第十一話


    ◇    ◇    ◇

 洛中を一気に駆けぬけ、人気のない小道を半時ほど走ったところで、セイラは細い脇道に分け入り、小川のほとりで馬に水を飲ませていた。

 そこへ、しばらくすると、見覚えのある質素な牛車が通りかかった。

 ――こんな寂しい場所に、なぜ牛車が……?


 と、不審に思っていると、ふいに、車の中から呼びかける声がした。

「そこにいるのは、“月の君”ではありませんか?」

「ははは…。どなたかは存じませんが、どうやら人違いをなさっておられるようだ。私は、“月の君”などという者ではありませんよ」

 車中の人物は、クスリとしのび笑いをもらした。

「いいえ、あなたのことですよ、セイラ殿。輝く月色の髪と宵闇(よいやみ)色の瞳を持ち、天から舞い降りて来られたというあなたのことを、宮中では“月の君”と呼びならわしているのです」

 その時、車の前簾(まえすだれ)がさっと持ち上がり、中にいた公達(きんだち)が降りてきた。

 ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるその公達は、すらりとした長身に、上品な桜萌黄(さくらもえぎ)の狩衣(かりぎぬ)をまとっている。

「すると、私は月の世界からやってきたことにされてしまったのですか。友人からは、そのように呼ばれていることなど聞いておりませんでしたが……」

 セイラは機嫌よく応じて、見知らぬ公達の顔に目をこらした。

「右近衛(うこんえの)少将はなにかと忙しい身ですからね。そういった話題にはうといのでしょう。つい先日も、靫負庁(ゆげいのちょう)に駆り出されて、文書の虫干しを手伝わされていたようですし……」

 公達はそう言って、クスクスと笑いながらセイラに歩み寄った。

 そうして近づいてみると、目もとのあたりが、顔見知りの誰かに似ているような気がした。

 ――そうだ。尹(いん)の宮殿に似ておられる!

 そう思って、あらためて公達をながめると、優雅に微笑んでいる風情は驚くほどよく似ていたが、公達の方が二、三歳ほど若く見え、その分穏やかで落ち着きのある尹の宮よりも、精悍(せいかん)で凛々(りり)しい印象を与えている。

 きりりとしたあごの線や引きしまった口元は、果敢(かかん)な性格であることを雄弁に物語っていた。

「宮中の事情におくわしそうですが、もしや、尹の宮殿にゆかりの方では?」

「あっははは。やはり血は争えませんね。お察しのとおり、尹の宮とは……そう、言うなれば親戚の間柄です」

「ご親戚とおっしゃると、いずれ皇族の方でいらっしゃる……?」

 セイラがそう口にすると、公達の目が、一瞬チカリと光った。

「おやっ、そういうことになりますか。ですが、あまりお気になさることはありません。皇族と言っても、私などは宮廷の閑職に甘んじている身にすぎませんよ」

 とてもそんな風には見えないが――というのがセイラの正直な感想だったが、それはひとまず胸の奥にしまいこんだ。

「失礼ですが、どこかでお目にかかったことが?あの牛車には見覚えがあるのですが……」

「あなたが私を御存知ないのも当然です。ですが私は、あなたのことをよく存じあげていますよ。東の市で、私の牛車にぶつかってきたあなたを」

 あっ、あの時の車の主か――と、セイラは思い当たった。

「そうでしたか、あの時の……。その節はとんだご無礼をいたしました」

「いや、月の君の方こそ、ご無事でなによりでした。もっとも、その後が大変な騒ぎになってしまったようでしたが……くっくっくっ」

 その時のことを思い出したのか、公達は、こみあげてくる笑いを袖口で押さえた。

「やあ、ご覧になっておられたのですか」

 セイラは、気恥ずかしそうに苦笑した。

「あの時のあなたは、ずいぶんと楽しそうにしておられましたね」

「ええ、あんなに楽しかったことはありません。できることならもう一度、市を走り抜けてみたいと思うくらいです。でもそのおかげで、えらく有名になってしまいました」

 公達は一つうなずいて、目にやさしげな光をともした。

「その後偶然、神社の境内で、気分がすぐれないごようすのあなたをお見かけしました。お連れの方がおられたようなので、小布(こぎれ)を差し上げた後、私はすぐにその場を立ち去りましたが――」

「あれは、あなたでしたか!」

 話の腰をおって、セイラはうれしい驚きの声をあげた。

「いつの間にかお姿が消えていたので、お礼を申し上げることも、小布をお返しすることもできなくなったと悔やんでおりましたが、こうしてまたお目にかかることができて本当によかった!これを……」

