第十六話


 その日の夕べ、いつものように宿直(とのい)に就(つ)こうとしていたセイラは、麗景殿(れいけいでん)でもよおされる宴(うたげ)に呼ばれた。

「月見の宴に……?」

「はい。月の君にも、ぜひまいらせるようにと」

 取次ぎにやってきた女官は、間近(まぢか)で見るセイラに、ほんのりと頬(ほほ)を染めて言った。

「ありがたいお誘いですが、今晩は遠慮(えんりょ)させていただきますと、女御(にょうご)さまにお伝えください。帝よりおおせつかったお役目があり、私はこの場を離れるわけには――」

「ほほ…。それでしたらご心配にはおよびませんわ。月の君をお連れするようにとおおせになったのは、主上(おかみ)ご自身なのですから」

「帝が……?」

「はい。主上には、今宵(こよい)の三日月は格別に麗(うるわ)しいとおおせられ、にわかに宴の支度(したく)をお命じになって、後涼殿(こうりょうでん)にいる暇(ひま)そうな楽人(がくじん)も呼んでまいるようにと……」

「はは…。ひまそうな楽人ですか」

 セイラは苦笑いを浮かべて、

「これでも、ずいぶん気を張っているのですが……」

 つぶやいてから、怪訝(けげん)そうな顔をしている女官に、うかがいを立ててみた。

「お断り……するわけには、いかないのでしょうね」

 女官はとたんに吹き出して、華やいだ笑い声を立てた。

「まあ!月の君はご冗談がうまくていらっしゃいますこと。主上からのお誘いをお断りする方など、これまで聞いたこともございませんわ」

「やはり、そうですか……」

 セイラは、意を決して立ち上がった。

 青葉若葉の頃とはいえ、夜はまだまだ底冷えのする季節だった。

 この時季に月見をするというのは、どう考えても酔狂(すいきょう)が過ぎるというべきだろう。

 だとしたら、この宴にはなにかある、と思わざるをえない。

 重い足どりで、一歩二歩踏み出そうとした時、体のバランスを崩(くず)してよろめいたセイラは、側にいた女官に寄りかかった。

「月の君、このようなところで……困りますわ」

「いや、失礼。なにかにつまずいてしまったようで……」

「まあ、そうでしたの。いえ、あのどうぞ……お気をつけあそばして」

 顔を赤らめて、うつむいた女官には、蝋(ろう)人形のように血の気の失せたセイラの顔色に、気づくはずがなかった。





「それにしましても、月の君の奏(かな)でる音色には驚かされるばかりですわ。笛の演奏が巧(たく)みなことでは、名手の誉(ほま)れ高い橘(たちばなの)中納言殿にかなうお方はいないと思っておりましたが、月の君の音色には、そう……聞いている者の耳をそばだてるような、華がありますわ。たぶん、お人柄のせいもおありになるのでしょうね。それに、この不思議な調べ……雨音のような、川のせせらぎのような……聞いていると、心が引き込まれてしまいそうになりますわ」

「はは…。麗景殿、せっかくの月見の宴に、雨音はいけません。言霊(ことだま)が叢雲(むらくも)を呼んできてしまいますよ」

「まあ。わたくしとしたことが、気の利(き)かぬことを申しまして……。本当に、そうですわね」

 御座のかたわらにはべっていた麗景殿女御は、無邪気(むじゃき)にころころと笑った。

「ですが、私が連れて来た楽人を誉(ほ)められるのは、悪い気はしません。セイラには、褒美(ほうび)として酒でも振るまってやりましょう」

 帝はそう言うと、扇(おおぎ)の陰で、唇の端(はし)ににっと笑みを刻んだ。

 御座所(おまし)は、殿舎(でんしゃ)の母屋(おもや)ではなく、月の光が届くように庇(ひさし)の間に設(もう)けられていた。


 セイラはさらに下座(しもざ)の簀子縁(すのこえん)で、夜気(やき)の冷たさも感じない彫像(ちょうぞう)のように座って、笛を鳴らし続けている。

 そこへ――

「月の君……月の君……」

 女房(にょうぼう)に袖を引かれて、セイラは、朦朧(もうろう)とした意識の底からようやく我に返った。

「あ、私になにか?」

「主上(おかみ)が御前にお呼びです。それより、どうかなさいましたの、月の君?声をかけても、聞こえていらっしゃらないようでしたわ。まるで眠っ――」

「わかりました。ただいま参ります」

 セイラは、女房の言葉をさえぎって立ち上がると、冷え冷えとした夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 それから、いくつもの灯台の火が明々(あかあか)と照らし出す方へ、決然(けつぜん)として歩み寄った。

