【 酸いも甘いもお気に召すまま<2> 】

 夕闇に紛れて人の影を踏み締める。
 通り過ぎる人の中で見失いそうになる道を。
 大切な人と今歩もう。
 その腕を、両腕を取って。

 未だ、始めの頃は辛うじて理性を保つ事が出来ていたように思う。
 あまりにも唐突で恐ろしい一夜の幕開けを、感じられはしなかったけれど。
 間の抜けた声と、溌剌とした声がリビングに響く。
「……は?」
「SUESSES ODER SAUERES!」
「………」
(先ず、落ち着け)
 そう言い聞かせると、抱えていた本を閉じてテーブルに置く。
 その間一切視線を逸らす事は許されない。
 逸らした方が負けだ、と動物本能的な何か圧迫感を強く感じていた。
 ゼンガーは今、非常に混乱している。
 とりあえず思考が纏まらないのだ。
 頭痛も収まり夕食がすんで、リビングで読書の秋よろしく時間を過ごしていたところへ。
 夢を見ている訳でも無く頭がおかしい筈も無い。
 瞬きを数回繰り返した後でも矢張り視界に映る景色に何ら変更がない事を確かめつつ、
突然目の前に現れた人物に戸惑いを隠す事が出来なかった。
 いや、良く見知った人物だからこそどうしたらいいのかが分からないと言った方が正しい。
(………)
 ゆっくりと落ち着いて、深呼吸を一つ。
 銀の瞳が闖入者を直視する。
 目の前に立って――箒を片手に――黒いマントと少し尖った帽子を被った、ウォーダンと。
 その後ろに妙なる微笑を浮かべつつ、明らかに此方の出方を楽しんで居るであろう
――此方も同じく黒いマントを羽織った妙な格好の――レーツェルと。
 一体何が起きているのか。
 長い金糸の髪を揺らしながら、青年は男の方へ近付くと挨拶を一つ。
 妙に芝居がかかった様子で、腰を折った丁寧なお辞儀。
「今晩は、我が友」
 翠玉の瞳には悪戯な光。
 何かしらの罠に嵌ってしまったのは己だ。
 其れを分かっては居つつも、何も言葉が生まれそうにない。
「い、や…だから此は…」
 ぎこちなく視線を目の前の人物から逸らすと、青年の姿が至近距離にある。
 よくよく見れば、マントの下には何処へ行くのかと言わんばかりの正装をして。
 我が親友であるからこそなのか―――今はただその微笑が怖い。
 硬直している男にもう一度同じ言葉が届けられる。
「ゼンガー、SUESSES ODER SAUERES?」
「………」
 たてられた人差し指が眼前へと持ち上げられ、青年は片目をつぶってみせた。
「知らぬ君でも無かろう? TRICK or TREATだよ、今宵は」
「そう…か―――今日は」
「「ハロウィンだ」」
 二人が口をそろえていった言葉に、パニックに陥っていた思考が漸く動き始める。
 道理で今日の夕食にカボチャ料理が多かった訳で、青年は朝から甘いものを作っていた訳で。
 そして目の前にいる二人の装いが変な訳だ。
(少し考えてみれば分かったものを…)
 男は苦笑した。
「すまん…。あまり馴染みのない行事だったのでな」
「何だ、お前は気付かなかったのか」
「ああ」
 相手は呆気にとられた様子で、箒を遊ぶ手を止めてこちらを向く。
 やや目深に被った帽子のおかげで、左目の引きつれた傷も見えにくくなっている。
 サイズも合っているようで――間違いなく――青年が用意したものだろうなと思う。
 ふと、言われてみれば季節の行事として知ってはいても、
幼年時代にこのようなことをした覚えがあまり無い為、記憶の中の印象が薄い。
 寧ろ何か子供らしいと言われるような事をしてきたのかどうか。
(やれやれ、全く)
 こんな時には非常に困った事だともいえる。
 だが、生憎成人する前に軍に入ってからは特に、世間と流れが違う世界に生きてきた。
