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【 隣に在る事の意味 】 |
『行くぞ、エルザム』
『はい、父上』
あれは母が生きていた頃だっただろうか、父と乗馬の腕を競った事を思い出す。
不意に記憶の底から蘇ってくる情景の数々は、瞼の裏だけではなくて現実世界にまでその影響を及ぼしてしまう。
例えば誰かに呼ばれた事にも気付かなかったり。
普段であれば見逃さない事や、聞き逃さない全てが霧散していく、程に。
「エルザム」
「……」
(エルザム…?)
伸ばそうと思った手を胸の前で止めた。
親友の、独特に響く低い声も今は何ら届かない。
其れはつまり。
青年は此処ではない何処かを見つめながら艦内の通路を歩く。
燻り続ける火花と、焼けただれて脆くなっている隔壁。
子ども一人なら十二分に通れるであろう大きな穴からは、ドックの様子が見えた。
弟は乗馬が剰り得意ではなかったので、乗馬の相手と言えば父親か従姉妹か―――気の知れた学友たちだった。
とは言え、父はその身分故に多忙な人物であり、我が身も拘束される時間の方が多かった様に思う。
(拘束…?)
学習、修練の時間は拘束だと自分自身は感じていただろうか。
当然の如く、当たり前として特に何の思いも抱かずに来たのではなかったか。
(―――…生まれた時から、此の手は血塗られていた…)
軍門一族の宗家長男として、生を受けた以上は自然な事だけれど。
其の運命を唯々諾々として従い受け入れる事とは又別だ。
当然だと考えられている事と、不服従の問題は。
(振り返る、我が道に在るものは)
見えない、血。
戦場で流れる赤い水。
全てが刹那の閃光に消える、儚い運命の戦士たち。
忠義である事と盲目である事を少なからず同一視させた彼女たちを使って。
(父上、私達は)
未来の為に必要な事だと、屍を築く。
強き者を、育てんが為に。
『我らの役目は戦の全てを司る事。即ち、生も死も』
あの最終決戦が始まる前に父は地上へ降りる自分を呼び出して、目前にそう言った。
旧西暦から続く怨嗟の鎖と宿業の重責。
戦を生業とするものが覚悟するべき不動の意思。
大局を見据えた末に決断を下す事の意味。
幼い頃から繰り返し、言われてきた事―――此の家に生まれた者が知るべき宿命。
『前線指揮官から遠のいて早数十年…だがお前は未だ前に立つのだな』
『…はい』
青年は知らず無意識に手を握りしめる。
彼の父は彼と良く似た、情愛深きしかし冷徹な瞳で其れを見た。
(弱さは全てあの時に切り捨てた…)
大きな隕石な地球に降り注ぎ、何かを悟った天才科学者の片棒を担ぐと決めた瞬間から。
計画は始まっていた、着実に然し見た目は緩やかに。
何も知らぬ世界が叩き起こされて現実を見据える日まで押し殺す感情。
何を得るのかなどと求めてはいけない、唯後に残す事を考えれば良い。
我が息子たちの、世界に。
ふと、自らも拳を握りしめている事に気が付き、胸中で苦笑する。
(真白の手袋は我らの罪の証。
戦場に立つ者から、単なる人間へと還る瞬間に…我らはきっと恐怖を覚えるだろう)
擦っても取れる事の無い、こびり付いた赤茶の錆を。
自らが生み出した幻の中で眺める事になるのだから。
―――――裁きの鎌は、常に我が傍へ在る。
『行け、そして見届けよ。我らが築く道の先にある世界を、彼らの行く末を』
『了解しました』
感傷的な言葉は無かった。
唯常に繰り返されていた言葉を再び念押しとして言われたのみ。
此処に在るのは親子の絆ではなく、総司令官と兵士としての二人だった。
敬礼を返答に踵を返し、部屋を出て行こうとした瞬間。
『…さらばだ、エルザム』
掠れた、重い声。
押し殺しても尚溢れ出る何かに負けた、そんな声。
『…!!』
振り返った瞬間に扉は閉じてしまった。
