【 酸いも甘いもお気に召すまま<1> 】

(これは、矢張りどう考えても)
 思い当たる事象が分かってもその原因が分からないのでは、現状を止めようがない。
 例え己の体内では何かしらの侵攻が起きていても。
 緩急を付けて歓談無く頭痛が襲ってきても。
(……何故)
 臓腑から染み出た様な深く重い溜め息が、男の口から零れた。

 朝目覚めてから、不意に感じた違和感に気付いたのは顔を洗って階下に降りてからだった。
 朝食時に尋ねようと思っていたが、準備が既にされている上で作った本人はといえば台所で作業中だと、
向かい側に座る男が言う。
 その量は明らかに己よりも1.5倍の量がある。
 己も朝からよく食べる方だとは思うのだが、それにしても。
『…口に頬張りながら言うな、行儀の悪い…』
『む…すまん』
 窘めておいて、だが改めて考える。
(それにしても熱心な事だ―――)
 料理に対する彼の熱心さを十分に知ってはいたものの、朝から姿を一切見せずに
――朝食を共にする事が、この家での密かな約束であったが為に――
珍しい光景がこのリビングには起きている、そう彼自身が最も得意とする舞台である厨房から出てこようとしないとは。
『一体何を作っているのだ?』
『知らん』
『……』
 知らないというよりは興味が無いのだろう。
 酷くその幼い仕草を愛らしいと呼ぶのは彼自身。
いつの間にかその言葉に頷いてしまう様にはなったのは己自身。
其れを知らず振る舞うのは此の男。
 今は食べることに夢中になっている様子で、満足げに空になった茶碗をテーブルに置いた。
『ご馳走様でした』
 きちんと挨拶をするあたり、自分たち二人の躾の成果が現れているようで良いと思う。
 強いて言うのであれば。
(あいつが余計なことを教えなければ、な…)
 何処と無く諦めにも近い面持ちでコーヒーを口にした。