 其れで不自由などした事が無い為、故に分からないことの方が多い。
 季節の風習を、この年になってから知ることも屡々。
 今度も又、同じように。
「…レーツェル、菓子は何処に?」
「此処に」
 青年が腕に下げていた籠から、綺麗に包装された包みが二つ。
 其の一つを受け取ると――多分魔法使いか何かの仮装だろう――男の方へ向き直る。
 薄い銀の瞳が待ちかまえていた様に目を細めて笑い、受け取った菓子の包みを掌で転がしながら文句を呟く。
「何とも雰囲気の薄い…」
「仕方が無いだろう」
「ふふ…確かに」
 と言ったほんの束の間。
「Danke…」
「?」
 低い囁きがゼンガーの耳元に届くと同時に、頬へ温かい何かが触れた。
 右肩に置かれた手にも気づけず、唯一瞬の出来事に思考が完全に停止状態へ陥る。
 数秒の間をおいて、しかしそれでも理解出来ずに。
 正確に言えばしたくないと言うべきなのか。
 恐る恐る相手の名を呼ぶ。
「…ウォーダン」
「?」
「い、ま…何…を?」
 首を傾げて不思議そうな声音。
 其れは無邪気と呼ぶべき他に無く。
「至って普通に礼を返した、つもりなのだが…」
「な…っ…」
 開いた口が塞がらないとはこの事か。
 危うく気絶しそうになったのを辛うじて堪えると消沈の面持ちが見えた。
 例え表情に大きな差異が無くとも、分かる。
 落ち込んでいる事が分かってしまう、だから更に男自身が困る事になるのだ。
「気に障ったのなら…すまん」
「そう、では…なくてだな…」
「だが―――お前は困っているんだろう」
「確かに、そうでは…ある、ん、だが」
 額に脂汗を浮かべつつ眉根を寄せる男に対して、
対峙する相手――頬に唇を寄せた張本人――は悲しげな表情をつくった。
そんな顔をされては言いたい事も言えない上に、逆に何も出来なくなる状態へと追い込まれてしまう。
(どう諫めればいいのだ、此は…!? 否、まず何故そもそも此奴は)
 そこへ不意に。
「ゼンガー、君の衣装なのだが―――」
「レーツェルっ!」
「ん?」
 己が着るであろうハロウィン用の衣装を片手に現れた青年に詰め寄り、心中の困惑をぶつける。
 青年は目を丸くしてその剣幕に驚いていたが、今は構わずに問う。
「ハロウィン、で、菓子を渡した場合、子供は…!?」
「“貴方の先1年が幸福であります様に”―――という意味を込めて」
 説明をすると言うよりももっと砕けた口調で、しかし眩暈が起きそうな台詞が続いた。
 その瞳には何ら迷いもなく、さも常識であるという顔。
 きっと青年にはそうなのだ。
 が。
「相手の右頬にキスを送る、ではないのか?」
「…そんな…慣わしは、知らん…」
 部屋へ戻ってきた頃から疑いの眼差しを強くした親友に何を言われるか、青年は考える。
(まぁ、容易に想像はつく)
 真面目というのか頑固というのか。
 剛胆な性質の割には何かと拘る側面もあり。
 内心苦笑を浮かべつつ、頬を赤くして戸惑う親友の言葉を遮った。
「今晩だけは、子供に浮かない顔をさせるものではないな……ウォーダン」
「…?」
 青年は、消沈中の男を手招きする。
 矢張り呼ばれた相手も訳の分からない表情で近付くと、
青年が持っている包みの中から焼き菓子を一枚を取りだし、尋ねた。
「SUESSES ODER SAUERES?」
「無論」
 男が肯定するのを聞き、青年が瞳を細めて微笑する。
 ゆっくりとした動作で右肩に手を置き、低い声で相手に囁く。
「ならば、君の行く末に幸在らんことを―――」
 先程の言葉通りに、相手の右頬に唇を寄せて。
 その一連の動作にされた相手は完全に俯き、其れを目撃した者もこめかみに指を当てて目を細める。
「…大体は、理解した」
「それは良かった」
「ところで、確認したいのだが…」
「ふむ?」
