【 こうして流れているのは優しい時間 】

「ほら…聞こえないか?」
 男が浴衣の袖口を押さえながら、青年の耳元へ掌を寄せる。
 澄んだ水音に小さな鈴の音。
 皮膚を撫でる風はそよりと過ぎてゆく。
「あの、音色が」
 青年はその言葉と一緒に自分の掌を重ねた。
 声の主の手へ―――男の、大きく温かい手へと。

【すずむしのなくころ】

 夏は暑いもの。
 遙か昔より定められた事。
 そして昼も夜も決して静かにはならない。
 謳歌、と言う言葉が当てはまる季節―――全ての命は皆平等に叫ぶ。
 生きているのだと、今この時を過ごしていると。
 其れはこの季節特有の症状。
 死者の帰ってくる、時期でもあるからなのだろうか。
 縁側より外を眺めていた青年が、背後に慣れ親しんだ気配を感じて振り返る。
 振り返る視線の先には、自身より一回り背の高い男が風呂敷を抱えて立っていた。
 言葉の無い空間が、黄昏時の刹那に生まれる。
 密やかに忍び寄る闇に、足下を確かめて。
「―――夕涼みか」
 不意に発した言葉に世界は再び音を奏でる。
 昼になれば蝉たちの大合唱、そして夜になれば。
(水辺に灯る其れに、何を想う?)
 闇の中でこそ映える男の髪は、癖が強い。
 仄かな月明かりで輝く人。
 強き銀の光。
「折角おろしたての浴衣を着るのにこれ以上相応しいものもあるまい」
「…そうだな」
 男の意気揚々とした言葉に、普段とは違い、青年はどことなく躊躇いがちに瞳を伏せた。
 長い金糸の髪に、その王たる翠玉の瞳が隠れる。
 迷いの合図。
「余り、気がのらない」
「……。珍しいな…お前がそんな表情をするのは」
「……」
 ふと、男が呟いた。
(あぁそうか…もしかしたらお前は…)
 空気の様な素っ気なさで、だが力強く。
「俺は―――簡単にお前を水に攫わせはしない、と思っているのだが」
「…!」
 翠玉の瞳が図星に揺れる。
 紛う事無き自身の心を見破られて。
 渇いた唇が、言葉を紡ごうとして失敗した。
「私、は」
 夏の水辺には狭間が見え無い。
 いとも容易く彼岸の果てとこの世を繋ぎ。
 亡くした彼の人を想うが故に。
 その心は水に惹かれる。
 禁忌に触れてしまう。
「確かに水辺ではあるが、な…」
 淡々とした物言いであっても、苦々しく重みが含まれた言葉。
 深く同調した心から生まれる想い。
 互いの、距離が近すぎるからなのだろうか。
「…保証など、出来ない」
「構わん、お前がいればそれで十分」
 男の言葉に、漸く青年が腰を上げた。

「…もう、こんなにも鳴いて―――」
「ああ」
 青年は外へ出て驚く。
 僅かな街灯と月明かりのみの闇夜に響く鈴の音。
 大合唱と言うに相応しい其れは昼の蝉に決して劣らない。
 ただ、穏やかに静かに謳っている。
 命、の。
 砂利を踏みしめる草履の音。
 自身の心臓の音さえ喧しいとさえ思う。
(だが、この音は)
 何よりも今此処で、彼の隣で、生きている事の証。
 触れる事の出来る距離に在る。
 その鼓動を確かめる事さえ。
「といっても、此処まで賑やかになったのは最近だが」
 銀の瞳が細められた。
 他人には殆ど差異の分からない、この男の微笑だ。
 顔を緩めるのではなく、ほんの少しだけ瞳が柔らかくなる。
 彼の心を表す、透明な光が其処には宿る。
 瞬き程の瞬間で。
(君は私を殺す事が出来るのだな)
 ふと、そんな風に考えた。
「―――来て、良かっただろう」
「……」
 男の問い掛けの言葉にも、青年の表情は浮かないまま。
 その翠玉の瞳が行き着く先は川。
(お前が、何を想うのか)
 一歩先を歩いていた男は急に立ち止まり、青年の名を呼んだ。
「エルザム」
「…何だ」
 茫洋とした感覚で返答。
 当然、見逃される筈も無く。
 男には既に想いが伝わってしまっている。
 過ぎたる物思いすら。

