それは突然と始まった。それまでの静けさがまるで嘘のように・・・・・

「おい! 大変だ! いきなり五件の人達が立ち退いているんだ!」

「なんだって?・・・いつのまに・・・」

いつものように夜のパトロールに集った男たちに、突然の知らせが届きだした。

「それと、今、聞いてきたんだけど、今朝方、こことこことここと・・・いっぺんにおかしなことが起こっているらしい」

そう言って、その男は机の上に広げられている地図を指差していく。

「おかしなことってなんだい?」

「玄関脇の塀が壊されていたり、花壇の花が抜かれていたり・・。大したことじゃないけど、いろいろとやられてたらしい」

「おいおい、それっていやがらせか?」

「・・・・そうとも言うかもな・・・」

「なんてやつらだよ!!」


その知らせにその場にいた皆が憤慨した。
そこで、その話をジッと聞いていた高橋が口を開く。

「とうとう・・動き出したということか・・・。」

「高橋さん、どうすればいいですかね?」

「どうしたもこうしたもないさ。私たちはそれくらいで逃げ出すような玉じゃないってことを示さなくちゃいかん。
しかし、住民に危険が及ぶ可能性もある。見回りは厳重にやっていかなくちゃいかんね・・」

高橋は皆を落ち着かせるように静かに言い放った。



しかし、夜の見回りを強化したにも関わらず、いやがらせらしい立ち退き区域への異変は納まらない。
というよりも、何故かその日の見回りルートとは別な場所をやられている。
しかも、同時に数件起こるため、知らせを受けてもすぐに駆けつけられないため、今だ犯人を目撃した人さえ見つからない。
そして、その間少しずつ、立ち退きを承諾して出て行く人もいる。
何故か出て行った人達は、いつのまにかいなくなっている・・・・という不可思議な行動をとる人が多かった。

段々と、残っている住人たちに不安と動揺が広がって行った。

「なあ、高橋さん。これ・・・どう考えてもおかしくないか?」

「・・・・・・」

「昨日出て行った山倉さんだって、ついこの間まで絶対出て行かないって俺と話してたばっかなんだぜ。そらあ、みんなに言いにくいっていうのはわかるけれど、こうも突然出て行くなんておかしいよ?」

「この中に誰かスパイでもいるんじゃねーの?」

その言葉にみなが目と目を見合す。

「みんな、疑心暗鬼になってはだめだ。それこそ相手の思う壺だ。仲間を信じるんだ・・」

高橋の言葉にみんなが息を呑む。

「そうだよ、高橋さんの言うとおりだよ! 仲間割れなんてしてる場合じゃねーぞ」

そう力説したのは、花びら荘五号室に住む小池である。
小池は花びら荘の中では最も古くから住んでいる。先年まで年老いた両親と一緒だったが、面倒を見てくれていた妻が病気になり入院したため、両親を施設に預け今は一人で住んでいた。大家である花房と並んで長くこの土地に住んでいることから、近隣でも顔が広いため、在宅年数の薄い高橋は彼に頼る部分も多かった。

「しかしよう・・・これじゃどうしようもないよ・・。じわじわと首をしめられているみたいで、みんな不安になってくるよ・・」

「そうだな・・・。見回りだけじゃなくて、情報収集も兼ねて訪問していくしかないな。みなさん、お忙しいだろうけれど、協力してください」

高橋が再び住人たちに声をかけると、皆、頷いていた。




そして、それから数日後の夜・・・・。
ここは花びら荘一号室。
このアパートの大家である花房千代が可愛がっている猫のクロの帰りが遅く、千代は心配になっていた。
一般的にアパートは動物飼育は禁止なところが多いが、ここは花房自身が大の猫好きなため、花びら荘は猫と鳥と金魚程度なら飼育許可にしていたのだった。
最近はここら辺一帯も物騒だから、夜は外に出るなと言われているが、千代にとって唯一の家族であるクロがなかなか帰ってこないのは不安でたまらなかった。
そこで、千代は曲がった背中を伸ばしつつアパートの外へと出る。
アパートの敷地には、建物と駐車場スペースと、広い花壇があった。その花壇は以前は千代が野菜を作る畑として使っていた土地だった。
今は、身体がそれほど言う事をきかなくなってきたため、住人たちでいろんな花を植えて、花壇としてみんなを和ませていた。
クロはよくその中で日向ぼっこをしている。
今は夜だが、まだそこにいるのではないかと千代は花壇へと向かっていった。

「クロ・・・・クロや・・・」

・・・・・ニャーン

微かにクロの返事の鳴き声が聞こえた。
千代はホッとして声の聞こえた方向へと歩いていく。そうして暗い花壇の側へと行くと、暗闇の中に誰かがいるのを見つけた。
花壇に向かって座り込み何かをしているようだ

