという噂(うわさ)が流れるようになりまして……その風評(ふうひょう)を耳にしました時は、いかにもうなずけることと思い、なおさら恐ろしく身の毛がよだつ思いがしたものでございます。とは申しましても、この東宮御所(とうぐうごしょ)にそのような物の怪が現れるなどと聞こえては、左大臣さまはもとより、主上のご威光(いこう)にもさわりがあることでございますから、外聞をはばかり、決して取り乱したりせぬよう、まわりの者にもきつく申しつけておいたのですが、端者(はしたもの)はなにぶん新参者でしたので、物の怪を見た恐ろしさのあまり、ついその風評を口にしてしまったのでしょう」

「左大臣殿は東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)ではありませんか。そのような噂を、なぜ打ち消されようとなさらなかったのです?」

 すると、後ろにいた年若い女房が、泣きはらした目をきっとセイラに向け、こらえていたものをぶつけるように、うわずった声で叫んだ。

「命婦さまが打ち消したところで、人の口に戸は立てられませんわ。それにあの忌(いま)わしい物の怪は、二の宮さまの怨霊に決まっています!それもこれも、もとはと言えばみんな左大臣さまのせいですわ!」

「左大臣…のせい……?」


 セイラが聞き返すと、命婦の顔に動揺(どうよう)が走った。

「およしなさい、高倉。月の君の前で、そのような聞き苦しいことを申すものではありません」

「いいえ、命婦さまが責任をお感じになる必要はございませんわ。悪いのは私なのです。私があやめをかばって、別当(べっとう)さまにあのようなことを申し上げなければ……」

「なにもお前だけの責任ではありませんよ、高倉。わたくしにもいたらないところがあったのです。本当に……左大臣さまにも、このような噂が立ってしまってどれほどお心を痛めておいでか、まことに申しわけなく思っています。わたくしがもっとしっかりしていれば……」

 命婦は、ふいに声をつまらせた。

 袖(そで)で顔をおおいかくし、声を殺してむせび泣いているのが、ふるえる肩から見てとれた。

「わたくしが腑甲斐(ふがい)ないばかりに、東宮さまをお守りするどころか、このようなことになってしまい……東宮さまにもただただ申しわけなく、このうえは御仏(みほとけ)におすがりして、幼い東宮さまをお守りくださるよう、祈るよりほかはありません……」

 声をつまらせながら、切れ切れにそう話す命婦を見ると、後ろの女房たちも身を寄せ合うようにしてすすり泣きはじめた。

「なにをおおせられます。命婦さまは物の怪に悩まされながらも、ずっとそのお苦しみに耐えていらっしゃったではありませんか。その命婦さまを誰が責められるというのです。すべては……すべてはこの高倉がいたらなかったがために……私の落ち度でございます」

 高倉は、命婦を伏しおがまんばかりに、わあーっと泣きくずれた。

 すすり泣きの声が部屋中に満ち、読経の声が悲哀(ひあい)に拍車(はくしゃ)をかけるように響きわたる中、セイラはひとり静かに座していた。

「どうやら、私の見舞いは、みなさんをよけいに悲しませるだけになってしまったようですね」

「まあ、月の君……」

 命婦はふっと泣き止んで、忙しく涙をぬぐった。

「とんだお見苦しいところをお見せしてしまいました。せっかくお見舞いにお越しくださったというのに取り乱したりして……お恥ずかしゅうございます」

「お気になさらないでください。東宮さまを案じるお気持ちを察すれば、是非(ぜひ)もないこと。ましてやそれが身から出た錆(さび)とあっては、お嘆(なげ)きもひとしおでしょう」

 つき放したその口調に、はっとして命婦が顔を上げた先に、セイラの厳しい視線があった。

 言葉もなく息をのむ命婦にかわって、女房の高倉が進み出た。

「月の君、それはあまりに酷(こく)なおっしゃりようですわ!」

「酷……?」

 セイラはうっすらと笑って、

「東宮さまから後見人を取り上げたあなた方は、酷ではないとでも……?」

 その瞬間、高倉の表情が一変した。

 追いつめられた獣のような目で、今にも飛びかからんばかりにセイラをにらみつけている。

 それを見ると、もうここに用はなかった。

「とんだ長居(ながい)をしてしまいました。東宮さまには、一日も早くすこやかな日々が戻られるよう願っております。では、わたくしはこれにて――」

 立ち上がって歩きかけようとしたその時、それまで聞こえていた読経(どきょう)の声が止んだ。

 ふいに訪れた静寂(せいじゃく)の中で、命婦のさほど大きくもない声が、遠ざかるセイラの耳に届いた。

「高倉、あなたはもう登花殿(とうかでん)に戻りなさい。このようなことになって、女御さまもさぞやご心配なさっておられるでしょう」

「命婦さま、今そのことは……」

 ――登花殿?あの女房が……。

 では、この騒ぎの裏で糸を引いているのは、登花殿女御か――!?