「ゆきたいのか?」

「……」
 一瞬だけ顔が正面を向いたのも束の間、すぐ又元へ戻った。
 俯き、自身の足下へと視線が降りる。
 左肩にそっと右手を添え、水の流れを見つめる。
 たゆたうは小川の水面。
 人を攫うもの。
 心を惑わせて。
「もし、…呼ばれるのであれば……」
 ゆくだろう、と告げた。
 間髪入れず再度問われる。
「誰に?」
「…さぁ…な…」
 男が近付いてきていたことが、青年には分からなかった。
 大分至近距離に迫ってきてからはっと顔を上げる。
「な、ゼ―――」
「虫の音は、戻ってきた死者を癒す為のものであり」
 無骨な手が、青年の身体を抱きしめた。
 背中に回された腕が、微かに震えているのが分かる。
 その声とは裏腹に。
「生者の想いを、現世へ呼び戻す為のもの」
 落ち着いた口調が、諭す様に囁く。
 そして、切望する。
(ゆくな)
 言葉を重ねる毎に、声までもが震え出す。
「…お前の居場所は此処にある」
「……」
「少なくとも、俺の傍に必ずある…!」
「…ゼンガー…」
 どんな小さな虫の音でも、闇夜に灯る光でも。
 其れは現世へと還る為のもの。
 生者の為ではなく、亡くなった魂に対する道標。
 行き先は常にこの世へ示される。
 だから、こそ。
「…エルザム…!」
「ゼンガー、私は―――」
 ゆきはしない、ゆかせはしない。
 共にあることをあの時に望んでしまったのだから。
 いつ果てるとも分からぬ戦場で見つけた理由と確かな誓い。
 決して惑わず畏れず、立ち向かえ。
 生き延びる為に。
 生きてゆく為に。

 りー…、りー……ん…

 小さく笑みを浮かべた青年が男の背中に手を伸ばす。
 大きな背中にゆっくりと腕を回した。
「…漸く……聞こえたか…」
「ああ、すまない」
「…お前は」
 呆れている様な口ぶりだが、苦笑していることがその実分かる。
 やがて互いの腕を解き、銀の瞳と翠玉の瞳が交錯した。
 その胸の内は鈴の音よりも尚はっきりと。
(必ずお前に届く筈)
(確固たる強さで君が導くこの世への道)
 私は君の元へ。
 お前は俺の元へ。
 絶対に。
「成る程、不覚にも惑わされたか」
「…?」
 突然、青年が婉然と微笑んだ。
「君に」
「―――!?」
「無論、冗談だが」
「お前…」
 息を呑んで一瞬戸惑った男が青年の顎に手をかけた。
 青年にしか分からぬ苦笑の声音で。
「…惑わされたのは俺だというのに」
「ん…」
 重ねられた唇から熱が。
 触れあう肌から心臓の鼓動が。
 伝わる。
 伝えられる。
 生きているからこそ感じられる其れ。
 唯、それだけが。

<了>

*****

 ゆらゆらと泡が立ちのぼる。
 煙る視界に瞬きを数回。
 水と大気の境界に触れた途端に終ぞ消え。
 額から滑る粒が、水へと帰す。
 辺りにこめる水蒸気も又、水の一つ。
 姿を変えていた所で、その本質は変わらないだろう。
 湯船に浸かりながら思った。
 ぼんやりと天井を眺め、男は溜息をつく。

【しずく、しずかに】

 蝉の鳴き声が徐々に静まり、辺りに闇夜が迫ってくる。
 薄明かりの中で何かもが刹那境界を曖昧にする。
 時は夕暮れ、人恋い時。
 背中に流れる金髪を麻の紐でまとめていた青年は、風呂場の方角から聞こえる音に耳を澄ました。
 日本家屋宜しく引き戸の扉が、からからと小気味よい音を鳴らす。
 つまり風呂場から誰かがあがってきたという事。
 無論その誰かというのは。
「―――ウォーダン、タオルなら洗濯籠の中の薄水色だ」
「……」
 風呂場へと通じる廊下から、青年がそう呼びかけた。
 返事はしないが言われた物は見つけたのだろう、そんな気配がする。
 のぼせている様でもないのだからひとまず安心。
(…果たして彼が倒れた場合、私一人で運べるだろうか…?)
 という危惧も無くなった。
 一回り大きな体に付く筋肉は無駄が無いが、確かに重い。
 決して腕力に自身がない訳ではないが少々心許ない。
 ―――特に、現在彼が居ない分。
 座敷から隣の部屋、つまり台所へと立ち上がる。
 後もう少し手を加えれば完全な料理が出来るのだが、食材の不備が見つかり、今はその補充を行っている。
 補充任務を与えられた人間に、何となくだが睨まれた様な気がする。
『態とじゃないのか、お前』
 とか何とか言いたかったに違いない。
 其れを言わない所が又彼らしいと思うのだが。
 近付く気配に振り向きもせず声をかけた。
「―――のぼせなかったか?」
「…無論」
 ゆっくりとした動作で居間へ姿を現した男は小さく呟く。
 青年の揶揄めいた言葉に対し、僅かに怒りの色を滲ませながら。
 そんな事で喧嘩を始める程子供ではない二人は暫し沈黙を保つ事で決着とする。
 暫く辺りに視線を泳がせると、在る人物が居ない事に気付いた。
「ゼンガーは…?」
「大根を忘れたので買いに行って貰っている」
「……」
 男は湯上がりの火照った身体を手で仰ぐと、言葉を吟味し始める。
 ぼんやりとした思考で青年の言葉について。
 あっさりしたものがいい、というリクエストで何が出てくるのかは己には未だ分からないが、
其れは今晩の食事に必要な食材なのだろう。
 わざわざ買いに行って貰う程。
 しかし。
「エルザム…お前が行かんとは珍しいな」
 食通を自負する程の男が何故食材を忘れてくるのか、と言う事までは流石に頭が回らなかったらしい。
 単純に、自ら出向いて食材を求める筈の姿勢が今回は無い事に対して問い掛ける。
 普段と如何に何が違うのか。
 未だ其処までは気付け無い。
「君がのぼせてしまわないか心配でな」
「!」
 さらりとそう言った青年の言葉に、男が反応した。
 湯船に十分すぎる程浸かったであろう身体が更に火照る。
 頬へ少し、さす朱色。
「そういうことを…よくも…」
「だがそうだろう?」
「……」
 確かについ最近までこの家の造りが良く分からず、しょっちゅう梁に頭をぶつけていたし、
靴を脱ぐ習慣というものが良く分からず土足で上がろうとして叱られたりもした。
だからといって疾うの昔に成人した男性に向かって、
風呂――これも半ば初体験の代物だったのだが――でのぼせるだろう、と。

