第二十話


 そこに書かれていた内容は、セイラをぎょっとさせるものだった。

『月の君がここ数日参内(さんだい)しない理由は、畏(おそ)れ多くも帝をないがしろにした所業(しょぎょう)かと思われます。権大納言(ごんのだいなごん)邸におけるかの君の、帝に対する悪口雑言(あっこうぞうごん)は聞くに堪(た)えぬものがあり、お側に侍(はべ)らせる者としてはいかがなものかと案じられてなりません。くれぐれも、月の君の巧言(こうげん)や外見に惑(まど)わされることのなきよう、ご忠告申し上げます。ご明察(めいさつ)のほどを』

 読み終えて、セイラはひとつ吐息をついた。

「なるほど。これが、帝のご機嫌を損(そこ)ねていた原因(もと)ですか。それにしても、悪口雑言は聞くに堪えぬものがあり――とは、どんな内容やら……」

 想像して、思わず口元がほころびそうになったセイラは、注(そそ)がれている厳しい視線を感じて気を引きしめ直し、うやうやしく文を押し返した。

「確かに、わたくしにはなにからなにまで、状況がそろい過ぎていますね。この上は、帝のご裁断(さいだん)にお任せするしかありません」

「心当たりはあるかと、聞いている」

「これは、英邁(えいまい)な帝のお言葉とも思われませんね」

「なにっ!」

 満面に怒気(どき)をにじませた帝を、セイラは真っ直ぐに見上げて言った。

「なぜなら、わたくしの返答はひとつしかないからです。心当たりがあったとしても、なかったとしても……わたくしの立場では、当然心当たりなどないと答えるでしょう。それをここで申し上げたとしても、帝のお疑いが晴れるとは思えません。わたくしが信頼に値する者かどうか、お決めになるのは帝のお心次第です」

「こやつ……私の心を量(はか)ろうというのか!」

 躍起(やっき)になって釈明(しゃくめい)するどころか、迷いを見透かしたような顔で澄まし返っているセイラが、帝は小面憎(こづらにく)くなった。

 握りしめた笏(しゃく)がぶるぶると震え出し、ついに帝は、セイラの肩をピシリと打った。

「ならば、もし私がそなたを信じられぬと言ったらどうする」

「わたくしは、夕星(ゆうづつ)をこの場でお返しして、宮中を去るだけです」

 セイラは、懐(ふところ)から夕星を取り出して目の前に置いた。

 透(す)んだ水面(みなも)のような瞳が、静かに帝を見返していた。

 もはや、意地の張り合いをしている場合ではなかった。

 セイラならそれもやりかねないという思いが、帝の心を脅(おびや)かした。

 差し出された夕星を目にした時、霧が晴れるように、帝の迷いは跡形(あとかた)もなく消えていた。

 夕星に託(たく)したものこそは、絶対の信頼ではなかったか。

 その信頼が、投げ文ひとつで揺(ゆ)らいでしまうようなら、人心をつかむことなどできるはずもない。

「ずるいやつめ!それで私を脅(おど)したつもりか」

 この言い分には、セイラも苦笑するしかなかった。

「とんでももございません。脅されているのは、むしろわたくしの方かと……」

「いいや、その顔は脅している顔だ」

 帝は目だけで笑うと、文を取り上げてびりびりと破り捨てた。
 
 そのまま孫廂(まごひさし)に出て、庭を眺めながら、

「言っておくが、投げ文を信じていたわけではないぞ。そなたの口からはっきりした返答が聞ければ、それでよかったのだ。が……それも迷いの内だったのかも知れぬ。そなたが言うように、直答(じきとう)など聞かずとも、このような文は最初から無視すべきだった……」

 セイラは夕星を戻して、帝の方に向き直った。

「わたくしはしばらく参内しておりませんでした。疑いを持たれるのは無理もございません」

「おおかた、そなたをねたんで陥(おとしい)れようとする者の仕業(しわざ)であろう。だが、このようなことが他の者に知れては、それだけでそなたの評判に傷がつくことにもなりかねない。それゆえ、この文のことは誰にも漏(も)らしてはおらぬ。この件は他言無用だ。よいな、セイラ」

 セイラは深くうなづいて、微笑(ほほえ)んだ。

「帝のご信頼とご配慮(はいりょ)に、心より感謝申し上げます」

「宮中では、このようなことは往々(おうおう)にしてあるが、それにしても嘆(なげ)かわしいことだ。根も葉もない誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)に遭(あ)い、失脚(しっきゃく)していった者たちのなんと多いことか……」

