蜃気楼

里見修二との二度目の別れから半年。
立花未来はこの半年というもの、仕事に打ち込んできた。
何かを振り切るように次から次へと仕事を受け、精力的に活動してきた。
そして、今、出版社の応接室にて担当と向かい合わせに座っている。

「立花さんにこの間仕事してもらった『指輪と薔薇の葬列』の訳。評判いいよー。
要所、要所のセリフが決まってるって、映画評論家から絶賛されてるよ」

「そんな・・・。でも、嬉しいです」

「今は映画関係の仕事が多いけど、君にはあまりジャンル問わず仕事してもらいたいからさ。」

「は・・はい」

「・・・・ということで、次の仕事として、アメリカのベストセラー『LAST WIND』の翻訳を御願いするよ」

「え! あのベストセラーを私が翻訳させてもらえるんですか?」

「ああ・・やっと版権が取れてね。誰にやってもらうか検討したところ、今、ノリに乗ってる君に白羽の矢が立ったのさ」

「・・・・・」
驚きと感動で未来は言葉が出てこなかった。

「どう? かなり厳しい仕事になるかもしれないけど、やってみる?」

「・・は、はい! ぜひやらせてください」

「OK.君の頑張りには期待してるよ。そのうち国内のベストセラーをライティングして海外へ・・という
計画もあるし、それにも君は候補にあがってるからさ・・」

未来にとっては夢のような話である。
身が引き締まる思いに、未来の笑顔は引き攣っていた・・。

「あはは。そんなに緊張しないで、君らしく仕事してくれよ。・・・それで、その件も兼ねてなんだけどね」

コウの知り合いということでこの出版社を紹介してもらい、フリーの翻訳家として契約してもらってから早三年。
当時から未来を担当し、いろいろと抜擢してくれたのがこの七条伸哉だった。
七条にとっても未来がここまでの翻訳家になろうとは、紹介された当時は思っていなかった。
大学出たての世間知らずのお嬢さんだと思っていたが、なかなかどうして立て続けの家族の不幸を乗り切ってきたせいなのか、初めて逢っときの屈託の無い笑顔の奧にある、瞳の不思議な光。
そして、とりわけ登場人物の奥深い感情をうまい言葉で表すことのできるセンス。
なかなか出てこない味わいのある翻訳家になるかもしれないと、長年の編集者としての勘が働いて、時には厳しく
未来に接して仕事をしてきた。

「実は・・その版権元の出版社の編集の人が、今、日本に仕事で来てて、丁度いい機会だし翻訳者に会いたいって
言ってるんだ。それで、君にぜひ会ってもらいたいんだよ。いろいろと詳しい打ち合わせもできるし」

「は・・・はい!」

「まあ、俺らも日常会話程度はしゃべれるけど、専門用語とかでてくるとちょっと怪しいから、君にいてもらえると
心強いしね・・。まあ、打ち合わせと接待っていうことで・・・。明日の夜なんだけど、いい?」

「はい、大丈夫です。よろしくおねがいします」

「こちらこそ、よろしくー。それじゃ、取りあえず原本渡しておくよ」

なかなかに分厚い本を渡される。
ベストセラーということですでに読んだことはあるが、これを実際訳するとなるとまた話は別だ。
そのつもりで読み進めていかなくてはならない。
未来は本を胸に強く抱きしめた。


興奮冷めやらぬ気分で家に帰ってきた未来は早速自室の机に座り、本を開く。
・・・・・・・・・・・
ふと、机の上の写真立てに目が行く。
自分と両親と和希が写っている写真・・・。

「・・・パパ・・ママ・・お兄ちゃん。私、やっと一人立ちしてきたような気がするよ。うふふ。可笑しいよね、もうずっと
一人で生活してきたのに・・・。でも、いつもみんながどこかにいるような気がして、なんだかいつまでも甘えた気分でいた。やっと少し大人になれたのかな・・・?」

そしてふと、いつも写真立てとオルゴールと一緒に置いてある一冊の論文に目が行った。

「・・・・里見教授」

「この仕事やり終えたら、少しは私の活躍も知ってもらえるかな・・・」

ホテルで別れてから半年。携帯のメモリもそのまま消さずにある。
しかし、こちらからかけることもあちらからかかってくることもない・・・。
すでに番号も変わっているかもしれない・・・。
それでも消せないメモリ・・・。

「・・・・さてと、明日は編集さんと打ち合わせだ。その時に何聞かれても大丈夫なように少しでも読破しておかなくちゃ・・」

未来は再び本の世界へとのめり込んでいった・・・・。




アメリカの編集さんクラークさんは、五十代のシブイおじさまだった。
とても気さくな方で、いきなり”こんな若く美しい人と仕事が出来て嬉しい”って、抱き締められたのには驚いたけど。
ただでさえ日本人は外国人からは幼く見られるから、いくつくらいに見られているのやら・・。

