失われた時を求めて

失われた時を求めて

よく登場する記憶喪失に関して



長野まゆみの作品の中では時折物忘れのひどい少年が登場します。「テレビジョンシティ」のアナナスをはじめとして、「雨更紗」の玲、「野ばら」の月彦、「新世界」のイオ、「千年王子」のルカ、「僕はこうして大人になる」の一、「賢治先生」の賢治、「夏期休暇」の千波矢、「青い鳥少年文庫」の主人公など枚挙にいとまがないほどです。


彼らは皆、記憶が断続的に、あるいは断片的に記憶が欠落しています。なかには記憶が失われていることに気がついていない少年達さえいます。

記憶がない、ということは自分がどんな人間で、何をしようとして、何をしていたかわからない、ということです(アイデンティティがない)


つまり自己同一性が揺らぎやすい、自分が自分であることの自明が薄いのです。当然、記憶が欠けていれば自分について疑問を抱きます。しかし記憶喪失を自覚しているのならともかくわかっていない少年達が殆どです。自分には思い出すべき記憶なんてないのだ、と。


さて、長野さんの原点であるデビュー作の「少年アリス」、この小説もまた記憶喪失の暗喩を帯びています。自分には思い出すべき記憶なんてない、と思い込んでいるキャラクターがアリスです。アリスの思い出すべき記憶とは、ずばり鳥であった(また鳥である)記憶です。


アリスは本編の中で鳥の生まれそこないの子供達と夜空を舞う。人の子であるはずのアリスもなぜか飛べてしまいます。彼がかつて「鳥」であった(または今も「鳥」である)のなら飛べるのは何の不思議もないのですが、彼が人の子なら飛べないはずです。もっともアリスが「鳥」であることを認めようとしなかった為、飛べるとは思わなかったのでしょうか。例えるなら頭では忘れていても、体が覚えていたというべきか。



自分が何者か・私が誰か、を模索して生きる姿を描くのに記憶喪失のモチーフが使われると、作品・主人公ともに輪郭が不明瞭で淡く幻想的になってきます。それは長野作品が透明感のある文体といわれる理由の一つではないでしょうか。(文体を"世界"に置き換えても良し)

ただ最近少しずつ文体が変わってきた印象を受けるのは現実的な物語が多くなったことと、この手法はあまり使われなくなったことが関係していると思われます。





貴方は自分が誰だったか、覚えていますか?







長野まゆみ関連TOPへ
INDEXへ