 セイラは懐(ふところ)から小布を取り出すと、公達に手渡した。

「いつかお返しできる時も来ようかと、いつも持ち歩いていたかいがありました。あらためて、お礼を申します。よろしければ、ぜひお名前をお聞かせ願いたいのですが……」

 まっすぐに向けられてくる、感謝と親しみのこもったセイラの眼差しに、公達はまぶしそうに目を細めた。

「そうですね。倭建(ヤマトタケル)の建、とでも申しあげておきましょうか」

「建(たける)さま……ですか」

 セイラは、謎の公達ににわかに興味を持った。

 明らかにこれは偽名だとわかるような言い方をしておきながら、少しも悪びれたようすがない。

 人をからかって面白がっているのか、それとも、名前を明かせない事情でもあるのか――

 そもそも、こんな人里を離れた場所を通りかかったのは、またしても偶然だったというのか? 

 再会を喜んだのも束の間、なにを考えているのか得体の知れない公達に、セイラは次第に不信感をつのらせた。

「その建さまが、今日は私になにか御用でも?まさか、小布を返してもらいに来たというわけでもありますまい。それともこれは、三度目の偶然というわけですか?」

「あははっ、もちろん偶然ではありませんよ。正直に申しあげると、これまでの二度も、と白状しておきますが……実は重大な用件があって、あなたをここまで追ってきたのです」

 『建――』と名乗った公達は、セイラの微妙な声の変化に気づいていないのか、かまわずにこにこと側にやって来た。

「こうして、ぜひ一度、月の君の顔を間近で拝見したかった」

 そう言って、今にも額に触れそうなほど顔を近寄せて、まっすぐに瞳をのぞき込んだ。

「なっ……」

 ――なにをなさる!?

 と、叫んだはずだったが、それは声にならなかった。

 思いもよらない相手の出方に虚をつかれたセイラは、棒立ちになったまま、声をあげることも身動きすることもできずにいた。

「――美しい!まるで紫水晶のようだ。この宝玉を目の当たりにする日を、どれほど待ち望んだことか……」

 公達は、夢見るようにうっとりとしてつぶやいた。

 この国の人間と毛色が違っているとはいえ、こうまで無遠慮に顔をながめまわされたことがなかったセイラは、心中ひどくうろたえた。

 ――私を愚弄するつもりか!?

 ムッと怒りがこみあげてきた途端、体が自由になると、すばやく身をかわした。

「あまり、愉快な用件ではありませんね」

 にべもなく言い捨ててその場を離れ、馬の手綱を取った。

「御用がお済みなら、私はこれで失礼します!」

 振り向きもせず、馬の背にまたがろうとしたその時、セイラは、後ろからのびてきた腕にがしっと肩をつかまれた。

「お待ちなさい。月の君がこれほど短慮な方とは思わなかった。不躾(ぶしつけ)だったことは認めますが、あなたと二人だけで会いたいために、わざわざこんな都のはずれまで追って来たのです。もう少しだけお付き合いくださってもよろしいでしょう。怒った顔の月の君も麗しいが、できれば機嫌を直して先ほどのように笑いかけてくださると、私としてはうれしいのですが……」

「小布のお礼は申し上げたはずです。あいにくですが、人をもてあそぶような方とこれ以上お話することはありません」

 にこりともせず、セイラは公達の手を邪険に払いのけた。

「もてあそぶ……?」

 公達は一瞬、不思議そうにセイラを見つめた後、ニヤッと口もとを笑いで染めた。

「私は真面目にあなたを口説(くど)こうとしただけで、もてあそんだつもりはありませんよ」

 セイラの頬に、さっと朱が差した。

「それがもてあそんでいると――!」

 と、そこまで言いかけて、ふいにセイラは口ごもった。

 柔らかな光をたたえた双眸(そうぼう)が、えも言わず愉(たの)しそうに瞬(またた)いていた。 

 ――この方は一体……。

 本当に、なにを考えているのか――?

 セイラには、公達がどういう人間なのか、ますますわからなくなった。

「私が素性を明かさないことに、疑いを持たれるのは無理もありません」

 公達は、セイラの不信を見抜いていたように、穏やかな声で言った。

「信じていただけないのは残念ですが、こうしてあなたと親しく言葉を交わせる日を、私はずっと夢にみてきたのです。そう、まるで愛しい恋人を待ち焦がれるように……」

 物静かな口調には、いつわりや誇張などではない真実の響きが感じられ、そのことが、より一層セイラを混乱させた。

「月の君とは、近々もう一度お会いすることになるでしょう。私が今ここで名乗らなかった理由も、その時におわかりいただけると思うのですが……」

「では、その時を楽しみにしておきましょう。もっとも――」

 心の動揺をおし隠して、セイラは馬の背にまたがった。

「もう二度とお会いできなかったとしても、私は一向にかまいませんが」

 突き放すように言うと、セイラはもう駆け出していた。

 その後ろ姿を見送っていた公達の顔が、ぱっと弾けた。

 唇からは、ほがらかな笑い声がこぼれている。


   