「これは……お前の家の、風習か?」
「……」
 そう言われて、青年は考えこむ。
「かもしれんな…だが毎年我が家ではこうして、この夜を楽しんだものだが」
「了解、した…」
(最早何も言うまい)
 満足げに微笑む相手へ向かっては、これ以上言葉が出てこない。
 何と言えばいいのか、言葉が見つからないせいでもある。
 敢えて言うのであれば、其れはお前の家の風習であって世間一般の常識ではないだろう、と。
 言ったところで今更の話だが。
「で、君の衣装なんだが早速着替えてくれ、パレードの時間が迫っている」
「パレード?」
「うむ、地域の有志で子供の居る家を回ったりする予定だが―――すまん、話していなかったな」
「頼むから今度からは事前に言っておいてくれ…」
 青年が思わず謝ったのは、少しずつ男の表情が疲弊していくからだ。
 漏れ出る呟きに苦笑しながら、だが面白そうな声が届く。
「今回は、君の驚く顔が見られただけでも佳い夜になった」
「…お前…」
「ん?」
「態と教えなかっただろう…!」
「まさか」
 飄々とした風貌に隠された真意を、此処はあえて見過ごすべきなのか。
 思い出せばこの青年は、愉快な催しの為にその労力を惜しもうとしない性質であった事。
 己は毎回それに巻き込まれる側であった事。
 結局最後には青年の思惑通りの事が進んでしまう事。
(俺は……)
 手遅れに近いと言わざるを得ないのだが、更に追い打ちは続く。
 テーブルに置かれた衣装を、ウォーダンが手に取りゼンガーへ手渡した。
「着替えると言っても此で十分だろう」
「は…!?」
 今度こそ我が目を正気で疑いたい。
 男は其れを―――耳と尻尾と手、を凝視する。
 簡単に言えばそんな形のもの。
 今眼前に示されているのは。
 もしくは?
「それとも本格的にこっちにしておくか」
 狼の頭が付いた被り物。
 つまり、選択肢はたったの二つしか無い。
 どちらも選ばない、と言う選択肢は―――。
「どちらにする?」
 ―――無い。
(本気か!?)
 とは言えまい。
 隻眼の男の瞳が期待に満ちあふれていることを感じつつ。
 どうしてこんな事になってしまったのかを問うても無駄だろう。
 脳が、考えることを完全に放棄した。
「お前は……どちらにすればいいと思う…?」
「こっちの方が似合うと思うぞ、ゼンガー」
 己自身は既に選ぶ事を諦めてしまったので、
相手に選んでもらった其れ――渡された耳と尻尾と手――を眺めてから、溜息をつく隙もなく。
 引き続き戦況は悪化する一方。
「付け方が分からないというのであれば、私が付けよう」
「いっ、いらん! 付け方だけを教えてくれれば自分で…っ」
 にじり寄る相手を牽制するのだがもう遅い。
 瞳に浮かんできたのは涙などではない、と必死に思いこむ。
 こんな事でつい泣いてしまう己が馬鹿のようだ。
(…いつもの事だな…)
 それでも何の抵抗もせずにこのまま易々と屈するわけにもゆかぬ、と思うのだが。
「時間もないのでな―――抵抗しないで頂きたい、我が友よ」
「う…」
 逃げ出そうとするよりも早く、
「レーツェル、今の内に」
 と言って敵には増援が現れた。
 後ろから羽交い締めにされて、身動きが取れない。
「ウォーダン!? 放せっ!!」
「往生際の悪い」
「そう言う問題では無いッ!」
「では心置きなく」
「何が!?」
 結局、数分の間をおいて息も荒く、髪も崩れきったゼンガーにもハロウィンの装いが為された。
 された相手は既に疲労困憊の様子なのだが、した相手二人組はと言えば意気揚々としてお菓子を籠に詰め込んでいる。
 己だけが別空間にいる様で、早くこの夜が終わってくれればいいと願いながら。
「―――では、出発だ」
 夜は未だ、終わりそうにはない。