オートロックで主の許可無く立ち入る事を許されない此の部屋に、自分はもう来る事は無い。
其れはつまりもう二度と。
(…父上…)
―――貴方には何一つ言えないまま、私は。
(………)
「……」
艦橋へ戻ってきた男は、
オペレーターの一人から艦内に於ける現段階での被害状況を視認して欲しいと言われた。
此は先程呼んでも気付かなかった我が親友からの命だという。
立場的に艦長である彼の命は絶対で、勿論己には何ら断る事は出来ない。
戦闘以外に役立つ事の出来ない自分にとって、珍しい仕事とも思えた。
「も、申し訳ありません少佐…ですが艦長は…」
が、己の無言や戸惑いを怒りに感じ取ってしまったのだろう、オペレーターの一人が恐る恐る謝罪した。
階級的に言えば彼の方が下になるのだ、此も当然。
伝言とはいえ階級が下の者に命令されるなどと気分の良いものではないだろうという誤解。
―――残念ながら其の思惑は外れている。
「ああ…いや、別に構わん。少し、考え事をしていてな」
そう言って視線を艦橋内巨大スクリーンに映し出された破損状況グラフィックを見る。
艦首衝角、左舷衝撃砲、メインロケットエンジン―――甚大な被害だ。
此処久しくは見る事の無かった艦の姿。
後もう一撃喰らえば、スペースノア級万能戦闘母艦と言えども危なかっただろう。
先の大戦に等しい傷。
(技術陣を含め眠れぬ夜が続くか…)
「確かに…此程までの被害が出るとは想像もつきませんでしたからね」
相手も苦々しい面持ちで同様の事を思っていたらしい。
呟く言葉に不安が過ぎる。
(だが、被害は―――…艦だけでは、無い)
“彼”も又、“古傷”を開かせた筈だ。
己の声が届かぬ傷の中へ。
彷徨う程に大きく深い、“疵痕”に。
唐突なのはいつもの事だ。
本人は全く気にしていない辺りがらしいと言えばらしいのだが。
しかし、此には困ってしまう。
『寂しそうに笑うのだな』
何気ない一言。
気付いた事をつい口に出してしまった、唯其れだけ。
なのに。
(君の目は真っ直ぐすぎる)
『何故、手袋を外さない? 食べにくくはないのか?』
まるで断罪されているかの様な錯覚に陥ってしまう―――。
銀の瞳は尋ねてくる。
表情を表に出さない男が呟く一言は意外に重かったのだと気付かされる。
茫洋としている様でも、不意に本質を見極める在り方。
柳の如く。
泰然自若。
男も又、自らと同じく気付けば戦場に身を置いていたと聞く。
剣の師に出会い、其処で生き抜く術を学んだのだと。
他にも多くのものを学んだ、と。
(私は―――何の疑問も抱かずに生きてきた)
一部隊、一艦隊の動かし方。
戦術的技術、戦略的思考。
心理戦に於ける駆け引き、力業でのねじ伏せ。
物心付く頃には戦場での大局の見方を学び、覚え、すんなりと身に馴染んでいた。
分かる、どうすれば良いのか。
どうすればより自分にとって有利な状況へと運べるか。
大人の世界に身を浸し、同年代の人間と親しく接した記憶は余り無く、
年の離れた弟も畏敬を含めた視線を投げかけてきた。
『困っているのか? …酷く、線の細い笑い方をしている』
急に真剣な瞳でそう言われてしまい、返す言葉が無くなった。
(あの時…掴んできた君の手は震えていた様な気がしたのだが、私の手も)
―――恐らく震えていただろう。
「……お前は、又」
男は呟く。
『エルザム…いや…レーツェル』
『…二人の時は別に構わん。ゼンガー、君の好きに呼べばいい』
困惑、というよりも言いたい言葉を押し殺している表情が瞳の奥に伺える。
目は口ほどにものを言う、とは此の男の為にある言葉だなと青年は苦笑した。
『では、エルザム』
『何だ?』
唇に笑みを刻んだままで青年は男の呼びかけに応える。
何事にも動じない、冷静な指揮官としてのポーカーフェイスを身に纏った青年には。
―――俺の言葉は届くのか…?
