雪の降る音

二度目の松本での夜。
俺の隣で薔薇色の吐息を吐きながら眠る恋人は、可愛いかつての家政婦さん。

「・・・むぎ」

眠る彼女の白い肩が布団からはみ出している。
先程までお互いの肌の熱で狂うほどに燃えたけれど、今はこの暖房の効いた部屋の中でも、露出していれば
とたんに冷されてしまうだろう。
俺はそっと彼女の肩を隠すように布団をかけなおす。
勿論、その前に、その肩口に薄く愛の刻印をつけたけれど・・・・。

俺はそのまま浴衣を着なおし、丹前をその上に羽織る。
そして、布団から抜け出すと、茶室を経由してそこにある障子とガラスのサッシを開けて庭を眺める。

外は雪だった。
二人で風呂に入り、布団に入る頃にはすでに降りだしていた。
むぎは無邪気に喜んで、早く君を抱きたいと願っていた俺をじらしてくれた。
そんな可愛さ故に、いつもよりも更に激しく彼女を求めてしまったかもしれない。
そんな後だからだろうか・・・今は静かに思い出を振り返る事が出来る。



「雪の降る音がする・・・・」

そう俺が呟いた時、あの人は・・・・・

「ふふふ。私の名前はそこからつけたそうよ・・。私が生まれたときは大雪だったんですって・・・」

「雪音って綺麗な名前だよね・・」

「依織だってあなたらしくて、素敵な名前じゃない。もうすぐお父様の後をついで名前を襲名するのでしょ?
その名前のほうが有名になるのかもしれないけれど、私は依織っていう名前がとても好きだわ」

「雪音先生・・・」

「だめ・・・。二人でいるときは雪音でいいのよ」

「・・・雪音」

そして俺は何一つ疑うことのない愛の世界のまどろみに浸かっていったんだ。




俺が雪音と出会ったのは俺がまだ中等部の一年生。新任の先生だった。
若く美しい担任の先生。
美しいだけでなく、とても優しい微笑みをする人だった。
勿論、クラスだけではなく男女問わず中等部全員の憧れの的になるまで時間はかからなかった。

当時の俺は学園の勉強と歌舞伎の稽古で、毎日家と学園を往復する日々だった。
同じ年頃の友達や、女の子と遊ぶことも許されず、厳しい稽古と叱咤の嵐の中、俺のストレスは着実に蓄積されていっていた。
自分の意思に関係なく、生まれた時からすでに引かれていた人生のレール。
それが当たり前だと思って育ってきたのに、いつの頃からか違う人生もあるということに気づかされていた。
歌舞伎自体は嫌いじゃなかった。
約束された跡継ぎではあったとしても、それを受け継いでいくということに異論もなかった。
しかし、周りの同い年の子供たちとのあまりに違う世界に、いつのまにやら不満をもつようになっていた。
もともと俺は感情的になにかあっても、それを表に出すことはなく自己解決することが多かった。
それは小さい頃から我慢というものを教えられ続けてきたからかもしれない。
そうしていつの間にか、自分の感情を素直に出すことが出来なくなっていた。
いつもガラスの仮面をかぶっているようだった。

そして、ついにその仮面が溢れ出てきた感情に割られるときが来たんだ。

中等部の二年生になって暫くたった日、稽古中にささいなことで父親から叱られ、爆発した俺は家を飛び出した。
行くあてもなく、ただ一人になりたかった俺は結局、夜の学園の茶室に来ていた。
鍵は閉まっていたが、雨戸の板をはずして茶室の中へとすべりこんだ。
そのまま一人そこで膝を抱えて泣いていたんだ。

いつのまにか寝てしまったのか・・・気づいたら、はずした雨戸のせいで朝の光が差し込んでいた。
起き上がると、なにかが身体からすべり落ちた。
それは誰かの上着?
あたりを見回すと、雪音先生が隣で柱に寄りかかって目をつぶっていた。

「・・・・先生? なんでここが?」

俺が驚いていると、先生も目を覚ました。

「ああ・・・依織くん。風邪ひかなかった?」

「なんで、先生がここにいるんです?」

俺は聞いた。

「依織くんが家を飛び出して行って帰ってこないって学園に連絡があって、先生方みんなで捜していたのよ。私は依織君がよく
この茶室に来ていたのをみかけていたから、もしかしたらって思って来てみたの・・・」