 帝は笏(しゃく)を手のひらに叩きつけ、忌々(いまいま)しそうに眉をひそめた。

「そなたには、そのような目にあってほしくない。今後、もし同じようなことがあっても、私は二度と取り合わないことにする」

 振り向いた帝の表情が、大きくなごんだ。

「聞こえたな、セイラ」

「では、先ほどの楽譜(がくふ)の件も、お取り下げ願えますか?」

 帝の機嫌が直ったとわかると、セイラはにこにこしながらそう尋ねた。

 途端(とたん)に、帝の顔から笑みが消え、冷ややかな声が返ってきた。

「図に乗るな!私は、一度言ったことは取り消したりしない」

「やれやれ……」

 ため息をついて、セイラが御座所を退がろうとした時、後ろで帝がぽつりと言った。

「なぜ、権大納言の邸を出た?」

 立ち止まったセイラの、紫色の瞳が、心の動揺を映してわずかに翳(かげ)った。

 その後ろ姿を見つめて、帝は、眉間(みけん)に憂(うれ)いを漂わせた。

「やはりそなたは、まだ思い切れていないのだな。いずれ天に帰るべき身…ならば、人に情が移るのを懼(おそ)れるか」

「わたくしは、自分がなに者かさえ知らない者ですよ」

 口の端に自嘲(じちょう)の笑みを浮かべると、セイラは乾いた衣擦(きぬず)れの音を残して去っていった。





 宜陽殿(ぎようでん)に収(おさ)められている、山と積まれた楽譜を見ると、セイラは腹の底から深いため息をついた。
 
 明らかにこれは、一日や二日でこなしきれる量ではなかった。

 楽譜の保管所に案内してくれた雅楽寮(ががくりょう)の者は、あきれ顔でセイラに言った。

「月の君、これをすべてそらんじるおつもりですか?半年やそこいらは、優(ゆう)にかかりますよ」

 その時、入口から強い風が吹き込んできて、上の方に積まれてあった楽譜が、簀子縁(すのこえん)や庭先にまで飛び散った。

 セイラと雅楽寮の者が、あわてて楽譜をかき集めていると、ちょうどその庭先を篁(たかむら)が通りかかった。

「セイラ?こんなところでなにしてるのさ。紙くずなんか集めたりして……」

「篁!いいところに来てくれたね。紙くずじゃないよ、楽譜だよ、楽譜。すまないけど、その庭先に落ちているのを拾ってくれないか」

 拾い集めた楽譜をセイラに手渡そうとした時、篁は、宜陽殿の扉が開いているのに気づいた。

「これ、宜陽殿に収められている楽譜だろ?こんな物を引っ張り出して、なにを始める気だい?」

「もちろん、全部覚えるのさ。帝のご命令でね」

 セイラはうんざりしたようすで、短くため息をついた。

「やっぱり、今上(きんじょう)は相当お怒りだったんだね」

 篁が心配そうに尋ねると、

「ああ、しっかりと報復されてしまったよ。宜陽殿にある楽譜をすべて演奏できなければ、宮中から退出はならぬとのおおせだ」

「えーっ!ここにあるのを全部覚えるまで!?そんなことしてたら、いつまでかかるかわかったもんじゃないよ」

「当分、右大臣邸には戻れそうもないね。でも心配はいらないよ。さっき案内してくれた者の話だと、半年はかかるって言ってたけど……」

 言いながら、セイラは値踏みするように、宜陽殿の奥に積まれている楽譜の山を見渡した。

「そうだな……長くても半月はかからずに、終わらせて戻れると思うよ。たぶんね」

 セイラは笑いながらそう話したが、心中は穏やかではなかった。

 ――まったく!本気で私を、宮中に閉じ込めておくおつもりだったんじゃないだろうな。

 理不尽(りふじん)とも思える帝の命令に、セイラは今更(いまさら)ながらに腹を立てていた。

「困ったお方だ……」

 誰もいなくなった宜陽殿で、セイラは苦虫を噛みつぶしたような顔で、ひとりそうつぶやいた。





 その日、麗景殿(れいけいでん)では、帝を迎えて内輪(うちわ)だけの宴が催(もよお)されていた。

 宴の席には、尹(いん)の宮の顔も見えた。

 セイラが参内しなかった日や、楽譜の山に取り囲まれている最近は、尹の宮が帝の側に侍(はべ)っていることが多かった。

 それだけ、尹の宮に対する帝の信頼にも厚いものがあった。

 尹の宮は、帝にとっては腹違いの兄にあたり、皇位をめぐってはライバル関係にある間柄だったが、ある事情により、幼少にして宮中を追われることになった。

 それ以後、隠居(いんきょ)同然の暮らし振りだったのを、昨年秋の除目(じもく)で弾正台(だんじょうだい)の尹に推挙(すいきょ)され、再び宮中に昇ったのだった。

 セイラが登殿(とうでん)するようになってからは、その人気振りは少しく取って代わられた感があるが、帝によく似た端正な顔立ちに、落ち着きのある物腰、幅広い教養は、当代一の宮廷人と言ってよかった。