「お呼びでしょうか?」

 庇(ひさし)の間の入口に姿を見せたセイラに、帝は機嫌(きげん)よく声をかけた。

「そなたの笛の音を、麗景殿はたいそう気に入ってくれたようだ。おかげで私も鼻が高い。褒美(ほうび)に、酒を取らせよう」

「酒を……?」

 あからさまに顔を曇(くも)らせたセイラに、麗景殿女御は、珍しいものでも見るように首をかしげて、

「あら、月の君は、酒(ささ=女性語)がお嫌いでしたか?」

「不調法者(ぶちょうほうもの)で、おそれいります。せっかくのおこころざしをお受けできないのは残念ですが、この儀(ぎ)ばかりは、なにとぞご容赦(ようしゃ)を……」

「そうでしたの。楽しい酒(ささ)は長寿の良薬と申しますけれども、無理にいただいては身の毒とも申しますものね。主上、ほうびはなにか別の物に――」

「なに、セイラは遠慮しているだけですよ、麗景殿。そうであろう、セイラ?先頃、権(ごんの)大納言はそなたのために、披露(ひろう)の宴を連日のようにもよおしたそうではないか。一滴も飲めないわけではあるまい。どれ、遠慮せずにすむよう、私が手ずから注(つ)いでやろう」

 そう言って、帝は自分の杯を手に立ち上がると、女房がささげ持っていた瓶子(へいじ=酒を入れる器)を取りあげて、セイラの前まで来て腰をおろした。

 ここにきて、セイラにも、帝が宴に呼んだ意図(いと)が飲み込めてきた。

 いつまでたっても音をあげようとしないセイラに、業(ごう)を煮やした帝は、酒で一気に酔いつぶそうとしているのだろう。

「さあセイラ、遠慮(えんりょ)はいらぬ。杯(さかづき)をとるがよい。それとも、私の杯は受けられぬと申すか?」

 それがわかっていながら、この期(ご)におよんで断る術(すべ)はなかった。

 もし断ったりすれば、臣下(しんか)として帝に不敬をはたらくことになり、ひいては客人(まろうど)としてセイラをあずかっている権大納言にも、累(るい)をおよぼすことになりかねない。

 冷たい汗が、背中を伝い落ちる。

 この状況下で、セイラはあえて微笑(ほほえ)もうとした。

「おそれ多いことを……。では、ほんの少しだけ」

 両手を差し出し、受け取った杯に、酒がなみなみと注(そそ)がれていく。

 『ほんの少し――』ですませるつもりは、最初(はな)からない。

「ありがたく、頂戴(ちょうだい)いたします」

 帝の挑(いど)みかかるような視線を受け流して、セイラは覚悟を決め、杯を飲み干した。

 とたんに、激しくせき込んで、セイラは口の中の酒を床に吐き出してしまった。

 側にいた女房が、すぐさま濡(ぬ)れた床をかたづけようとするのを、帝は手で制して、

「おやおや、せっかくの酒が無駄になってしまったではないか。褒美(ほうび)を受けるにも、とかく手間のかかる楽人よ。だが、案ずることはない。酒はまだたっぷりとある。そなたがしかと褒美を受けるまで、何度でも注(つ)いでやろう」

 おどけた口調の裏側にある、帝の容赦(ようしゃ)ない残酷な意思を、セイラは感じとった。

「とんだ粗相(そそう)をいたしまして……」

 口元をグイと拭(ぬぐ)って、起きなおったセイラに、

「粗相……?」

 帝は、ふふんと鼻で笑って、

「まあよい。だが今度同じようなことをしたら、粗相ではすまぬと思えよ」

 一転して、不穏(ふおん)な空気が漂(ただよ)いはじめた二人を、女御や女房が息をつめて見守る中、セイラは再び杯を口に運んだ。

 が、杯を傾(かたむ)けると同時に、セイラはまたしても咳(せ)き込んで、口元を押さえた指の間から酒がしたたり落ちた。

「セイラ!二度目はないと言ったはずだ!」

 顔色を変えて立ち上がった帝の前に、麗景殿女御が、セイラをかばうように割(わ)って入った。

「お待ちくださいませ。月の君が、主上より賜(たまわ)った酒(ささ)をないがしろにするはずがございませんわ。これにはなにかわけがあるのでしょう。もしや、月の君は喉(のど)を痛めておられるのでは……」

「――喉を?」

 帝は辛辣(しんらつ)な冷笑を浮かべて、女御を見やった。

「麗景殿、セイラはそう思わせたがっているのですよ。私からの褒美を、どうしても受けたくないらしい」

「まあ、どうしてそのようなことをおおせられますの?主上には、あれほど月の君をお気にめしていらしたのに」

 どうして――?

