第十四話


「ぼくのせい…?」

「そうよ!あんたが側についていながら、帝の罠(わな)を見ぬけなかったせいで、セイラが出仕(しゅっし)させられる羽目(はめ)になったんじゃない!はじめての宮中で勝手のわからないセイラが、そういう時のためにあんたについててもらったっていうのに」

「そんなぁ!官位(かんい)をさずかるのは、セイラのためにも悪いことじゃないよ。それに、あの日帰ってきたセイラだって言ってただろ?あの場合はどうしようもなかったって……」

「だからあんたは、なんにもわかっちゃいないっていうのよ!あたしはね、セイラが参内(さんだい)するようになったら、いつかこんなことになるだろうと思ってたわ。それがまさか初日からだなんて……だからあれほどセイラに忠告したのに……。みんなあんたのせいよ!もし、あたしがあんたのかわりについてたら、決してこんなことにならなかったわ!」

 ここまで言われて、男としてのプライドが傷つかないはずがない。

 ムッとしたぼくは、切り口上(こうじょう)で言い返した。

「こんなことにって言うけどね、綺羅(きら)さん。セイラになにかあったって決まったわけじゃないだろ?おそれ多くも今上(きんじょう)のなさることに、下世話(げせわ)な詮索(せんさく)はすべきじゃないよ!」

 綺羅さんも、負けずにぼくをにらみ返す。

「セイラはね、小石ひとつで大の男だって倒せちゃうのよ。お堂の屋根よりも高く飛ぶことだってできるんだから。そのセイラが、今までなんの連絡もよこさずにうちにも帰って来ないのは、なにかあったって考えるのが当前(とうぜん)でしょ!?もしかしたら、帝に弱みをにぎられて、脅(おど)されてるのかも……」

「――綺羅さん!!」

 パチンと、綺羅さんの口もとが鳴った。

 ぼくの右手が飛んだ音だ。

「言葉をつつしみなさい!セイラが心配なのはわかるけど、今上を侮辱(ぶじょく)するのは、誰にも許されることじゃないよ!」

 茫然(ぼうぜん)とぼくを見つめる綺羅さんの目に、涙がにじんだ。

 その涙があふれだしそうになると、聞きわけのない子供のようにプイと背中を向けた。

「篁(たかむら)は……セイラのことが、本気で心配じゃないんだわ。ヒック。だから…そんなことが言えるのよ。セイラには、あたしたちしか、たよれる人がいないっていうのに……グスッ。それでもあんたは…グスッ、帝の肩を持つっていうのね。ヒック……」

 後ろ向きで、涙声になりながらもぼくを責(せ)め続ける。

 綺羅さんは残酷(ざんこく)だ。

 目の前で、他の男の心配をして泣かれる婚約者の気持ちがどんなものか、わかっているんだろうか……。

「綺羅さんは、ぼくがずっと四条邸に来なかったのは心配じゃなかったの……?」

「えっ、なに……?声が低くてよく聞こえなかったわ」

 泣きはらした目を、袖口で押さえながら綺羅さんが振り向く。

「……いや、なんでもないよ」

 ――そして、ぼくは意地悪(いじわる)だ。

 綺羅さんの気持ちはとっくの昔にわかっているのに、皮肉(ひにく)がつい口をついて出てしまう。

「ぼくはね、綺羅さん。今上をご尊敬申しあげているし、セイラを信じているんだ。だから、二人の間に綺羅さんが心配してるようなことがあったなんて思いたくもないし、あるはずがないと思ってる。セイラが帰って来れないのには、なにかわけがあるにしても……。ともかく、ぼくが明日、セイラから事情を聞きだしてみるよ……と言っても、セイラはずっと今上のお側につきっきりで、そうじゃない時は大勢の取り巻きにかこまれてるから、話をする機会を見つけるのは大変だけど……でも、必ず機会を見はからって事情を聞き出すから、綺羅さんはそれまで、ぼくを信じて待っていてくれないか?」