 宴もたけなわをむかえた頃、帝は座興(ざきょう)に、尹の宮の舞を所望(しょもう)した。

 尹の宮は、請(こ)われてさっと立ち上がると、直衣(のうし)の片袖を脱ぎ、二星(じせい=朗詠詩 彦星と織姫をうたったもの)を口ずさみながら、流れるような動きで一差(ひとさ)し舞った。


 
――二星(じせい)たまたま逢えり 

   いまだ別緒依々(べっしょいい)の恨みを叙(の)べざるに

   五夜まさに明けなんとす 

   しきりに涼風颯々(りょうふうさつさつ)の声に驚く――


 その舞姿の艶(あで)やかさには、麗景殿女御も目を奪われた。

「まあ、なんて雅やかな舞姿ですこと!尹の宮殿の舞には、うっとりするような詩情がありますわね」

「うむ。これに楽の音があれば、宮の舞もさらに映(は)えるのだろうが、あいにくと『月』は籠(こも)りっきりで、しばらくは表に出てこれそうにありませんからね」

 くすくすと忍び笑いを漏(も)らした帝に、女御は小首をかしげて、

「月が籠りっきり、とは……。主上、もしや月の君のことをおっしゃっておいでですの?」

 そこへ、尹の宮が衣を整えながら座に戻ってきた。

「月の君と言えば、確か楽譜をすべて演奏できるようになるまで、宜陽殿に籠りきりだとか……ちらっと覗(のぞ)いてみましたが、あれだけの量では早くとも数か月はかかりましょう」

「まあ、そんなことに……」

 女御(にょうご)は、扇(おおぎ)の陰で眉(まゆ)をひそめた。

「主上(おかみ)は、月の君に、少しつらく当たり過ぎるのではございませんの?おかわいそうに……」

「あれは宮中から離れると、羽衣(はごろも)探しにばかり夢中になりそうなので、足枷(あしかせ)をはめてつないでおくに限るのですよ。そうしておけば、いずれ羽衣を探していたことも忘れるでしょうし……。だが今度ばかりは、いかに奏楽(そうがく)の名手といえども、手を焼いているでしょうね。あの分では、ひと月やふた月で片づくというわけにもいかないでしょうから、今ごろはさぞ、不満がつのっていることだろう」

 そのようすが目に見えるようだと言って、帝はからからと笑った。

「主上は情のこわいお方だ……」

 尹の宮がひっそりとつぶやいたその時、袂(たもと)からぽとりとこぼれ落ちた物があった。


 一瞬ぎくりとした尹の宮が、さりげなく拾ってしまい直そうとしたそれを、横あいから帝が奪い取った。

「ほう、宮がこんな物を持ち歩いていたとは……」

 それは、紐(ひも)で簡単に綴(と)じられてあるだけの、古い草紙(そうし)だった。

 尹の宮の顔色が、さっと変わった。

「主上(おかみ)、それは……」

「聖……伝の覚書(おぼえがき)」

 帝は声に出しながら、読みづらそうに表紙の文字を追った。

「ずいぶん古い物だな。文字がすり切れて、ところどころ消えかかっている」

 そう言って、薄い草紙の中身をぱらぱらとめくった。

「かな文字で書かれているようだな。『……ひかるいしを…みつけ……』」

「主上!お戯(たわむ)れはやめて、どうかお返しください。それは、亡き母の形見(かたみ)なのです」

「まあ、潔(きよ)姫さまの……」

 女御はその名を口にして、他聞(たぶん)をはばかるように、後の言葉を飲み込んだ。

「そうか……それは悪いことをした」

 帝は、いつにない神妙な顔つきで、草紙を尹の宮に返した。

「宮が大事そうに持ち歩いているから、どんなものかと思ったのだが……」

「これは母が……まだ幼かった私を寝かしつける時に読んでくれた……お伽噺(とぎばなし)のようなものです。主上が読まれても、退屈なさるだけでしょう」

 言いながら、かすかに震える手で、尹の宮は草紙を懐(ふところ)におさめた。

「いや、宮が気に入っているものなら興味がある。よければどんなお伽噺か、私にも聞かせてくれないか?」

 ぜひにとせがまれては、尹の宮に断る口実はなかった。

 たかがお伽噺――

 あまりためらっていては、あらぬ疑いをかけられないとも限らない。

 尹の宮は仕方なく、重い口を開いた。

「主上がお気にめすようなものではございません。子供だましの作りごとです……が、それほどおっしゃるのでしたら、かいつまんでお話しすることにいたましょう……いにしえの世に、手傷を負ったきらきらしい神が、天から落ちてきたのだそうです」

