月日の経つのは早いものだ・・・氷室はそう思いながら、いつものように学園の廊下を歩いていた。
酷暑と言われた暑い夏が過ぎ、例年にないくらいの台風の直撃を受けながらもようやくと秋めいてきた11月。
登校途中の民家の庭には菊の花が綺麗に花開き始めている。
学園の花壇には薔薇だのコスモスだのといった花は毎年見かけるのだが、菊の花は見かけた記憶がない。
特別菊の花が好きだとかそういうわけではない・・・というより、花についてはあまり詳しいとは我ながら言いかねるだろう。
ただ、季節を考えると菊の花が浮かんできた・・・・ただそれだけのことである。
そんなことを考えながら、吹奏楽部の朝の練習指導を終えて職員室へと向かっていたのだが、なにやら部員の数名の女子たちの自分を見る視線がいつもと違うことに気づいた。しかし、なにをもってそうなっているのか、氷室にはまだわからなかった。
(・・・女子生徒がああいった視線を私に向けるときは、私にとっては良くない感情を誘引させる場合が多い。何かあっただろうか? 今日はたしか11月・・・・)
そこで氷室はハッとした。
(・・・!? 今日は11月6日、私の誕生日ではないか・・・)
そこで氷室は立ち止まり、軽くため息をつく。
(またあの面倒な一日を過ごさなくてはならないのか・・・・)
自分では公表した覚えがないのだが、どこをどう調べてくるのか毎年自分の誕生日には、バレンタインデー同様にプレゼントと称して教師に贈答品を渡そうする生徒が多い。教師たるもの贈答品と称するものは一切受け取るべきものではないと思っている。生徒、生徒の家族等すべてにおいてだ。
教師はすべての生徒に公平に、優秀な者もそうでない者に対しても平等に学習の向上を指導していくべきだ。残念なことにそれを贈答品なる物によって便宜を図ってもらおうとする輩がいることもある。金銭の授受などにより社会的問題になっているのも事実だ。
勿論、我が学園の生徒たちのプレゼントなる品物にそれらの感情が関わっていないことはわかっている。純粋に自分の誕生日を祝いたいという心遣いのつもりな生徒がほとんどだろう。しかし、自分は教師だ。それらを受け取ることにより、その生徒自身に媚の感情があるのでは・・と、思われる可能性がある。それは絶対に避けたい。だから、これまでも受け取ってきたことはない。
ただ、一人。例外を除いては・・・・。
そこで氷室の表情が若干変化した。
今や我が氷室学級のエースとも言える女子生徒。
彼女もまた、一年生の頃から誕生日、バレンタインデーのチョコなどを自分に贈り続けてきた。
一年生の時には、キッパリと断った。
しかし、昨年度は不覚にも受け取ってしまったのだ・・・。
当時の自分には何故そうなってしまったのか、よく理解できなかった。
ただ、一年生の時には自分の補習を受けなければならなかった彼女が、日々努力を重ね今や首席を連覇している。
そこまでの努力の過程を自分のこの目で見続けてしまった自分としては、キラキラと瞳を輝かせて、期待と不安を入り混じらせた表情で真っ直ぐに見つめられては断ることが出来なかった。
受け取ってはいけない・・・。
しかし、がっかりした顔を見たくはない・・・。
彼女を喜ばせたい・・・。
そんな感情がほんの数秒の間に頭の中を駆け巡ったのだ。
しかも、そのプレゼントは数学の論文。
おそらく、数ヶ月も前から日々の勉学と平行して作成していったのであろう。少し読んでいけばそれがわかる。
しかも、注目視点も素晴らしくよくぞここまで・・・と感心するものであった。
ますます、彼女に興味が沸いてきたものだった。
そしてまた、今年もその日を迎える。
しかも、おそらく今回が最後になる。
彼女は三年生。あと数ヶ月でこの学園を卒業する。
ここで氷室の胸はチクリと鳴る。
そんな胸の痛みを打ち消すように歩き出した氷室だが、丁度職員室の入口にいる二人の女子生徒を見つけて立ち止まる。
ついさっき自分に視線を向けていた吹奏楽部の二年生だ。
「氷室先生。お誕生日おめでとうございます。これ、プレゼントです!」
そう差し出す生徒たちに向かって氷室は答える。
「気持ちはありがたいが、生徒からの贈答品は受け取りかねる」
「えーーーー!?」
非難と悲鳴の混じった声が廊下に木霊する。これもまたいつも同じだ。
「そういった物を贈られるよりも、私は君たちの演奏の上達のほうが余程嬉しいのだが? 」
「うへぇー」
「ふぁーい」
納得がいかないような声を出しながらも、自分にこれ以上の説得は無理だとわかったのか、二人はあきらめて去っていった。
ふぅ・・・息をつくと氷室は職員室に入り、自分の机へと向かう。
自分の机の上を見てまたため息だ。
見慣れないリボンのついた箱が置かれている。
手渡しても受け取ってもらえないとわかっている者で、たまにこうやって置いていく生徒がいる。
氏名の書いてあるカードでもあればすぐに返しに向かう。