ホテルのレストランで食事をしながら、打ち合わせ件いろいろなお話を聞いた。
翻訳をする上での方向性を決めていく。
七条さんも明るくて屈託の無い人で、更にアメリカ人特有のサービス精神旺盛なクラークさんが加わり、打ち合わせは至極和やかに、楽しく時間が過ぎていった・・。

そして二次会は、七条さんお勧めのクラブへ行くことになった。
銀座とかの高級クラブではなくて、少し距離はあるけれど静かで落ち着いたクラブなんだそうだ。
本当は私は辞退してもいいらしかったけれど、クラークさんが甚く私を気に入ってくれたらしく、離してくれそうにない。
七条さんもこっそりと私に、来てくれるように頼んできた。
私ももっとクラークさんからいろいろと話を聞きたかったので、ついていくことにした。




タクシーで20分ほど乗った桜葉町に、そのクラブはあった。
桜葉町・・・・。
桜塚市を連想させる名前だと未来は思った。
途中、下町の風景を挟んでいたが、付近はこの時間帯でもわりと人通りがある。
近くに駅やマンションがあるらしい。
その一角にやんわりとした明るさの看板が出ている。

「バロン?」

「そう・・。『男爵』。 ここのママのじーさんが男爵さまだったそうなんだ」

「へぇーー」

確かに、外から見た感じだけでもなにやら品が漂っていそうな外観だった。

「いらっしゃいませ・・・」

出迎えてくれる店員からして、品があるようだ・・。

「あら、七条さん。お待ちしていましたわ」

奧からママらしき人が出てきた。
和服の似合うとても綺麗な品のある女の人だった。さすがは華族の血をひく女性だと未来は見とれていた。

几帳面な心配りの出来る七条は、ママに連絡を入れていたらしくすぐに席に案内され、何も言わなくても
簡単な料理と酒のボトルが出てきた。
ママやホステスの女の子たちも実に流暢な英語を話す人達で、未来の通訳の出番はなさげであった。
銀座の高級クラブのホステスたちも、お客との会話のために語学は勿論、果ては世界経済の勉強まで
していると聞いた。社会に出てこういう場所に来る機会が増えて知ったことだった。
ユカリも、語学にも堪能で政治経済界にも詳しい優秀な人だった・・・。
ふと・・・またあのいやな出来事が頭に浮かんで、未来は少し俯き加減になった。


そんな静かな店の雰囲気を壊すかのような賑やかな声が、入口から聞こえてきた。

「んもーーー! しゃちょーさんったら、酔いすぎーー!!」
「なにいってんだい。加奈子ちゃーん、あははは」

「ちょっと失礼します・・」

ママがちょっと慌てたように今入ってきた男女の方へと向かった。

「あ・・ママさーん。さとーさんのしゃちょーさんつれてきたよぅぅ」
「・・加奈ちゃん、同伴してくれるならそう連絡してくれないとっていつも言ってるでしょ?」
「だーーって、加奈子、飲みまくってて忘れちゃったのー。いいじゃん、連れてきたんだからー」
「・・・仕方のない子ね・・」

(・・・・加奈子?)
聞き覚えのある名前と、独特のしゃべり方に未来は思わずそのホステスらしき女を凝視する。

笑いながら席になだれ込むその女性は・・・・。
濃い化粧で様子はかなり変わっていたが・・・間違いない。
高橋理事長の娘・・・高橋加奈子だった・・。


(なぜ・・? どうして・・・加奈子さんがこんなところに・・・・?)

「・・・立花さん? どうしたの?」
呆然とする未来に七条が心配そうに声をかけた。

「あ・・・いえ。七条さんはこのお店の常連さんですよね? あのホステスの人はご存知ですか?」

「ああ・・加奈ちゃんか。そうだなぁ・・・結構前からここでバイトしてるかなぁ。確か大学生だって言ってたよ・・。
明るくて人懐っこいから、結構人気者だよ。ただ・・酒癖がちょっと悪いんだよねぇ。て、なに? 知り合いかなにかなの?」

「あ・・・ええ。もしかしたら、私の恩師の娘さんかな・・・と・・」

「へぇ・・・じゃあ、ママのほうが詳しいからママに聞いてみなよ」

七条はそう言うと、ママをテーブルに呼んだ。

「ママ・・この人の話ちょっと聞いてやってくれるかな?」

「はい・・。どういったことでしょうか?」

「あの・・・さっきのあの加奈子さんて方は、高橋加奈子さんですよね?」

「え・・・ええ。そうですけど・・・」

ママが怪訝そうな表情をしたので、未来は慌てて補足する。

「あ・・・すみません。私が学生の頃、彼女のお父様にはお世話になってて、加奈子さんとも仲良くしてもらったんですが、
暫く、音沙汰がなかったもので心配していたんです・・」

