第十五話


「……どうした、セイラ?」

 セイラは、声のした御簾(みす)の向こう側を見やった。

 内側からは外のようすが手にとるように見えていても、日の差しこむこちら側からは、人影もおぼろにしか見えない。


「いえ……あまりにお静かだったものですから、眠ってしまわれたのかと思いました。それなら夢路(ゆめじ)を妨(さまた)げては、とも思ったものですから……」

 そう言って、再び笛を口もとに運ぼうとした時―― 

「そなたを、見ていた」

 もの憂(う)げなその声に、セイラの手が止まった。

「わたくしを……?」

「念願だったそなたが、こうして私の側にいる。いくら見ていても見飽(あ)きることがない……私は、人づてに聞いた天女に恋していた。まだそなたが吉野の山にいた頃から、ずっと……」

「吉野にいた頃から……?」

 セイラはわずかに眉をひそめ、

「ああ、あの文のお使者からお聞きになられたのですね?」

 思い出して、にこりとした。

「綺羅(きら)姫のけがは、私がまだ東宮だった頃、もめ事にまき込んで負(お)わせてしまったものだ。私としても責任を感じないわけにはいかない。一日も早い帰京をと願って、文を書き送ったのだが……。あの時文使いに立った者は、戻ってくるなり私にこう告げた。『琴の音色にさそわれて、この世の者とも思われぬ美しい天女を見た――』と。私は、その天女をぜひとも手に入れたいと思った」

「わたくしは――!」

「天女ではない……と言いたいのであろう?ははっ、そなたが都にやって来てそれがわかった時は、食もろくにのどを通らないほどがっかりさせられたものだ。だが、東の市で目(ま)の当たりにしたそなたは、そんなことなどどうでもよいと思わせるくらい、想像以上に美しかった。そればかりか、御仏(みほとけ)の使いと呼ばれるにふさわしい、奇跡のような力をやどしていることも……。だから私は、なんとしてでもそなたを私の……側におきたいと思った!」

 しだいに熱を帯(お)びてくる帝の声を、セイラは冷ややかな耳で聞いていた。

「そのために、このような厄介(やっかい)なものをわたくしに押しつけられたのですか?」

 とたんに、御簾の奥で笑い声がはじけた。

「さっそく左大臣とやりあったそうだな、セイラ」

「おや?帝は、宮中のいたるところによい耳をお持ちのようだ。その耳の持ち主は権(ごんの)中将殿ですね」

「いや、尹(いん)の宮が知らせてくれた」

「尹の宮殿が……?」

 意外な名を聞かされて、セイラはあることに思いあたった。

 ――では、あの時感じた視線の主(ぬし)は……。

 謎がひとつとけた気がしたものの、射るような視線の意味するものを考えると、心は晴れなかった。

 ――権中将殿の言っていたように、どうやら私は、宮中では相当な嫌われ者らしい。

 思わず、苦笑いがこみあげてくる。

「それはそれは……他にもお聞きの方がおられたとは気づきませんでした。尹の宮殿には、さぞお耳汚しでしたでしょう」

「その若さで、なかなかに人を食ったところがある、と感心していた」

 それが、『感心していた』と言えるかどうかは大いに異論(いろん)がある――とセイラは思ったが、口には出さなかった。

「そろそろ、お聞かせくださってもよろしいのではありませんか?」

「――なんのことかな?」

 セイラは目に力をこめて、御簾の向こうをにらんだ。

「今さらおとぼけになる必要はございますまい。方方(かたがた)はすでになにもかもご存知でいらっしゃるのに、当のわたくしだけが蚊帳(かや)の外、というのでは納得(なっとく)がまいりません。夕星(ゆうずつ)を賜(たまわ)ることには、帝がまだお話しくださっておられない特別な意味合いがあるのではありませんか?たとえば、左大臣殿のような重臣までが、新参(しんざん)の侍従(じじゅう)に目の色を変えたくなるような……?」

「――もし、そうだったとしたら?」

「どなたかの策謀(さくぼう)に乗せられるのも、望んでもいない権力争いにまき込まれるのもごめんです」

 歯に衣(きぬ)を着せないこのあからさまな拒絶に、一瞬、御簾の内が静まり返った。

 やがて――

「やれやれ、なんともつれない返答を聞くものだ」

 帝は、さほど機嫌(きげん)をそこねたようすもなくそう言って、ふいに口調をあらためた。

「夕星に特別な意味合いなどはない。込められているものがあるとすれば、それは私の願いだ。そのことをどこからか聞きつけた者が、大げさに吹聴(ふいちょう)しているのであろう。そなたが気にするようなことではない」

「願い……とは、どのような?」

 帝はそれには答えず、さり気ない調子で話題をそらした。

「セイラ、もし記憶が戻ってもこの都にとどまるつもりはないか?この私のもとで、できることなら……」

 セイラは微笑(ほほえ)んで、小さく首を振った。

「わたくしの望みは、本来の自分を取り戻してあるべき場所に帰ること。たとえ帝の仰(おお)せとあっても、それだけは聞き入れるわけにはまいりません」

「ならば――」

 その時、突然御簾がゆらいで、帝が姿を現した。

 驚くセイラの目の前までやって来ると、帝はその細い首筋に手をかけ、強引に顎(あご)を上向かせた。

「そなたを、力ずくで私のものにするしかない」

「お断りする、と申しあげたら?」

 セイラはムッとして応じた。――冗談にしても、人が悪すぎる!

