|
【 月を愛する人。 】 |
運命という言葉の意味を問いたくなる時がある。
自らが引いた引き金の重さを、決して忘れることはないだろう。
赤く灼熱の炎に灼かれた、凛々しく強く美しいあの女性を殺した日のことを。
たった一言、運命という言葉で片づけてしまえるのであれば。
それは怠惰という名の罪だ。
許されるべくも無い永遠の罪状を持って。
生きなければならないのだと、忌々しくもこの手が囁く。
そして。
『―――逃げるな。…お前は……生き、続けろ』
辛く厳しい選択を、彼が望んだ。
否、自分に示してくれた。
その罪に背を向けるようなことはするな、と。お前は――――……。
『お前は強い、男だから』
だから、生きろと。
決して生きることを放棄するなと言う。
あの時の瞳に浮かんでいたのは、濃く深い哀しみの色。
心を分け合った、若しくはそれ以上の沈痛な面持ちをしていた。
自分ではなく、彼がそんな顔を。
何故。
重い瞼を開けると、灰の天井が見えた。
ぼやけていた像が次第に明確な輪郭を伴って現れる。
思考の冴えない頭とは別に、無意識の動作で枕元の時計を引き寄せた。
指し示された時刻、外気はまだ暖められては居ない。
当然、ひんやりとした空気が素肌に刺さる。
暫しの間時計を見つめていたが意を決して起きあがりベッドから立ち上がると、2層のカーテンを一斉に開く。
―――曙。
薄暮の空に淡い紫色をした雲。
太陽はまだ地上に姿を見せていない。
うっすらとした光が滲むように東の空に見えるだけ。
今日も日常が始まる。
日々の糧を得る生活が始まる。
それを告げるかのように近づいてくる人影。
彼の、鍛錬の時間だ。
(…今日も同じ…)
雨の日であれば違う場所で、多少の雨なら同じ場所で。
知り合ったばかりの頃より変わらぬ彼の日課。
早朝交代の勤務か、スクランブルが入らない限りは同じ繰り返しの事項。
きっと自分の知らない頃より遙か昔から繰り返してきたことなのだろう。
単調に、リズムを崩すことなく。
彼は獲物を構えて佇んでいた。
陰ながら見守っていたと言えば、聞こえは良いのだろうが実際はのぞき見である。
この視線に気付いているのか居ないのか。
後者であろうと考えて微かな笑みがこぼれる。
この基地で、殆どの報告事項は各自が作成する書類によって文字情報で伝達されるが、
時折この上官は口頭で改めて全ての報告をさせることがある。
今回も運悪く仕上げてきた書類を表紙だけ一瞥してから、そんな要求をされた。
深夜遅くまでの慣れないデスクワークと、
折り重なった訓練で疲弊しきった身体と睡眠を欲しがる脳が分離しそうな状況下、
どうにかこうにか報告を言い終わった。
『―――。報告は…以上です』
『よし、下がれ』
『了解…』
男は上官に敬礼をしてすぐさま退室、しようとした。
が。
『…待て。一つ頼みごとがあるのだが』
『……?』
無礼だろうが、思い切り眉を顰めてしまったかもしれない。
本能の誘惑が全身を支配しているのだ、感情の表現を司る部分など特に。
しかし、それでもたっぷりの間をおいてから、
先程とはまた違った表情で――どこか飄々とした風に――上官が男に命令を下す。
『桜の咲く場所を知らないか?』
「…と言われたのだが、お前は何処かに心当たりはないか?」
「……」
基地内でもっとも大きな格納庫、第3格納庫で男にそんな相談を持ちかけられたのは午後の昼下がり。
機体の整備もシステムチェックも終わったところで、お茶でもいれてみるかと考えを巡らせていたタイミングだった。
通路の向こう側、機体に目をやっているようでしかし心此処に在らずな表情をしていた親友が、
不意にこちらの視線に気付いたらしく、普段よりも更に眉根を寄せた苦悶の――苦悩かもしれない――瞳で、
簡単な経緯説明の後に続く台詞がそれだ。
ふむ、と小さく唸る。
(…らしいというのか? それを……)
初見の人間が見れば、今の彼の表情は普段と大差ないように見えるだろうが、実は非常に困っているのだ。
同じ系統の祖先を持ちながらも、彼の瞳と髪は色素の薄い銀。
しなやかに美しさを併せ持った色彩が、彼の雰囲気とよく合っていたと。
第一印象から得た感想は今も変わらない。
ところが、その癖のある長めの前髪の下、強固な意志を秘めたはずの双眸が、困惑で揺れている。
(何故、自分に……と言ったところか)
何も自分でなくとも良かっただろう?