(…俺は子供か)

 目覚めてからで数えれば、そうなる可能性を彼は未だ知らない。
 青年ともう一人の男はそれを告げる時期を見計らっている。
 強くて脆いこの剣を二度と迷わせない為にも。
 ある意味純粋で真っ直ぐすぎるのだ。
 酷似する鏡に映された影が生んだ彼の写し身でありながら。
 異なる一つの自我が芽生える。
 不思議な、奇跡。
 そう呼んでもおかしくは無いだろう。
「それはそうと、君は」
「…?」
「頭を良く拭かなかったな?」
「っ―――!」
 青年が近寄り、額から瞼にかかる長さの前髪に触れた。
 ともすれば視線がぶつかりそうな距離に男の心臓が拍動する。
 一瞬の不意をつかれて戸惑う。
 己よりもほんの少し背の低い彼の身長は、青年が男を見上げる様な仕草をさせる。
 軍服を纏っていた頃とは違う、どこかあどけない表情。
 鼓動が鳴り止まず、全身が硬直する。
 急上昇する体温で頭が空回りをし始めた。
 不意に翠玉の瞳が銀の瞳を真っ正面から捕らえて、笑った。
「!?」

「風邪をひくぞ?」

「…! 心配無い…!」
「本当に?」
「当たり前だ…っ」
 後退りをしたくとも足が硬直して言う事を聞かない。
 青年は男の片手に手をつくと、もう一方の手で後ろ髪へと手を伸ばした。
「…っ!?」
「…矢張り、きちんと拭かなかった様だが?」
 直接耳朶に吹き込まれたその低い声に更に身を強張らせる。
 強く咎められている訳でもない、叱られているのでもない。
 唯指摘されているだけ、なのに此は。
 逃げる事の出来ない状態に己が陥ってしまったのだと気付くのが遅すぎた。
 もう一歩でも下がれば背中が壁に当たる。
 男は小さく叫んだ。
「わか…った! 拭けばいいのだろう、拭けば!」
 そう言って青年を振り払うと首に掛けていたタオルで乱暴に水をとる。
 がむしゃらに無茶苦茶に。
 拭く、と言う言葉からは余りにも遠い光景。
 其れを見ていた青年がタオルを持っていた男の手に触れた。
「!!」
「そんな乱暴に扱う物ではない」
「では、どうしろと―――!?」
「貸したまえ」
 ひょいと呆気なくタオルを男から奪うと、エルザムは丁寧に今にも髪先から垂れてしまいそうな滴をタオルで拭き取る。
頭部全体を一旦包んでから、少し荒く髪をまとめ、男とはまた違った――幾分易しめの――手付きで髪をタオルで拭う。
 嵐の中にいる様な髪の暴れっぷりも、下ろしていた瞼を開けると止んでいた。
 銀の瞳が青年の微笑を映し出す。
「ほら、これでいいだろう」
「……」
 満足げな笑みが示す通り、成る程確かに水分が大分無くなった様だ。
 しかし此は幼児が母親にしてもらう様な其れと同じ。
 妙に情け無くなった男が青年の持っていたタオルを被る。
 奇妙な行動に出た男に青年は怪訝そうな声をかけた。
「…? ウォー――」
「…良い、暫くは」
 低く暗惨たる返答。
 落ち込んでいる事を察した青年が言う。
 軽めの口調で。
「否、そうでは無く」
「?」
「―――」
「!」
 青年は一言二言呟いて、タオルの上から男の頭を撫でる。
 更に其れに恥じ入るかの様に男が顔を伏せた。
 ますます雰囲気が重くなってしまう。
「俺、は…」
「まあまあ」
「しかし…!」
 男が顔を上げたと同時に頬にある感触。
 柔らかくて、温かな―――己とは違う熱の存在。
 其れが音を発した瞬間、ウォーダンの脳が完全に火を噴いた。
 顔に触れて揺れている絹の様な長い髪も。
 今、青年が、己に。
「なっ…エ、エルザム…っ!!」
「其れも、又」
 笑いを抑えきる事の出来なかった声音。
 さも楽しそうに。
「愛らしいな、君らしく」
「お、前…っ!」
 今度こそ顔面は赤一色に。
 希望の品を持ち帰った男が、家中に響く怒声を聞くのはその数秒後だった。