「ほう」

 帝を見返す紫の瞳が、強い感情を映し出してみるみる暁(あかつき)色に染まっていく。

 その色あいの鮮やかな変化を、帝はつかの間、我を忘れて見とれていた。

「それは困った」

 言うなり、なにを思ったか、帝はにこにこと相好(そうこう)をくずしてその場に座り込んだ。

「だが、私はあきらめが悪い。それが世にもえがたい天女であればなおのこと……セイラ、ここはひとつそなたの知恵を借りるとしよう。この気むずかしい天女をくどき落とすには、どうすればよい?」

 一瞬、セイラはまじまじと帝を見つめ、次の瞬間にはたまらずふきだしていた。

 ――なんとも……懲(こ)りないお方だ。

 断られた当の相手に、ぬけぬけと相談をもちかけるふてぶてしさに呆(あき)れつつ、セイラはどこか憎めないものを感じていた。

「さあ、いやがる相手を無理にというのは……源氏物語の姫君ならば、寝所に忍びこまれてやむなく情けをかわすこともございましょうが、この天女はそれほどおとなしくは――」

「問題はそこだが……」

 えっ、と小さく声をあげて、セイラは帝の目をのぞいた。

「ははっ。まさか……帝ともあろうお方が、わたくしの寝所に忍んでまいられるおつもりですか?」

「いいや、そのようなことはしない。してみてもよいとは思っているが……?」

 憮然(ぶぜん)としたセイラに、クスリと笑みをもらして、

「だが、たとえ首尾(しゅび)よく寝所に忍びこめたとしても、そなたが申すとおり、この天女はそうおとなしくしていてくれそうにない。そこで……賭(か)けをするというのはどうだろう?」

「賭け……?」

「そう、賭けだ。これから管弦の宴までの十日間、そなたが一睡(いっすい)もせずにいることができたら、私はきっぱりとそなたをあきらめよう。記憶が甦(よみがえ)ったらそなたの故国であれ天上界であれ、いつでも好きな時に戻るがよい。だが、もしできなかった時は……」

「できなかった時は――?」

 帝はそこで、グイッと身を乗りだした。

「そなたは私のものになる。当然、この都から出てゆくことは許さぬ。どうだセイラ、この賭けを受けてみるか?」

 無理難題といって、これ以上のことはない。

 十日間も眠らずにいることなど誰にもできるはずがなく、もし無理にしようとすれば、その人間は神経を侵(おか)され、幻聴と幻覚にさいなまれて、十日目の夜を待たずに確実に気が狂ってしまうだろう。

 帝は明らかに結果が見えている、賭けとも呼べないような賭けを持ち出して、セイラを弄(もてあそ)んでいるとしか思われなかった。

 だが、

「お戯(たわむ)れを――」

 と、一笑に付(ふ)すはずのセイラは、にこりともしなかった。

 夕星を握りしめる指からは血の気が失われ、蒼白になっている。

 戯言(ざれごと)を言っているようにみせてはいるが、帝のにこやかな瞳の奥にある刺すような強い光に、セイラは気づいていた。

「否(いな)とは、言わせぬおつもりでしょう?」

「――もちろん」

 帝は満足げに目を細めた。

 セイラはひとつ大きくため息をつき、しばらくして昂然(こうぜん)と頭をあげた。

「――自信はございます」





 その日から、セイラの眠らずの夜がはじまった。

 昼は侍従として帝の身の回りの雑用をつとめ、夕べからは、大殿(おとど=帝の寝所)の続きの間で宿直(とのい)をしながら朝を待った。

 その間、起きている証(あかし)として、セイラは低く笛を鳴らし続けた。

 音色は、つかの間とだえることがあっても、そのまま静寂(せいじゃく)に飲み込まれてしまうことはなく、しばらくすると、再び宮中の闇に流れてゆくのだった。

 決して負けるはずのない賭け――とわかっていても、帝はセイラに手加減を加えたりはしなかった。

 あれこれと些細(ささい)な所用を言いつけては、息をつくひまもあたえず宮廷中をかけまわらせ、用事がなくなると、側にひかえさせておいて片時も目を離そうとしなかった。

 もともと細かったセイラの食は日を追うごとに衰(おとろ)えていき、体の芯(しん)に泥のように積もった疲労が、徐々にセイラの神経をむしばんでいった。

 それでも、むらがる公達(きんだち)の中で、セイラの顔色が優(すぐ)れないことに気づいた者がどれだけいただろう。

 柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべて、人々の話に耳をかたむけるセイラのようすからは、帝と無謀(むぼう)な賭けをしていることなど、微塵(みじん)も感じさせなかった。