「あんた、そこでなにしているんだい?」

千代が声をかけると、その人物はすくっと立ち上がり千代に向かってズンズンと進んでくる。
千代は驚いて後ずさりをし、逃げようとする。
しかし、腰の曲がった老婆に逃げるだけの俊敏さはない。
その人物は背中を向けようとした千代の襟元を掴むとそのまま引き倒した。
千代はバランスを崩し、後ろ向きに倒れた。
そして、頭を花壇を囲っていたレンガに打ち付けて気を失ってしまった。
その人物はそれに気づく様子もなく、そのまま去っていく。
千代の頭からは血が流れ始めていた。
そして、その側で黒猫のクロがニャアと鳴いて自分の主人の様子を眺めていた・・・・。






「・・・・ふう」

半分まで進んだ翻訳の中間点での校正処理もなんとか終わり、『LAST WIND』の翻訳も後半戦に入った。
立ち退きの件について心配しながらの追い込みの仕事ではあるけれど、心配していろいろと手助けしてくれた七条にこれ以上迷惑をかけないためにも、未来は手を抜いてはいけないと懸命であった。
今夜もすでに時間は午前一時を悠に回っている。

未来はため息をついて、席を立つ。
眠る前にハーブティーでも飲もうか・・・。そう思ってキッチンへ向かおうとした時に、携帯がけたたましく鳴った。

「・・・・こんな真夜中に、誰?」

いやな予感がした。

「もしもし?」

「あ・・・おねーさん? ごめんね、こんなに遅く。でも、大変なことが起きて・・・加奈子怖くて・・・」

怯えた加奈子の声が聞こえてきた。

「なに? なにがあったの?」

未来は慌てて聞き返す。

「うん・・・あのね。今、病院にいるの。加奈子がバイトから帰ってきたら、大家のおばーちゃんが倒れてて。加奈子びっくりして、近所の人起こして救急車呼んで病院に来たんだ。でも、パパは見回りに行ってて連絡つかないし・・。警察の人も来てて加奈子に詳しい話聞きたいからって・・。それで、加奈子一人じゃ心細くて・・・・」

話しているうちに加奈子の声は半べそ状態になっていく・・。

「わかった、今からすぐに行くから・・・。病院はどこ? ・・・・うん、うん。わかった、すぐに行くから待ってて・・!」

未来はすぐにタクシーを呼ぶと、取る物も取り合えず加奈子の待つ病院へと向かった。




「・・・おねーさん!」

未来の姿を見つけると加奈子はすぐにすがりついてきた。
側には警察の人間らしい男が二人いる。

「おばーちゃんの具合はどうなの?」

「・・うん。命には別状ないだろうって・・・。ただ、頭を少し打っているから暫く入院して様子を見たほうがいいって・・・」

「・・・そう」

そこで、高橋と数人の住人たちが到着した。

「加奈子」

「・・・パパ」

加奈子の腕は未来から高橋の元へと移動していった。

「加奈子、私たちにも詳しい状況を話してくれ・・」

「・・・うん」

加奈子の話によると、いつもの通りバイトから夜中の一時半頃に帰って来ると、一号室の玄関から明かりが漏れているのが見えた。
それで不審に思って一号室に近づいていくと、花房の飼っている猫のクロの鳴き声が聞こえてきた。
それで、その声のする花壇のほうへと足を向けると千代が頭から血を流して倒れていたのだ。
加奈子は慌てて、すぐにアパート中の住人を起こし救急車を呼んでここまで来た。

「その時に誰か怪しい人影を見たりしなかったのか?」

「ううん・・・。他の人に聞いてもみんな寝ててわかんなかったって・・・」

「おまわりさん! これは立派な傷害事件ですよね? 鈴原の連中をとっつかまえてくださいよ!」

そう、警察官に言い放った住人だったが警察官はそれに対して渋い表情をした。
そこで高橋は冷静に言い聞かせる。

「まあ、待ってくれ。まだ千代さんが誰かに襲われたと決まったわけじゃない。一人で転んでしまったということも考えられる・・・」

「んなことあるわけないさ。ばーちゃんは腰は曲がってるけど、まだまだ足腰は丈夫さ。今までだって転んだなんて聞いたことがねぇ。絶対にあの連中の仕業に決まってるんだ!」

「・・・なにぶんにも、証拠も目撃者もいないことには我々も動けませんよ。まあ、とにかく本人が目覚めたらまた詳しい話を聞きに来ますよ。その後に被害届けを出してもらえれば捜査しますから・・・」