<了>

***

 風涼やかに。
「…行くのか?」
 声密やかに。
「ああ、君も来るか?」
 尋ねた人。
「否、彼奴が居るならば…別に」
 応える人。
「そうか、では」
「……」

【ひらり、くるり】

 本来二つあるべき瞳は深い傷によって一つを喪い、世界を眺める。
 今も又、目の前に佇む男を凝視して。
 中天に浮かぶ太陽が少しずつ西へと動き始める時刻。
 人工的な地面の熱が、照り返す熱を空気へと吹き込む。
 風もそよ風程度しか無く、言えば暑い、と。
 しかし家屋の中でそよ風のみを頬に受けながら整然と立って外を眺める男。
 暑さなどその周りには微塵も無い。
 その姿を見つめる一人の人物。
 隻眼を隠すのは長い、癖のある銀髪。
 瞳の奥にある感情すら覆い隠してしまえる長さで。
 全く臆すこと無く、殆ど睨み付けていると言っても良い視線に耐えかねたのか、
唯一の薄い銀の瞳に映された男が動く。
「…何か用か?」
 顔を――剰りの強い視線が投げかけられている故に――ぎこちなく動かして問うた。
 その答えは簡素極まり無いもの。
「別に」
「では、余り見るな」
「…何故?」
「何故、と言われても…」
 言葉を詰まらせた男は組んでいた腕をほどき、背を預けていた柱から身体を離した。
畳に座り込む男の前へと腰を下ろすと、やや――尚凝視し続ける相手は、
己よりも僅かばかり背が低いので――低く目線を下ろして、言う。
「では、何を考えているのだ?」
「……」
 そう尋ねられて初めて、己が何かに心を囚われているのだと気付く。
 一体何に、そんなにも気を惹かれて。
(…何に―――だと?)
 問うた相手の表情には困惑の色が読み取れる。
 己の瞳がどれ程の鋭さを以て相手を見つめているのか理解していない男にとっては、
質問に戸惑うだけではなく、相手の表情にまで翻弄される。

 何故?
 何が?

 己自身の根本に潜む、心の最奥に在る部分が直感的に求めるもの、者。
 隻眼の男には未だ其れが分からない。
 惹かれる相手も。
 惹かれる理由も。
 ―――全てを大地の揺り籠と共に埋めてしまったからなのか。
(…むぅ)
 何の結論も出ないまま。
 真一文字に結ばれた唇が、ある台詞を紡ぐ。
「……俺に…お前達と、同じ物はないのか?」
 言い終わってからも尚、己の中では拘泥の意思がある。
 確かに、気にはかかっていた事ではあるのだが。
 己が気にかけていたのはもっと別のこと、ではなかったのか。
 そんな気がする。
 だが思わずその言葉を聞き、言われた相手は驚きの色を隠せなかった。
「…! これか?」
 男が自身の胸元を指差し、相手は着ている浴衣の袖を引っ張る。
 相手の顔を見上げるその様は、まるで幼児がそうするのと同じように。
 ―――此が欲しいのだと、強請っている。
 唯一の瞳は強くも鋭くもあり、真っ直ぐな純粋さを持つ。
 感じている筈の闇を退ける輝きを受けて。
「この、服が」
 欲しいのだ、と。
 立ち上がり視線を合わせずに呟く。
 そう言って、とん…と浴衣の袖を引っ張る人物の額が肩にのる。
 縁側から室内を横切る風が、互いの髪を揺らした。
 癖の強い、前髪。
 酷似ではなく、全く同じ。
(だが、お前は)
 男が溜息と共に告げた。
 其の頭に大きな手を乗せて。
「…今度聞いてみよう」
「うむ…」
 心なしか、返ってきた声は小さく喜んでいた様な。

