ここは里見事務所。
いつものように筆頭秘書であるユカリが里見の元を訪ねてくる。

「・・・・修二、いよいよだそうよ」

普段外を飛び回っていることが多い代議士里見修二であるが、今日は自分の机で山積にされている書類の中に埋まっていた。元々が本の中に埋もれていた生活が長かったせいか、こういった仕事のほうが心が休まる気がしていた里見だった。

「・・・なにがだ」

その書類の山に囲まれながら、眉毛一つ動かさずに里見は答える。

「・・例の再開発ブロジェクトが本格的に始動するそうよ。あなたがこの間都庁へ出向いた結果がすぐに現れたみたいね」

「・・・・そうか」


その報告にも里見は表情一つ崩さなかった。

「この仕事が成功した暁には、そろそろ橋田さんに御願いして閣僚入りの準備を始めないとね・・」

「・・・・それはまた早急だな」

そこで初めて里見の眉が動かされた。

「そんなことはないわよ。40代の閣僚なんて今は珍しくはないわ。年齢など関係なく能力のあるものが上に行く。当たり前なことよ」

「私にそれだけの能力があるのかは不問にするが・・。第一、橋田氏が承諾するのか?」

「なにを弱気なことを言っているの。なんのためにこれまで橋田さんとの間にコネクションを作ってきたと思っているの? 大丈夫よ、修二にはこのあたしがついているんだもの・・」

そう言って、ユカリはいつものように里見の肩に背中から腕を回す。

「そのためにも、今度のプロジェクトは成功してもらわないと・・。あたしたちはこれからも彼らに協力していかなくちゃいけないわ。ああ・・・勿論、逃げ出す準備も怠らないけれどね・・・」

「逃げ出す準備?」

首に回っているユカリの腕をゆっくりと解いて里見は聞く。

「勿論、プロジェクトが失敗に終わった時の準備よ。沈みかけた船と一緒に沈没するつもりはないわ。逃げ道は絶えず用意しておく。戦闘に赴く時の常識よ・・・」

「・・・・ユカリ」

里見の表情が苦渋に染まる。

「あら・・・いやねぇ、修二。なんていう顔をしているの? 最近のあなたは少しおかしいわ・・・。なにか、あたしに言えない秘密でもあるの?」

「・・・・・そんなものはない」

「・・・んふふふ。まあ、いいわ。とにかくそういうことよ。あなたは今までどおり、更なるコネクション作りをして頂戴・・・」

「・・・・わかった」

再び無表情に戻った里見だったが、かすかに何かに怯える表情が見えた。






高橋は妻の病院からの帰り道を歩いていた。
妻の病状はこれまで一進一退を繰り返していたが、ここ最近の加奈子の元気な姿を見せることが出来たせいか、妻の病状も良い傾向に進み、このまま行けば一時的に退院も可能という話を聞いてきた。
今は狭い我が家ではあるが、親子で笑い会える日々が再び戻ってくるかもしれない。
高橋は安堵の気持ちと、未来への感謝の気持ちと、かつての自分自身へと戻る意欲とに溢れていた。

そんなことを考えてアパートへと帰ってきたとき、珍しくアパートの敷地に数人のアパートの住民がたむろしていた。

「こんにちは、みなさんでどうしたんです?」

「ああ・・・高橋さん。聞いてくださいよ、大変なんです」

この花びら荘は一階に五件、二階に五件、合計10件の世帯が住んでいる。
そのうちの一階の一号室には、この花びら荘の大家である花房千代が一人で住んでいる。
その花房を囲んで、数人が怒りと不安の表情を滲ませいていた。

すでに老女である千代が腰の曲がった姿勢で今にも泣き出しそうに高橋に事の次第を話す。

「・・・いきなり、ここら一体をお国から預かることになるからって言って、みんなに立ち退いてもらいたいって、数人の男達が来たんだよ」

「・・・立ち退き? どうして?」

高橋も驚いて聞き返す。
それには、すでに話を聞いていた他の住人たちがいろいろと詳しく話し出した。

「なんでも、ここら一体にショッピング街やらマンションを作るんだそうですよ。それで、住んでいる人間たちを追い出しにかかるみたいなんだよ。今ならそれ相当の金をだしてやるって言ってるらしいけど・・・」