 月夜の晩には狼男が
 城の吸血鬼と手をとり踊る
 魔女は暗い森の中
 密かな宴を始めるものさ
 今夜はハロウィン
 門が開く日
 墓場に眠る包帯男も
 研究室のフランケンシュタインも
 皆揃って歩き出す
 さぁゆこう
 さぁゆこう…♪

「似合うか?」
 玄関の外から聞こえてきた賑やかな声が、今夜が何の祭りであるかを知らせる。
 男が半ば悟りの境地を開きつつも戸にもたれかかっていると、突然質問の声がした。
 振り向けば、ロングスカートに長めの袖、襟元には先程のマントを羽織り。
 勢いを付けて、くるりと一回転してみせる様はあどけないと呼ぶが相応しかろう。
 ―――それが立派な成人男性の姿でなければ。
(幾ら中身が未だ数年とはいえ…)
 数年とも言うのも想定にしか過ぎない。
 記憶が無いが故に、こんな振る舞いをするだけであって。
 幼い言動になってしまうだけだと、繰り返し己に言い聞かす。
 もしかしたら、寧ろそうであってほしいという己の願望かもしれないが。
「あぁ…よく似合っている」
「有難う。―――矢張り」
「ん?」
「矢張りお前にはそちらの方が良かった」
 男は顔一面に満足だと書いた様な表情を浮かべた。
 最早力の入らない感謝の言葉しか述べられない。
「…有難う」
「この耳も」
「…っ!?」
 突然手を伸ばして――先程渡された耳のパーツは、己の耳に引っかける様にして付けるタイプだった――
耳に触れられれば、其のくすぐったさに身を強張らせる。
「この尻尾も」
「おい…!」
 ゼンガーの肩にウォーダンの顎が乗った状態で、詰まる所二人は殆ど密着した状態で、
悪戯を楽しむ子供が面白そうに尻尾の毛を引っ張る事数回。
「ウォーダン!」
「ん?」
 いい加減にしろ、と叫ぼうとして。
「本当にお前に似合っている―――」
「…!!」
 結局何も言えなかったのは、軽く抱きしめられて頬に寄せられた唇が、
思わず背中にぞくりと来る様な低さの声で囁いたからだ。
耳朶を直接打つ様な、艶めいた声音。
(―――誰かに、似てきたな…)
 言葉の選び方といい、其のテンポといい。
 本当に、良く、何処かの誰かと似ている。
 冷静によく考えてみれば、慌てる必要もないのだが。
 相手が相手だけに先が読めない。
 両肩を掴まれて身を離し、一瞬前の声などまるで微塵も感じさせない男。
 今は普通にあどけない表情をして、部屋を出て行く。
 今夜の祭りが、彼をそうさせたのかも知れない。
「………」
 どっと疲れた表情をして、もうこれ以上は気が遠くならないように気を付けながら、
扉を開ければ闇に浮かぶ橙と紫の光。
 たった一夜だけのお祭りがもう既に始まっていた。
 赤やピンクの飾り付けもあれば、濃い緑で統一されたものもある。
 通りを歩く人々の格好も又、自分たちと同じ者もあれば見た事もないような格好をした者まで様々。
 昼の喧噪とは違う、どこか幻想的ですら在る光景。
 見上げた月は暗き天に細い弧の割れ目を描く。
「…レーツェル」
 隣で扉周りにカボチャの飾りを置く親友に告げた。
 真っ先に通りへ駆け出していった男は全てのものが珍しいといった様子で辺りを見渡している。
 それなりに大きな体躯をしているのだ、人混みに紛れてしまってもすぐ分かる。
 特にあの衣装からしても。
 少なからず溜め息混じりになってしまうのも仕方あるまい。
「これ以上変な事を教えるな」
「? 私は別にな」
「何もしていない筈が無いだろうが…!」
 青年はぶつけられた怒りを軽く受け流してしまう、いつもの様に。
「そうだな、今夜は色々と趣向を凝らしてみたが」
 ―――如何かな?
(矢張り、似ている…)
 真顔で冗談を言える様な此の男には適うまい、と匙を投げた一方で銀の瞳が薄くなった。
 先程までの疲れ切った顔を捨て、真剣な光をただ瞳に宿して。
「?」
「連れて行かれるな」
「……」
「……」
「…其れは君にも言えることだろう」
「………」
 あの世とこの世の門が開く。
 亡くなった魂が、この世へ戻ってくる。
 喧噪の僅かな隙間に混沌とした誘いの手が潜む。
 それに負けぬ為に。
「レーツェル、ゼンガー!」
 一足先に通りへ出たウォーダンが二人の元へ駆け足で帰ってくる。
 物思いに近い沈黙は破られ、再び喧噪が身を包んだ。
「ほら―――」
 二人の手を強く引いて、一刻も早く通りへ連れ出そうとする姿に視線を交わし、笑い合った。
「少しは落ち着け」
「君には無理だろうが、な」
「う、うむ…」
 ふと我に返った所で照れてしまい、俯く男の頭に手を置く。
「行くぞ?」
「はぐれない様に」
 恐る恐る伸ばされてきた手を、二人がしっかりと握り返す。
 パレードの人混みの中、隻眼の男は唇に笑みを零した。

<了>

   writing by みみみ

 戻る。 
© 2003 C A N A R Y