 次の日。
 此の事を話すと彼――この家の主でもあり、台所を預かる青年――は事も無げに準備をして、
何処から手に入れてきたものか、夕方にはあっという間に一式が用意されていた。
『残念ながら私は用事があるのだ、後の事は君に頼む』
 薄紺の風呂敷を男に手渡しながら、細められた翠玉の瞳が微笑する。
 青年が突然の用事で家を留守にするなど珍しい事では無い。
 忙しい種類の人間である事を、付き合いの長さから良く分かっている。
 筈だった、が。
 ……思えば何よりもこういう事を愉しむ種類の人間が一体何を優先させていなくなるのか、
其れに考え至れば良かったのかもしれない。

「ウォーダン」
「?」
 薄紺の風呂敷を、呼ばれて振り向く男に手渡した。
 今日はもうすぐ雨でも降り出すのだろう、青空の大半を灰色の雲が覆っている。
 もう少しすれば、轟きうねる雷鳴が聞こえ。
 刹那雲間に閃く白光が見える筈だ。
 男は其れを見ようと思っていたのか―――空を1時間ばかりずっと眺めていた。
 声をかけた最初は良く分からなかったらしいが、次第に得心がいったようで深く頷く。
「これが?」
 いつぞやの様に凝視しながら、男に問い返す。
「…あいつの見立てた物だ、俺は良く知らん」
「ふむ」
 とりあえず風呂敷を手に取ると、奥の座敷へと引っ込んだ。
 その背中を眺めながら、着方が分かっているのか、と思ったが先ずは放っておく事にする。
 程なくすると、襖の隙間から顔を出して尋ねられた。
「ゼンガー」
「何だ」
「……」
「…?」
「…どうやって、着れば良い?」
「………」
 想像していたので溜息は出なかったのだが、多少の脱力感は伴う。
 移動後、襖を開けて見えた男の姿を確かめ目を見張る。
 脳内には混乱の2文字しかなかった。
「!?」
「? どうした?」
「お前、な…っ、その格好は!?」
「?」
 男が着ているのは――正確には未だ着ては居なかった、素肌にそのまま羽織っただけの状態で――
浴衣は浴衣でも、女物の浴衣。焦げ茶地に薄桃の花と薄緑の蔓が縁取る。
一畳向こうには紫と黒の帯も見える。
適当にたたんである様子から、どうやら、
とりあえず出して広げてみたはいいもの結局着方が分からなかったものらしい。
 ただ身体に巻き付けただけの状態で、男は首を傾げる。

『愛らしい、な』

 彼が、長い金髪をした青年が、良く男について表現していた言葉が成る程しっくり来るのだ、
この状況下に置いては。しかし、と思い直す。
(そもそも彼奴は何故女物の浴衣を…!)
 間違える筈も無い。ならば考えられるのは故意しかあるまい。
 静かに沸き上がる怒りが、男の一言で我に返った。
 正に幼児の様なあどけない表情をして首を傾げ、相手の様子を窺う。
 そもそも、目の前の相手が驚いている理由が分からないのだから仕方の無い事。
「ゼンガー?」
「ウォーダン……」
 さて何から言うべきなのか、考え倦ねる。
 どうやって説明すれば分かってくれるのか。
 別に赤子では無いのだから説明するだけで理解される、とは混乱の内にどこかへ行ってしまっている。
 今は目の前のこの光景に対して収拾をつける方法に焦りを感じた。
「とりあえず―――」
「?」
 男の前に膝を下ろして、さあ説明しようとした時。
 一つだけの瞳が笑ったかと思うと、
「!」
「…っ?」
 突然男が腕の中へ飛び込んでくる。
 その急な動作に身体を支える事も出来ず、二人は畳に伏した。
「何を…っ!?」
「ふふ」
「!?」
 咄嗟に受け身をとった、戸惑うばかりの相手に対して男は愉快げに笑う。
 己が耳を胸に寄せると普段よりも尚薄い布越しに伝わる相手の鼓動。
 其れに我知らず零れた笑み。
 無意識に腕は下敷きになっている男の背中へと回る。
 熱い、では無く温かい身体。
 隻眼の男は薄銀の瞳を細めた。
 空が光る。
「…面白い」
「俺は重い…退け…!」
「嫌だ」
「お前…っ」
 己が纏うこの衣も又、普段とは趣を異にするもの。
 庭から吹く風が肌を撫でていく感触に、心が反応する。
 心地良い、とでも言うのか。
 男の感覚が次第にぼやけていく。
 直接触れあう肌から溶けていく様な錯覚。
(このまま一つになれれば)
 ―――幸せだろう。
 自然と沸いてくる気持ちを生み出す元を、男は知らない。
 閉じ込めてしまった記憶の底にある不安。
 造られた身体を支える心。
 其の奥に仕舞い込んだ真の渇望。
「…空、が」
「何」
 ぼんやりと呟いた言葉と同時に、薄曇りの空が光り、天が呻り声をあげた。
「…!!」
「ゼン、ガー―――…」
 相手の胸に頬を寄せたまま、瞼を閉じる。
 降り出した雨音。
 強くなってくる水の勢い。
 未だ何か言っているようだが、もう其れは聞こえない。
 一気に冷えてしまった空気に身動ぎを一つ。
 より強く相手に頬を寄せた。

