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【 夜更けのウタ 】 |
日中、地面から浮かぶのは陽炎。
太陽に照らされた空気が歪んで、新たな影を結ぶ。
夢幻の如く儚い、而して目に映るは確かな。
意識が現実に引き戻され、閉じられた目蓋の裏で考えていたのはそんなことだった。
暑い毎日が続くと、ついつい眠りが浅くなり。
地球と生きていこうと思えば機械に頼ってはいけないのだと。
心頭滅却…以下云々と唱えてみてもどこか空々しい。
うっすらと目を開けると身体を起こす。
汗ばんだ全身を寝ぼけた頭と共にすっきりさせるべく浴室へ向かう足。
「…?」
男はふと室内を横切る足を止めて、耳を澄ました。
湿気を含んだ重苦しい空気。
今夜は風が吹かないという予報も当たり。
木々は揺れることもなく、月光に照らされて大地に立っていた。
窓の外、半身を無くした月が浮かぶ。
今の季節らしい、何の変哲もない、気候。
否。
「……」
訓練された鼓膜に、何かが震えたのだ。
確かな、音。
微かだが、それでも。
しかし―――暫く待ったところで反応は無い。
(…疲れている、のか…?)
軽く頭を振ってから、そう結論付けて浴室に入った。
「ふー…」
蒸気と共に浴室を出て、しきりに頭をふく。
もっと丁寧にふけばいいものを、と注意をされたのはつい最近のこと。
とはいえ昔ながらの癖は直りにくく、癖のあるこの髪はこうやって少し乱雑に吹くくらいが丁度良いのだと、
言い切ったばかりではあったが。
「―――!」
再び歩みが止まったのは今度こそ間違うことなき旋律が聞こえたからだ。
この暑い夜の温度を下げるかのような優しく美しい旋律。
顔を上げ、瞼を閉じ、聴覚神経を研ぎ澄ませば、やがてそれがピアノの音という事に気づく。
どこからか鳴り響いてくる其れは。
大音量とまではいかないが、人の眠りを妨げるには十分だろう。
たとえ美しく――だがどこか物悲しげな――洗練された音色であったとしても?
深夜にピアノを奏でるとは一体如何なる了見なのか。
そう怒られても仕方がないのだ、が。
今この建物内には二人の人間しかいないのだ。
真夏に見る夢は――無論、これがこの感触が夢である筈が無いとは思うものの――不可思議なものが多いとしても、
人間以外――もしかしたら猫や鳥などの動物――がここまで見事に弾きこなせる訳が無いのだ。
そんな逡巡を頭の中で巡らせる行為は、果たしてリアリストなのか夢想家か。
とりあえずこの男には余り興味の無い話だ、本来ならば。
誰が夜中にピアノを弾こうが、ギターを奏でていようが其れは全く関係の無い事。
幸い、下手でもなく詰まるでも、其れは見事な演奏なのだから…
案外、眠りを妨げるものでは無く、快適な睡眠を約束してくれる方だろう。
だが今回ばかりは多少状況が違う。
自分以外の人間はたった一人。
しかもこんな状況を作り出して尚且つ風流さを好む。
例え他に多数の人がいたとしても、元々思い浮かぶ人物は一人しかいないが。
(我ながら…酔狂な話だ)
思わず、そんなことを考えた。
シャツに軽く上着を羽織り、濡れた髪のままで歩き出す。
生温い風でもあっても、肩で風を切る身においては少々冷たい。
とりあえず、火照った頬には丁度いいのかもしれないが。
1曲目が終わり、続けて2曲目に突入。
そして辿り着いたエントランスにあるグランドピアノ。
椅子に腰掛け鍵盤に指を踊らせて。
中世の御伽噺に出てくるような、どこか浮世離れした光景。
白と黒のコントラスト、其れのみが月光に照らされて或る人物を浮かび上がらせる。
近づいてくる気配に気がついたのかその手が深夜の演奏を止めた。
「…今晩は、我が友」
唇、だけがそう動いたように見えた。
少なくとも痛い程に静かな夜なのだから。
音をたててはいけない、ような気がして。
だが確かに耳には音としてその言葉が届いていた。
残念ながら、それを意味あるものとして脳が意識する方に時間がかかってしまっただけだ。
すっと雲が晴れ差し込む光に照る金糸の長髪。
祖国の森を思わせる深い緑の瞳。
月光のみを頼りにした室内で闇と同化しているピアノ。
―――綺麗だ…。
己の心がそう感じているのだと、男が気付いたかどうか。
優雅に――こちらが苛つくのではないかと思う程に――ゆっくりと、彼は振り返った。
余程呆然としていたのだろうか、首を傾げて尋ねられる。
「今日は暑い…目が覚めたかな?」
「……」
「?」
ますます相手が不思議そうな表情をしていることに気づいたのも遅い。
ぼうっとした頭を振ろうとして、緑の瞳とぶつかる銀の瞳。
「……あ、いや」
どうにも気恥ずかしくなり視線を泳がせる。
散々聞きたい事や言いたい言葉はあったはずなのに今や完全に消えてしまった。
取り繕おうにも己の困惑した思考には無理らしく。
思わずため息が出てしまい、すると相手も瞳を伏せる。
「…やはり…、起こしてしまったのだな―――」
すまなそうに言う彼に慌てて打ち消しの言葉をかけようと。
「俺も暑くて目が覚めたのだ、お前のせいじゃない」
その言葉に彼が微笑して椅子から立ち上がる。
彼の今いる場所はエントランスの緩い階段の一番上だ。