 綺羅さんは何度も涙をぬぐって、最後にこくっとうなずいた。






 そろそろ、火入れの刻限(こくげん)だった。

 注(つ)ぎたしの油を持ってようすを見に来た桔梗(ききょう)が、灯台(とうだい)に火をともす。

 あたたかな色の光が部屋の中に広がっていくのを、ぼくたちは黙って見ていた。

 桔梗は、綺羅さんの目が赤くはれているのに気づいたのか、非難(ひなん)するようにぼくを一瞥(いちべつ)して退(さ)がっていった。

 泣き出したいのは、本当はぼくの方だっていうのに……。

「綺羅さん。実は、今日ぼくがやって来たのは、もちろんセイラのこともあるけど、お互いいつまでも中途半端なままでいるのは、よくないと思ったからなんだ」

「一体、なんのこと……?」

 綺羅さんが無邪気(むじゃき)に聞いてくる。

 今まで泣きわめいていたのが嘘(うそ)みたいに、落ち着いた瞳(め)だ。

 ぼくはその瞳(め)を真っすぐに見つめて、スーッと息を吸い込んだ。

「――ぼくたち、婚約を解消(かいしょう)しよう!」

 綺羅さんの顔が、みるみる強(こわ)ばっていく。

「解消、という言い方が悪ければ、延期(えんき)でもいい。セイラの記憶が戻って、この国に残るかどうかはっきりするまで……」

 いさぎよく微笑(わら)って言ってあげたいけれど、今のぼくにはそんな余裕(よゆう)はない。

 なるべく嫌(いや)なところを見せたくないと思っていても、どうしても顔が横を向いてしまう。

「篁……あんたもしかして、あたしの……!?」

 綺羅さんの驚きととまどいが伝わってくる。

 突きさすようにひたむきな視線が、頬(ほほ)に痛い。

「……知ってたよ。綺羅さんの気持ちは……吉野の山で、初めてセイラをぼくに紹介してくれた時からね……。綺羅さんはそうじゃないって言いはってたけど、それは、セイラが記憶を取り戻したらすぐにでもいなくなってしまうって、思ってたからだろ?」

 ぼくは、ようやく顔をあげて、綺羅さんと向き合った。

「――でも、たとえ記憶が戻っても、セイラはこの都に残ることになるかもしれない」

「それ、どういうこと……?」

「夕星(ゆうづつ)だよ。今上がセイラにつかわした笛には、特別な意味があるんだ」

「特別な意味……?帝と対(つい)の笛だっていうのは、前にも聞いたわ」

「それだけじゃない。……これは、セイラには言わないでおいたことだけど、今上はあの二本の笛を作らせた折(おり)、その出来ばえの見事さを嘉(よみ)して『明星(あかぼし)』『夕星(ゆうづつ)』と銘(めい)を打たれ、『明星』はわが左手に、『夕星』はわが右腕に与える、とおおせられたそうだ。だから――」

「ちょっと待って!もっとわかるように言ってよ。左手とか右腕とかって、なんのこと?」

「セイラは、今上の片腕としての将来を約束されたっていうことさ。もしセイラがこの都にとどまることになれば、末は、おそらく太政(だじょう)大臣の位(くらい)にまでのぼりつめるだろう」

「太政大臣って、あの、左大臣や右大臣よりも位が上の……?それって、帝につぐ最高権力者じゃない!」

「夕星を賜(たまわ)るというのは、そういうことだよ」

 大きく見開いた綺羅さんの目に、恐怖が貼(は)りつく。

 飲みこめてきた事の重大さに、うれしさよりも恐ろしさの方が勝(まさ)った顔つきだ。

「この話は、今上にごく近しい方しか知らないことで、ぼくは以前、姉上の麗景殿(れいけいでん)さまに呼ばれた時にうかがったことがあるんだ。夕星をつかわされるような、信頼される臣下(しんか)におなりなさいって言われてね。だから今上が、それも拝謁したばかりのセイラに夕星を――とおおせられた時は、ぼくもはじめのうちは信じられなかったよ。夕星はてっきり、父上か左大臣殿が賜(たまわ)るものと思っていたから……。でも、今上にはなにか深いお考えがあってのことかもしれない。綺羅さんはさっき、セイラが小石ひとつで大の男を倒したって言ったね。確かに、セイラはぼくたちとは違う。天から降ってきたことだってそうだ。御仏(みほとけ)の使いって言われるのもわかる気がする……そんなセイラになら、この国の政(まつりごと)をよりよい方向に変えていけるかも……」