 いまだ会ったこともないその女御に、セイラは強い興味をおぼえた。

 この時、悲劇の舞台の幕が音もなく上がりはじめたことに、気づきもせず――


  


 セイラが梨壺(なしつぼ)を後にして、しめっぽい雰囲気を振りはらうように足早に清涼殿(せいりょうでん)に戻ってくると、渡殿(わたどの)を通って、尹(いん)の宮が近づいてくるのが見えた。

 相手をする気分になれず、そ知らぬ顔をして通り過ぎようとした時、尹の宮の足が止まった。

「主上(おかみ)には、私が昨夜お願いしたことは、なにもおっしゃらなかったのですね。さすがにあなたは賢(かしこ)い方だ」

「賢い?……とんでもない。私はただ遊技(ゲーム)が好きなだけですよ」

 冷たく取りすましたセイラの横顔を見て、尹の宮はかすかに笑ったようだった。

 その日、久しぶりに右大臣邸に戻ったセイラは、弓場(ゆみば)で木太刀(きだち)を振るっていた。

 セイラが木太刀を振り下ろすそのたびにシュッ、シュッと空気が裂(さ)ける音がして、焦(こ)げくさいにおいがあたりにただよう。

 それは単に気のせいだけでなく、よく見ると、木太刀の先からゆらゆらと煙(けむり)のようなものが立ちのぼっていた。

 そこへ、足音もあわただしく篁(たかむら)がかけ込んできた。

「セイラ!やっぱり帰ってたんだね。殿上(てんじょう)の間では、セイラの噂でもちきりだったよ。どう見ても軽く一年はかかると思われていた宜陽殿(ぎようでん)の楽譜(がくふ)を、たった十日で演奏できるようになったって……。話を聞いた時はぼくも半信半疑だったけど、こうして邸(やしき)にいるってことはやっぱり本当だったんだね!」

 篁は息をはずませて、興奮をおさえきれないように頬を紅潮(こうちょう)させて言った。

 セイラは木太刀をおろして、目を細めながら耳をかたむけている。

「だから言っただろ。半月かからずに終わらせて帰るって……」

「うん、それは確かに聞いたけどさ。まさか本当にできるなんて、あの時はとても思えなかったよ。でもこんなに早く戻って来たセイラを見たら、母上が喜ぶだろうな。せっかくうちに来てくれたと思ったら、今度は宮中住まいになったって聞いて、だいぶ寂しがってたからね」

「じゃあ、後でごあいさつにうかがうよ」

 そう言ったセイラの表情は、梨壺を後にした時とは別人のように、明るくなごんで見えた。

「そうしてくれると助かるよ。なにしろ、今夜はお祝いの宴(うたげ)をもよおすんだって張り切ってたからね。父上までが、殿上の間ではあれほど驚いてたくせに、帰ってくるなり『さすがにわが家の孫(まご)むこ殿のすることは、常人(じょうにん)のおよぶところではない』なんて、一緒になってはしゃいじゃってさ」

「孫むこ殿って……?」

 けげんな顔をしたセイラに、篁はきまり悪そうに鼻をさすった。

「うん、それが……セイラには迷惑(めいわく)な話だろうけど、父上は内心ひそかに、讃良(さら)のむこにはセイラを…って思ってるようなんだ」

「あっはっは……。右大臣殿にそこまで見こんでいただけるなんて光栄だね」

 セイラはさほど気にもとめていないらしく、ほがらかに笑い飛ばした。

「ぼくは、セイラの記憶が戻ってからでないと、ずっとこの国にいてくれるかどうかわからないって言ったんだけど……」

 表情をくもらせて、うつむきがちに言った後で、篁はふと顔を上げてあたりを見回した。

「そう言えばセイラ、宮中から帰ったばかりだっていうのに、こんなところでなにしてたんだい?」

「見ての通りさ」

 セイラは、木太刀に二、三度素振(すぶ)りをくれた。

「宮中ではずっとこもりきりだったからね。少し体をほぐそうと思ってさ……ところで、殿上の間では他にどんな話題があがってた?」

 腰をおろして、話を聞く体勢をとったセイラの横に、篁も来て座りながら、

「やっぱり昨夜の物の怪騒ぎのことだよ。と言うより、今朝になって左大臣殿が東宮坊大夫を降りたいと申し文をまいらせたってことかな。セイラは知ってたかい?」

「ああ。帝に、雅楽(うた)を習得し終えたことを報告しにいった時、お聞きしたよ」

「左大臣殿のお身内だった方にあんな噂が立ってしまっては、面目(めんもく)を失くして辞めざるをえないお立場もわからなくはないけど……それにしても東宮さまは、心細い限りでおられるだろうな」

