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【 躊躇いの月が来る前に 】 |
君を攫ってしまおうか?
***
月に桜に紅葉に雪。
酒の肴には尽きない四季を持つ東の国。
そんな国の血を引く彼女は言う。
『宇宙で見る月は、本当に地球と違っているのね…何だか怖いくらいに綺麗』
地上に生まれ落ちた人間には分からない世界が、空にはあるのだと笑い。
驚き感じたことをそのまま口にしてくれた。
愛しい彼女を初めて父に会わせようと連れてきた宇宙は、彼女にとってどのように見えたのか。
空気の無い大地が見せるのは太陽に照らされた濃い陰翳。
目に焼き付く程明瞭な白と黒の世界。
あの青い星とは全く異なる黄泉の国。
其れが、幼い頃から宇宙に住む者にとっての月である。
『…太陽の女王は全ての命の源であり、月は地下の死を支配する王…』
ぽつりと呟いた文章が一つ。
全てを呑み込む宇宙を眺めていた二人の間に滑り込み。
僅かに身体を彼女の方に向けると、青年の金髪が背で揺れる。
此の部屋は多少の重量制御下にある。
然し、地球を駆けめぐる大気の流れに遊ばれる其れとは又異なる動きを見せ。
同じくらいの長さの髪が動き、彼女も振り向く。
瞬きで重なる視線。
ふわふわと浮き沈みを繰り返す身体を面白いと楽しむ一方で、何処か真剣な光を宿す瞳。
『君の国の昔話か』
『ええ』
日出処の国。
古代そう呼ばれたという東の国でも、月は隠なる象徴だった。
太陽つまり生を司る姉と、月つまり死を司る弟。
其の二つが在ってこそ、世界は成り立つのだとも言われ。
初めて聞いた時には自然と女性が生命の象徴として扱われている事に驚きを覚えたもの。
不思議な、神話。
『エル、貴方には月がどう見えているの?』
『月が?』
『そう』
『……』
彼女の真っ直ぐな瞳は何かを試されているようで少し居心地が悪く、挑戦的で楽しい。
料理の腕を競う時と良く似ているのだ、互いに負けず嫌いだからか。
淡い色彩に満ち溢れたあの小さな島国と。
常に死と隣り合わせの此の宇宙では。
月の印象は真逆の印象を覚えるに違いない。
けれど、少なくとも。
『―――…兎は居ないと、幼心にショックだったよ』
『!』
そう、確かに―――と目を丸くした後直ぐに笑い出した彼女と一緒に自分も笑った。
考えているような間を開けておいて、返ってきたのは戯けた答え。
東洋の島国では月に兎が居るという。
餅をつき、十五夜の、秋の夜長を踊り楽しむ。
思わず出てきた台詞に諧謔性を読み取り。
『貴方にもそんな可愛らしい時期があったのね』
『心外だな、私とて最初から今のような思考を持ち合わせていた訳ではない』
『ふふ、本当かしら?』
『ああ勿論…』
吸い込まれたのは彼女の瞳。
其の中に映る青い宝石。
孤独な宇宙の奇跡。
愛しているよと囁いて、彼女と合わせた唇は今も。
同じ言葉を別の誰かに贈っている。
罪故に、甘い時間。
「ゼンガー!」
「喚くな、聞こえている」
「!」
喚くなとは何だと普段の口喧嘩が始まり、同居人と親友の他愛のないじゃれつきを眺めながら、
青年はゆっくりと自らを今現在へと戻していく。
忘れるには新しく、思い出すには少しばかり遠い、過去。
今三人が居るのは慣れた別荘を離れて黒き方舟で繰り出した、とある山中。
後ろからやってくる気配を忘れる程、感傷に浸っていたのか。
自嘲とまではいかなくとも、苦笑せざるを得ない。
「エルザム」
自身の名を呼ぶのは耳に馴染んだ低い声。
折れぬ意思を剣に込めて、戦場を共にした愛しい親友。
一方で、森を抜けた草原の先、ススキを両脇に抱えた男が手を振る。
親友と瓜二つの顔をした男が、大きく――まるで子どもの様に――此方へ向けて笑う。
鏡写しの人形は、記憶を失って新しい時を刻み始めた。
其れは愛しい三人目の同居人となって親友と共に、今自身の傍にある。
一歩先を行く青年は急に振り返ってこう言った。
「矢張り地上で見る月が、一番良い」
―――――荒涼の砂漠では無く、緑の大地で。
「君と同じ月を見てみたかった」
***
「お月見?」
「そう」
男は首を傾げた。
日が次第に穏やかな日差しを投げかける時期になったとは言え、まだまだ暑さは厳しい折。
隻眼の男が『物好きだ』と評した修行を、連日欠かさず行っている親友を余所に、
室内では何やら密かな企み事の気配。
昼食後の片付けも終えて、普段ならば一房に束ねた髪を解き、
同じくリビングで座している筈の青年が未だに厨房から帰ってこない様子に、男が其処を訪ねてみれば―――。
『何だ此は』
『お団子だ』
“月見”には此が必要不可欠だと語る青年は、巨大な固まりから器用に指で小さくちぎり取り、