 話しているうちに、ぼくは、帝がお考えになっておられることが、おぼろげにわかるような気がしてきた。

 ――そうだ!セイラなら、この国を変えれるかもしれない。もし、セイラがずっと……。

 そう思ったとたん、思わず苦笑いが浮かんだ。ぼくの気持ちは矛盾(むじゅん)している。

 セイラがいなければ、ぼくは綺羅さんをあきらめずにすむのに、ずっといてくれたらって願ってる。

「セイラのまわりは、すでに動きはじめている。夕星が持つ意味をどこから嗅(か)ぎつけたのか、セイラに取りいろうと今から躍起(やっき)になっている公達も多い……記憶が戻った時、ここにとどまるかどうかを決めるのはセイラだけど、もしこのまま、セイラが宮中の中枢(ちゅうすう)をかけあがっていくようなことになれば――」

「帰りたくても帰れない状況(じょうきょう)になってしまう、ってことね。いかにも、帝が考えそうなことだわ!」

 突然、綺羅さんが吐(は)きすてるように言った。

「それが、セイラにとっていいことかどうかはわからないけど……。でも、そうなったら綺羅さんはセイラと……」

「せっかくだけど篁、そういうことにはならないわ」

「どうして……!?ぼくたちが婚約を解消して、セイラが順調に出世していけば、権(ごんの)大納言殿だってきっと――」

「だってあたし、もうセイラにふられちゃったもの」

 いたずらを見つけられた子供のように、ぺろりと舌を出して、綺羅さんは笑った。

「この間、清水寺(きよみずでら)の縁日(えんにち)にいった時のことよ。口に出して言ったわけじゃないけど、あたしの気持ちに気づいてしまったセイラに言われたの。『二人を傷つけるようなことをするつもりはない。これからも、ずっと――』って。もう速攻(そっこう)よ、速攻!あはは…セイラったら、身も蓋(ふた)もありゃしない」

 そう言いながら、扇(おおぎ)で顔をかくして、綺羅さんはごしごしと目をこすった。

「……そんなことが、あったの」

 心の中で張りつめていたなにかが、急に萎(しぼ)んでいくような気がした。

 ぼくはほっとしてるのか?それとも……。

「だから、篁があたしのことを気遣ってくれるのはうれしいけど、セイラがあたしの気持ちにこたえてくれるなんて、ありえないわ。でも……でもね、今は篁との結婚も、考えられないの……ごっ、ごめんなさい!」

 綺羅さんの肩が、小刻(こきざ)みに震(ふる)えてる。

 ぼくはたまらなくなって、側にいって扇を払(はら)いのけた。

 顔中、涙でぐちゃぐちゃだ。綺羅さんはセイラのこととなると、急に泣き虫になる。

「綺羅さん……ぼくの目を見て、正直に言ってごらん。今でもまだ、セイラのことが好きなんだろ?」

 綺羅さんは、涙で半分とけかかった目でぼくを見上げた。

「……うん。好き」

「だったら、一度ふられたぐらいであきらめるなんて、綺羅さんらしくないよ。なにがあっても希望は最後まで捨てない――が綺羅さんのモットーじゃなかったっけ?」

「篁――!?」

「セイラは、ぼくを気づかってそんなことを言ったんだよ。でも実際、今のセイラに誰かを好きになるよゆうはないだろうな。それに、これからはもっともっと忙しくなる。綺羅さん、ぼくたちの婚約はやっぱり延期にしておこう。そして、セイラの記憶が一日も早く戻るように協力するんだ。セイラが自分のことをすっかり思い出せるようになったら、綺羅さんは今度こそ、自分の気持ちを素直に伝えればいい。その時は、ぼくも推薦状(すいせんじょう)を書くよ。断ったら承知しないぞって……」