 同情しきりにためいきをついた篁に、セイラはぽつりと言った。

「お見舞いにうかがったよ、梨壺(なしつぼ)に……」

「えっ!東宮さまに、お会いしてきたのかい?」

「いや、東宮さまには会えなかった。かわりに、梨壺を取り仕切っている命婦から話を聞いてきたんだけど……」

 セイラは立てひざの上に腕を置き、その上に顔をのせて考え込みながら、一言ずつ言葉をつないでいった。

「昨夜の騒ぎを引き起こした女房は、東宮の首をしめることになる……篁はそう言ったんだったね」

「ああ。実際、そうなりつつあるし……本当になにを考えて……」

「ところが命婦(みょうぶ)の話では、騒ぎを引き起こしたのは新入りの端者(はしたもの)で、そうした事情をなにも知らず、ただ恐ろしさのあまり、以前からたびたび現われていた物の怪の噂を口にしたにすぎないと言うんだ。でも別当(べっとう)殿が、そんな話を真に受けるはずがない。当然、端者はひどく叱られただろう。それですんでいれば、あるいは噂もそれほど広まらなかったのかもしれない。その女房は端者をかばおうとしたんだそうだ。結果、かえって噂を広げてしまったというわけさ」

「そんな無責任な話が……!」

「その女房も、自分の落ち度だって言ってたよ……でも、違うな。落ち度なんかじゃない。篁、これは巧妙にしくまれた罠(わな)だよ。いいかい?物の怪は、以前から何度も梨壺に現われていたんだ。その次に、これは亡くなった二の宮の怨霊に違いないという、薄気味の悪い噂が流れる。ただでさえ、物の怪の恐ろしさに耐えきれなくなる者が出てきたとしても不思議じゃない。ましてや、新入りともなればなおさらだ。騒ぎは、いつ起きてもおかしくない状況だったんだよ。いったん騒ぎが起きてしまえば、噂が外にもれるのは時間の問題だ。つまり今回の事態は、起こるべくして起こったことなんだ」

 話を聞いているうちに、篁の顔はみるみる強張(こわば)っていった。

 単なる物の怪騒ぎと思われていたものが、誰かによって仕組まれたものだとは、思いもよらないことだった。

「じゃあ、物の怪の正体は……?」

「もちろん、人の手が作り出したものさ」

「一体誰がそんな、東宮さまを追いつめるようなまねを……」

「おそらくは、命婦の信頼厚いあの高倉という女房だろうな。ちょっと探りを入れてみたら、敵(かたき)を見るような目で私をにらんでいたよ。それと、もしかしたらあの命婦も……」

「なんだって!?」

 篁(たかむら)は、思わず声を張り上げた。

 セイラの言うことが当たっているとするなら、東宮御所に仕えている女官や女房が、こぞって東宮を裏切っていたことになる。

 そんなことは、まともには考えられないことだった。

「それって、どういうことさ、セイラ?」

「さあ、どういうことなんだろうな。高倉の話では、左大臣殿をあまりよく思っていないようだったから、左大臣殿がそれほどまで憎かったのか、それとも……」

 セイラは憂鬱(ゆううつ)そうに床(ゆか)を見つめながら、そう言ったきり黙りこんだ。

 しばらくして、顔を上げたセイラの瞳には、厳(きび)しい光がやどっていた。

「いずれにせよ、この一件にはもっと深い裏があるよ、篁。たとえ高倉がなにかをたくらんでいたとしても、女房ひとりがどうこうできるような単純なことじゃなく、もっと大きな企(くわだ)てがね」