 昼が近くなり、時は11つの鐘を鳴らす。
 季節は徐々に冬へと動き出す。
 深まる寒さと高くなる空に澄んでいく空気。
 清冽な、気配。

 滅多に己自身が立ち入ろうとはしないその場所で、男は思わず顔を顰めていた。
 そもそも彼と付き合うようになってから舌が肥えだしたと思うのは気のせいではないだろう、
月に一度ほどは彼を休ませる為に調理担当を交代するのだが、何度味見をした所で何か今一つ物足りないと感じる。
 そうやって考え込んでいる内に時間が経過して、彼が苦笑して――頑迷に味を極めようとする己を宥める為に――
台所へやってくることもしばしばで、結局妥協せざるを得ない。
 分かってはいる、其処まで己に料理の才は無いのだから。
 それ故にあまり自ら立ち入ろうとは思わないけれど、彼が其処にいるからこそ訪れるのであって。
(此処は、お前の場所だ)
 ところが彼の戦場から、朝から己を悩ませるこの香りが漂ってきている。
 何となく漂ってくる此に薄々感づいてはいたのだが、
それを問うには精神的な強さが必要になる―――甘いものを苦手とする此の男にとっては。
 それでも漸くたどり着いたのだ、この場所に、青年の独壇場とも呼べる台所へ。
 だが。
「……」
 後二三歩の距離だというのに全く足が進まない。
進みたくないと、思っているわけだ。
このまま立ち往生を続けるわけにもいかないというのに。
 先程からそう言い聞かせてみても矢張りまだ歩もうとはしない、出来ない。
 台所の入り口は手を伸ばせば届く距離にある。
 激しく葛藤が続く中、不意に、背後から声がかかった。
「何をしている? ゼンガー」
「…ウォーダンか」
 振り向いた先には左目に大きな傷のある男。
僅かに己よりも身長が高いが、動作には幼児の持つあどけなさが何故か含まれている。
首を左に傾げ、怪訝そうに薄い銀の瞳が尋ねた。
「用があるのではないのか、レーツェルに」
「……。ある」
「ならば何故」
「………」
「?」
 ゼンガーが沈黙を保つ理由が分からないのだろう、ウォーダンはもう一度首を傾げた。
一方尋ねられた相手はと言えば、浅いため息をついてその場を立ち去ろうとする。
「―――あいつが出てきたら、書斎へ来るように言ってくれ」
 肩を並べて告げられた言葉に隻眼の男は笑う。
「自分で言えばいいものを」
「…用事がある」
「…そんなにも大事な?」
 皮肉めいた口調にも、味気ない答えが返ってくる。
 顔を向けた所で視線は合うまい。
 普段の様子と明らかに違う、と。
「俺なりの優先順位だ」
「……。…まぁ、別に構わんが」
 完全な納得をしてはいないが、託された以上仕方ない。
何処となくおぼつかない足取りで去っていくその後姿を眺めつつ、
青年にその伝言を伝えるべく台所へと足を踏み入れる。
(良い匂いだな)
 未だこれが“甘い”と表現される嗅覚であることは分からない。
「レーツェル」
「其処に…ゼンガーがいなかったか?」
 先手を打たれた、という気持ちよりも驚きのほうが勝る。
微笑を浮かべつつボールの中で粉を煉っている青年がそう言ったことに。
 その横顔は何やら楽しそうで、改めて男は室内を見渡した。
 何やら己の知らぬ調理器具が並べられているテーブルの上には、それ以上の材料の数々。
 見た事のない食材も、ある。
(―――意地の悪い)
 素直にそう思う。
「知っていたのか」
「無論」
「ならば何故?」
「さぁ…」
 出てこなかった理由を尋ねても、先程の男と同じく曖昧な答えに戸惑った。
 最初の問いには自信溢れた声で返答した。
 二度目の問いには何も返ってこなかった。
 正確に言うのであれば、この目の前にいる青年の場合は其れをわざと装って楽しむ癖がある。
 特に、薄い微笑を絶やさずに喋っている時は。
(全く…)
「…分からん、何故ゼンガーもお前もすぐ傍に相手がいるにもかかわらず…」
「歴とした理由がある、少なくともゼンガーには」
「理由?」
「私に聞くよりも本人に聞く方が良いだろう」
 投げかけようとした問いの全てを言い切るよりも早く、翠玉の瞳が意地悪そうな光を浮かべて笑う。
 つまりは。
「教えてはくれんのだな」
「……」
 青年は微笑を浮かべたまま、肯定の意としての沈黙を続ける。
 思わず消沈の面持ちと、溜め息が一つ。
 もっとも、青年がこういう性質であることにいつの間にか慣れてしまったから、半ば諦めにも似ている。
 いつもどおりに、変わらない。
「一応、聞くか?」
「何を?」
 分かっているのだろうに、わざわざ尋ね返してくるあたりがあざとい。
 と、男は思うのだが。
「ゼンガーからの伝言だ」
「“書斎へ来るように”…で良かったかな?」
「違いない」
 そのまま台所を出ようとして、テーブルの下に視線が釘付けになった。
 睨み殺せそうな勢いのまま、それを凝視し続ける。
「…レーツェル」
「ん?」
 こね終わったボールを置いて、台所を右へ左へと動く青年へもう一度尋ねる。
 ―――テーブルの下、段ボール箱の中にある幾つもの厚い緑の皮をした野菜を指差して。
「何だこれは」

 時折、悪戯好きな精霊が現れてこう言う。
《一緒に遊ぼうよ》
 美味しいお菓子、お伽の国の動物たち、告げられた言葉に子供達は目を見張る。
 冒険好きな男の子には魔法の剣を。
 夢見がちな女の子には不思議な杖を。
《さぁ遊ぼう》
 連れて行かれたら、もうその子は帰ってこない。