その言葉にママは納得したのか、表情を緩めた。

「ああ・・・そうだったんですか。ええ・・加奈ちゃんには週三日ここで働いてもらっています。なんでも、お父様は
以前は桜塚市の私立大の理事長をやってらして、かなり裕福なご家庭だったそうですけど、二年前に大学をやめさせられて
家も売りに出さなくてはならなくなったそうです。そのご苦労からかお母様が病気で倒れられたので、東京の大学に通っていた加奈子さんがこちらに呼んだそうですよ」

「・・・そんなことがあったんですか・・・」

未来は胸が締め付けられる思いだった。
そこまで追い込んだのは他ならぬ里見とユカリだ。
背後からは加奈子の大騒ぎの声が聞こえてくる・・。
彼女がいるだけで、さっきまでの品格のある店内の雰囲気がガラっと変わっている・・

「なんでもお姉さんが三人いらっしゃって、皆さんそれぞれ独立なさっているんで、お母様の入院費と生活費はお姉さん達が助けてくれているらしいですけど、加奈子さんの学費は自分で稼ぐってここに・・・」

「・・・・・・」

「加奈ちゃんは大学をやめると言ったらしいんですけど、お父様が頑としてお許しにならなかったようです。ただ、つらい境遇のせいか、お酒にのめり込んじゃうのよね。気持ちはわかるから多少は多めに見ているんだけど、この仕事はこちらが酔ってしまっては困るの・・・。でも、あの明るさと人懐っこい性格でお客さまにもとても人気のある子なので、わたくしも・・・ねぇ・・」

複雑な心境なのか、ママはふっとため息をついた。

「・・・あの、それじゃお父様は今加奈子さんと暮らしているんですか?」

「ええ・・そうみたいですよ」

そこまでママに話を聞いたとき、ホステスがママに近寄ってきた。

「ママ・・・また加奈ちゃんが・・・」

「あら・・またなの? 困った子・・」

ちょっと失礼・・と言ってママは加奈子が座っているテーブルへと向かう。

「ああ・・いいからいいから、寝かしといてやって。俺はもう帰るから・・」

先ほど加奈子と一緒に来た大柄の中年男性が優しくママに言う。

「いつもどうもすみません。またいらしてくださいね、伊藤さま」

どうやら加奈子はテーブルでそのまま眠ってしまったようだ・・・。

「・・・・それじゃ、またお店が終わったら送っていってあげてくれる?」

そう、店の男性にママが言っているのを聞いて、未来は思わず席を立った。

「あ・・・あの。私が送っていきます。彼女の家は遠いんですか?」

ママが驚いたように未来を見た。

「いえ・・・タクシーで10分ほどのところですけど・・。でもお客様にそのようなことを御願いするわけには・・」

「いえ・・かまわないです。彼女とは知り合いですし・・。お父様にもお会いしたいんです・・」

「・・・そうですか? それではお言葉に甘えまして御願いいたします」

未来は事の事情を七条に話す。

「ああ・・かまわないよ。どのみち俺たちもそろそろお開きだ。また来週に打ち合わせを頼むよ」

「はい、ありがとうございます」

未来はクラーク氏にも挨拶をすませると、寝てしまった加奈子を揺り起こす。

「加奈子さん・・。お家に帰りましょう? 起きて・・・」

「んーーーー。誰ぇぇぇ?」

酒臭い息を吐きながら、半分まだ寝ているようなうつろな目を未来に向けた加奈子だった。

「私よ・・・立花未来。覚えてる? 私が大学生の頃、加奈子さんと里見教授の研究室で会ったよね?」

「んーーーー。あーーー、おねーさん?・・・ここは桜塚なの?」

「ここは東京だよ。私も東京に今はいるの。ね? とにかくお家に帰りましょ?お家教えてね」

「んーーーーー」

足元がフラフラながら加奈子は自力で歩き出した。
身体を支えながら、タクシーに乗せ加奈子の住むアパートへと向かう。

『花びら荘』

クラブに向かうときに見た下町風な町並みの中にそのアパートはあった。
桜葉町の花びら荘。
その名前を見たときに、ふと、桜塚にある桜の丘を連想した未来だった。
加奈子もまた、それを連想してここを住居にしたのであろうか・・・。

加奈子を支えながら、二階に続く階段を上る。

ぴんぽーん♪

「・・・やあ、いつもすまないな・・」
暫くして、そう言いながらドアを開けて出てきたのは・・・。

あの頃の面影を残しこそすれど、当時の自信に溢れた狡猾な高橋理事長はそこにはいなかった。
無精ひげをはやし、どこか疲れた表情をした顔色のよくない男がそこにいた。




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