 帝は心中、ひそかに舌を巻いていた。

 『――自信はある』とうそぶいてはいたが、たとえどれほどやせ我慢をしたとしても、ニ、三日もすれば音をあげるだろうと思っていたセイラが、五日目が過ぎ、六日目を過ぎても弱音を吐く気配すら見せなかったからだ。

 あの細身の体に、人並みはずれた体力が備(そな)わっているとは思えなかった。

 だとすれば、体力がとうにつきたセイラをささえているのは、精神力だけということになるのだろう。

 不屈(ふくつ)の闘志(とうし)をほこる将軍でさえ、おそいかかる睡魔(すいま)にかなうすべはないというのに、その睡魔をも打ち負かそうとする、この超人的な意志の強さはどこからくるのか?

 それともこれは、セイラが人ならぬ神人ゆえになせる業(わざ)だとでもいうのか――?

 帝は、予想もしなかった長期戦にしだいに焦(あせ)りを覚(おぼ)え、いらだちを感じ始めていた。

「セイラ、そろそろ音をあげないか?そなたがここまで持ちこたえるとは、正直、予想もしなかったことだ。その強靭(きょうじん)な精神力は称讃(しょうさん)に値するが……これ以上意地を張っていると、そなたの身がただではすまなくなるし、そなたほどではないにしろ、私も体が持たぬ。もう終わりにしてもよい頃であろう?」

「――御意(ぎょい)。帝が先に、負けをお認めになるなら……」

「私は温情(おんじょう)で言っている!これ以上賭けを続けていても、そなたの負けは見えている!セイラ……一言、そなたが都を離れぬと言えばそれですむのだ!」

「それだけは、お譲(ゆず)りできないと申しあげたはずです」

 息づまるような沈黙……。

 帝は笏(しゃく)をぎゅっとにぎりしめ、やがて――

「ははは……。そなたが帝であればよかったな。その強情さには、大臣どももさぞ手を焼いたことだろう」

「とんでもございません、方方を困らせるなど……。帝とは、『閑職に甘んじて』いなければならないものでしょう?」

「そのへらず口にも手を焼かされただろう。私にそんな口が聞けるのは、そなたぐらいのものだ!」

 そんなやりとりがかわされた七日目の朝、綾綺(りょうき)殿に渡ろうとする帝にセイラがつき従って行くと、ものかげから小声で呼び止める者がいた。

「……セイラ!……セイラ!」

 振り向いたセイラの顔がパッと輝き、手まねきする人影に走り寄る。

「篁(たかむら)じゃないか!久しぶりだね。こんなところでなにしてるの?」

「セイラこそ、四条邸にも帰らないで今までなにしてたのさ?綺羅(きら)さんもずいぶん――」

 その時、帝の鋭い声が鞭(むち)のように飛んできた。

「セイラ!遅(おく)れをとるな!」

「篁、ごめん!もう行かなくちゃ。わけはあとで話すよ」

 両手で拝(おが)むようにわびて、すぐにも引き返そうとするセイラの袖(そで)を篁がつかんだ。

「待てよセイラ!綺羅(きら)さんがとても心配してるんだ。綺羅さんになんて言えば――」

「セイラ――!」

 再び飛んできた叱咤(しった)の声に、振り向きざま、

「ただいまお側に――!」

 と叫んで、セイラは篁の手をとった。

「綺羅姫には、私は大丈夫だからって伝えておいてくれ。管弦の宴の夜には、必ず帰るからって……」

「管弦の宴って……まだ三日もあるじゃないか」

「たったの三日さ」

 おどけたように片目をつぶって見せ、セイラは急いで帝の後を追った。

 その背中を見送りながら、篁は、セイラの顔がやけに小さく見えたな――と、そんなことを思い返していた。

「月の君、侍従の身が主上(おかみ)をお待たせするなど、あってはならないことですよ」

「ご忠言(ちゅうげん)、いたみ入ります。以後肝(きも)に銘(めい)じておきましょう」

 ともに帝につき従っていた蔵人(くろうど)の弁(蔵人と弁官を兼任する者)の小言をにこりと受け流して、セイラは心の中でつぶやいていた。

 ――たったの三日、か……。

 我ながら、ずいぶん強気なことを言ったものだ――と、セイラは思う。

 少なくとも『たった――』などと言えるだけの余裕は、今のセイラにはなかった。

 ましてやこれからの三日間は、これまで以上に過酷(かこく)で、凄絶(せいぜつ)な忍耐(にんたい)と集中力を必要とされるだろう。

 一時たりとも気を休めることのできない、拷問(ごうもん)のようなその苦しみからのがれるには、ただ目を閉じさえすればよい。

 耳もとに絶えずささやき続けてくるその甘い誘惑にも、疲弊(ひへい)しきった心は、最後まで打ち勝つことができるのか――!?

 目の前をせわしなく飛びかう幻覚の羽虫の群れを、首を振ってはらいのけながら、セイラには、残された三日間がとほうもなく長い時間のように思えていた。




  
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