(頭が、痛い…)
 書斎のソファーに倒れこんだ男はこめかみを指で押さえる。
 ひとまず伝言を頼んでから2階へと再び上がってきたのだ―――少しでもあの香りから逃れる為に。
 朝から続く頭痛の、本当の原因は未だ持って分からずに。
 階段を上り下りするだけで精一杯なので、しばらくはこうやって動かずにいるしかない。
 馬鹿な話だとは思うが、薬には頼りたくないと思う。
(………)
 階下の香りに触発されたこともあってか収まる気配が全くない。
 だからといって其れがこの頭痛を引き起こした筈も無く。
 睡眠時間も栄養のある食事も、適度な運動も。
 何に起因するものか、此は。
 そもそも。
 ―――何故突然今に至って甘味なんぞを作っているのだあいつは。
(………)
 己が甘いものを苦手としている事くらい知らぬとは言わせない付き合いの長さだというのに。
 酒ほど耐性が弱くないとはいえ、これほど匂いが充満すれば多少気分が悪くなってもおかしくはない。
 後で散々文句を言ってやろうと固く決意する。
 男がそう思っていると、書斎の扉をノックする音が聞こえた。
「…誰だ」
「冷たい言葉だな」
 ドアが開いて入ってくる気配と香り。
 そして良く見知った人物に目を細める。
 先程から如何に罵倒してやろうかと考えていた張本人。
「……」
「君に呼ばれたからこうしてやってきたというのに」
「…エルザム」
「ああ」
「お前の所為だぞ」
 そう言われた青年は目を丸くした。
 珍しく、酷くこの男にしては幼い言葉。
 まるで子供の様に拗ねて、相手に非難を浴びせかける。
「―――其れは、悪かった」
「終いか?」
 苦笑を浮かべて謝罪しても、ソファーに寝転ぶ人物は棘のある言葉を返してきた。
(どうやら今回は相当きている様だな…)
 無理もない、耐性があるとは言え、基本的には苦手なものなのだから。
「本当にすまない、気分は…」
 なかなか機嫌の直らない親友に伺いを立てようとして、ふと。
(例えどんなに苦手なものであっても、此は)
 思い当たる事象は一つ。
 重なる事態に誘発されたのか、それとも鬼の霍乱か。
 突然、翠玉の瞳は沈黙に陥る。
「? どうした?」
 途切れてしまった言葉に男が尋ねたが、青年はソファーに寝転ぶ男の姿を凝視している。
 正確に言えば、その顔をだが。
 流石に見られている事に気付けば、気まずい。
 訳もなく無言で凝視される事など至極当然に慣れていないのだ。
「…おい」
「いや、何でもない」
「?」
 顎に手を当ててひとつ咳払いをすると、男の傍に膝をつく。
 そっと近付いて覗き込む銀の瞳には明らかな敵意の色がある。
 苦笑するしかない。
「…すまんな」
「遅い」
 今更言うことか、と。
 引き続き拗ねたように呟くその言葉を受けて更に笑みを深くした。
(少なくとも滅多にお目にかかれない光景、か)  手を伸ばし髪に触れて梳く。
 ―――子供のあやし方にも良く似た其れ。
「ん…」
「今日が終わるまで後もう少し、頑張ってくれ」
 額を合わせて呟き、くすぐったそうに身を捩らせた男が訊いた。
「今日、だと?」
「そう」
 エルザムの言葉に何か含みを感じるのだが、ゼンガーの思考は上手く纏まらない。
 仕方がないので、今はとりあえず頷いておく。
「…では、そうする事に、しよう……」
「頼む」
 青年は、最後に軽く男の肩を叩き、書斎を出て行こうとする。
 ドアに手をかけて、振り向きざまに言う。
「後で彼にコーヒーを持ってこさせよう。とびきりに、濃いものを」
「……」
 返答が無いながらも、青年は書斎を後にする。
(あれはおそらく―――)
 台所へ足を向けるよりも先に向かう場所がある、と。