手の平で転がして丸く整えていく。
男が沈黙を続ける間にも2個3個と数は増えて、普段食べるように蜜のかかった串刺しではなく。
ピラミッド状に積み重ねられていく不思議な食べ物。
『…美味しいのか?』
『私の腕を信用しないのかな?』
不意に口から出た一言に、青年はややからかいの意図を含んだ声で応える。
向き直れば困惑の気配を纏う男が一人。
親友にも似て左目に傷を持つ男は、親友とは異なり甘いものを好む。
其れ故に今現在作られているものにも興味があると見て間違い無い。
自然と青年の唇は孤に曲がり。
薄銀の瞳を掴まえる。
無論、此の間にも青年の動きは止まらない。
「君には我が友を連れてきて貰おうか、無論内密に」
「何故」
―――方法や手段等は君に一任するので、以下の時刻に彼をこっそり連れてきて欲しい。
別段難しい注文ではなくとも、不可思議な要請である。
男が訝しがるのも仕方の無い事。
青年の緑の瞳が悪戯好きの光を宿し、告げる。
恐らく目の前の人物は力ずくという手段で、我が親友を連れてくるのだろう。
目を覚ました時の一騒ぎが容易に想像できて可笑しさを煽る。
「…彼の驚く顔が見てみたくはないか?」
「……。そうだな」
此の一言で、男はアッサリと秘密事を約束した。
***
遠い夢の瞬き。
未来ではなく過去。
過去ではなく未来。
記憶を取り戻したが故に、全てを喪った男は、茫漠たる空を見上げている。
『宇宙で見る月は違う』
『地上は遠いからな』
『月で兎が餅をついていると信じている子どもも居ない』
『…そうだろうな』
他愛のない会話だった。
同隊に所属していた頃の、地上を愛しむあの青年との記憶。
兎という言葉が彼の口から出た事に笑みを浮かべつつ、青年の瞳は穏やかで厳しい。
宇宙で生まれ育った人間にとっては、地上に住む人間のしている事、感覚は到底甘いもの。
破壊も死も何もかもが、近くて遠いと諍いの原因になる。
『宇宙で生まれた子供は最初から月の顔を知っている…冷たく乾いたあの大地を見ている』
『……』
だが、宇宙もそうであるように、地上には地上の厳しさがある。
森には森の、草原には草原の。
命の遣り取りがある。
大地が震え、海がざわめき、暴れ行く風が全てのものを薙ぎ払い押し潰してしまう怖さは、宇宙にはない。
大地に根ざすが故に、何処に行っても変わりはない。
『当然、お月見という風習も根付かなかった』
『ならば何故、今になって』
『地上に降りてみれば分かる事だ…ごく自然な事』
月見という地球の風習を知った青年は戯けたように肩をすぼめ。
微笑する。
想いを寄せる人は、然し親友。
『ゼンガー、月も星も願いを叶えてくれはしない。だが』
―――――満ち足りて、想いは遠く。
不意に呼ばれた己が名は、全く別の音に聞こえる。
『星よりも近く、太陽よりも優しく感じるのだろう。この地球にとって月は』
『…ああ』
『届きそうで届かない存在だからこそ、祈る。強くない人間はだから祈る―――例え其れが叶わずとも』
『叶わなくとも?』
『月は矢張り其処にある。変わらず、ずっと。…再びの想いを抱く程に』
『!』
人間が生き続ける限り、月や星に、何かに祈る生き方は変わらないだろう。
人間は弱い存在なのだ。
今、“再びの想い”と、称した理由が分かる。
(お前と同じ月を見ていると思えば…お前が見ていた月と思えば…)
耐えてゆける。
数千年の時を経て、孤独に苛まれずに。
生きて、逝く事が出来る。
(同胞の命を奪い、護るべき人を殺した俺であっても)
黙って見守る光。
静寂を支配する穏やかな白い光は太陽の反射。
昼を司る主の輝き。
(…エルザム)
―――――あの頃にお前と見た月が、今はもう遠い。
***
さわさわと晩夏の風が草を撫でていき、持ってきたススキを揺らした。
今宵の天気は晴天。
微かな雲が過ぎるだけで、満月は星々の隙間に浮かんでいる。
もっとも、同じ丸い形であっても色気より食い気が勝る男にとって、
月をぼんやり眺めている時間は、同伴する青年と男を苦笑させる程短い。
天気の悪い別荘ではなく、此の山間にまでやってきた甲斐があったのかなかったのか。
料理人としては申し分ない食べっぷりではあるものの。
「…ウォーダン、食べ過ぎだ」
青年が苦笑する横で、親友の男は腕を組んで僅かに眉根を寄せている。
そう何の情趣もないと呆れ返る男の言葉に、咥内に未だ残る団子を嚥下し終わった相似の顔が言い返す。
此の同居人は不思議な事に、
自らのオリジナルである親友よりも自分に似てきたような気がすると、親友は嘆く。
以前、似てきたからどうなのだと意地悪く尋ねてみた事があった。
『? 何か悪い事でも?』
『…いや……』