 帝は、平伏しているセイラを、愛憎の入りまじった複雑な思いで見下ろした。

 気に入っていればこそ、手放したくない。

 帝がひそかに抱いている大望を実現するためには、強烈なカリスマ性を持ったセイラの力が、ぜひとも必要だった。

 だが、いつまで――

 いつまでセイラは、記憶を失ったままでいてくれるのか。

 今日か、明日か、明後日か……?

「思い直していただけましたのね」

 帝の沈黙をそう受けとった女御は、ほっと胸を撫(な)で下ろして、

「月の君は、もとより雅楽(うた)の官(つかさ)をなさっていた方ではございません。主上にお仕えしてまだ日も浅く、慣れぬお務(つと)めで喉をつかい過ぎたのでしょう。それを、今宵(こよい)の夜風で冷やしておしまいになったのですわ」

 そう言ってセイラを振り返り、にこりとした。

「そうですわね、月の君?」

「麗景殿さまのご明察(めいさつ)、おそれいります」

 セイラは面(おもて)を伏せたまま、くぐもった声で答えた。

 女御はひとつうなずいて、帝に向かい、うやうやしく頭(こうべ)をたれた。

「お聞きの通りですわ、主上。この場はわたくしにめんじまして、なにとぞ事情をお汲(く)み取りいただき、ご寛恕(かんじょ)くださいませ」

 帝にとってなによりの誤算だったのは、麗景殿女御が、セイラをこれほどかばい立てするとは思いもしなかったことだろう。

 もし、セイラがせき込んだ振りをして、そうなるように仕向けたのだとしたら、帝は、疲労の極限状態にあるはずのセイラを、あなどり過ぎていたと認めざるをえない。

 褒美の一杯だけでなく、難癖(なんくせ)をつけては一杯、また一杯と、セイラが酔いつぶれるまで酒責めにしてやろうというのが、当初(とうしょ)の目論見(もくろみ)だった。

 その目論見を達することは、今となっては不可能にひとしかった。

 女御の請(こ)いを撥(は)ねつけ、これ以上セイラに無理強(むりじ)いしようとすれば、女御ばかりか、ひいてはその父親である右大臣の不信感を買うことにもなりかねない。

