第九話


 人通りのないお寺のわきの裏道に入ってしばらく歩いた後、誰も追いかけて来ないことを確かめると、綺羅(きら)姫ははじめて安心したように、ハアーッと大きく息を吐き出した。

「よかったあ!誰にも追いかけられたりしなくて。それにしてもセイラって、あたしをびっくりさせるためにいるようなものね。あんなことができるならできるって最初から言ってよ。あたしはセイラが女の童(めのわらわ)をかかえて飛び降りた時、心臓が止まるかと思ったわ」

「びっくりさせるつもりはなかったんだけど……」

 セイラは眉を寄せて、軽いとまどいをみせた。

「私は、そんなに驚かせるようなことしたかな?」

 綺羅姫は唖(あ)然とした。

 呆れてものも言えないとはこのことだった。

 人は鳥のように空を飛べないのだということが、セイラにはわかってないとしか思えなかった。

「あっ、あたりまえでしょ!普通の人はせいぜい一尺(しゃく)も飛べればいいほうよ。だからああやって木によじ登ろうとしてたんじゃない。それをセイラみたいに屋根の上まで飛んじゃう人なんて、見たことも聞いたこともないわよ!」

「一尺――!?そっか……それじゃ、やっぱりまずかったね」

 セイラはしゅんとして、妙に考えこんでしまった。

 セイラは一体なに者なのか?――その疑問が、またしても綺羅姫の脳裏をかすめた。

 小石ひとつで大の男を倒してしまったことといい、セイラには、人智でははかりしれない不思議な力がそなわっていることは確かだった。

 では、セイラはやはり神人なのか――?

 そこまで考えて、綺羅姫は急に吹き出しそうになった。

 薬が嫌いで飲まずに捨ててしまう神や、それを見つけられて、叱られてしょんぼりしている神を想像するだけでおかしかった。

 そんな神など、いるはずがない――!

「とにかく、セイラはそれでなくても人目を引きすぎるんだから、もう人前であんな派手なことしちゃだめよ!」

「そう言うけどね、人命にかかわることだからって言いだしたのは綺羅姫の方で――」

 その時、大声をあげながら、誰かがこちらに向かって駆けてくる足音がして、二人は同時に振り返った。

 耳を澄まして聞いていると、足音はどうやら一つだけとわかって、二人はひとまずほっとしながら声の主を待ちかまえた。

「お待ちくだされ―!」

 現れたのは、セイラが助けた女の童の父親と思われる、商人烏帽子(あきんどえぼし)をかぶった男だった。

 年の頃は、壮年(そうねん)もなかばを過ぎようかという風にも見えるが、鋭い目つきと、四角張った意志の強そうな顎(あご)の線が、実際の年齢よりも商人を精力的な人間に見せている。

 一言で言うなら、“やり手”といった印象を与えるタイプの人物だった。

「いやあー、お探しいたしましたよ。不意に、お姿が、見えなくなったものですから……、どちらにまいられたものかと、それはもう……」

 よほどあちこちを駆け回ったものとみえて、男はゼイゼイと息を切らして、はじめのうちは、言葉もよく続かないありさまだった。

「私は、大和で商(あきな)いをいとなんでおります山辺義明と申す者でございます。世間では山辺(やまのべ)長者などと呼ばれておりまして、都にも店をかまえ、よろずの商いをさせていただいております。こちらのお寺には、商売祈願のためにまいりましたところ、先ほどはからずもあなたさまにわが子を助けていただき、一言お礼なりと申し上げたいと思い、こうして追いかけてまいったしだいでございます。聞けば、その以前にもせがれや娘はあなたさまに団喜(だんぎ)をご馳走(ちそう)になったとか……。いやはや、なにからなにまでお世話になり、親の立場といたしましては、まことに汗顔(かんがん)にたえません。お連れの方とおいでのところを、無粋(ぶすい)なこととはじゅうじゅう承知の上で、よろしければいずれのお方か、ぜひともお名前をお聞かせ願いたいのですが……」