「・・・・・・・・」

「お父様も心配されていたわよ? 依織くんは普段とても聞き分けの良い子だから、
突然あんな風に飛び出すなんて、なにかあったらどうしようって、青くなっておられたわ・・」

「うそですよ・・・そんなの」

「え?」

「父さんは跡継ぎの僕がいなくなるから困っただけだ。弟の皇は練習嫌いで、聞き分けないし。僕のほうがいろいろと便利だから
跡継ぎだって言っているだけなんだ・・・」

「ねぇ、依織くん。先生はね、今まで歌舞伎ってよく知らなかったの。でも、うちのクラスの生徒が将来を有望視されている
歌舞伎役者の息子さんだって知って、何度か君の舞台観に行ったのよ」

「・・・・?!」

「・・・君には黙っていたけど、私、感動しちゃった。そしてこんな素敵な舞台が、200年以上も同じ御家の人たちで受け継がれて
来てくれたんだって思ったら、嬉しくて涙が出てきちゃった」

「・・・・・・」

「先生のご先祖さまなんて、なにしていたか知らないわ。学校の先生やってた人もいたかもしれない。でも、ほんの一握りかもしれないし
いなかったかもしれない。それに比べたら、みんなで誇れる芸を守り続けてきた、そして、守っていけるなんて素敵なことじゃない?」

「・・・・そのために、僕の人生には自由がない」

「それは違うわ。自由がないと思うのは、依織君がまだ自分で歌舞伎を選んでないからよ」

「・・・選んでない?」

「依織くんは舞台に立つの嫌いなの? そんなことないよね? 嫌いな人があんな素敵な演技や踊りが出来るわけないもの」

「・・・・・・・・」

「好きなら、自分で好きなんだって認めなくちゃ。好きでやっているんだって、自分で認めてあげなくちゃ。そうじゃなくちゃ、自分の才能がかわいそうだよ?」

「・・・才能?」

「そう。誰にでもどんなことにでも才能はあるよ。依織くんにはそれプラス代々受け継がれてきた間違いのない歌舞伎の血が流れている。
それも一つの才能だよ。それを認めて自分から歌舞伎を求めてあげて・・・」

「でも、こんな僕に血なんて感じられない。きっと誰にも僕自身なんて認めてもらえない。だって、みんなは跡継ぎの僕しか見てないんだ」

「先生が見ているよ」

「え?」

「私が舞台に立つ、依織くんをずっと見ててあげる」

「・・・・先生」

「役者はたった一人でも観客がいれば、幕を上げるのが本当の役者だって聞くよ。依織くんはたとえお客さまが私一人でも幕を上げてくれるよね?」

俺はそのとき、今まで心に降り積もっていた何かが、さーっと消えていったように感じた。

松川家の跡継ぎだけじゃない、松川依織自身を見てくれるという人がいる。
その時の雪音先生の真剣な瞳に俺は感激したんだ。

先生の言うとおりだったのか、俺がその日の夕方先生に連れられて家に戻った時、父親は何も言わなかった。
いつも優しい母親は一層優しかった。弟の皇はただ一人、俺にくってかかってきていたが・・・。
その皇の苦悩は後で知ることになるけれど・・・・。


それからの俺は自ら意欲的に舞台の稽古に励んでみた。
不思議なことに、自分で納得をして稽古を重ねていくと、自分でも思うとおりの演技や踊りが出来るようになった。
そうなるとおもしろくなってくる。
おもしろくなってくると更に稽古に励む。
いつのまにか、父親も親戚一門も、何も俺に言わなくなっていた。
そして、約束の通り、雪音先生は俺の舞台を欠かさず観に来てくれていた。
その時に必ず、小さい花束を俺宛にくれていた。
俺はいつしかその花束だけは家に持ち帰り、自分の部屋に飾るようになった。

そうして、中等部の二年生は過ぎていった。

中等部の三年になり、俺は15歳の誕生日を迎えた。
その日の放課後、先生は俺と二人きりになった教室である物を俺にくれた。
それは、俺の舞台の写真を集めたスクラップノートだった。
その時の夕焼けに染まった雪音先生は、とても綺麗で俺は思わず先生を抱きしめていた。
いつの間にか、俺は先生よりもずっと背が高くなっていて、先生の身体はすっぽりと俺の胸の中に納まっていた。