互いにからかいの言葉であると知りつつも、気落ちする友の顔を見れば。
何と無しに、同居人が自らを真似る理由も分かる気がした。
「けちくさい奴だなお前は…お前が食べないからだろう」
大袈裟に肩を竦めて口うるさい人間への反論は、知恵をつけたといっても未だ子どもの理論に近い。
当然分かっていて付き合うのが保護者の責務である。
「夕食を食べたばかりで良くも其れだけ…」
月見の時間は自然と夕食の後になる。
盛夏の頃に比べれば日没時間は早まったが、空の色は未だ濃紺ではなくて蒼闇。
光がほんの少しだけ融けている色。
「おかわりの分もある。心配せずとも大丈夫だぞ、ゼンガー」
「…誰が自分の団子を心配していると!?」
「「ん? 違ったのか」」
満面の笑顔で安心しろと肩を叩く男と青年は、事前に打ち合わせをしたかの如く口を揃えた。
―――こんな時だけ意気投合をするのだから質が悪い…。
当然、月にも似た金の髪を揺らす青年は分かっていてやっているのだから。
其れが愛しい大切な存在でもあり、親友でもある男にとっては些か分の悪い話だろう。
とは言え、最初は山と積まれていた団子の数が恐ろしい速度で減っていく様を見ると
食欲が徐々に遠のいていく気がする。
特に、夕食を食べたばかりとあっては。
「大体団子というのは月に供える為のものであって」
「折角レーツェルが作ってくれたものを無駄にするのか?」
今までの会話の流れとは異なる、まっとうな理論を持ち出されてしまい、一瞬口籠もった。
思わず視線を合わせた緑の瞳も同じように尋ねてくるので焦る。
「べ…つに、食べない訳では無い」
「難しい言葉を使うな。食べたいならそう言え、幾ら残して欲しいと」
「だから…っ!」
―――君の負けだな、ゼンガー。
二人のやりとりを聞いていた青年が堪えきれずに吹き出した。
同時に相似の表情が此方を向くのだから更に面白い。
一人は苦虫を噛み潰した様に、もう一人は訳が分からないといった風にゆっくり差は現れるものの。
互いに鏡写しの存在と言い合う様は可笑しいと言うに他が無いのだから。
「そもそもこの半分は俺が作ったのだ、自分で作ったものを食べて何が悪い」
「…そう言う問題ではない…」
「確かに」
「「!」」
「曲がりなりにも“お月見”と称するからには、月を見なくてはな」
自慢げに言う同居人を見て、項垂れる親友の姿を見て。
頃合いを見計らって発言した青年の言葉に、二人の男たちが会話を止めた。
いつまでも片方の味方ばかりしていては収まる喧嘩も収まらない。
此処が匙加減の難しいところだが、付き合いから計れば容易い男の行動を読む。
「見て…居たのだ」
「何?」
揶揄めいた表情を消して、多少は真面目になった顔で隻眼の男は月を見上げた。
黒の空に浮かぶ白の穴。
―――――仄かに輝く其れが持つ、特別な意味を己は知らないけれど。
(楽しい方が良い)
眠れない夜、一人で見上げた夜空を思い出すよりも。
堪えきれない孤独さに、屋敷を飛び出したあの日よりも。
もっと楽しい、大切な記憶が欲しい。
「―――お前たちが来るまでずっと見ていた…が、止めた」
「「何故?」」
金髪の青年と、銀髪の男が同時に尋ねる。
だからといって真っ正直に己の心境を答えるのは何処か悔しい。
記憶を失った己が今できる事は、新しい記憶を積み重ねていく事。
そして其れをもう二度と喪わないようにする事。
其れを口にする程、己は素直な人間ではないと分かっているからこそ。
「一人で見てもつまらん」
「!」
「ウォーダン…」
答えはしない、決して。
手の平に片手で数えられる量の団子を残して、男は青年からお茶を貰う。
そうやって一息ついてから人差し指を、きょとんとした青年に、ついで隣の男へと向ける。
「一人で見ている月は、“月見”ではない。俺が“月に見られて”居るだけではないか…
だからお前たちが居なくては何も始まらん」
無論団子だって我慢していたのだ、と付け加えたが、残念ながら青年の笑いを誘ってしまった様で。
青年は腹を抱えて笑い出し、終いには親友の肩へ凭れ掛かる。
我ながらうまい事をいったものだと考えたのは己だけだったのか。
「なっ…レーツェルっ、何が可笑しい!?」
「ち、違う…そうではなくて、だな…!」
「つまり―――単に食い意地の問題か…」
青年だけではなく、男にまで笑われて。
「ゼンガー、今お前っ」
さわさわと鳴るススキの音で、喧しくも三人の声。
顔を赤くした隻眼の男が、隣の男と何処か子供じみた言い争いをするに時間はそう掛からなかった。
<了>
writing by みみみ
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