「そんな馬鹿な話があってたまるものかね・・」

「そうだよなぁ」

みんなが興奮して話し出すのを高橋は冷静に受け止めると、そのまま千代に向かって話し出す。

「お千代さん。この土地もアパートもお千代さんの物だよね?」

「そうだ。あたしと死んだじーさんが終戦後の焼け野原からここで一生懸命働いてきたんだ。このアパートは子供のいないあたしが食っていくのに困らないようにってじーさんがあたしに残してくれた唯一の物なんだよ。それを出て行けって言われたって・・」

そう言って千代はさめざめと泣き出した。
高橋は優しく千代の肩を撫でてやる。

「大丈夫だよ、お千代さん。住民にはね、誰にでも居住権っていうのがあるんだ。幸せに住む権利っていうのかな・・。だから、お千代さんや私たちが出て行く理由なんてないんだよ。ここはお千代さんの花びら荘だ。私たちはそこに住んでいる。これからも住んでいていいんだよ・・」

「そ・・・そうなのかい?」

少し安心したような表情で、千代は高橋を見る。

「ああ・・だから、また今度来たら、ここは自分の物だって言ってやったらいい。じーさんとあたしのものだ・・ってな」

「そうだ、そうだよ」

「お千代ばーちゃん、大丈夫だよ。あたしたちがいるんだし・・」

口々に住民たちも千代を励ました。

「また、そいつらが来たら私に言いなさい。私が話しをしてやるよ」

相変らず無精ひげを生やした高橋ではあったが、その瞳だけは以前の理事長の頃の狡猾な光が戻り始めていた。



みなが安心したように自分の部屋に戻って行った後に、高橋はそのまま花びら荘の建物を眺めながら思い出す。

高橋が桜塚から逃げるようにここに着いた時、仕送りも途絶えていた加奈子も、自分も、金銭的にまったく余裕がなかった。
そんな状態で、家賃も滞っていた時に大家の千代は、転がり込んできた高橋については何も聞かず、家賃も払えるときに払ってくれれば言いと言ってくれた。周りの住人たちも、その様子に気づき、いろいろと差し入れをしてくれたり、気を使ってくれた。
追い立てられるように桜塚を出てきた高橋にとって、この住人たちの暖かさに何度涙したかしれない。
今度は自分が千代の、住人たちの力になりたいと高橋は心から思っていた。











未来は、「LAST WIND」の翻訳の仕事がようやくと、半分まで進んだことの打ち合わせと祝いを兼ねて、七条たち出版社のスタッフと食事会に赴いていた。

「やっと半分まで来たけど、これから更に綿密に校正していくのにまだまだ時間がかかるから、もうあと一分張りも三分張りもしてもらわないといけないね?」

「はい! 頑張っていきますので、宜しく御願いします」

加奈子のことなどがあって、仕事にも多少なりとも影響はあったが無事に半分まで進み、未来は少しほっとしていた。
ここまで進めば、慣れてきたせいと物語にも入り込んでこれたせいもあって、前以上に進み具合が進行しそうだった。

「ねえ、未来くん。今夜はこのまま”バロン”に行ってみようか? 俺もたまには一人で行ったりしたけど、君と行くのはすごく久し振りだしね」

「あ、はい。私も最近はそんなに行ってないので、バロンのみなさんに会えるのは嬉しいですよ」

「よし、決まった」

加奈子が随分と立ち直ってから、未来は以前ほどはバロンに出向いていない。
あまり行くと逆に加奈子に叱られるからだ。
自分をそんなに信用していないのかと、頬を膨らませて怒る加奈子の可愛らしい仕草に、未来は微笑ましくも安心したのだった。