そう言って警官たちは帰って行った。

「けっ。役にたたねえよな・・・・。その前に死人でも出たらどうするっていうんだい」

「・・・・・・・・・」

その言葉に皆の顔色が変わる・・・。

「・・・とにかく、今はお千代さんが目覚めるのを待つしかないな・・・」

そこで、未来と高橋が残って千代の側にいることにした。
加奈子も残るとだだをこねたが、明日は朝から大学で講義がある。卒論も最後の追い込みにかかっている大事な時期だからと、未来に説得されてしぶしぶ他の住人たちと一緒に帰って行った。


頭に包帯を巻かれ、痛々しい千代を見て未来は思わず涙ぐむ。
高橋も沈痛な表情である。

「・・・さっき加奈ちゃんに聞きました。いろいろといやがらせ受けているようですね・・」

「ああ・・・本格的に始めたな。まあ、こうなるだろうと予想していたが・・」

「私のときもすごかったですし・・・。こちらのほうが規模も大きそうで心配です・・・」

「ああ・・・そういえば、君も向こうではその事件に巻き込まれたんだったな・・」

「・・・はい。たくさんの人に助けてもらいました・・・」

「こういった問題は今に始まったことでも、どこででも起こりうることだが・・・。君も因果なものだな・・・」

「・・・そのようですね。高橋さん、これから先どうなるんでしょう?」

「うむ。千代さんから詳しい話が聞けたら、一旦私は鈴原不動産に行ってみようと思っているよ」

「えっ?」

未来は驚いた顔で高橋を見る。

「あははは。別に殴り込みに行くわけじゃない。ただ、この事件を聞いて奴らがどんな反応をするのか知りたいだけさ。こちらとしても、奴らがやったという証拠があるわけじゃないから、少しでも敵方の情報がほしいのさ・・」

「・・・・・・・」

「・・・・・それに、本当に里見がこの件に関わっているのか知りたい」

「・・・え?」

そこで高橋の表情は苦痛に包まれる。

「・・・未来くん。私はあいつには裏切られてきたが、それでもまだ信じられないんだよ。あの里見が己の出世欲のためだけに、人を傷つけることまでやる男にはな・・・」

「・・・そうですね。私も信じたくはないです・・・」

「・・・あのユカリという女が曲者だろう。私もあの女を学内で見たときにはいやな感じを受けた。まるで毒を撒き散らして歩く毒蛾のようだと・・・」

「・・・私もユカリさんの側にいてはいけないと何度か教授に言ったんですけれど、聞き入れてはもらえませんでした・・・・。小宮山学長の件でも・・・・」

「・・・なんだと?」

そこで未来は初めて小宮山学長が何故不正に身を染めて堕落して行ったか、クラブのママの不審な死についてユカリと小宮山がかかわっているらしいこと・・・、それらを聞かせた。
そして、そのことを里見に進言したときに里見は自分を信じてくれなかったことを・・・。

「そうか・・・そんなことがあったのか・・・」

「・・・はい」

「・・・・里見も馬鹿な男だな。そんなとんでもない女に捕らわれて、今でも自分を本当に心から愛してくれる人に気づかないとは・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「しかし、これで方向性が決まってきた」

「・・・え?」

「・・・里見の目を覚ましてやることさ。これは自分の経験からも言えるんだが、こういった権力に酔っている人間は一度奈落の底まで落ちないと目が覚めない。私はたとえ里見がこの件にかかわっていようとなかろうと手を緩めることはしないと決めた。やつの目を覚ますためには徹底的にやることだ・・・」

「・・・・・・・・・・・」

そうこうするうちに外が明るくなってきた。
夜が明けたのである。

「ああ・・・・また陽が上ってきた。一日が始まるな・・・」

「・・・そうですね」

「・・・ぅん・・・」

そこで、千代がうなり声をあげながら目を覚ました。

「・・千代さん!」

未来は千代の側により手を握る。

「・・・・うぅ・・・。・・・ん? あんたは・・・・。あ・・・高橋さんかい?」

「ああ・・・大変だったな、千代さん」

「・・・ああ。死んだかと思ったねぇ。まあ、じーさんの側にいけるならそれでもいいかとも思ってたけどねぇ・・」

「なに言ってるんだよ、千代さん」

高橋はそこで小さく笑った。

「ところで、目が覚めたところ早速で悪いんだけど、昨夜のこと教えてもらえないかな・・・」

そこで千代はゆっくりながら昨夜の出来事を二人に話して聞かせた。


「じゃ、千代さんはその男の顔を見たんだね?」

「いやぁ・・・暗かったし、怖くてあまり見てないんだよ・・・・」

「・・そうか。それと、そいつは花壇に座り込んで何かやってたんだね?」

「ああ・・・それで声かけたんだから・・・」

「花壇や庭にいたずらをするという程度のことならあちこちで多発している。同じいやがらせだと考えてもいいだろう。となるとやはり、立ち退きに関係している奴らの仕業ということになる・・・。ただのいやがらせ程度ならまだしも怪我人まで出ては、黙っているわけにはいかないな・・・」