 それまで、中腰で頭を下げ下げ話していた商人が、ひょこっと顔をあげてセイラを見たとたん、

「おやっ!」

 と、意外な声をあげた。

「うむ!なるほど。娘の言っていたきれいなお目目とは、このことであったか……!」

 なにやら合点がいったようにそうひとり言をつぶやくと、山辺長者は、それまでにも増してうやうやしい物腰になった。

「まことに失礼とは存じますが、もしやあなたさまのお名前は、セイラさまとおっしゃるのではございませんか?」

 それまでずっと山辺長者の話を聞いていたセイラは、はははっと愉快な笑い声をたてた。

「人に名前を尋ねておきながら、自分で答えてしまう方も珍しい。いかにも私はセイラと申しますが、長者殿はどうしてそれをご存知なのです?」

 山辺長者は、やはり、としたり顔でうなずいた。

「なんの、私ばかりではございません。今や京の都で、セイラさまのお名前とそのご容姿を知らぬ者はないと申してもよろしいでしょう。東の市で、天女が現れたという噂は、都中の者が聞き及んでいるところでございます。輝くばかりの銀の髪に紫の目をもつ、天から舞い降りて来られた世にも麗しいお方と、セイラさまのことは宮中でも、公卿や公達の間で大層な評判になっているとうかがっております」

「私のことが、そんなに――!?」

 セイラが絶句すると、

「やっぱりね……」

 綺羅姫はあきらめ顔で天を仰いだ。

「先ほど、高々と宙を舞われたのには、正直申して肝をつぶしました。並みのお方ではあるまいと思っておりましたが……天上界よりまいられたというセイラさまならば、それもうなずけるというもの」

「天上界……?ははっ。長者殿、噂にだいぶ尾ひれがついてしまったようですね。私はごらんのとおり天女でもなければ、そのような大それた者でもありませんよ」

「あの宙を舞われたお姿を目の当たりにした者は、誰もそうは思いますまい。こうして音に聞こえたセイラさまに、噂にたがわぬ霊妙(れいみょう)なお力で娘を助けていただいたというのも、この寺に長年喜捨(きしゃ)をしてまいった功徳(くどく)というものかもしれません」

 山辺長者はしみじみとそう話した。

「このご恩にむくいるためには、どのようなお礼でもさせていただくつもりでございます。子をもった親の身といたしましては、なにものもわが子の命にかえられるものではございません。どうぞ、なんなりとお申しつけください」

 深々と頭を下げた山辺長者に、セイラはやさしい目を向けた。

「親として子を思うのは当然のことでしょう。困っている者がいたら、それを助けるのは人として当然のことですよ。礼にはおよびません、長者殿」

 山辺長者の顔に、なんとも形容しがたい柔らかな表情が浮かんだ。

「なるほど。セイラさまは確かに、御仏より遣(つか)わされしお方、吉祥天女の化身などと噂される通りの方でいらっしゃるようだ……ですがわれわれ商人というものは、貸しは好んでも借りは好まぬものです。礼にはおよばぬと言われて、このままおめおめとセイラさまをお帰しするわけにはまいりません。山辺長者と呼ばれる私の名がすたります。世間も、娘を助けてもらいながら、なんと渋い商人よと嘲笑(あざわら)うことでしょう」

「弱ったな。そう言われても……」

 山辺長者の頑(がん)として引きさがる気配のないようすを見てとると、セイラは心底(しんそこ)困惑(こんわく)した。

 手に入れたいものがあるとするなら、それはただ一つ――なくした自分の記憶しかない。

 だが、いくら大商人でもそればかりは無理な注文だった。

 セイラは助けを求めるように綺羅姫を見た。

 その綺羅姫はといえば、セイラがなんと答えるのか、垂衣(たれぎぬ)の下から興味津々といった目で見あげている。

 その眼差しが目にとまった時、セイラの胸に、ふとある名案が思い浮かんだ。

「長者殿、では一つだけお願いしたいことがあります」

 セイラは山辺長者の耳もとで、ひそひそと内緒話をはじめた。

「そのようなことでしたらなんの造作もないことですが、本当にそれだけでよろしいのですか、セイラさま?」

「ええ、それだけでいいんです」

 セイラはにっこりと満足げな笑みをうかべた。

 山辺長者は、つかの間、惚れ惚れとその笑顔に見とれた。

 それから、ハッとして我に返ると、急にそわそわと落ち着きをなくして、視線を宙におよがせた。

「そ、それでは、私と一緒に、一度境内の方にお戻りいただけませんか?ちょうど知り合いの露店主が、お求めのものを今日の縁日であきなっていたはずでございますから」

「それは助かります」

 セイラはくるりと後ろを振り返った。

「綺羅姫、ほんの少しの間、ここで待っていてくれないか?すぐに戻ってくるから」

 弾んだ声でそう言い残すと、セイラは山辺長者と、足早にきた道を引き返していった。

「あっ、セイラ!」

 境内に引き返したりして大丈夫なの?――と言おうとした時には、セイラはもうずっと先を歩いていた。

 松林の小道に、綺羅姫は一人取り残された。

 森閑とした林の中に一人だけになると、さすがの気丈な綺羅姫も心細さを感じないわけにはいかず、言われた通りに待っているべきかどうか迷った末に、綺羅姫の足はセイラの後を追っていた。