 宮中において、ことに帝という立場においては、なにごとも事を荒立てるのは得策(とくさく)ではなかった。

 ――ここで無理をせずとも、もうすぐセイラはつぶれる。もうすぐ……。

 そう思ってはみるものの、セイラにしてやられた!という屈辱感(くつじょくかん)はぬぐいきれない。

 その上、この驚異的な粘(ねば)りが、あと三日続かないという保障(ほしょう)はどこにもなかった。

「主上(おかみ)……?」

 返答がないのをいぶかった女御に、再び声をかけられたところで、帝の思考は途切(とぎ)れた。

「ふっ。麗景殿にはかないませんね」

 好機(こうき)を逸(いっ)した悔(くや)しさを苦笑にまぎらしてそう言うと、帝は心を決めるしかなかった。

 謀略(ぼうりゃく)の宴に、終わりを告げる時がきたのだ。

「セイラ、面(おもて)を上げよ」

 名を呼ばれて、平伏しているセイラの肩がぴくりと動いた。

 それから、ゆっくりと上体を起こしたセイラの顔を一目見るなり、帝の目は釘(くぎ)づけになった。

「まあ、どうしたことでしょう!?」

 女御が驚くのももっともで、ひときわ赤みを帯(お)びたセイラの唇からは、一筋の鮮血が流れ出ていた。

「藤式部(とうのしきぶ)、早く月の君のお手当てを!それから、薬師(くすし)をお呼びして!」

 気を取り直した女御が、古参(こさん)の女房に指図(さしず)するのと時を同じくして、帝の笑い声が起こった。

「ふっふっふっふ……」

「なにをお笑いになられるのです、主上?月の君は、やはりお体をわずらっていらっしゃったのですわ」

 いつにない強い口調で女御がたしなめても、帝の笑い声はおさまらず、そればかりか次第に高らかな朗笑(ろうしょう)となって、まわりの者を当惑(とうわく)させた。

「はっはっはっは……。薬師は無用ですよ、麗景殿。セイラは、自分で唇を噛(か)み切ったのですから」

 そう言うと、帝はさっときびすを巡(めぐ)らして御座に戻り、言葉の意味をはかりかねて唖然(あぜん)としている女御や女房を尻目に、勝ち誇った声をあげた。

「かばい立てしてもらった麗景殿に感謝するのだな、セイラ。もうそなたに用はない。退(さ)がってよいぞ!」






 後涼殿(こうりょうでん)の宿直(とのい)部屋に戻ると、セイラは着ていた衣服を脱ぎ捨て、単衣(ひとえ)だけの姿になった。

 自(みずか)ら噛(か)み切った唇の出血は、すでに止まっていた。

 眠気を払う苦しまぎれの仕業(しわざ)――と帝に見やぶられ、大笑されてしまったが、それをヒントにして、セイラはあることを試(こころ)みようとしていた。

 睡魔(すいま)に打ち勝つためのいささか乱暴すぎる方法だったが、今のセイラに方法の良し悪しを選んでいる余裕はない。

 すべての用意が調(ととの)うと、セイラは右ひざをつき、単衣(ひとえ)の裾(すそ)をまくって左ひざを立てた姿勢で、短刀を取り出した。

 後宮の警備にあたっていた舎人(とねり)の一人から、無断で借用してきたものだ。

 それを両手でにぎりしめ、無造作(むぞうさ)に頭上に振りかざす。

 短刀が、灯台(とうだい)の明かりを受けてきらめいた次の瞬間――

 セイラはなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、自分の左太腿(ふともも)に、深々と刃(やいば)を突き刺した。

「痛(つ)っ!!」

 顔をしかめながら引き抜いた短刀の傷口から、みるみる血が噴(ふ)き出してくる。

 出血を最小限にとどめるために、あらかじめ腿(もも)を布できつく縛(しば)り上げていなければ、溢(あふ)れ出した血で、たちまち床は赤く染めあげられてしまっただろう。

 セイラは、小袖(こそで)のすそを引き裂いて用意してあった布を、その上から手早く巻きつけていった。

 血がにじみ出なくなるまで幾重(いくえ)にも巻きつけて、丸太棒(まるたんぼう)のようになった自分の左足を見て、セイラははじめて頬(ほほ)をゆるめ、くすりと笑った。

「ふう!」

 そのまま、ごろりと床に横たわり、思いきり手足をのばす。

 左足がずきずき疼(うず)いて異状(いじょう)を訴えていたが、久しぶりの開放感と高揚(こうよう)感に満たされて、気分は悪くなかった。

 こんなことは、一時しのぎに過ぎないと、セイラにもよくわかっていた。

 それでも、体から抜け出してしまいそうな意識をとどめておくために、なにかをしなければ、このゲームは今晩で終わりをむかえていただろう。

 つまらない賭(か)けをしてしまったものだ、とセイラは思う。

 だが、たとえ宮仕(みやづか)えを余儀(よぎ)なくされても、故郷に帰る自由を奪われるわけにはいかなかった。

 こんな賭けを持ち出してまで、セイラをこの都に縛(しば)りつけておこうとする、帝の真意はどこにあるのか――?

 おそらくは、夕星(ゆうづつ)を賜(たまわ)ったことと関係があるのだろう。

 けれど今、それを考えることはひどく億劫(おっくう)だった。

 宮中に参内(さんだい)する前の綺羅(きら)姫の忠告が、今さらのように思い出されてくる。

「そういえば、綺羅姫が心配してるって篁(たかむら)が言ってたな。もしこんなところを見られでもしたら……」

 ――セイラ!そんなとこに寝転(ねころ)んでなにしてんの!だから出仕(しゅっし)しちゃいけないって、あれほど言ったのに。あたしの言うこと聞かないから、バチがあたったのよ!

 目を三角につり上げて怒っている綺羅姫の顔が浮かんできて、セイラは一人クスクスと笑った。

「そうだね、綺羅姫。いつまでもこうして寝転んでる場合じゃないね」

 ひとり言をつぶやいて、セイラはおもむろに起き上がった。

 瞳には、強い輝きが戻っている。

 ――と、続き部屋の襖障子(ふすましょうじ)が、突然音もなく開(あ)いた。

 灯台の明かりが届かない薄闇(うすやみ)の中に、誰かが立っている。

 気配を感じて振り向いたセイラの目に、ぼんやりと白い寝着(ねぎ)姿が映(うつ)った。




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