【 無題-mudai- 】 |
お前が呼ぶ、俺の名を。
単なる音の羅列が、意味を持つ瞬間。
甘く切なく、お前が呼んでくれた。
「愛しているよ…我が友」
躊躇いも戸惑いも、その胸に抱かれれば消え去った。
優しい手。
暖かな腕。
微かに頬に触れた唇が、また囁く。
「愛している」
繰り返し、何度も。
そんな想いに己は応えることが出来ただろうか。
彼が愛してくれる分だけ、己もそうであると言えたなら。
「俺も、お前が」
彼はどんな表情をしてくれたのだろう。
『…では』
『もう行くのか?』
『すぐに戻ると、約束した』
『そうか……』
まるで冬の霜のような雰囲気が漂う。
張りつめた空気は今にも壊れそうで、しかし堅固な壁を創り出す。
二人の間には、もう言葉など生まれない。
尋ねてきて間もないというのに、用件のみを告げただけで男は帰ろうとした。
青年は最初戸惑いの表情を浮かべ、門扉を開く。
春も近くなってきたというのに、厳寒の時へ針を戻しそうな程の声で名乗る人物。
隠せない戸惑いと、密かな覚悟。
分かっては居たが、時は迫れり。
ドアの向こう、立っていたのは自分よりも頭一つ分背の高い男。
普段であれば迷い無き色の銀の瞳が目まぐるしく変わり、何かの狭間で想いを揺らしている。
そして告げられたのだ。
―――此が、今生の別れになる。
今更、驚く事では無い。
今更、異論も無い。
だが。
男は足を動かすことが出来ない。
石にでも生まれ変わったのか、足は動かない。
―――もし、そうであればどんなに良かっただろう?
思わず、長い前髪が瞳を隠した。
真っ直ぐに彼の翠玉の瞳を見ることを躊躇って。
それでも。
どうしても。
『(分かって、いるのに―――お前に)』
『(君に―――たった一言が、言えない)』
刹那、視線の交錯が全てだった。
****
この世に絶対はあり得ない。
永遠も存在しない。
あるのは囚われ続ける心が生み出す苦渋の選択と懊悩だけ。
其れを幾度も飽きること無く繰り返して。
命の螺旋が紡がれる。
****
物理的時間が問題では無く、精神的経験が風景を変える。
新しい、時。
古い流れてゆくものを。
人は過去と呼ぶ。
では、今…己が瞳に移すこの空は。
蒼天、と言う言葉は相応しくないだろうに。
変わり過ぎた地球環境が、空の色をも変えてしまった。
きっとあの頃と変わらずにあり続けるのは空に浮かぶ星々ぐらいのではないか。
本当に変わってしまったのは己の方だと言うことに気付いてはいるけれども。
問わずには居られない。
ならば鈍色の空が己の代わりに泣いてくれる。
今は其れに身を任せるしか。
其れ以外、出来る事も赦されている事も無いから。
―――あの時に言ってしまえば良かった?
秘めた想いの丈を、全て洗いざらい白状すれば良かった?
そうすれば、今こんなにも後悔と惜別と慕情の念に駆られる事も無かっただろう。
別の想いが生まれても、決して此処まで深くはなかったかもしれない。
墜ちてしまった時の砂。
泣いても死んでも戻らない。
そして、死ぬ事は赦されない、何より己の矜持が。
諦めという名の終末を拒む。
「…呼んでくれ…」
きっと飛んでいける。
心には時間も空間も関係無いのだから。
呼んで欲しい、我が名を。
優しく、からかうように、けれど熱を帯びた声で。
あの時のように。
いつものように。
名を、呼んで。
お前が。
男は空を見上げたまま微動だにせず、大地に立っていた。
強く握りしめた拳からは一筋、赤い線が流れる。
狂ってもおかしくない一方で、冷めた視線で状況を判断する己が居る。
冷静にはっきりと、過酷な現実を示す己が居る。
切り裂かれるのでは無い。
潰されてしまったのでも無い。
唯、無くなってしまったのだ、何かが。
我が心の内よりも遙か遠くへと去っていった何か。
『久しぶりだな、我が友よ』
何度そんな幻聴を聞いただろう。
何度目覚めてから絶望を味わっただろう。
もう慣れても良い頃だと思うのに。
少しも諦めることなく、心が求め続けている。
―――もしかしたら?
今にでもそう言って現れそうな気配すらある。
共に戦場を駆け抜けた間柄、お互いの意図するところと行動は分かるつもりだ。
だからこそ、背中を預ける事が出来た。
「……っぁぁぁ……!!」
死ぬ事よりも生きる事の方が、罪人にとって罰となりうる時がある。
自身を真に滅ぼす事が出来るのは自身だけ。
重い罪。
穿たれた穴。
幾重にも連なる楔。
疾うに空になった筈の心がざわめいている。
願うは唯一つ、祈る事は決してしないから、だから、もう一度、だけ。
「…もう…もう……二度と……」
会えないのなら、貴方を離しはしない。
<了>
writing by みみみ
© 2003 C A N A R Y
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