名前も書かずに置いていくものはさすがにお手上げなようだが、そういう物は一旦生物でないか確認のため丁寧に梱包を解いて見てからまた包みなおし、暫くそのまま机の上に置きっぱなしにしておく。少々残酷なようだが、大抵そのままだと気になってくるのか名乗りでてくるものが多い。
その時点で礼を言って返却することにしている。
今回の物も放置決定のようだ・・・。
こんなことをしている自分が我ながらいやにもなってくる。しかし、やらなければならないことだ。
ふと、ホームルームに向かう準備をしながらまた思い出す。
・・・彼女はまた今年もプレゼントを持って現れるだろうか・・・。
断らなければ・・・ならない。
そうわかっているのだが、彼女のだけはその自信がない。
しかし、それは不平等、特別扱いもいいとこだ。
それがわかっているのに、それを楽しみにしてしまっている自分がいる・・・。
彼女とは社会見学と称して、三年生として受け持ってから月一度程度の日曜日に二人で出かけている。
無論、社会見学は社会見学であり、それ以上でもそれ以下でもない。
彼女もそれは理解してくれているはずだ。
そうは言っても、それがただのいい訳であることを自分でも理解しだしている。
先月、旧友の益田に言われたことを自分なりに考え始めている。
卒業までの数ヶ月の間に、自分でも理解出来ないこの感情に整理をつけることを・・・・。
キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン♪
予鈴が鳴った。
氷室は出席簿を持つと席を立ち、自分の学級へと向かう。
その彼女もまた待つ氷室学級へ。
氷室学級の生徒には、あの今朝のような視線はない。
氷室という教師の性格を長い付き合いでわかっているらしく、無駄だとわかっていることをする気にはならなくなったらしい。それで正解だと氷室は思う。
そして、氷室学級エースである彼女からも同じだ。
しかし、彼女のその平気な様子は氷室自身が微かな動揺を示してしまう。
いつもと変わらないその様子に、忘れている? 渡す気が無い? 愛想をつかされた? いろいろなマイナス思考が浮かび上がってくる。
馬鹿な・・・・そう思いながらいつものように出席を取り、一日の開始のホームルームを進めていく。
そして、ホームルームが終了し氷室は廊下へと出る。
そこで背後から声がかかる。
彼女だ。思わずドキリとする。
「氷室先生!」
冷静を装い、コホンといつものように一つ咳払いをして振り向く。
「なんだ?」
「先生、忘れ物ですよ」
「・・・?」
そう言って彼女が差し出したのは、いつも自分が持ち歩いている指揮棒だった。
「珍しいですね、先生がご愛用の指揮棒をお忘れになるなんて・・・・」
「あ・・・・ああ。失敬、ありがとう」
そう言って動揺を隠すように指揮棒を受け取る。
思わず彼女の手を見る。指揮棒の他には何ももっていなかったようだ。
安堵と失望の気持ちが同時に起こる。
「・・・・? 先生、どこかお体の調子でも悪いんですか?」
どこか態度のおかしい氷室に敏感に反応した彼女が心配そうに問いかける。
「い・・・いや。至って問題ない。ちょっとした不注意だ」
「・・・そうですか?」
「ああ・・・心配はない。さあ、授業が始まるぞ、教室に戻りなさい」
「・・・はい」
まだ少し心配げな顔をしながらも彼女は氷室に背中を向けた。
ふーーっと、最近多くなってきた大きな息を吐く。
氷室もまた教室に背中を向けると自分の授業のために、再び職員室へと向かった。
そして、あれよあれよという間に放課後だ・・・。
あれから懲りない生徒が10人程、その無謀な行為を起こしたがすべて玉砕されていった。しかし、彼女は来なかった・・・。
さすがに氷室の動揺も表に現れだした。
放置のリボン付きの箱が三つになった机の上を見つめたまま、氷室は動かない。
(まさか、この中に彼女からのプレゼントがあるのだろうか? いや、彼女はこれまでもきちんと私に手渡してきた。例え断られる可能性があったとしても、このような手段をとるとは思えない。ということは、やはり今年は渡す気はないのだろうか・・・。去年、今回だけだと念を押しておいたのだからその言葉を鵜呑みにしてやめたのかもしれない・・。それならばそれでいたし方がない。それが賢明な選択なのだから・・。しかし、胸が痛む)
やっとあきらめがついたように氷室は席を立つと、気分を変えようと音楽室へと向かう。すでに部活動も終了し、夕暮の音楽室でいつものようにピアノ演奏に興じるためだ。
最近になって自分の感情をピアノの音に託せるようになってきた氷室にとっては、格好な感情表現の一つであった。
音楽室へ向かう階段に足を掛けようとしたその時に、予想もしていなかった声がかかる。
思わず階段を踏み外すところだった。
「・・・!? 君か・・・」
「す・・・すみません。突然」
