【 眠れぬ夜に羊を数えて 】

「疲れているのか?」
「そう…見えるか」
「取り敢えずは、な」
 わずかに眉根を寄せる親友に、エルザムが苦笑する。
「君はどうしても無理をするのだな」
「…性分だ」
「生まれつきの癖―――成る程、仕方がないか」
 台所へ行ったエルザムが帰ってくると、その手には二つのカップが握られている。
 温かく湯気を上げるそれを親友――ゼンガー――の前に差し出す。
「…?」
 受け取ったそれを見て、視線を上げると長い金糸が背中に揺れている姿が見えるのみ。
 差し出されたカップに注いであったのは乳白色の液体。
 普段は殆ど苦みしかない黒色の液体を飲む身にあっては、余り口にする機会がない。
 投げかけた視線を知っているのか知らないのか。
 エルザムは、
「眠りたいのだろう?」
 とだけ言った。

 眠らせて欲しい。
 安心して。
 心穏やかに、時安らかに。

「……」
 喉を通る温かな感触に、全身の緊張がほどかれていく。
 後はそのうち訪れるであろう眠りを待つだけだ。
 ゆっくりとした動作で二口ほど口を付けると、カップをテーブルに置く。
 ―――眠ることが出来るのだろうか。
 ふと、そんな考えが襲う。
「この頃眠れていないのだろう? キョウスケ中尉やエクセレン少尉が心配していたぞ」
「…ああ…」
「君を心配する者は多い…休みたまえ」
「……」
 ゼンガーは苦渋の表情を浮かべた。
 自分の体のことは自分が一番よく分かっている。
 もうそろそろ休ませなければ、肉体的にも勿論精神的にもかなりきつい。
 だが休むことが出来ない―――眠ることが出来ない。
 眠れたとしても深く意識が落ちることはなく、また現実に引き戻されている。
 浅く水の流れを見るかのように意識は夢と現実の狭間をふらつく。
 妙に覚めた思考だけが今も未だ。
「―――ゼンガー?」
「あ…すまん……」
 テーブルの向かい側に座るエルザムが、心配そうな色を浮かべて見ていることに気付き、ゼンガーは顔を伏せた。
 どことなく、恥ずかしいと思う。
 こんな自分をエルザムに見られたくはないのに。
「……」
「……」
「―――眠れないのか」

 騒ぐ世の流れを忘れ、全てを知らず。
 眠るばかりが役割のように。

「……!」
 くいと顎をつかまれ、エルザムに銀の瞳を覗き込まれる。
 まともにぶつかった緑の瞳。
 強くも弱くもない平坦な声だが、貴族然とした響き。
 傲慢ともとられかねないその声が瞬間ゼンガーを支配した。
「いや、眠れないのだな」
「……」
 沈黙は肯定の証。
 交叉した親友の瞳をそう見る。
 凍える白銀の刃であって鋼の意志を持つ彼だが、その心は危なげで脆さを感じさせる。
 留まることなく進み続けるが故に、消えない傷も多々負って。
 その傷を癒す暇を己に与えようとはしない。
「―――拷問だ、一種自虐的な」
 呟いた言葉は無意識の産物。
 悲惨という言葉が似合いそうな様子だ。
 緑の瞳もそれと同じく。
「……」
「…私を悲しませるな―――…」
 押し殺して出た台詞に。
「…すまん…」
 ゼンガーの低い謝罪の言葉。
 彼を責めるつもりではなかったのに。
 エルザムはゼンガーから手を離し、背を向ける。
「いや、私の方こそ―――すまない」
「…だが…本当のことだ」
 振り向くとゼンガーが顔を伏せたまま言う。
 普段は静かで途切れのない彼の言葉。
 しかし、静かだがまるで熱に浮かされているかのような今の彼の言葉。
「分かっている…分かっているのだ……どうして眠れないのか…」

 安穏とした時を感じていたい。
 己の血塗られた宿命を忘れたいわけではなく。
 知っているからこその願い。

 己を苛む記憶。
 その痛みや辛さが確かに強さではあるのだけれど。
 忘れはしないと誓ったそれが。
 今、己へ帰ってくる。
「罪が…あの時犯した罪を……俺は、未だ―――」
 必然の裏切り。
 未来のためになしたこと。
 必要なことであると割り切っていたのに。
 何故か今更それが問いかけてくる。
 時間が経てば経つほど抉る深さも傷の広がりも増してゆく。
 周りがどんなに許していても、己の何かが決して許しはしない。
 むしろそのことを盾に、責め立てられる。
「許すことが出来ない―――何が…何があっても、赦されない」
「ゼンガー…」
「だから、眠れないのだ―――」
 ―――お前には安らぎなど必要ない。
 お前にはそんなものなど赦されてはいない。
 暖かさや、優しさなど。
 否、決して与えられない。
「戦う……だけだ…」
 彷徨う心が求めるのは安らぎ。
 けれど与えられはしない。
 戦う度に傷は多く、深くなっていく。
 それがますます己を苦しめることになると言うのに。
 戦いをやめることは出来ない。
「…寂しい…な―――」

 眠りは安らぎ。
 安らぎは束の間の休息。
 休息無くして、戦士は立てぬ。

 思わず出た呟きに、エルザムは目を見張る。
 ようやく訪れた眠りに、親友の瞼が落ち始める。
 朦朧としていく意識は無意識へと変化する。
 そんな中で聞く彼の言葉。
「…寂しいのか…?」
「…ああ…独りで―――…うのは、寂しい……」
「―――私がいる…!」
「…?」
 エルザムはそっとゼンガーを抱きしめた。
 薄く開かれた瞳がこちらを向く。
「…独りでいるのが寂しいならば、私がいる…こうやって―――」
 ―――お前を抱きしめているから。
「…ああ……」
「…お前の側にいる」
 疾うに自我を手放した親友が体を預けてきた。
 その重さをしっかりと支えて、強く抱きしめてやる。
 幼子を抱えるかのように、その腕に頭を乗せた彼は刹那微笑を浮かべ。
「…あったかいのだな…お前は……」
 安らかに寝息を立て始めた。
 静かに上下する胸を目視すると、エルザムはゼンガーを抱きかかえて寝室へと運ぶ。
「―――私が、お前の側にいる―――」
「ん…」
 長い銀の前髪の上から、彼の額に口付けた。
 
 さればこその眠りを君に。
 戦う戦士の宿命が君にあるのなら。
 刹那の安らぎを。
 眠りを与えたい。

<了>

   writing by みみみ

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