「こんばんわー」

未来が明るくドアを開けると、いつもの店員が嬉しそうに迎えてくれた。

七条とスタッフたちとテーブルにつくと、さっそく加奈子が嬉しそうに席についた。

「いらっしゃいませーーーって・・おねーさんってば、まさかまた加奈子のこと心配で来たんじゃないでしょーねぇ?」

「違うよ。今日はお仕事の後にみんなで飲みに来ました。なので、たくさんのサービスを宜しく御願いいたします」

「かしこまりましたーーー!!」

そう楽しそうに笑う、加奈子と未来を見て、七条やスタッフたちもまた楽しそうに笑った。

「話には聞いていたけど、加奈ちゃんは本当に明るくなったね。君のお蔭だとママも言ってたよ」

七条が小声で未来に話しかける。

「いいえ。立ち直れたのは、ママやこのお店の人たちの暖かい励ましのお陰です。私が出来たことなんてほんの些細なことでしたから・・・」

「いいや。そんな道に進めてあげたのは君の力だよ。仕事でも感じていたけど、君にはなにか不思議な力があるよね。人を救ってくれるというか、導いてくれるというか・・・」

「え? そ、そんなことはないですよ・・・」

未来は頬をほんのりと染めた。

「・・・・・いつか俺も救ってくれるといいけどな・・・」

ボソッと七条が呟いていた。

「・・・・え?」

「あ・・・あああ・・・いやいや、なんでもないよ」

慌てる七条を怪訝そうな顔をして見つめた未来だった。


そろそろ未来たちが引き上げようとしていた時、店内に客としては不似合いな雰囲気を持つ男たちが数人入ってきた。

「ママはいるかな・・・」

そう言って店内を見渡す男たち。
その中に、以前この店に里見と一緒に来ていた男の顔があるのを未来も店員たちも見つけていた。

「わたくしがこの店の責任者ですが・・・」

「少々込み入ったお話があるのですがね・・・・」

「はい・・・では、別室でお伺いいたします」

そう言って、ママは男たちと奧の部屋へと消えて行った。

未来と七条はその様子が気になり、スタッフたちを帰すと自分たちは残ることにした。

店の閉店の時間が近くなってきた頃に、ようやく男たちとママが奧の部屋から出てきた。
ママの顔色が悪い。

「それでは、よくお考えください」

そう言って、男たちは出て行った。

閉店間際で、すでに店内に客は未来と七条を残すだけになっていたので、店員たちは遠慮なくママに詰め寄っていた。

「なんの話だったんですか?」

「ママ・・・真っ青よ・・・」

「誰か水を持ってきてやれ・・・」

佐弥子はソファに座ると、ホステスが持ってきた水を、半分まで飲み干すとため息をついた。
心配そうに未来は佐弥子の側に寄り、手を握った。

「大丈夫ですか?」

「え・・ええ。大丈夫よ、ちょっと疲れただけ・・・」

「あの男たちに何言われたんだい?」

七条も未来の側で心配そうな視線を佐弥子に向けている。

「実は・・・ここの土地を売り払えって・・・」

「なんだって?!」

店員たちが大声を出す。

「どういうことですか?」

未来も詰め寄る。

「なんでも、ここにショッピング街を立てることになったから立ち退いてほしいって・・」

「なんだ、それは・・・!」

店員たちの怒鳴る声が響く。

「他の店は出来上がったショッピング街に移転する話を進めているけれど、こういったクラブはショッピング街には似使わないのでそれは出来ないから、立ち退き料は奮発するって・・・・・」

「それでママはなんて?!」

「・・・それは勿論、そんなことは出来ませんって答えたわ。この土地は没落したとはいえ、わたくしのご先祖さまが代々守ってきた最後の砦。ここを離れるなんて、わたくしには出来ないわ・・」

「そうしたら、このショッピング街は区画整理の一環であるという国からのお墨付きもあるのだから、今のうちに言う事を聞いておかないと、強制退去通告が出ることになるって・・。そうなると立ち退き料もほとんど出ないのだから、大変なことになるって言われたわ・・・」

「そんな・・・横暴な・・・」
みんなの声が一つになる・・・。

一人腕組みをしながら考えていた七条が佐弥子に問いかけた。

「この辺りが区画整理内だなんて、俺は聞いたことなかったんだけど、ママ知っていたの?」

「いいえ。ずっとこの土地に住んできたけれど、わたくしは聞いたことはないわ」

「そいつはおかしいな」

その七条の言葉にみんなの視線が彼へと集中する。

「区画整理区域の認定なんて、そう簡単にできるものじゃない。長く住んでいる人間が知らぬまに決定されるなんてありえないさ。こりゃ、誰かバックにいると考えたほうがいいんじゃないかな・・・」