 今はどんな言葉も受け容れはしない。
 これ以上に、幸せな空間は無いのだから。

「ウォーダ―――」
「すー…」
「……。おい…」
 夏の風物詩よろしく夕立を眺めていた男は、溜息を一つ付く。
 愛犬が飼い主にじゃれつくように飛びかかってきたかと思えば、今度は人を枕にして眠りだした。
十分に睡眠はとっているだろうに、この寝付きの良さ。
規則正しく身体が上下する所から考えても、真に寝入っているのだ。
(一体何に満足したのか…)
 視線を下ろしてみた所で相手の癖の強い銀の色の髪しか見えぬ。
 身体を動かそうとしない所が、己の弱い部分でもあろう。
 この男に対して甘い所があるのだ。
「お前は…全く」
 眠ってしまった相手が纏う浴衣を少し引き上げる。
 肩が出ていた為、起きた時に相手が風邪をひかぬ様心配して。
 暫しの眠りに布団代わりとなる其れに手を置き。
 ゼンガーは男の髪を撫でながら、己も又瞼を下ろした。

<了>

***

 人の心は容易く全てを忘れてしまう。
 時の流れに翻弄されるが故に。
 だが、忘れられないものもある。
『お前と―――』
 男は喪った者の大きさと、その痛みを決して忘れまいと誓う。
 伝えられなかった、伝えたかったその想いも。
 悠久の過去より目覚める唯一つの約束。
 そして新しく為された誓い。
『俺達が傍に居る』
 触れる指が温かく包む。
 その鼓動に耳を澄ませる。
 忘れない為に。
 もう二度と。
 これから。
 喪う事の無い様に。
『…ウォーダン』
 この先にどんな未来が来たとしても、名を呼んで貰いたい人が居るから。


【ねむるそばに】


 昼下がりの午後三時。
 何故か甘味のあるものを食べたくなる時間帯。
 蝉の鳴く声が空気を震わせ、大地に吸い込まれていく。
 八畳程の大きさの茶の間で三人の人物が対峙していた、静かに。
 先日より続く二人の諍い。
 その原因である人物は首を傾げる。
 左右を挟まれた状態、両者の間に身を置きつつ。

「軽い冗談のつもりだったのだが」

 長く、ウェーブのかかった金糸の髪を背中に流しながら青年は言う。
 その瞳は深き森の色。
 表情は至って真顔でも、瞳に在る色は違う。

「度が過ぎる…!」

 癖の強い銀の髪と、瞼にかかる長さの前髪。
 男は髪と同じ色をした瞳を瞼の奥に隠しながら呟く。
 判然と抗議の声音。

「? 俺には良く分からん」

 苦い呟きを漏らした本人と酷似した容貌の男が繰り返し首を傾げる。
 異なる点をあげるとすれば其れは唯一つ。
 左目に深く引き連れた傷、機能を失った片目。
「本人もそう言っている事だ」
「間違った常識を植え付けるなと言っている!」
「…間違っているのか?」
「……」
 隻眼の銀光は翠玉の瞳を見つめた。
 しかし、青年は微笑を浮かべるだけで何も言わない。
 暫くの間三者の間には沈黙が降る。
 それぞれの思惑が交錯しあった後。
 肩を上下させる程の大きな溜息をついた男。
「…とりあえず、俺の予備を貸す。着方は以前教えた通りだ」
「もし…分からなくなったら?」
「外出予定も無いのだ、自力で何とかしろ」
「!」
「酷い台詞だな、我が友よ」
 青年の言葉に隣では無邪気に頷く姿。
 投げつけられた言葉に対し、驚きと不平の意を込めた仕草。
(……最近妙な知恵が付いてきている…)
 青年に援護さえ貰えば、己が諦めて折れる事を学習してきている。
 どうすれば自分の意見が通るのかを。
 そんな事をせずとも十分に己はお前に対して甘いと思うのだが、とは言えまい。
   隻眼の瞳と同じ色をした目が、少なからず疲弊を訴えた、かの様に見えた。
 無論翠玉の青年に対してなのだが相手もさることながら其れには全く応じない姿勢を貫く。
 ―――いつもの事だが。
 幼児の世話とからかいの応酬に、些か目眩さえ覚える。
 どちらがどちらだとは言うまい。
 隣の間の箪笥から引きずり出した藍鼠色の浴衣一式を取り出すと、隻眼の男に手渡した。
 そのまま、二人に背を向けて縁側へと歩き出す。
 迷うだけ無駄というもの。
 求められるのであれば。
 其れに応えよう。
 半分閉じていた襖に背を預けて座ると、一言。
「…どうしようもなくなったら、な」
「…!」
「良かったな」
「ああ」
 後ろの二人が交わす会話を耳にしながら。
 俺も甘いものだ…と漏らした言葉は、二人には届かなかった。