「天から落ちて――!?」

「……はい。邑人(むらびと)は、その神を自分たちの邑(むら)に運んで手厚く介抱(かいほう)してやりました。やがて、意識を取り戻した神は、邑人にさまざまな知識を授(さず)け、豊かな実りをもたらしてくれたそうです。ですが、神の持ち物である石を、邑長(むらおさ)が隠し持っていたことを知り、怒った神は、邑に呪いをかけて天に帰って行きました。私はもう一度戻ってくるだろう。その時にこそ、呪いは解(と)かれると言い残して……」

「あら、それでおしまいですの?なにやら、続きがとても気になるお話ですわね。その後、神は邑に戻って、呪いを解いてくださったのでしょうか?」

「あるいは、今でも神を待ち続けて、呪いにかかったままなのかもしれません……」

 そう言ってうつむいた尹の宮を、帝は怖いほど見つめていた。

「宮には確信がありそうだな。心当たりでもあるのではないか?」

「とんでもございません」

 尹の宮は虚(うつ)ろに笑った。

「これは、ただのお伽噺ですよ」





 セイラは、ほとんど寝る間もなく、山積みの譜面と格闘した。

 そのすべてをそらんじるだけでなく、完璧に演奏できなければ、帝を納得させることはできなかったが、一度そらんじてしまえば、それを奏することは、セイラにとってさほど大きな問題ではなかった。

 麗景殿(れいけいでん)を訪れていた帝と尹の宮が、清涼殿に戻る途中で宜陽殿(ぎようでん)に立ち寄ったのは、セイラが譜面に取り組んで十日ほど経(た)った夜のことだった。

 さぞ音を上げていることだろうとほくそ笑んで、帝が、灯りの洩れている釣り蔀
(つりじとみ=上半分が、外側へ釣って開閉できるようになっている。格子の裏に板を張ったもの)からのぞいてみると、セイラは文机の上に頭を乗せたまま、うたた寝をしていた。

 その寝顔を、帝はしばらく眺(なが)めやって、

「今晩は少し冷えそうだ。宮、後で私の衣を持って来て、セイラにかけてやってくれないか」

「主上のおぼしめしとあらば……。それにしても、月の君は果報者(かほうもの)でいらっしゃる」

 尹の宮はそう言って、眠っているセイラに冷ややかな視線を向けた。

 セイラが目を覚ましたのは、それから半時(一時間)ほどしてからだった。

 突然、背後に凄(すさ)まじい殺気を感じてとび起きたセイラは、パッと後ろを振り返った。

 そこに、敵意をむき出しにして、ぞっとするほど冷たい目をした尹の宮が、端然(たんぜん)と座っていた。

 セイラは、いきなり頭から冷水を浴びせられたような気がして、言葉もなく尹の宮を見つめた。

「本当に、あなたが現れるとは思いませんでしたよ」

「えっ」

 と小さく声をあげて、そのままセイラは絶句した。

 尹の宮の口ぶりには、まるでずっと昔からセイラを知っていたような響きがあった。

「ですが、あなたが現れたおかげで、私の計画はすべて狂わされてしまいました」

 謎のような尹の宮の言葉に、セイラは、ただ唖然(あぜん)として目を見張るばかりだった。

 その時、あたりを見まわしていた尹の宮の表情がふっとゆるんだ。

「それにしても、主上も惨(むご)いことをなさる。この譜面をすべてそらんじろとは……」

「――それも、もう今日ですみました」

 尹の宮が、なぜこれほどの殺気を向けてくるのか腑(ふ)に落ちないまま、セイラは言葉少なに答えた。

「すんだ!?この譜面をすべて――!?」

 尹の宮はさすがに驚いて目をむいた。

「ええ。本当はもう少し早く終わるはずだったのですが……それでも、先ほどようやく片付いたところだったので、ついうとうとしてしまいました。なにしろこの部屋は寝心地が悪くて、ほとんど眠っていなかったものですから」

 尹の宮は、茫然(ぼうぜん)としてセイラを見つめた。

 それもそのはず、尋常(じんじょう)なら軽く一年はかかると思われていたものを、たった十日でなしとげてしまったというのだから、すぐには信じられない思いがしたとしても無理はなかった。