引き受けた手前そう答えることも出来ないのがまた辛い。
残念ながら、下士官には復唱する権利しか与えられていないので、これをはね除けることも出来ない。
当然そんな難題――あくまでもこの男にとってではあるが――を与えた上官が誰であるのか位はすぐに察しがつく。
自分にとっても上官である彼の人が何を思ったのか…まさか本気で花見をしたいわけではあるまい。
いや、案外そうなのかもしれないのだが。
彼の持ち出した言葉から果ては上司の思惑まで思考を巡らしてしまった間、
彼は黙って待ち続けていたようだが、しびれを切らしたらしい。
諦めたように小さく礼を言い、その場を去ろうとした。
「今も咲いているかどうかは知らないが―――」
慌てて出た言葉に振り向いた顔には安堵の色。
それでもやはり、感情の見分けにくい事に何らかわりはなかった。
『この基地に配属されたばかりの頃、基地周辺の警戒任務にあったときに一度だけ見かけたものだ。
…今の季節ではなかったため、実際に花が咲いているのを見たことはない。
そして今もあるのかどうかは不明だ。…もし、それが私の見間違いでなければ…あれは桜の群だろう』
幼い頃、地上へ降りることを心待ちにしていた。
本物の大地の熱を、あの青い星を流れる大気を、二度と同じ姿をとどめぬ雲の流れを、
間近で見て感じることが出来たからだ。
心惹かれる全てが、愛おしさの全てが、ある。
悠然と構えた態度が常に。
地球は、この星は、生きているのだと。
人間の計り知れぬ永い時を生きているのだと。
心が思った。
三つ子の魂百まで、とはよく言う。
本当にその通りに―――真なる自然を目の当たりにして心動かされることが今でもある。
その慕情は昔ほどではなくなっていても、鮮やかな朱から濃紺へ変化する夕暮れ時に、
訳もなく懐旧の念を覚え、白く徐々に明るくなる朝の空に神々しさを感じている。
(君はこの大地で育ったのだな)
羨ましいと思う。
その性質全てを持つ彼が。
鍛えられた精神と肉体が明確な形を伴っているのだ。
自然の理。
ジネン。
決して飾らない心。
命、は心に宿る者。
心は魂の配偶者。
遍く螺旋の中にいることが。
今際の際に、彼女は何を思ったのだろう……もう尋ねることは出来ないけれど。
安らかに、静かであって欲しいと思うのは生者のエゴだろうか。
強く、美しい人。
どうか最期の時までそうでいて。
愚かな男が今も祈り続ける、ただ一つの懺悔の仕方。
愚か、とは?
焦がれて止まない存在が、いつの間にか胸の内に居た。
これも罰の一つなのだ。
愛してはいけない、欲してはいけない。
もう二度とその存在を喪う痛みを味わいたくないのなら。
だが、もう既に遅い。
隠れていたのか、入り込んできたのかは、未だ以て分からないままだが、ただ一つだけ確かなことは。
「―――ゼンガー、君を愛する」
神ではなく、強くありたいと思う、己に誓った。
「―――礼を言う、エルザム」
「…結構だ」
その言葉がまとまらない思考の流れを断ち切らせた。
物思いに耽っていたらしい自分を嘲る。
―――やはり、愚を犯している。
「だが……」
「私でなくともカイ少佐ならこれらのことは手慣れたものだろう。…私の場合は偶然に過ぎない」
たった一度見かけただけの記憶、仮にあったとしてもそれは桜ではないかもしれないし、
花が咲いていない場合もあり得るのだ、曖昧にも程がある。
それでも――問題の上官が――花見を決行したのは。
「…たぶん、私が示したポイントが他の誰かもあげたポイントだったのだろう。
君以外にも何人かに聞いただろうからな」
「!」
何気なしに言ったのだが、これが致命傷だったらしい。
そこまで言われてから彼は気付いたのだ、何もこの質問をされたのは自分だけではないのだろうということに。
あの時に『心当たりは全くありません』と一言言ってしまえばこんなにも悩むことはなかったのだ。
他にも適切な人間がこの基地にはいるのだから。
「…まあ、任務は無事果たせたのだ。―――良かったな」
「……。ああ」
気休めにもならないのだ、男の声のトーンが大分低い。
心なしか、纏うオーラに覇気がなくなった。
それ以上にかける言葉はないのだ、困ったことに。
(……落ち込んだな)
付き合いの年月が浅くとも、確実に相手の気持ちを推し量ることが出来る。
少なくとも、表情の微妙な変化に気付く。
別に自分自身がそういった方面に敏感だからだけではない、違う何か別の要因が此処には働いているのだ。
他の、理屈を抜いた部分で。
「…桜が、美しいぞ」
「……」
視線が下がりかけていた男にそう呼びかけて――独り言に近いものではあったが――、男はゆっくりと顔を上げた。
白に近い薄桃の色をした小さな花びらが何重にも視界を覆い尽くしている。
風に遊ばれて散るものもいるが、大抵は堂々とした咲を見せていた。
季節は、春なのだ。
命が芽吹く時期。
新たな。
「……」
目を奪われる、とはこのことなのだろうか。
瞬きもせずに頭上を凝視し続けていた男が不意に呟く。
「きれいだな」
「…ああ」
(同じものを見て、同じ事を思う)
(共に在ることの、幸福)
青年は桜を眺め続ける男から少し離れて考えてみた。
離れたことにも気付かず、黙っている――何処か瞳が優しげではある――男について。
今なら、桜を見ていたのだと、言い訳も出来よう。
(…理屈では無いな、確かにこれは…)
(説明できないのだから)
亡くした妻がそうであったように。
彼でなければならないのだろう、自分には。
他の誰もでもなく。
代わりというものでもない。
彼が彼であることを望む、のだ。
妻の代わりになりはしない、妻の代わりを求めることなどしない。
唯一の存在を。
共に居ることの出来る。
「君だからこそ……」
思わず口から出てしまった想いが彼の耳には届いたらしい。
顔をこちらへ向けて尋ねる。
「―――…今、何か言ったか?」
「…いいや」
「―――そうか」
気にする様子もなく、彼はまた桜の方へと向き直る。
今は心を桜に奪われてしまっているのだ。
それも致し方なし。
君だけ、が。
私にとっては。
<了>
writing by みみみ
|
© 2003 C A N A R Y
|