 小道を半分ほど戻ったところで、松林の隙間から、遠くの境内の雑踏がちらほら見えてくると、綺羅姫はセイラの行方(ゆくえ)を目で探した。

 と、その時――

 樹間を、一人の男の顔がすーっと横切ったかと思うと、密生した松の幹にはばまれて、すぐに見えなくなった。

 綺羅姫はギョッとして、その場に立ちすくんだ。

「建(たける)……?」

 一瞬だけ垣間見えたその横顔は、綺羅姫が知っている人物に驚くほどよく似ていた。

 しかしその人物は、間違ってもこんなところにいるはずのない人間だった。

「ま、まさかねえ……あはっ、きっと目の錯覚よね。ちらっと見えただけだし、それによく似た人なんて、探してみれば結構いるかもしれないし……」

 無理やり自分にそう言い聞かせてみたものの、一旦わきおこった疑惑は、容易に胸の内を去ろうとしなかった。

 そればかりか、次第に心に重くのしかかって、綺羅姫の不安をあおりたてた。

「でも、もしよ。もし、本物だったとして……」

 一体なんのために、こんなところに……?という疑問がわいてくる。その答えは――!!

「――ううん!」

 嫌な考えを振り払うように、綺羅姫は何度も首を振った。

「いくら建だって、もうそんな暇はないはずよ。あれはきっと目の錯覚か、他人のそら似よ!」

 綺羅姫がきっぱりと断言したその時、遠くからセイラの呼ぶ声が聞こえた。

 途端に、体中からどっと力が抜けた綺羅姫は、今見たことを頭の中からきれいに追いはらって、小道の向こうにセイラが現れるのを待った。 

 セイラは、こぼれるような笑顔に、腕いっぱいの白い花束を抱えて駆けてきた。

「綺羅姫!はい、これ!一昨日の夜つきあってくれたお礼に、私からの贈り物だよ」

 渡された花束からは、なんともいえないすがすがしい香りがただよった。

「セイラ!どうしたの、これ?」

 綺羅姫はうれしそうに顔をほころばせながらも、予想もしていなかった贈り物に、目を白黒させている。

「長者殿から、さっきのお礼がわりにいただいたんだよ。よく見てごらん。白いけど、その花は水仙だよ。綺羅姫、水仙が好きだって言ってただろ?珍しい変り種なんだってさ。他にはどこにも咲いていない、貴重な花なんだそうだ。時期もそろそろ終わりにちかいから、咲いているのはそれで全部だって言ってた。後で球根も権大納言邸まで届けてくれるそうだよ。綺羅姫にぴったりだと思ってさ。清楚で、凛としていて、それでいて変り種っていうところなんかね」

 花ならばともかく、姫君にはどうかと思われるようなほめ言葉だったが、そんなセイラの軽口も、綺羅姫の耳には届いていなかった。

「……どう、かな?これなら、綺羅姫に喜んでもらえると思ったんだけど」

 うつむいたまま、なにも言わない綺羅姫に、セイラはもう一度ためらいがちに声をかけた。

 贈られた花に、不満があったわけではない。

 むしろ綺羅姫には、その花の価値が充分にわかっていた。

 たんに恩を受けたというだけでなく、セイラに心酔しきっていた山辺長者のようすからすると、望めばセイラは、荷車一輛分の砂金だろうと手に入れることができただろう。

 その砂金と引換えに、綺羅姫への贈り物として、セイラはこの一叢(ひとむら)の水仙を選んでくれた――そのことが、綺羅姫には涙が出るほどうれしく、胸がつまって言葉にならなかった。