「東宮さまから後見人(こうけんにん)を取り上げることのほかにかい?一体、そいつらのねらいはなんなのかな?」

「さあ。それはこれから、おいおいわかってくるさ」

 そう言ったセイラの脳裏(のうり)には、尹(いん)の宮の冷笑があざやかに浮かんでいた。

「話はこれくらいにして、少し私の相手をしてくれないか?篁」

 気持ちを切りかえるように、サッと立ちあがったセイラを見ても、篁の心はまだ迷っていた。

 その迷いを見すかすように、セイラはこともなげに言った。

「言っとくけど、心配しなくてもこのことはもう帝はご存じだよ」

「えっ!?」

 まるで心を読まれたような気がして、篁はギョッとしてセイラを見た。

 意中(いちゅう)を言い当てたとわかったセイラは、くすくすと笑った。

「篁の顔色は読みやすいからね。この件については、今朝御前(ごぜん)にまいった折(おり)に、私から申し上げておいたから大丈夫だよ」

 篁は肩を落して大きくため息をつき、かなわないという風に首を振った。

 セイラは笑いをかみ殺して、壁にかけてある木太刀(きだち)をポーンと篁に放り投げた。

「言っとくけどセイラ、ぼくは近衛の佐(すけ=次官)をまかされているくらいだから、たいがいの貴族や盗賊には負けないくらいの自信はある。この間のセイラの弓の腕前には驚かされたけど、こと太刀にかけては、セイラといえども手加減(てかげん)はしないよ」

「望むところだ」

 セイラは、なんともうれしそうな顔をした。

 だが、いざ立ち会ってみて、篁は愕然(がくぜん)とした。

 たいがいの貴族どころか、篁の太刀は宮中でも一、二を誇る腕前だった。

 その篁が次々とくり出す木太刀を、セイラは難(なん)なくかわしていく。

 逆に、篁の方が打ち込まれて隅(すみ)に追いやられ、ついには防戦一方になりたじたじとなった。

 セイラのくり出す太刀は、鞭(むち)のようなうなりをあげて篁に襲いかかった。

 その驚異的な速さは、すさまじい衝撃力(しょうげきりょく)となって、木太刀をにぎる篁の手をしびれさせた。

 しだいに息があがり、額に玉の汗が浮かびはじめた篁は、今しもセイラが上段から振り下ろした木太刀を、渾身(こんしん)の力で受け止めた。

 そのまま力で押し返そうとした時、頃合(ころあ)いを見はからっていたように、セイラが後ろへ大きく跳(と)んだ。

 勢いあまった篁が、あっと叫んで前のめりたたらを踏んだその時、不敵に笑うセイラの顔が見えた。

 次の瞬間、空を切り裂いたセイラの木太刀から発せられた驚異的な太刀風(たちかぜ)が、篁をめがけて襲いかかった。

 ドォーンという激しい衝撃に吹きとばされた篁は、壁にぶつかって、そのまま呆気(あっけ)なく失神した。

 気を失う少し前、篁は心配そうなセイラの声を聞いたような気がした。

「篁、大丈夫かい!?手加減(てかげん)したつもりだったんだけど、まさかこれほどの威力(いりょく)だとは思わなくて……」

「セ、イラ……」

 バカヤロウ――と言おうとしたが、それは叶(かな)わなかった。

 篁はすでに、完全に気を失っていた。


  


 セイラはまず、登花殿(とうかでん)女御(にょうご)との対面を、帝に直接願い出てみた。

「このたびの件に関しまして、女御さま方のお人柄(ひとがら)を見知っておく必要があるように存じます。つきましては、帝が登花殿にお渡りの際(さい)に、わたくしもお供(とも)をさせていただけないでしょうか」

 ところが、帝はむっつりとして、

「登花殿には、当分行くつもりはない」

 と、答えただけだった。

「では、せめて今日一日だけ、後宮へ出入りする許可を――」

 セイラは食い下がったが、

「登花殿に野心などない。ゆえに、今度のような件に関与(かんよ)するはずもない」

 帝の返答は、けんもほろろだった。

 これには、さすがにセイラも面食らったが、天運はまだセイラを見すててはいなかった。

 帝がなぜ、登花殿女御をあれほどかばおうとするのか――

 単に情愛の問題というだけではない、なにかしら不透明なものを感じつつ、これからどうしたものかと考えながら歩いていたセイラは、内裏(だいり)の東はずれにある宣陽門(せんようもん)のあたりで、ふと足をとめた。