そう考える男の眉根にはすっかり皺が寄り。
(名が変わってもお前はお前だ)
(私が私である以上)
「「何も変わらない」」
あの時。
無言でありながら一層多弁な瞳を、二人は交錯させたのだ。
其れは悲しみの楔。
其れは嘆きの鎖。
其れは憎しみの剣。
理解していた背負うべき十字架―――――罪という名の。
自身の身に与えられた受けるべき罰。
殺した者は殺される運命にある、血塗られた手が運命を引き寄せる。
『私は罪人、私が罪人』
屍を踏み越え心に押し込めていた筈の何か。
今静かに。
青年は瞳を閉じた。
満身創痍とも呼べる状態で帰還した黒い箱舟を、思わず作業員たちは固唾を呑んで見守った。
多少の揺らつきと共に着艦し、
其れを見計らっていたかの様にあちこちからケーブルや用具箱を抱えた整備兵が駆け寄ってくる。
中には燻り続ける火を用心して消火器を片手に走り寄る者もいた。
皆一様に不安そうな表情をし、母艦の帰りを待ち侘びていたのだ。
斯くなる上は、一刻も早く彼女の修理を進める事に専念したいとばかりに走り出す。
《左舷修復モジュール設置完了、作業班Bは直ちに修復作業及び各部メンテナンスを―――》
《テスラドライブ停止、メインロケットエンジン停止を確認》
《各砲門の残弾数を報告せよ》
《衛生班は艦内の負傷者を運搬、作業に従事する者は運搬用の通路を確保又は―――》
《オペレーターは今回の戦闘データを司令室へ転送後、破損部分の指示と確認を》
一斉にドック内に響き渡る数々の指示。誰もが忙しなく、大声を張り上げながら作業にあたっている。
先の大戦が終わって以来の久方ぶりの破損状況だった為、いつにない緊張感が漂う。
「…どう見る?」
「少なくとも1週間は欲しい所です」
「……」
艦内の見回りを親友に任せ、
一足先にドックへと降り立った青年は待ちかまえていた整備班長にそう尋ね、返ってきた答えに眉根を寄せた。
「厳しいな…」
剰りにきっぱりとした答え。
苦笑すら浮かばない青年が思わず声を漏らした。
整備長は肩を竦める。
「帰投前にに受けた報告の通りであれば! 艦首衝角の大破、左舷衝撃砲の全滅、装甲板の一部大破、
加えてテスラドライブ及びメインロケットエンジンもやられたとなると―――――
修復・調整・確認作業を戦時の早さで行ったとしても5日、
さりとて今は以前の様に公に補給等を期待出来る身ではありません」
「…成る程…」
見るも無惨な左舷に目をやりながらも数枚にまとめられた
損傷報告書――帰港するまでに確認された情報――を青年に手渡し、
整備班長は指を折りながら如何に大きなダメージであるかを告げた。
全作業員の身を預かる長としての立場故、相手の階級が幾ら上であろうとも釘を刺す事も忘れない、即ち。
「人員や物資、用具にも限りがあります」
此の黒い箱舟が前の姿を取り戻す為には、最低1週間が必要なのだと。
此処にいる者達は皆この舟を愛し、この舟と共に生活をしているが、
それでも睡眠不足の集中力が欠けた状態で作業をすればミスが自ずと出てきてしまう。
有事の為に修復を急ぎたい気持ちも分かるが、其れはかなり難しい事だと。
結局は艦長である青年が判断する事であっても、押し通さなければならない事項はある。
人為的な損失は尤も恐ろしいのだから。
断然と言い放たれた言葉――正論中の正論――に小さく頷き、青年は損傷報告書を返した。
「分かった、全作業員に通達“無理はするな”と」
「了解しました」
「1日に2回、午前と午後の作業の進行状況を私に報告してくれ」
「…お疲れ様です」
「すまないが…後は頼む」
年齢の差とも言うべきか、何かを察した整備長の労りは微かに声のトーンに変化有り。
其れに気付いた青年は――漸く――苦笑を浮かべてその場を去った。
一方同時刻。
男は足早に――言い渡された命である――艦内の破損箇所の報告を受けチェックを終了、
艦橋オペレーターから現時点で確認出来る各破損状況最終報告書を受け取ると、ドック内に降り立ち、辺りを見回した。
「………」
探し人は何処にも見当たらない。
部署ごとに班長から報告を受けながら指示を出していた整備班長を見つけると、最終報告書を手渡し尋ねる。
ひとまず、己の任務は終了したという事だ。
「…艦長は?」
「休息をとられたようです」
「そうか」
意識した訳では無いのだが、若干声が低くなってしまった様な気がする。
簡素な返答に落胆とも安堵とも取れぬ感情が胸に過ぎった。
言葉少なに艦内チェックを任されたのだ、しかも結局はオペレーターを通じて。
あの戦闘後、艦橋に戻った彼は一言も発する事は無く―――事務的なオペレーターからの言葉に応えるだけ。