 一夜限りの夢を見よう
 君と僕ともう一人
 今一度だけの奇跡があるなら
 同じ時は二度と来ないから
 だから今宵は三人で

「……」
 時暫くしてから、書斎に近付く影がある。
 扉の前で立ち止まると、其れは先程渡された瓶を睨んだ。
 階下で行われた会話は以下の通り。
『? これをあいつに?』
 少し足早に階段を下りてきた青年は、台所へ帰ってくるなり、男の手に小瓶を投げた。
其れを片手で受け取ると、掌に収まる小瓶を見て問う。
中断していた作業を進めようと、材料を片手に調理再開。
『ああ、すまんが今は手を放せないのでな』
『渡すのか』
『頼む』
 瞬間迷いのある表情が瞳を翳らせて。
『つまり…書斎に入れと…?』
 その言葉が、まるで初めてそんな決まり事があったのだと気付いた様に、相手が目を丸くさせる。
 だが決断は早かった―――苦笑しながら、水の入ったコップを渡して。
『ノックをしても呼びかけても返答がない場合、入っても構わない。今は、多分』
『…そうか』
 妙に歯切れの悪い言い方をする、と思ったのだが敢えて気にしないことにする。
 今日はとりあえず何に関しても、曖昧な答えしか返ってこないだろうから。
「………」
 で、今に至ると。
 回想をしながらも、既にノックは3回程繰り返した。
 勿論数回呼びかけてもみた。
 が、何の返答もない。
(一応決まり事ではあるのだが)
 この屋敷の主である片割れが許可したのだから別に問題はないだろう。
 意を決して、恐る恐る書斎の扉を開く。
「すー…」
 静寂に包まれた室内に入ると、安らかな寝息が聞こえた。
 灯りは全て消されていて、書斎奥にあるテーブルのランプのみが光っている。
 薄暗い室内で、ソファーには眠っている男。
 少し厚めの毛布を羽織ったまま、室内に入ってきた気配にも気付かない程深く寝入ってしまっていた。
 規則正しく胸が上下している。
「…疲れているのか…」
 すぐに思いつくことと言えばこの程度。
 近づき、テーブルの上に錠剤の入った瓶とコップを置く。
 それでも目を覚まさない―――普段であれば、声をかける前に振り向かれるものを。
 起こそうとして手を伸ばし。
「ん…」
「!」
 僅かな身動ぎに素早く手を引き戻す。
(別に、起こそうとしただけだ)
 何故か胸中には言い訳めいた台詞が浮かぶ。
 掠れた低い声。
「…だ、れ…だ」
「寝惚けるにも程がある、お前は」
「…ウォーダン…」
 徐々に開いていく銀の瞳が男の姿を捉えた。
 寝起きの人間に共通するぼんやりとした表情で、此方を向く。
 何かを言おうとしてはいるのだが、完全には思考が起きていないらしい。
 結局何も言わずに身体を起こした。
 まだ、茫洋とした雰囲気が残る。
「これは…お前が?」
 かけてあった毛布のことを言ったのだが、男が首を振りながら答えた。
「俺ではない、と言うことはレーツェルに他在るまい」
「そうか…」
「そのレーツェルから渡されたものだ」
 瓶とコップ。
 錠剤と水。
 テーブルに置いてある二つの物体を指差され、一度そちらの方へ視線をやってから、
今度はゆっくりと指差した人物へと視線を上げた。
「……。これを、あいつが?」
 明らかに疑惑に充ちた眼差しを受けながら、脳裡に回想される青年が人差し指を立ててこう言っていたと。
「『今晩の楽しみが無くなるから』とか何とか言っていたが」
「…?」
 二人の間に沈黙がおりる。
 だが共通して考えているのは。
「「今日が何があるんだ?」」
「…知らん」
「…俺とて同じ事」
 再び沈黙。
 しかしウォーダンは早々に思索を中断する。
「では…また。流石に夕食になれば何か分かるだろう」
「もう行くのか」
 残念だな、と続きそうな声に呆れた声で返答する。
「………。忘れたのか、此処はそもそも」
「いや…覚えてはいるが」
「お前が決めたことだろう、ならば」
 この時振り返らなければ良かったと思う。
 否、振り返って良かったとも思う。
 柔らかな優しい、笑み。
 予想通りの残念そうな声音で。
「すまんな、有難う―――と礼を言う機会を与えてくれても良いだろうに」
「………」
 無言で踵を返し、男は書斎を出て行く。
 それでもゼンガーには薄暗い室内で男の表情が分かった。
 驚いた様に僅かに目を開き、頬を紅潮させたのを。
(見られたくないと?)
 そう考えて、思わず苦笑する。

<了>

   writing by みみみ

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