「……なるほど。やはりあなたは油断のならない方ですね」

 ようやくのことで驚きから開放されると、尹の宮の目に、再び冷たい光が戻った。

「ずいぶんなおっしゃりようですが、一応おほめの言葉とうけたまわっておきましょう」

 セイラはかすかに微笑(ほほえ)むと、尹の宮の視線を真っ向から受け止めて、

「それに、そのごようすでは、私を激励(げきれい)に参られたとも思えませんが……なにかご用件がおありでしたら、遠まわしな言い方をなさらずに率直(そっちょく)におっしゃっていただけませんか、尹の宮殿。懐(ふところ)にしのばせてある短刀をお使いになるのは、それからでも遅くはないでしょう」

 尹の宮は、懐からゆっくりと短刀を取り出した。

 それを膝(ひざ)の上に置き、口もとに扇(おおぎ)を引き寄せて、にっと薄笑いを浮かべた。

「なにもかもお見通し、というわけですか。よろしい。では、率直に申し上げましょう。月の君には、宮中から身を引いていただきたいのです。あなたにいてもらっては、なにかと困ることがあるのですよ」

「ハッ!」

 セイラは短い笑声をあげると、カッと目を見開いた。

「では、あの投げ文はあなたの仕業(しわざ)だったのですね!」

「さて、なんのことやら、私にはわかりかねますが……」

 尹の宮は、そう言って扇で口もとをおおったが、クスッと鼻先で笑ったのをみると、真相は火を見るより明らかだった。

 セイラの青紫色の目が、すーっと赤みを帯(お)びて強い光を放ちはじめた。

「見そこないましたよ、尹の宮殿。篁(たかむら)…右近衛少将などは、あなたのことをおだやかで信頼のおける方だと口をきわめて賞賛していたのに、そのあなたが、私ばかりか、下手をすると右大臣殿や権大納言殿も巻き込むことになりかねない、卑劣(ひれつ)なまねをなさるとは!」

 痛烈(つうれつ)なセイラの嘲(あざけ)りを受けても、尹の宮は一向にひるむ気配がなかった。

 それは、見方を変えれば、尹の宮の胸になに事か深く期するものがある現れ、とも受け取れた。

「主上のためを思えばこそ、と申し上げておきましょうか。月の君が寵(ちょう)をひとり占(じ)めしておられる不都合を思えば、投げ文などは童(わらべ)のいたずらのようなものですよ」

「童のいたずら?……なるほど。ではその短刀も、童のいたずらのようなものだとおっしゃるのですね?」

 セイラは唇の端に、蔑(さげす)みをこめた皮肉な笑みを浮かべた。

 このあからさまな挑発(ちょうはつ)には、さすがの尹の宮も顔色を失った。

「それで……?帝が私にかまい過ぎるというので、血相を変えてやってきたというわけですか。話になりませんね。そんなことで騒ぎ立てる必要がどこにあるんです?どうせすぐに飽(あ)きられるものを……」

「飽きられる――?」

 尹の宮は聞き咎(とが)めて、眉をひそめた。

「帝にとって、私はさしずめ、毛色の変わった珍しい玩具(おもちゃ)のようなものですからね……」

 セイラは肩をすくめて、小さくため息をついた。

「玩具はいつか飽きられるものです。私としては、なるべく早くそうあって欲しいと願ってはいるのですが……」

 扇の陰で、はじめクスクスと笑い声を立てていた尹の宮が、ついに我慢しきれなくなったように大声で笑いはじめた。

「これは失礼。月の君はずっとこちらに籠(こも)っておられたせいで、なにもご存じないのですね。主上はつい先日、女御さま方にこう仰せられたのですよ。
『私がセイラを寵愛しすぎるといって、恨みに思わないでいただきたい。魚が水を必要とし、龍が雲を必要とするように、私にはセイラが必要なのだから――』と。女御さま方も、月の君ならばいたしかたなしと、笑って聞き流しておられましたが……」

 尹の宮はそう言って、またクスクスと笑いだした。

 聞いていたセイラは唖然(あぜん)として、しばらくは開いた口が塞(ふさ)がらなかったが、そのうちとうとう頭を抱(かか)えこんでしまった。

「これでおわかりでしょう?主上が、どれほどあなたにご執心(しゅうしん)か……」

 敵意に満ちたその声に、ゆっくりと顔をあげたセイラは、むしろ興味深げに尹の宮を見つめた。



  次回へ続く・・・・・・ 第二十一話へ   TOPへ