「ゼンガー少佐もどうぞお休み下さい」
ふと現実に帰ってくると、労いの台詞。
「―――しかし」
己たちだけが休む訳には、と拘泥する様子をつまらぬ意地だと整備長は取り下げる。
数々の修羅場を知った明るい顔で。
「我々とて何も休み無しに働く訳ではありません、互いの体調を見つつ交代で働きます。
だからこそ、いざという時に貴方がたが我々に万全の状態で指示を出せなければ困りますよ」
「……承知」
確か十程しか違わぬ筈の人物に、上手く言い宥められたと男は思った。
己が考えている以上に、此の人は多くの事を体験してきたのだろうとも。
「ゼンガー少佐」
「む?」
軽い礼をして踵を返し立ち去ろうとした男を不意に呼び止める声、振り向くと整備長が笑って言った。
「艦長にもお伝え下さい、―――“貴方も無理はしない様に”と」
「…伝えておこう」
優しい言葉から、恐らく青年も又整備長と同じように作業員たちを気遣ったのだと知る。
だが此の人の言う通り、我々も又無理をするべきではないのだ。
改めて其の気遣いに、男はほんの少し表情を緩めて応えた。
「!! エルザム!」
「……。ゼンガー…」
難航するかと思われた人物の発見は案外すぐだった。
自らの個室では無く、何故か己の部屋へ青年は来ていたが為に。
―――明かりもつけずにどうした、と問おうとして止めた。
壁に付けられた仄かな明かりだけで照らされる青年の横顔は暗い。
心なしか窶れている様にも見え。
「……今も昔も…君の部屋は簡素なものだな」
「必要なものしか置いていないから、だろう」
「……」
「……」
青年の言葉にそう言って返したが、続く言葉は無く、沈黙が降りる。
張りつめた予断を許さない空気。
一つ間違えば、彼の心は容易く傾くのだ。
(俺の、届かぬ海へ)
漣に攫われて、あっという間に。
「…お前に伝言を頼まれた」
突然の予期せぬ男の言葉に青年は目を丸くした。
何か重大な伝言かと気を引き締めたが、其れも次の瞬間には呆気なく崩れてしまう。
「誰から?」
「整備長から、“貴方も無理はしない様に”…休める時に俺達が休まなければ、何の意味も無いのだと」
「ふふ、手厳しいな」
(―――二度も労いの言葉をかけられる程?)
苦笑ともとれる笑みが刻まれ。
其処まで目に見える程自身が疲弊していたのだろうかと、考える。
普段からは考えつかぬ整備長の言動や振る舞いに、少々驚いてしまうが故に。
男も其れは同じらしい。
真顔で頷く。
「だが至って道理の通った話だ」
「…ああ、そうだな……」
此方へ、と青年が指し示す場所――自身が座るソファ、其の隣――に男は腰を下ろした、と同時に肩に掛かる重さ。
確かめなくとも分かる感触に男は呟く。
「俺は…お前に地獄の底まで付き合おう…」
「!」
考えて出た言葉では無い。
自然と、湧き出るもの。
願いや祈り。
そんな想いから出でる、言葉。
「此の命が許す限り、カトライアの分までお前と共に居ようと思う…例え……許されぬ想いに身を焦がされ、
魂が永遠に苦しむ事になるのだとしても―――――」
「ゼンガー、君は」
「エルザム」
微かに震える翠玉の瞳を、真摯に真っ直ぐ銀の瞳は捉える。
肩に掛かっていた長い金糸の髪を一房、手にとって。
そっと唇を寄せた。
其れは騎士が忠誠を誓う主に対して行う拝礼の儀式と酷似した情景。
恭しく頭を垂れて、己の心に誓うは一つ。
律せよ。
我が心を。
求めるも欲するも。
封じ込められる程の意思を。
固く閉じられた瞼の奥に男は誓う。
「いつか戦場で朽ち果てるその日まで、俺がお前の傍に居る」
「………」
「……」
ふと頬に触れた温かい感触に、男は瞼を開けた。
「…何故、君が泣く?」
「……」
男でさえ意識せぬ内に頬に流れていた一筋の雫を、青年は指で掬い。
白刃の意思を真っ正面から受け止めた。
逆に深き森は男に尋ね、男は回想し始める。
いとしい、ひとよ。
いとしき、きみよ。
(貴女の代わりに、彼奴を支えて傍に生きる事を許して欲しい。
少しでも俺が彼奴の肩の荷を背負える様に、楽にする事が出来る様に努力し続けるから、だから)
空の棺、無の亡骸。
大地に埋もれてゆく彼女を思い浮かべながら、
其の魂は宇宙に矢張り漂い続けるのだろうかと、想っていた。
青い星のあの国に彼女の墓は認められる、けれどもっと何か違う大切な彼女自身は何処へ行くのだろう、と。
『傍に、居る…』
青年が絞り出した声を、男は確かに聞いた。
耳に届けられた彼の意思。
雨は降り続き二人の体温を奪うよりも遙かに。
知らされた距離は大きく深く。
己が口出しをする事など何も無いのだ、彼は彼で全てを承知の上で戦い、決断し、