 心の奥底に秘めている想いにセイラが気づいているはずもなかったが、この花束が、その想いに応えてくれたような気さえしていた。

「――ありがとう、セイラ」

 頬を紅潮させながら、それだけを言うのが、綺羅姫にはやっとだった。

「よかった!」  

 セイラはほっとしたように白い歯をみせた。

 その笑顔がまぶしくて、綺羅姫はふっと横を向いた。

「あ、あたし、心配したのよ。境内に戻ったりして、セイラがみんなに囲まれてるんじゃないかって……」

「ああ、それなら大丈夫。長者殿がこっそり裏道から案内してくれたんだ。おかげで、誰にも会わずにすんだよ」

「ふーん、そうだったの……けどね、セイラ。女の子に簡単に贈り物をするのはどうかと思うわ。贈り物をあげるっていうのは、その人に気があるってことなのよ」

「えっ!いや、私はただ、感謝の気持ちを伝えたかっただけなんだけどな」

 セイラは、当惑して眉をくもらせた。

「でも、いただいてしまった花を、また返すわけにもいかないし……」

「お花は返さないわよ!あたしがもらったんだから」

 綺羅姫はしっかりと花束を抱えて、取り返されないように後ろに隠した。

 二人の目が合い、どちらからともなく吹きだすと、互いに声をあげて笑いくずれた。

 笑い声は、松林の中にカラカラと木霊(こだま)した。

 綺羅姫はこれ以上ない幸せを感じていた。

 花のようなセイラの笑顔が、すぐそこにあった。

 それは今、綺羅姫だけのものだった。

 胸の奥に甘酸っぱい気持ちが広がって、キューンと締めつけられるような切なさを感じた綺羅姫は、いつのまにか、自分でも気がつかないうちに、セイラの肩を引き寄せてその頬に唇を寄せていた。

 柔らかい綺羅姫の唇が、セイラの頬にそっと触れた。途端――

「――綺羅姫!?」

 セイラの瞳が、突然大きく見開かれた。

 顔中から炎が噴きだしそうなほど真っ赤になった綺羅姫は、パッと後ろを向いた。

「お、お花のお礼よ!それだけよ」

 セイラの真剣な眼差しが、綺羅姫の背中に注がれている。

 もの問いたげなその視線は、背中を向けていても、綺羅姫には痛いほど感じられた。

 やがて、感情を押しころした静かな声が、背中越しに聞こえた。

「……もう帰ろう、綺羅姫。私が間違っていたよ。綺羅姫を、ここへ連れてくるべきじゃなかった」

「――なぜ!?あたしは楽しかったわ!」

 いどむように叫んで振り返った綺羅姫は、そこで、はっとして息をのんだ。


 見たこともない暗い目をしたセイラが、じっと綺羅姫を見つめていた。

「綺羅姫、私はどこの誰ともわからない者だ。ひどい悪人かもしれないし、もしかすると罪人だったかもしれない」

「そんな!セイラにかぎって――」

 セイラはきっぱりと首を振った。

「それに私は、いつか自分の国に帰らなければならない。綺羅姫を……、幸せにすることはできないんだ」

「わ、わかってるわよ!そんなこと……」

 濃い陰翳(いんえい)をおびた紫色の瞳にじっと見つめられていると、心の中まで見透かされてしまいそうな気がして、綺羅姫はいたたまれずに顔をそむけた。

「それに、綺羅姫は篁(たかむら)の婚約者だ。篁がどれだけ綺羅姫を大切に思っているか、私は知っている。だから私は……、二人を傷つけるようなことをするつもりはない。これからも……ずっとだ!」

 そう言い切ったセイラの声には、おかしがたい厳しさがあった。

 綺羅姫はきつく目を閉じて、抗(あらが)うように首を振った。

「違うわ!ただのお礼だって言ったでしょ。あたしは、セイラなんか好きでもなんでもないもの。セイラに恋なんか……するはずないじゃない。セイラなんか……」

 綺羅姫の声は、隠しようのないほど震えていた。

「そんなことをいうセイラなんて、大嫌いよ!!」

 叫ぶと同時に、綺羅姫は後も見ずに山道を駆けだした。

 茫然とその後ろ姿を見送りながら、セイラは一人、胸の中の苦い思いをかみしめていた。

 ――私が綺羅姫に言ったことは、間違っていない。

 心の中で、そうつぶやいてみる。

 だが、そのことを厳しく自分に律していくとなると、セイラは記憶が戻らないかぎり、誰の好意も愛情も受け入れることができないということになる。

 自分がどこの誰なのかわからない不安と孤独に押しつぶされそうになりながら、セイラは、これからいつまで、差しだされる手をこばみ続けていかなくてはならないのだろう。

 それは、自分にも相手にも、否応(いやおう)なしに大きな心の傷を負わせてしまうことに違いなかった。

 唇をぎゅっとかみしめながら、セイラは樹の幹(みき)をこぶしでドンとたたいた。

 どうにもならない自分の境遇につのる苛立(いらだ)ちをおさえきれないように、何度も、何度も……。




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