 二日後、ついにセイラは、宮廷からの正式な呼び出し状を受け取った。


 その少し前に、参内(さんだい)からあわただしく駆け戻った権(ごんの)大納言は、興奮して上ずった声でセイラにそのことを告げた。

「帝に拝謁(はいえつ)するといっても、なにもご案じなさることはありませんぞ、セイラ殿。手はずは万端ととのっておるゆえ、セイラ殿はほんの一時顔見せをして、今上帝(きんじょうてい)からのお言葉を賜(たまわ)るだけでよろしいのじゃ」

 権大納言はうれしさを顔中に表して、わが事のように喜んでいたが、報(しら)せを聞いて部屋に駆けこんできた綺羅(きら)姫は、鼻息も荒くまくしたてた。

「セイラ、なにも宮中にまで行って見世物になることないわ!かまわないから、そんなの断っちゃいなさいよ!」

「そういうわけにはいかないよ。権大納言殿の面目だってあるし、それに、私はこれでも、帝にお会いできるせっかくの機会を楽しみにしてるんだ」

 セイラが苦笑まじりに言うと、綺羅姫は不安を吐き出すようになおも言いつのった。

「父さまのことはいいのよ。セイラのおかげで、今までさんざん大きな顔をしてこれたんだから、少しぐらい面目をつぶしたってどうってことないわ。それよりも問題なのはセイラの方よ。セイラの望みは、一日も早く記憶を取り戻して、自分の国に帰ることでしょ?」

「ああ。それはもちろん、そうだけど……?」

「だったら――」

 綺羅姫はずいと身を乗り出した。

「帝はね、セイラみたいなタイプがもろに好みなのよ。宮中で対面したりしたら、さっそく気に入られて、必ず自分の側におこうとするに決まってるわ。それでもし宮仕えなんかすることにでもなったら、記憶が戻ったところで、帝は絶対セイラを手放しちゃくれないわよ!」

「そ、そんなに執着なさるお方なの?」

 ごくりと唾(つば)を飲み込んだセイラに、綺羅姫は重々しくうなずいて、言い聞かせるようにもう一度念を押した。

「だからね、セイラ。セイラがどうしても帝に会ってみたいって言うんならしょうがないけど、たとえどんなに頼まれても、決して宮仕えなんか引き受けちゃダメよ!」

 綺羅姫の剣幕に、ひたすら圧倒されて話を聞いていたセイラだったが、実は、宮廷からの呼び出しがそろそろあるだろうということは、前もってわかっていた。

 セイラのいる対屋(たいのや)は、ここ数日前から、山のような礼物であふれかえっていた。

 それらはすべて、山辺(やまのべ)長者から贈られた物だった。

 娘を助けてもらっておきながら、その礼がわずか一叢(ひとむら)の水仙だけというのは、やはり長者としての沽券(こけん)が許さなかったのだろう。縁日の翌日には、約束どおり水仙の球根のほかに、荷車三輛(りょう)分もの贈り物が四条邸に届けられ、セイラや邸内の者を大いにあわてさせた。

 恐縮したセイラは、山辺長者の店を訪れて球根の礼を述べると、過分の贈り物の所以(ゆえん)を訊(たず)ねた。

 山辺長者は、セイラがわざわざ足を運んでくれたことを知り、上機嫌で懸念(けねん)を晴らしてくれた。

「いやあ、この年になって、このようなことを申しあげるのも気恥ずかしい話ですが、実を申しますと、娘を助けていただいたお礼というよりも、セイラさまのお人柄にほれこんでしまったのですよ」

 山辺長者は頬を上気させて、にこにこしながらそう言った。

「もちろん、セイラさまといえば、今都で一番の注目を集めておられるお方。そのお方と親しく近づきになりたいという商売っ気もないわけではありません。ですが、まあこう申しあげてはなんですが、このたびの贈り物は、セイラさまを信奉する者からのささやかな心づけ、とでも受け取っていただければ、わたくしの心にも叶うというものでございます」