「―――君も意地悪な事を言う」
「…お前の所為だ」
「?」
 先程の言葉に嬉々として着物を抱え、隣の間へと移動するその背中を見送り、青年は言った。
 其れに返ってきたのは視線を決して合わせまいとする男の拗ねた声。
 嫌でも非難されているのだと分かる。
 尚も憮然とした態度で男の言葉は続く。
「意地悪はお前の得意分野だろう」
「だから?」
「長く共に居れば…似通ってもくるという事だ」
「君が? 私に?」
「…何が可笑しい」
 苦笑しかけた表情を真面目に引き戻す。
 剣呑な雰囲気で強く睨まれたからだ。
 残念ながら睨まれたからと言って、効果は殆ど無いのだが。
「別に何も無い。…が、一つ言わせて貰えるのであれば」
「…何だ」
(此処まで近付いても気付かないとは)
 ―――非常に珍しい。
「!!」
 いつの間にか隣に座す人の気配。
 気づき、慌てて振り向くが。
「…遅い」
 男が僅かに顔を上げた瞬間を見計らって、青年はその顎を掴む。
 逃れられない状況で、二つの瞳がぶつかり合った。
 額をぶつけそうな程の至近距離で。
「君は今、自分がどんな顔をしているか―――分かっているのかな?」
「…ッ!?」
 囁かれた言葉に顔面は赤一色。
 大きく見開かれた瞳が次第に熱を帯びてきている。
 脳内を満たすのは、羞恥という名の怒り。
 青年が唇で笑う。
「拗ねた君も又、可愛らしい…」
「離せ…!!」
「さあ、な。…意地悪が私の特技なのだろう?」
「お前ッ…」
 叩かれそうになった手を即座に自身の横へと戻す。
 相手は赤子が泣きそうな程の気配を漂わせて此方を睨む。
 無論、先程同様に効果は無い。
 男は悠然と構える相手に対し今まで勝てた試しが無かった事を思い出す。
 口喧嘩であれば尚更勝った事など無い。
 このままのペースでいけば当然相手の好き勝手に振り回されるだけ。
 兎に角己のペースに持ち込めた事など、無い。
 悔しさで浮かんだ涙を誤魔化す様に、瞼を閉じる。
「俺はもう、知らん。少し寝るぞ…!」
「そうか」
 何とも素っ気のない返事。
 その声に諦めと、一方で別の何かを想いながら、男の意識が途切れる。
 苦笑とも取れる忍び笑いが、耳に残った。


「…エルザム」
「どうした?」
 襖を少しだけ開けて顔をのぞかせ、名を呼ばれた相手に青年は歩み寄る。
 完全に機嫌を損ねた男とよく似た彼に。
「何か、騒いでいた様だが…」
「気にするな、ゼンガーは―――いつもの事だ」
「……」
 何かを言いかけたが途中で変更した、そんな風にも聞こえた言葉。
 思わず唯一の銀の瞳に不安な影が過ぎる。
 心配以上の想いが。
「エルザム、俺は」
「……」
「俺、は―――」
 隻眼の男は長い前髪を揺らしながら、しかし口を閉じた。
 次の瞬間にはその想いを押し込めて正常な色を表に出す。
(抑圧する事だけしか知らないのか)
 青年の瞳が翳る。
 我慢と忍耐の区別さえ、知らず。
 恋う心を押し殺す。
 焦がれる想いも。
 男が尋ねた。
「とりあえず、此で良いのか?」
「…ふむ」
 おずおずと襖から現れた姿は自分たちと同じ浴衣姿。
 見様見真似で先日、実況説明をしただけの割には思ったよりも綺麗に着こなしている。
 特に気にかかる部分も無く、別段このまま外へ出て多少の散歩をしても平気だろう。
 この服に慣れる為にも本来はそうした方が良いとは思うのだが。
 そんな思考をひとまず打ち切ると、青年は頷く。
「大したものだ」
「では…」
「十分に、着こなしている」
「そうか…ならば」
 男が襖の縁を越え、一歩踏み出そうとした時。
 青年は以前に縁側で寝る人物もやった“失敗”を思い出した。
「裾には呉々も気をつける様に。自分で踏んでしまう場合も―――」
「…っ!?」
 だが少々遅かった忠告通り、男は裾を踏んでしまった。
「!」
 慌ててその身体を抱き留めて、右足を後ろへ一歩程ずらす。
 手近な棚に手を付いた御陰で倒れる事も無かった。
 一安心の溜息をつくと、不意に男の腕が背中へと回っている事に気付く。
「…? ウォーダ―――」
「俺を、置いていくな」
「―――!!」
 翠玉の瞳が大きく見開かれる。
 眼前に明示される絶望よりの願い。
 其れが何かは問うまい。
 この体勢と同じように、心が必死に求めているもの。
「ひとりは……」
「……」
 背中に縋り付く腕にこもる力は強くなる。
 男の心と同調し。
(君が言っていたのは、此か)
『彼奴は不意に、脆く―――弱くなる時がある』
 原因を知っているのだろうか、だが彼はそれきり黙ってしまった。
 声が震えているその理由を彼は言わなかった。
 正しくは、言えなかったのだ。
「嫌だ…!」
 涙で霞む視界に、男は叫ぶ。