放射線状に広がる楕円形の階段、その上に設置されているグランドピアノ。
彼が居るのは其処。己が居るのは階段の途中。
……今思えば…無防備に彼の傍へ近づくことを警戒しようと
心掛けていたのは何の為だったのか、それを思い出せなかったことが悔やまれる。
距離が縮まれば縮まるほど、己は彼のペースに巻き込まれていく。
自分でほどくことが出来ない罠に、簡単にかかってしまうのだ。
「ゼンガー、…」
「な」
何だ、と聞き返そうとして階段を上るのを止めた一瞬。
銀の長い前髪に触れた唇が囁いた。
「知っている、よ」
「!!」
その瞬間耳まで朱に染まった顔を伏せた。
ふふ、と笑う声に心臓が騒いでいる。
先程の打ち消しの言葉に対する揶揄だと気付く為には余裕が無い。
からかわれていると分かっているのにその度に過度な反応をする己を叱りたくもあるのに。
硬直した全身から吹き出てくる汗は、気温の所為ではなく何か別の観点からなのか。
いやその前にこの体勢でいるのは少々きつい。
背中を少し丸めて屈んだ状態で固まっていれば、自然と腰も痛くなりがちだ。
しかし彼の吐息が額に触れていること、それが更に。
簡単に振り払えば良いではないか、というかお前もいい加減こいつをからかうのはよさんか…
と言ういつも見守ってくれている人物からの檄の飛んだ声も制止すら有る筈も無く。
そんな考えすら浮かばないであろう男は心底困っていたが、不意に額に違和感を覚えた。
何処からか、軽い音が響く――つまり、其程までに思考が混乱していたわけだが――
ことで目を動かすと、彼の指が鍵盤に触れている。
「?…どうし」
「君が隣にいる事が幸せと不安を呼ぶ」
「…な、に…」
突然の告白だった。
真夏のスコールを知らせる、一粒の水滴のように。
徐々に流れてくる、感情。
まるで側に誰もいないかのように。
自分の言葉を自分自身に言い聞かせているのか。
「君の存在に救われながらも、君が居なくなる恐怖に怯える…」
「……」
かける言葉が見つからない。
いつもそう思っているのか、そんな風に考えていたのか。
彼、は。
それでも笑い続けている、笑みを形取る唇に。
先程までの温度は無いのだ。
リズムも無くメロディも崩れて鳴らされるピアノが。
「…それの何と滑稽な事か」
「…エル、ザム…」
一音ずつ、気まぐれな雨音とよく似た。
冷たい、音?
見えぬロープに立つのは道化か。
泣く事を知らぬ張り付いた笑顔が全ての顔と。
闇の中、照りつけるスポットがそっと彼の足下を照らし出してみても、彼の心が晴れることは。
そう、いつまでもいつでも不安を糧に立っているのだろう。
誰にも知られる事無く。
「…まるで―――」
独白は尚も続いていく。
軽い音をたてて、それでも途切れることを知らない。
崩された、堅固な城壁。
一度現れた感情が再び奥へと姿を消すには時間がかかることも、分かる。
だからこそ。
自嘲? 彼の人の胸に巣食うのは何かと。
―――目が覚めて、眠れなかったのか、お前は―――
突然脳裏に閃いたのはそんな言葉だった。
彼も同じくして目を覚ましてしまったのだろう、己とは違う理由だが。
しかし自身を苛む感情が、再びの眠りを許さない。
―――だから、さっき隣にいなかった―――
いつも目覚めれば隣に感じる体温が。
決まったリズムが聞こえる鼓動が。
無かったのだ。
近くでも遠くにいても。
ただ、ゼンガーという男の存在に脅かされている。
心が幸せと不安の境界を無くして。
―――だが何もせずにはいられなかった、そういうこと―――
「ならば待とう」
「…?」
不意の言葉に、ぼんやりと彼の瞳がこちらを向く。
やはり焦点が定まっていない。
悲しさと通り越した、虚ろな瞳が見つめる。
「お前が安心して眠れるように、お前がもう一度眠りに落ちるまで…俺は起きている」
ほら、と手を差し出す。
笑えていればいいのだが、常日頃から表情が固いと言われる分。
相手を安心させる事の出来るような顔を見せられていられるかどうか。
でも、もうあんな悲しい音は聞きたくない、から。
「手を繋げば分かるだろう? 俺はここに、いる。お前の傍にいる」
その心が持つ楽譜を捨てて。
おいで、と。
やがて彼はその手を掴んだ。
おずおずとした動作は余りに普段の彼とかけ離れて。
だが、表情は先程より幾ばくか和んだ。
「眠れぬ夜は共にいよう」
一人で、泣くことも出来ないくせに。
誰かと居なければ寂しいのだろうに。
どうして、たった独りでそんな心を音色に込める?
己に出来る事はたかが知れているけれど。
彼が不安だと言うのであれば、出来る限りでそれを無くしてやりたい。
例えばこんな風に―――?
男がそのまま青年を引き寄せて、腕の中に引き込んだ。
「…あ…」
「…たまには…」
俺に体を預けてしまえ、と。
そんな低い囁きが耳元に届けば零れるのは微かな笑み。
苦笑とも微笑ともとれない声色が聞こえる。
「…ならば、今夜は…」
君、と。
共に。
きっと今夜は寂しくない。
だから安心してお眠りなさい。
閉じた瞼に見える姿があるのなら。
<了>
writing by みみみ
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