その言葉に、未来、佐弥子、加奈子の顔色が変わる。
しかし、誰からもその人物の名前は出てこなかった・・・。

「とにかく、今はまだ何も詳しいことはわかっていないんだし、ここで騒いでいても仕方ない。それに、ママ」

七条が皆を落ち着かせるように穏やかな微笑みを浮かべながら話しかける。

「再開発というんだから、この店だけじゃない。ここら辺に住んでいる家や店にはみんなこの話が行くはずだ。こういったことは団結力が一番だよ。時間のあるときで良いから、近所の人たちと話をしてみることを勧めるよ」

「わかりました。ありがとうございます、七条さま」

佐弥子もまた、少し落ち着いた様子でみんなに微笑んだ。







帰りのタクシーの中で、未来は押し黙っていた。隣に座る七条と加奈子も同じであった。
真夜中を走るタクシーの沈黙の車内。
誰も眠っているわけでもなく、三人が三人共それぞれに考えを巡らせているのだろう。
そんな様子の三人を気にしているのか、していないのか、運転手もまた黙って車を走らせている。

花びら荘が近づいてきたと感じてきた頃に、加奈子がポツリと言葉を発した。

「・・・出て行けって言われたのは、やっぱ加奈子のせいなのかな?」

「加奈ちゃん?!」

その言葉に未来は驚愕する。

「やっぱ加奈子が里見に酒かけちゃったりしたから、その仕返しに?!!」

「そんなことあるわけないじゃない! そんなことくらいでこの辺のみんなが追い出されるなんてあるわけがないよ」

「・・・だって・・・・だって・・・・・」

加奈子はすでに半べそ状態だった。
未来は優しく加奈子の肩を撫でる。

「里見教授だってママさんに怒ってないって言ってたし、私も経験あるけど再開発ってそんなに簡単に出来るものじゃないんだよ? だから、ずっと以前からこの話は決まってたんだと思う。だから、加奈ちゃんのことは関係ないよ!」

「・・・・本当?」

「・・・うん」

その言葉でいくらか加奈子は落ち着いたようだった。

「・・・でも、やぱ、バックにいるかもしれないって・・・里見なのかな・・・?」

「それは・・・わからないけれど・・・」

加奈子もやはり同じことを考えていた。おそらく佐弥子もそうであろう。
未来も自分が考えたことを打ち消すことが出来なかった。

そうこうするうちに花びら荘の敷地内にタクシーは到着した。

「とにかく、あまり気にしないで勉強もちゃんとやるんだよ。お店のことはまた皆で考えようね?」

「・・・うん」

そこで加奈子と別れ、タクシーは再び走り出した。
先程まで黙って二人の会話を聞いていた七条がしゃべりだした。

「・・・・さっき加奈ちゃんが言ってた里見って誰のこと?」

「あ・・・・」

七条には里見との一件については話していなかった。
そこで、改めて、里見と加奈子と自分について話した。
最も、自分が里見と深い関係であったということ、今も忘れられないでいることは言わなかったが・・。


「ふーん・・やっぱり、その代議士がからんでいる可能性が高いな。それで圧力かけさせて再開発計画に拍車をかけた。大手会社と政治家の癒着なんて珍しくもなんともないしね・・」

「・・・・・・・・・・」

そう考えれば、あの時にいた男たちが今夜来た連中の中にいたのもわかる。
おそらく、店の様子を見に来ていたのであろう。
そして、里見とその男たちが高橋の住むアパートの近辺を視察していたのを高橋が見ている。
おそらく、あのアパートも立ち退き区域に入るのだろう。
加奈子は店だけでなく、住むところも追われることになるのだ。


なんの因果でこうなってしまったのか・・・。
まさか里見もこの街に高橋や加奈子がいると知ってて加担したわけではないだろうに・・。
不可思議な因縁めいたものを感じずにはいられなかった。

「とにかく、俺の知り合いに、新聞部の連中がいるからこのあたりの現状とかいろいろと聞いてみるよ。」

「・・・宜しく御願いします」


「ああ・・任せておいて。俺もごひいきの店がなくなっちゃ、困るからね」

そう言って、七条は未来にウインクしてみせた。



タクシーを降りた未来は、すでに冬の星座になりつつある真夜中の東京の空を見上げる。

「・・・・・お兄ちゃん。未来はどうすればいい? どうしてあげればいいの?」

未来は両手を組み、天に向かって祈りを捧げていた。





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