 薄紫の雲が、橙の空に棚引く。
 静かに穏やかに。
 時、流るる。
 黄昏。
 ―――汝は何者ぞ?
「…全く…」
 どうしたものか、と青年は言った。
 言葉とは裏腹にその声に呆れた様子は全く無く。
 唇は自然に笑みを形作り、瞳には優しい光が宿る。
 翠玉の瞳が見つめる先には同じ瞳と髪の色をした二人の人物。
 言動さえ酷似している二人を見分けるのは。
 まず一つ、その瞳。
 片方には左目に大きく引き攣れた傷。
 睨まれた者を射竦める程の鋭さと強さを秘めた瞳は、右唯一つ。
 そしてもう一つ。
「…似てはいるが、似てもいない…か」
 やがて空に現れる夜の光りに応える銀の髪にそっと触れる。
 何度この髪に触れてきただろう。
 何度この輝きに心惹かれただろう。
「……」
 決して同じではないのだと。
 影で在る筈が無いのだと。
 彼に一体何度聞かされた事だろう。
 同一のリズムで繰り返す事が出来る程に言われた台詞を思い出す。
 小さく、苦笑を浮かべ。
「…あぁ…」
 潤む瞳をした男を宥めて、落ち着かせてみればいつの間にか早くも眠っている。
 そんな所まで同じ行動をとるのだから笑うしかない。
 闇の存在を忘れた訳では無い。
 危険が無くなった訳でも無い。
 不思議な事に落ち着いてしまうだけ。
 何故か愛しさを覚えてしまうのだと。

『少し落ち着け』
『……』
 しがみついて離れない男に呼びかけたが、無言。
 困惑気味にもう一言。
『座るか?』
『…寝る』
 返ってきた台詞に多少唖然としたが、冷静に対処しようとして。
『ならば何か枕になるものを―――』
『……お前の膝で良い』
『!』
 そう言うなり、自身の膝に頭を預けて1分も経たぬ内に寝入ってしまうのだから恐れ入る。
 ついその手に引かれるままに腰を下ろしてしまったが、果たしてこの座り方では1時間も持つかどうか。
 かといって無碍に起こすのも悪い気がする。
 ならば、と――心当たりがある事にはあるので――考え、試しに男の頬をつついてみた。
『すー……』
 余程深く眠ったのか、元々寝付きが良いのか、おそらくはその両方から目覚める気配が無い。
 額にかかる前髪を持ち上げて、又額へと落としても同じ。
 癖のある髪と一緒に頭にゆっくり触れたとて。
『ん……?』
 撫でられた事に気付く様だが、起きはしなかった。
 其処で膝枕の代行者へと目をやる。
 ゆっくり男の頭を自身の膝から下ろすと、静かに足を忍ばせて縁側へ。
 縁側の板の間では音が鳴る為に、畳から身を乗り出して相手の肩に触れる。
『………』
 序でに組んである腕の浴衣をそっと引っ張る。
『………』
 起きない。
 起きそうにない。
『―――では』

 …という経緯を経て、縁側で寝る男の膝に先程寝入った男の頭を乗せた。
 それでも起きないという不思議さに、不思議さどころか疑念さえ浮かぶものだが。
 この二人ならば真に寝入っているのだろう。
 経験上、そう判断する。
 だからこそ困惑気味に笑ってしまうのだ―――自身が。
「揃いも揃って無防備に眠られては、正直」
 困る、と。
 夏の夕べのと或る光景。
 風だけがその呟きを聞き取った。

<了>

   writing by みみみ

 戻る。 
© 2003 C A N A R Y