「いや、かまわないが。どうした? もう下校時刻は過ぎているぞ?」
「は・・・はい。これを図書室で仕上げていたら遅くなってしまって・・・」
「・・・・それは?」
彼女が胸に持つ厚いレポート用紙に目が行く。
「はい。先生、お誕生日おめでとうございます。これ、プレゼントです!」
すでにあきらめていたその言葉に氷室は驚き、メガネの奧の瞳を見開く。
そして、自然と出てきた笑みを浮かべた。
「生徒からの贈答品は基本的に受け取りかねる・・・と言ってあったはずだが・・・?」
「は・・はい。わかってます。それで、その・・・・卒業論文なんです」
「卒業論文か・・・。それはまた興味深いものだな・・・」
氷室の笑顔が更に温かい笑みへと変わっていく。
「はい。一年生の時の品物は受け取って頂けなかったですけど、去年の数学の論文は受け取って頂けたので・・・。やはり、先生にはこういったもののほうが喜んで頂けそうなので、数ヶ月前からお渡しできるように頑張ってきました」
「・・・ふむ」
氷室の頬がほんのりと赤く染まった。
「・・・・今回だけだ」
「・・・ありがとうこざいます!」
彼女の嬉しそうな笑顔に、氷室の頬が更に赤く染まっていった。
「この論文は家に帰ってゆっくりと読ませてもらう。明日にでも感想と評価を君に伝えることにしよう」
「・・・本当ですか? わあ、嬉しい。楽しみにしてますね!」
「・・・ああ。私には何よりの贈り物だ。ありがとう」
「いいえ、喜んで頂けてよかったです。それじゃ、私は失礼しまーす」
「待ちなさい!」
思わず、氷室は彼女を呼び止めた。
「・・・・?」
「・・・・私もそろそろ帰宅する。送っていこう」
「わあ、いいんですか?」
「ああ、かまわない。君の家は私の帰路の途中だ・・・」
いつものセリフをいつもの相手にいつものように語る。
そんな二人を、今にも沈もうとする夕日の最後の赤い日差しが照らし出していた。
氷室は自宅に着いて食事と掃除を済ますと、コーヒーを煎れてリビングの四角いソファーに腰を下ろす。
渡された論文を読むためだ。
題名は『血液型による性格判断における考察』
(・・・なんだ、これは?)
氷室にとってはあまりにも突飛な内容に思考回路が?になりかけた。
いや、今、日本で血液型性格判断というものが流行っているのは知っている。
自分はそれほど関心はないが、あながち否定できるものでもないと思っている。
しかし、彼女がそのようなものに興味があったとは知らなかった。
ゴクリとコーヒーを一口飲むと、論文を読み進めていく。
A型・・・・・氷室零一、葉月珪、姫条まどか、蒼樹千晴、有沢志穂
B型・・・・・鈴鹿一馬、天之橋一鶴、須藤瑞希
O型・・・・・守村桜弥、日比谷渉、紺野珠美
AB型・・・三原色、藤井奈津美
・・・・・彼女は一体どこで調べ上げてきたのだろうか・・・?
彼女の以外な一面に氷室は驚いていた。
そして延々と血液型別による性格の違いを述べるページが続いていく。
そして、ここに出ている個人の性格についてまで・・・。
思わず自分の項目ページを探す。
血液型とか言いながらも、彼女が自分をどう思っているかがわかるからだ・・・。
なぜかそのページは最後にあった。
そこにはこう書かれてあった。
『氷室先生のA型の男性は自分と違うタイプのB型女性に心を惹かれるようですよ。御自覚ありますか?ちなみに私がB型です。先生が私を甘やかしてくれると結構相性的にも良いみたいです。あと卒業まで三ヶ月あまりですけれど、頑張って私を甘やかしてくださいね。こんなこと書くと怒られそうですが、そろそろ私の気持ちもわかって欲しいので敢えて書いて見ました。氷室先生、29歳おめでとうございます。私はこれからも先生にとって一番の生徒でいられるよう頑張っていきます。そして、卒業したお祝いの社会見学を楽しみにしていますね』
氷室はレポートを閉じると、笑う。
「ふっ・・・まったく君は・・・」
自分の何もかもを若干18歳の少女に見抜かれているような気がする。
それでいていやな気はしない、いや、むしろ彼女が知っていてくれてホッとしている。こんな感情を自分は今までしらなかった。必要ないと思っていた。
それが間違いであったのだと、今はそう思う。
あと、残り三ヶ月。
ただ闇雲に悩むだけになるかと思っていた氷室であったが、この文を読み多少なりとの勇気を与えられた気がする。
じっくりと落ち着いて考えていこう。
彼女にどうやって自分のこの気持ちを伝えようか・・・・、その方法と手段を・・・。
そこで、ハッとした。
(この感想を私は明日彼女に言わなければならないのか?! どう言えというのだ・・・・)
(・・・・・・謀られたか)
屈託のない笑顔、そしてまた悪意のない謀にまた氷室の心は踊り始めていた。
終わり
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卒業論文