 前方から、小さな子どもが走ってくるのが見えた。

 その方向の奥には、昨日行った梨壺(なしつぼ)の殿舎(でんしゃ)がある。

 子どもは、セイラにぶつかりそうになって、はじめて気づいたように顔を上げた。

 ぽかんと口を開けて、ひどく驚いたようにまじまじとセイラを見上げている。

「なにかお急ぎのご用でも……?わたくしでよければかわりにお引き受けしましょうか、東宮さま」

 身なりからいって、子どもは東宮に違いなかった。

 だが、ひざまずいて話しかけるセイラの声は、東宮の耳に入っていなかった。

「とうかでん、はようきてみよ!ちょうちょがひとにばけた!」

 その声に呼ばれて、二人の女房をしたがえた妃(ひめ)が、小走りに駆(か)けよって来た。

「セイ…ラ……さま?」

 そうつぶやいて、なおも足早に駆(か)けよる。

「やはりそうですわ。そのお姿は、セイラさまに間違いありませんわ」

 年の頃は、綺羅(きら)姫よりも二、三歳年上といったところだろうか。

 若葉に萌(も)え立つ柳のようなたおやかな風情(ふぜい)で、セイラを見つめているその妃(ひめ)こそ、登花殿女御だった。


  


「これも、神仏のお導(みちび)きなのでしょうね。東宮さまのお見舞いにうかがって、奇遇(きぐう)にもセイラさまにお会いできるなんて……」

 登花殿は清涼殿の北側にあって、麗景殿の東に位置する梨壺からは後宮の反対側にあたっていた。

 なかば袖(そで)を取られるようにして、登花殿に伴(ともな)われてきたセイラは、母屋(おもや=中央の間)に通されると、女御の御座近くに座を与えられた。

 これは、破格(はかく)の扱(あつか)いといえた。

 女御が、帝や親族以外の者を近づけるのは、滅多(めった)にないことだったからだ。

「おそれながら、宣陽門のあたりは人が大勢出入りするところです。そのようなところに、なぜ東宮さまと女御さまが……?」

「ええ。それが……」

 登花殿女御は、優美(ゆうび)に眉(まゆ)をひそめて、

「あのようなことがあって、東宮さまはひどく怯(おび)えておいででした。おかわいそうに、夜も眠れないとおっしゃって……。それで、少しでも気分を変えてさしあげたくて、ご一緒に後宮のお庭を散歩しておりましたの。でも、わたくしが少し目を離した隙(すき)に、お庭にまぎれこんだ蝶(ちょう)を追って、東宮さまが後宮の外に飛び出していってしまって……わたくしどもも、すぐに後を追いかけたのですが……」

 言いながら、女御はふふっと思い出し笑いをした。

「それでも楽しゅうございましたわ。東宮さまも息をはずませながら、きらきらしたおめめをなさって……。その蝶というのが、とても美しい色をした珍しい蝶でしたのよ。銀色の翅(はね)に大きな紫色の斑紋(はんもん)がございましたわ。東宮さまがセイラさまをご覧になって、蝶がばけたとお思いになったのも、無理はございませんわね」

「そうでしたか。実はわたくしも昨日お見舞いに上がったのですが、やはりお加減(かげん)がすぐれないごようすでお会いできませんでした。東宮さまがお元気になられたのは、なによりです」

 セイラはそこで、にこにこしながら、

「そう言えば、東宮御所にはこちらの女房がいましたね。登花殿の女房がどうして東宮御所に……?」

「まあ、高倉にお会いになりましたのね。そうですわ。高倉はわたくしの乳姉妹(ちきょうだい)で、一番頼りにしていた女房でした。ですから手放したくはなかったのですけれど……昨年の秋、東宮さまが今の御所にお移りになられた時に、女房の数がたりなくて、東宮さまにご不自由をさせるようなことがあってはならないと左大将さまが申しますので、悩んでおりましたところ、高倉が自分から名のり出てくれましたの」

「昨年の秋に、左大将殿が……」

 つぶやいて、セイラは一層ほがらかに、

「兄の左大臣殿が東宮坊大夫(とうぐうぼうのたいふ)だったとはいえ、なかなかそこまで気配(きくば)りできるものではありません。お父上の左大将殿は、ご立派な心がけの方なのですね」

「ええ、そうですわね……」

 セイラがおやっと思ったほど、そう言った女御の表情は冴(さ)えなかった。

 すると、かたわらにいた女房のひとりが、不満を顔中に表して、

「「主上(おかみ)のお渡(わた)りがないのを女御さまのせいにして、責めてばかりいらっしゃる左大将さまが、ご立派な心がけの方だなんて、あたくしには思えませんわ」

「小納言(しょうなごん)、そんなことを言うものではありません。左大将さまがわたくしを責めるのは、わたくしにいたらないところがあるからです」

「いいえ、左大将さまは間違っておられます!責められるべきは、女御さまではなく尹の宮さまの方ですわ」

 尹の宮――と聞いて、セイラは一瞬ギクッとした。



  次回へ続く・・・・・・  第二十三話へ   TOPへ