蛍星の飛んだ日

夜合ねむ樹の葉が閉じる音がする夜だった。
淡い蜜色の月は煌々と輝き星は小さく明滅している。

アリスは洋燈ランプをつけた薄明かりのなか、寝台でまどろんでいた。
織り模様のついた敷布の上に石膏の卵は 今はもうない。

耳丸が遠くで吼える声が聞こえる。
蜜蜂もいるのだろうと思ったが彼の声は一向に 聞こえてこない。
アリスは露台に寄りかかり、耳を澄ます。
露台は古い石造りで凌霄花のうぜんかつらがからみついている。
花は咲き零れ、うっすらと雪のように降り積もっていた。
アリスは露台から呼びかけてみたが 返事がない。
ただ耳丸の吼える声がこだますばかりである。
下に降りていくとアリスに気づいた耳丸がシッポを振ってまとわりついてきた。
「耳丸、蜜蜂はどうした」
耳丸は話しかけるやいなやすぐに駆け出した。勿論アリスもその後に続く。
ついて行かなければと想った。途中、いいぎりくぬぎの森を抜けてゆく。
冷たい月灯りで銀色に照らされた路は鏡のようにすべらかで素っ気ない。
路に反射した月光がアリスの白い頬を蒼く染める。
どうやら耳丸が向かっているのは 学校らしい。多分、蜜蜂もそこにいるに違いない。

彼は耳丸の後を歩きながら夜の天幕を仰ぐ。
あの日、苦労して作った ボール紙の星や月は今でも吊るされているのだろうか。
それともすでに新しい物に替えられているのだろうか。
鳥の生まれ損ないの彼らはどうしているだろう。
生まれつき飛べない彼らは夜、
人の姿を借りて飛ぶ時何を想うのだろう。





アリスは学校に辿り着くとあの時と同じ教室に行ってみたが、当然誰もいなかった。
授業が行われた形跡もない。
月明かりのさしこむ教室は時折、
木の軋む音が響くだけで物悲しい雰囲気をたたえている。


廊下に出たアリスはふいに物見知りの人物と出会う。
「蜜蜂、何故ここに、」
「アリスこそ、」
「僕は耳丸を追いかけてきたんだ」
僕は、と云いかけて蜜蜂は口をつぐんだ。
自分はまた、自己中心的な甘さで彼を頼ろうとしていないだろうか。
「僕は兄さんが遅いから迎えに来たんだ。でも…どこにもいないんだよ」
「じゃあちょうどいい。一緒に探そう」


蜜蜂は彼と出会い、少し後ろめたく思った。
アリスを頼るつもりじゃなかった。
今度こそ自分だけでやりとげようとしたのだ。
兄を一人で迎えに来たのもその為だった。
だが、結局また彼と行動を共にしている。


二人と一匹は校舎をまわって探すことにした。

廊下の漆喰の壁は先の方が闇に溶け込んでいる。
昼はあんなにも明るい建物が今はこんなにも深く深く、夜に沈んでいる。
廊下には窓枠の影が格子模様を透写している。
吊るされた電燈の光はゆらゆらと水影のように揺れた。


兄の教室は1階だが、そこは蜜蜂がすでに見たので他の教室をまわる。
モルタル木造の二階建て、中庭に面した一室が彼らの教室だ。
アリス達は外に出て、中庭に来た。

蛍星が浮遊している。
昆虫の蛍に似ているが虫ではない。
夜行性の光る浮遊物の一種だ。夏の風物詩でもある。
アリスと蜜蜂は
子供の頃、これをどうしても手にとり眺めたくて掴もうとしたことがあった。
しかし手を伸ばして掴んでも、何も掴めなかった。
雪と同じで手にとったら消えてしまうのだ。
形はなく、
何色でもない。
ただ光り、そこにあるだけ。
触れないけど確かに存在する。

蜜蜂はいつも、そうと判っていても手をのばす。
「やっぱりダメだ…」
両手が虚しく宙をかいた。

「…………」
アリスは触れないとわかってから手をのばすことをしなくなった。
出来ないとわかっていてするなんて、と。

しかし。今は―――
両手を高く掲げて宙をかいた。まるで何かを掴むように。
「アリス、何してるの」
「蛍星を掴まえるんだ」
「へぇ、珍しいね、アリスがそういうことするの」
「そうかな」
「そうだよ」

自分に欠けているのはこういうことだと今は判る。
少しずつでいい、変われれば………



しばらくの間、二人は蛍星を追いかけていた。
「やっぱり捕まえられないね」
「…そうだね」
二人とも蛍星を捕まえるのを止め、中庭を探し始めた。


中庭はそこはかとなく秋の気配が漂う。
噴水池の水盤はゆるやかに 二重、三重と輪を描いた。


静謐な沈丁花の香りがどこからか漂ってくる…


「兄さんどこにいるんだろう」
「きっとどこかにいるよ、探そう」




中庭には誰もいなかったので、二人は校舎に戻った。
耳丸は理科室に入るとしっぽを振りだした。
隅の方へ走っていく。

床には小夜鳴鳥ナイチンゲールがうづくまっていた。
なぜ教室に小夜鳴鳥がいるのか。二人とも顔を見合わせる。
小夜鳴鳥は褐色の羽を閉じて静かにうずくまっていた。
その上、抱き起こしても暴れようとはしなかった。

その時、蜜蜂は小夜鳴鳥のまなざしに温かい懐かしさを覚えた。
小夜鳴鳥の目は蜜蜂の兄と同じ紫紺のめだった。
柔らかい紫水晶の色合いはまぎれもなく蜜蜂の兄のものだ。

鳥は二人を見上げると小さく声を震わせた。
「兄さん、」

そう呼ばれるとは後ずさり、飛び立ってしまった。
一陣の風に乗り、宙をかけていく。
「今の鳥の目、蜜蜂の兄さんに似てた」
「アリスもそう思うかい。やっぱりあれは兄さんだったんだ。ねぇ、
なぜ兄さんは行ってしまったんだろう」

「それは鳥になってしまったところを君に見られたくなかったからさ」

蜜蜂の兄もまた、アリスと似て弱さを人にさらけ出せない性格だ。

いつ何時もいらぬ自負心を抱え疎外感・孤独感を感じている。
例えそれが兄弟であってもかわらない。
うっかり夜の学校で違う世界に迷い込み、鳥に変えられたところなぞ
蜜蜂には見せたくなかったのだろう。
蜜蜂の兄もまた、夜の学校からあちらの世界に行ったのだろう。
鳥の子供達にみつかり、アリスのように授業は受けなかったかもしれないが
教師に人から鳥へと姿を変えられてしまったのだ。
中庭で小夜鳴鳥の鳴く声が聞こえた。同時に羽音が空をよぎる。
「アリス、もしかして」
「行ってみよう」

二人は耳丸と一緒に駆け出した。






中庭の水飛沫みずしぶきの中を白いものがコトリ、と音をたてて転がり落ちた。
それは何かの卵で瑞々しく潤んだ鍾乳石のようだった。

照らす角度によっては銀色にも見える。

卵は曇りのないその輝きで、満天の星月夜を映し出す。


今年もまた、
秋の使者が殻に包まれてサルトリイバラの蔦を登りやってきたのだった。










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