彼女との思い出に心寄せているのだから―――――彼の亡き妻であるカトライアと共に。
決して消す事の出来ない記憶が彼の背負う十字架。
罪を償う為に罰を受け続ける人。
振り返る度に気付かされる、彼と己との距離。
何も言わず何も考えず唯傍に居る事が出来れば良いのか―――否。
彼女と過ごした期間は短くだがそれ故に鮮やかに。
美しく強い瞳をした人だったと、我が記憶は懐旧する。
(…割り込みたい、等と醜い想いを掲げて傍に居るのでは無い……)
彼が咎を贖うその日まで、見守り続けるだけの役割を。
いつか目の前で倒れ死に行く彼の姿を見るかもしれない事でさえも。
己に与えられた残酷な任務。
時には隣で、時には背を守り、そして。
(お前を見ている)
否、見る事しか許されぬ絶対約定。
踏み込む事すら出来ない様な領域でもある。
しかし其れは己が定めた事だ、決して何者にも破られはしない誓い。
自ら望む事を禁じ、彼の傍に在る事を定め。
記憶に遵守する想いを、全て―――。
「泣いている? 俺がか…?」
「…気付いていないのか、君は…?」
疑惑の表情を深める青年。
掬った涙を指に乗せて、男の眼前に差し出す。
「……」
涙。
水分。
身体の、雫。
感情などと言う雲の様な存在に誘発されて現象するもの、が。
意識の外に今は在る。
「………」
叶わぬと分かっていながらも、見届ける事しか出来ない。
黙って彼の行いを見つめる事しか。
けれど。
「…お前は泣かないからな……」
「!」
男は僅かに表情を緩め、親しい人しか分からない、小さな微笑を浮かべる。
零れた涙も気にせずに、告げた。
「辛くとも…どんなに傷つこうとも…特に人前では、絶対に泣かん」
「…ああ」
腕を戻す前に、男は青年の瞳を覗く。
草木生い茂る深き森。
其れはあらゆる嘆きさえ自らの内に隠してしまえる程の濃い緑を宿した者。
慈愛を拒むというのに、孤独を哀れむ者。
「俺の前でさえ、お前は泣こうとしない。だから」
「私の代わりに泣いているというのか」
「……その、つもりだ」
青年は男の胸に顔を埋める。首に、背に手を回して。
「馬鹿な事を…」
「……お互い様だろう」
「ふ…」
―――君までもが私に意地をはるなと言うのか。
低い囁きが拗ねた様にも聞こえたのは、不器用な男が見せる一瞬の感情。
青年の胸中に少しだけ、温かな光を宿す事の出来る。
そんな大切な存在だと、口にする事を青年は自らに禁じている。
光を認めるのは、未だもう少し先の事。
二つの光、一つは亡き妻の微笑する姿と。
もう一つは。
愚直なまでに純粋な銀の瞳。
折れぬ意志を秘め、確固たる剣を手に携え。
常に自身の傍に黙して在る事を選んだ者のとある表情。
「ゼンガー、一つ…尋ねても良いだろうか」
「…?」
「…今晩の予定は?」
あどけないと呼ぶに相応しく。
問われた男が笑う。
そっと瞳を細めて、唇を緩ませ。
鬼神と謳われる程の戦いぶりを見せる男が刹那見せる優しさを瞳に。
胸に。
心に。
記憶の中に。
(私が意を決するその日まで)
期待に満ちた視線を受けながらも、愛する親友はつれない。
「止めておけ―――休めと言われたのをもう忘れたか」
苦笑の色を滲ませて答える男に、青年は拗ねたフリをしながら言う。
此位はいつもの事なのだ。
決してめげてはいけない。
「冷たい男だな、君は」
「……。……添い寝、だけであれば」
突然小難しいそうな顔をしたかと思うとこの一言である、
男にとっては此が精一杯の妥協というのか情けとでも言うのか。
至極真面目な返事だと承知しながら、笑いを堪えられずに青年は喉を鳴らした。
当然男がふて腐れてしまうかと思われた、が。
「後は、此で我慢をするが良い」
「ん……」
珍しい、と思う。
嬉しい、と思ってしまう。
強引でけれど優しい仕草を用いて。
想いを交わす。
急な口付けに構える暇無く大きな腕が自身を抱き寄せ、互いの唇が離れていってから再び視線が交錯した。
翠玉の王は挑戦的に問う。
「此、だけ、か?」
「…生憎そう言う事だ」
いつになく諭す口調が強く出ている台詞に。
首筋から耳元へ移動した唇が、囁く。
―――もう一度くらいは、許されるだろう?
と。
今度こそは、しっかりと重ねられた互いの熱。
此の瞬間だけが、距離を無くす事が出来る手段なのだから。
触れ合う事。
其れが世界で、一番。
愛しい方法。
<了>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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