「篁……あんたって……あんたってバカよ!そんなこと言われたら、あたし……本気にしちゃうじゃない!」

 綺羅さんの頬(ほほ)を、涙が滝のように流れ落ちた。

 ぼくは、やっと心の底から笑いかけてあげることができた。

「いいよ。本気にしても」

「篁は、それでいいの……?」

「うん。ぼくはね、綺羅さんがセイラに惹(ひ)かれてるってわかっても、セイラをうらむ気持ちにはなれなかった。セイラならしょうがないっていうか、セイラだったら、綺羅さんをとられても許せる気がする……。ぼくも、綺羅さんと同じくらいセイラのことが好きなんだ。でも、このことはまだ、権大納言殿やセイラには内緒(ないしょ)だよ。変に心配されると困るからね」

「ごめんね、篁……ごめんね、ごめんね……」

 綺羅さんはぼくの手を握りしめ、何度も何度もその言葉を繰り返した。

 まるで、一生分の『ごめんね』を言いつくすみたいに――



    
◇    ◇    ◇


    
5.管弦の宴


 セイラの受難(じゅなん)は、出仕(しゅっし)した直後から始まった。

 いいや、それはすでに、帝に拝謁(はいえつ)した時から始まっていたような気もする。

 出仕が決まってからというもの、セイラの周辺は目のまわるような忙(いそが)しさだった。

 四条邸では、参内(さんだい)のための衣冠束帯(いかんそくたい)が大あわてで調(ととの)えられ――手持ちの衣服でかまわないというセイラの言(げん)を北の方は断固としてはねつけ、権大納言家の客人(まろうど)として恥ずかしくない仕度(したく)を、と押し切られてしまった――セイラ自身は、いやというほど宮中の礼儀作法を覚えこまされることになった。

 その間にも綺羅(きら)姫の不機嫌さは増す一方で、その原因をつくったセイラとしては、なだめ役も買って出なくてはならなかった。

 そうこうして迎えた出仕初日――

 セイラはいきなり、自分がおかれている宮中での微妙(びみょう)な立場を、思い知らされることになる。

 紫宸殿(ししんでん)の南庭に面(めん)した月華(げっか)門の下で、セイラは、所用をすませた後で宮中を案内するという権大納言(ごんのだいなごん)を待っていた。

 連日の疲れがたまっている上に、朝早くということもあってか、欠伸(あくび)がひとりでに口をついて出る。

 ふと、食い入るように見つめる何者かの視線を感じて、セイラはあたりを見まわした。

 うす靄(もや)のかかった広々とした南庭には、まだ誰の姿もない。

 その時、右手にある承明門(しょうめいもん)をくぐり抜けて、南庭に入ってきた者がいた。

 年の頃は五十歳くらいの、やせ型で、やぎ鬚(ひげ)をはやした公卿(くぎょう)だ。

 どこか見おぼえのあるその公卿は、近くまでやって来ると、軽く頭を下げてやり過ごそうとしたセイラをジロリとねめつけた。

「月の君、か……ふん!今上(きんじょう)の物好きにも困ったものよ。忠告しておくが、夕星を賜(たまわ)ったぐらいであまりのぼせ上がらないことだ」

 セイラは顔をあげて、きょとんと目を丸くした。

「はて…?わたくしはたった今参内(さんだい)したばかりですが、宮中では参内することをのぼせ上がる、と言うのですか。どなたかは存じませんが、これはよいことを聞かせていただきました。では、あなたさまも本日はご機嫌うるわしくのぼせ上がられて、おめでとうございます」

 とたんに、セイラの背後からクスクスと笑い声がおこった。

 振り返ってみると、そこにはいつの間にやって来ていたのか、二十歳ぐらいの公達(きんだち)が腹をかかえながら、それでも懸命(けんめい)に笑いをかみ殺そうとしていた。

 たちまち公卿の顔が朱(しゅ)にそまり、こめかみにぴくぴくと痙攣(けいれん)が走る。

「小っ、小僧が――!そんな口をたたいていられるのも、今のうちだ!」

 すて台詞(ぜりふ)を吐いて、足早に遠ざかっていく公卿の後ろ姿を目で追うセイラに、先ほどの若い公達が、今度は遠慮のない笑い声を立てながら話しかけてきた。

「さっそく、古狸(ふるだぬき)の先制攻撃を受けられましたね、セイラ殿。それにしても、くっくっくっ……いや、見事な切り返しでした。早起きはしてみるものですね。こんなに愉快(ゆかい)な場面が見られるとは……はっはっはっは」