 思ってもみなかった事の成り行きに、セイラはとまどいを隠せず目を瞬(しばた)かせた。

「そう言ってもらえるのは誠にありがたいのですが、私にはそのご厚意に見合うだけの、なんのお返しもできそうにありません。長者殿にはそれでもよろしいのですか?」

「なんの。そのようなお気づかいはご無用というものです。わたくしが勝手にセイラさまにほれこんだまでのこと。ほれこんだお方に貢献(こうけん)するというのは、言ってみれば、わたくしどもの道楽のようなものでございますよ。聞くところによりますと、宮中では、セイラさまの参内はいつ頃になるかという話題で持ちきりだそうで……帝からのお召しのお声がかかるのも、もう間もなくのことでございましょうなあ。なんでも帝は、セイラさまについては大変な関心をお持ちのようで、一体どこからお聞き及びになったものやら、他の公卿や公達の知らぬことまでよくご存知とか……セイラさまが拝謁なされたあかつきには、帝のご寵愛を得られることは間違いございません。もし、セイラさまがわたくしどもの貢献を心苦しく思われるのでしたら、帝をお助けしてこの地に末長くおとどまりいただき、将来は娘の鈴を妻にでもしていただければ、わたくしとしてはこれ以上望ましいことはないのですが……いや、これはほんの冗談でして、あっはっはっは」

 豪快に笑い飛ばされてしまうと、セイラも仕方なく苦笑するしかなかった。

 だが、娘の話はともかくとして、これでセイラは、大きな財力の後ろ盾を持つことになった。

 もちろん四条邸でも、賓客(ひんきゃく)としてなに不自由ない暮らしをしていたのだが、セイラが望むと望まないとにかかわらず、山辺長者はそれからもことあるごとに贈り物を欠かさなかった。

 これはもう少し後の話になるが、ある時など、セイラのために邸を献ずるとまで言われて、さすがにそれは丁重に断ったほどだった。

 そんなことがあって、セイラは、自分に関心を持っているというこの国の帝がどういう人物か、一方ならぬ興味を抱いていた。

 だが、この対面の先に待ちうけている受難を、この時のセイラが知っていたら、それでも参内する気になれたかどうか――?

 綺羅姫の忠告がどれだけ的を得ていたかを、セイラは後々になって思い知ることになる。


   


 そして――

 いよいよ、セイラが帝に拝謁(はいえつ)する日がやって来た。

 紫宸殿(ししんでん)の左右、流れるように百官が居並ぶ中を、銀色の髪をなびかせ異国風の不思議な光沢をもつ衣をまとったセイラが、周囲を圧する華やかさを振りまいて現れると、初めてこの麗人を目にした殿上人(てんじょうびと)の口からは自然に、

「ほお――っ!」

 と言う、驚きとも賞賛ともつかぬため息がこぼれた。

 さざ波のように広がってゆくその声の間を、セイラは颯爽(さっそう)と足を運び、中央の座に端然と腰を下ろした。

 やがて、正面に据えられてある高御座(たかみくら)の御簾の奥から、さわさわと衣ずれの音がして、帝が臨御(りんぎょ)する気配がした。

 セイラは高御座に向かって一礼すると、よく響く涼やかな声で語りかけた。

「こうして、帝に拝謁できる機会を与えられましたことを、心より光栄に存じます。わたくしの名は、セイラと申します。本来であれば、どこからなんのためにやってきたかを申しあげなければならないところですが、残念ながら、それにつきましてはなにもお答えすることができません。巷(ちまた)では、わたくしのことで大それた風評が立っているようですが、この宮廷では、わたくしは月の世界からやって来たことになっているとうかがいました。古来、この国では、月には兎が住んでいると言われているとか……。わたくしはさしずめ、悪さをして皮をむかれ、月に帰れなくなってしまった銀兎、といったところでしょうか」

 セイラが『月の君』と呼ばれていることを暗に当てこすると、御簾の内からクスッと忍び笑いがもれ、紫宸殿のあちこちから失笑がわき起こった。

 なかなかにうまいことを言うものだ――と感心させられる一方で、因幡の白兎とセイラとの取り合わせが、妙におかしみを誘ったらしい。

「願わくば帝のお慈悲を持ちまして、この哀れな兎が月までの跳び方を思い出せるようになるまで、今しばらく、この王城の地にとどまることをお許しください」

 頭を垂(た)れ、艶然(えんぜん)と微笑んでみせると、周囲からは再び、

「おお――っ!」

 という、声にならない声が巻き起こり、セイラを押し包んだ。

 見る者の目を釘づけにせずにはおかない艶(あで)やかな美貌、優雅な挙措(きょそ)、それでいて、一国の皇子さながらのあたりを払う堂々とした話し振りは、人々に改めて、

 ――やはり、この君は只者ではない。

 と、思わせるに充分なものだった。

 そのざわめきが収まるのを見届けて、帝がおもむろに口を開いた。




  次回へ続く・・・・・・
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