そこで未来が思いついたように言い放った。

「待ってください、高橋さん」

「ここまで来てしまったら、高橋さんだけであちらに行くのは危険だと思います。私に少し考えがあります。二、三日あちらに出向くのを待ってはいただけませんか?」

「・・・・? なにをしようと言うんだね、未来くん」

「・・・ええ」




未来は自宅マンションに帰るとある人物に電話をかけた。

「・・・・もしもし? 未来です。お久し振りですね。早速ですけど、御願いがあるんです・・・・」










「いやぁ・・・困ったことをやらかしてくれましたよ・・・」

「いやいや、まだまだこれからですし・・・」

鈴原不動産専務である松沢と、釘宮建設社長の釘宮が里見事務所で向かい合っていた。

「にしても、ここはユカリさんのおっしゃるとおり、釘宮さんのところに御願いしていて良かったですな。うちでやっていたら、すぐにこっちに手が回ってきて調べられてしまうところですよ。しかし、今、うちに目をつけられても実際なにもしてないわけですから、開き直れるわけですな・・」

「まあ、釘宮のほうも名前は知れているわけですから、すぐにこちらにも来るとは思いますが若干の時間稼ぎにはなるでしょうな・・・」

「・・ごもっともですな」

「お二人とも、なにを気弱なことをおっしゃっておられるのかしら。別にこちらから殴ったっていうわけでもないし、勝手に転んでケガをしたのでしょ? あたしたちに責任はありませんわ」

ソファに座っている二人から少し離れた里見の机の側に立ち、ユカリとしては珍しくタバコをくゆらせていた。

「・・とは言えユカリさん。いやがらせ行為をしていたのは事実ですからねぇ・・」

「そんなもの・・。立ち退き交渉が始まった時から起こり得る戦法なのは、あちらだってわかっていたはずよ。それに、目撃者もいなければ、たいした被害もでているわけでもないんですもの。問題にもなりませんわ」

「まあ・・・そう言えば、そうですな。さすがはユカリさんだ・・・」

「・・・そういえば、”草”のほうは、なかなかよくやってくれているそうね・・?」

そのユカリの問いに松沢はいやらしそうに笑いながら答えた。

「・・ええ。思っていた以上にやってくれてますわ。これで住人の四分の一は立ち退きに同意したところですよ」

「ねえ、松沢さん、釘宮さん。あたしはそろそろ次の段階に進むべき次期だと思いますわ」

「次の段階と言いますと?」

二人の表情が緊張に包まれる。

「丁度、ケガ人も出てしまったことですし、今更、無かったことになんてできないわ。なら、もっとケガ人を増やしてでもかまわないという姿勢で出て行ってしまっても同じことなんじゃないかしら・・・」

「・・・それでは・・・」

「ええ・・。その道のプロに入っていただきましょう。ここから先はあたしたちが直接する必要はないわ。その道の方に泥を被っていただきましょう? それなりの報酬を与えて・・・」

「ふむ。そろそろそういう時期ですか・・・」

釘宮も松沢も頷く。

「これは松沢さんのほうでお心当たりの方はいらっしゃるのでしょう?」

「・・ええ、まあ。こういう事態は間々ありますからな・・・」

「それじゃ、御願いしますわ」

「ええ・・・。まったくユカリさんは大した秘書さんですな。あなたのような方が側にいてくださって、里見先生もさぞ心強い限りでしょう・・・・・で、今日は里見先生はどちらに?」

「ああ・・・・修二でしたら、二、三日出張していますわ。大学の理事長の仕事で桜塚に・・・・・」

「そういえば、大学の理事長も兼任されているそうですね。お忙しそうで結構なことですな」

「あたしはそろそろ、理事長なんて名誉職なんか必要ないって思っているのだけど、修二がうんって言わないのよねぇ。何がそんなに気に入っているのか知らないけれど・・・・」

「元が教授ということで、現場に未練でもあるんじゃないですか?」

「次の閣僚を狙おうという大事な時期にそんな理由で無駄な時間を使われても困るのよねぇ」

「ほほう。ついに閣僚入りですか・・・。それは私どもとしましても心強い」

「ええ・・・。その時にはお二人にもまた、お力をお貸しいただきたいですわ」

「それは、もちろん・・・。ねえ?」

「・・ええ。お役に立たせていただきますよ」

三人の怪しい笑い声が里見事務所に響き渡った。



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