「い・・・依織くん?」

先生は慌てて俺から離れようとするが、俺は離さなかった。

「先生・・・僕はあなたが好きです」

「・・・・?!」

「先生・・・いえ、雪音さん。僕はまだあなたから見ればまだ子供かも知れないけれど、でもこの気持ちは本当です。僕は先生ではない
あなたが好きです」

俺がそう言ったとき、一瞬雪音は困ったような顔をした。
けれど、すぐに俺を抱きしめ返してきた。

「・・・うん、ありがとう依織くん。私もあなたのことがとても好きよ。舞台に立つあなたも、今のあなたも・・・」

「・・・雪音先生」

夕焼けで真っ赤になっている教室で、初めて俺と雪音は口づけを交わした。

それから俺たちは、時々外で会うようになった。
学園では教師と生徒。
俺はみんなに知られてもかまわなかったけれど、雪音に迷惑がかかってはいけない。
極力、みんなに気づかれないように、普通に生徒として接していた。
俺の周りにはいつの間にか、たくさんの女の子たちが取り巻くようになったが、雪音は何も言わない。
それがおもしろくなくて、わざと見せ付けたりしたこともあったけれど、そんな時は二人で会ってあげないと怒られたりして、
10歳も年上な雪音だったけれど、とても可愛く思えたのだった。

そうして、俺が中等部を卒業して高等部に入学する日がまもなくという春休み。
俺は雪音に誘われて旅行に出かけた。

今まで雪音とは遠出をしたことがなく、彼女の家に行ったこともない。
それ故にその旅行に誘われたときには天にも昇る心地だった。
豪華なホテルの部屋から見える海はとても美しかった。

そしてそれ以上に美しい雪音の体を俺は愛した。
俺は幸せだった。
そして、身も心も彼女のすべてが愛しかった。
満ち足りた気持ちで彼女を胸に抱きながら、俺は彼女に用意してきたものを手渡した。

「なに? これ・・・」

「開けてみて・・・」

彼女が上半身を起こしてその包みを開ける。

「・・・・これって・・」

「最近は舞台の出演料をもらえるようになったんだ。そのお金を貯めて買ったんだ」

それは、まだ早い婚約指輪のつもりだった。
少しでも早く、雪音のすべてを自分のものにしたかった。
高等部を卒業して、晴れて自由に恋愛できるようになったらすぐに一緒に暮らしたかった。
その約束の証。

雪音は黙ってその指輪を眺めている。

「・・・・・迷惑なの?」

「う・・・ううん。すごく嬉しいよ」

「そう、良かった。じゃ、左手出して?」

雪音の白い薬指にそのダイヤの指輪をはめる。

「これで雪音は永遠に僕のものだ・・・・」

「・・・うん」

そう言って雪音は俺に再び抱きついてきた。





そして、一年後。
あの出来事が起こる・・・。


あれを思い出すのはやめておこう・・・。
もう、忘れたことだ・・・。
彼女とのことは今は切なく美しい過去の思い出だから・・・。彼女にとっても今はそうあって欲しいと切に願う。
こうして思い出に変えてくれたのは、そこに眠る・・・むぎ。
君の強さが俺に勇気を与えてくれて、そして、別な愛があることを教えてくれた。
あの時のような激情はなくとも、今はそれ以上に深い思いが溢れている。

雪は降り続く・・・しんしんと・・。
すべての音を吸収し、そして自らが落ちる音だけを耳の奧に響かせていく。
雪の降る音・・・・・・。

ふと、暖かい手が俺の手を握り締めてきた。

「・・・冷たい手」

「・・・むぎ。起こしちゃったのかな?」

「ううん、雪がどれくらい積もったかなぁと思って寝たら自然と目が覚めたの」

「クス、そうか。ほら、また随分と積もったようだよ・・・」

「わあーーー、明日は雪合戦しようね!」

「ふふふ・・・そうだね」

俺はそのままむぎを抱きしめる。
暖かい・・・・。

「やだ、依織くんってば。いつまでこうしていたの? すっかり冷えちゃってるじゃない!」

「あはは、ちょっと考え事してたら、こうなっちゃったみたいだ」

「何考えてたの?」

「・・・・ちょっとね。それより、むぎ」

「ん?」

俺はむぎの耳元に囁く。

「冷えた俺の身体をまた温めてくれるかな?」

「・・・・・いいよ」

むぎは顔を赤くしながらもそう答えてくれた。
俺はガラス戸と障子を閉めると、むぎの肩を抱きながら部屋へと戻る。

もう、雪の降る音は聞こえてこなかった・・・・。



                                             終わり


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