 公達は、四条邸の宴でセイラも何度か顔を合わせたことのある、秋篠(あきしの)の右近権中将だった。

「そんなに笑わないでください、権中将殿。出仕初日だというのに、少し言い過ぎました」

 セイラは苦笑して、公卿が去っていった方をもう一度振り返った。

「あの方は、もしや……」

やぎの左大臣殿ですよ」


 
権中将は顎(あご)の下に手をやって、自分にはない鬚(ひげ)をさする振りをした。

 本人にとっては自慢のやぎ鬚だったが、公達(きんだち)の中にはそれを揶揄(やゆ)して『やぎ殿』と呼ぶ者もいた。権中将はそのことを言ったのだった。

「ああ、やはり左大臣殿でしたか。どおりで見覚えがあると思ったら、拝謁の折(おり)にお見かけしていたのですね。では、なおさらにまずいことを申しあげてしまったかな」

「お気になさることはありません。いずれにしろ左大臣殿は、セイラ殿が夕星を賜(たまわ)ったのがおもしろくないのですよ」

「私が夕星を賜ったことは、方方(かたがた)はもうご存知なのですね?」

 意外な顔をしたセイラを、権中将は『今さらなにを――』と言わんばかりに、あっさりと笑いとばした。

「あっはは。こういうことは、隠そうとして隠しきれるものではありません。なにしろ近頃にない大事件ですからね。セイラ殿が拝謁(はいえつ)なさった次の日には、すでにひそかに取り沙汰(ざた)されていましたよ」

 セイラはさすがに目をむいて、懐(ふところ)から、布で丁重(ていちょう)に包まれた細長い物を取り出した。

 それをつくづくと眺(なが)めながら、

「多少は心得ていたつもりですが、これは、それほどに厄介(やっかい)な代物(しろもの)ですか……」

 ひとり言のように言ってため息をついたセイラを、権中将はにやにやしながら見ていた。

「さよう。左大臣殿に限らず、夕星を賜(たまわ)った者への宮廷人の羨望(せんぼう)は、並たいていのものではありません。が……私は、今上のご判断は正しかったと思っているのですよ。セイラ殿ならば、それもうまく切り抜けてごらんになるだろうとね」

 ここにきてセイラは、自分が、宮中の政争(せいそう)の真っただ中に投げ出されてしまったことを悟った。

 そして、この状況に――おそらくは意図して――追い込んだ張本人と、それを見抜けなかった自分の軽率(けいそつ)さを、今さらのように呪(のろ)わずにはいられなかった。

「ご期待にそえるかどうかは、まだわかりませんよ」

 南庭を横切ってくる権大納言の姿を認めながら、セイラは夕星を、懐(ふところ)にグサリと押し込んだ。






 セイラの参内(さんだい)を聞きつけて、宮中雀(すずめ)がどれほどかまびすしく立ち騒いでいたとしても、その喧噪(けんそう)はここ、清涼殿(せいりょうでん)の御座所(おまし)までは及(およ)んでいなかった。

 廂(ひさし)の間に座って、夕星(ゆうづつ)を吹き鳴らすセイラの姿は静謐(せいひつ)そのもので、時の流れさえゆっくりと感じられ、さながら一幅(いっぷく)の絵を見ているようだった。

 腰までおおい尽(つ)くす豊かな銀色の髪が、晩春の日差しを受けてきらきらと輝いている。

 名工が大理石を刻んだと思われるような、彫(ほ)りの深い顔立ちには、長いまつ毛が幽愁(ゆうしゅう)の影を落としていた。

 そこに、さっと一筆(ひとふで)朱(しゅ)を掃(は)いたような唇が、軽やかな音色を奏(かな)でている。

 邦楽とも唐楽とも違うみずみずしい旋律の洪水に、それまで負けじとさえずっていた鶯(うぐいす)も今は競うことをあきらめ、すっかり聞き役にまわってしまった。

 ――と、ふいに、その音色が途切(とぎ)れた。

「……どうした、セイラ?」




 
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