【 闇を抱く腕 】

 其処へ足を踏み入れてはいけない、と本能が叫んでいる。
 近付いてはいけないのだ、この弱い魂にとって如何に其れが甘美な蜜の味をしていようとも。
 美し過ぎるものがひとに畏敬の念を覚えさせ。
 心惹かれて止まぬ割には震えた指先は触れる事すら叶わぬ。
 ―――重力から離れた身体には、強くその大地に縛られたいという陰影の濃い欲望でもあるというのだろうか。


 深夜の格納庫、低く機動兵器のモーター音が響く。
 静まりかえった闇の中、月光のみで浮かび上がる鉄の巨人が1機佇む。

《各部モーター調整終了、全プログラム停止。異常、無し》

 その操縦席手前にあるモニター表示と音声による動作報告がされる。
 青年は一度だけ深い緑の瞳を画面へ向け、その機会音声に耳を傾けながら、シートに背を預けた。
 瞬間、思わず漏れ出る溜息。
 ―――誰に尋ねなくとも良い事だ、自分自身から生まれた想いなのだから。
 理由は明白、原因は一つ。
 全モニターのライトが落ちると、其所は夜だった。
 分厚くしかし脆い壁の向こうに広がるあの星々の海の様に。
 やがてコックピット内からも完全に駆動音が消えると、安らぎさえ秘めた常闇が自身を包む。
 故郷の深き森であれば、同じ静寂の中に獣たちの遠吠えが木霊するだろう。
 此が喧噪を常とする都会の中であれば、闇は闇とは言えない。
 しかしこの――青年はいつの間にか信頼すべき機体達を、そう感じている事に気が付いた――鉄の棺桶は、
生憎と定員は1名と限定されており、機体を取り巻く状況も今の時刻から考えればごく当然に喧しい筈が無い。

 こん、こん

 不意にその沈黙を破りコックピットハッチを叩く音が聞こえ、思わず苦笑してしまった。
 考えるまでもなく、想像し得る人物は一人しかいないからだ。


『大佐…っ…!』
『……!!』
 炎は無い。
 虚無だけが存在している。
 時は残酷にも優しい。
 目の前の光景を何度も目に焼き付けながら穿たれた胸の孔。
 どうしても目を逸らす事が出来なかった。
 大きく見開いたまま、震える唇。
 隙間と呼ぶには余りにも大きな、闇。
 それでも。
 忘れずに繰り返し刻み付けてきた一つの言葉。
 強くあれ、と言った人が久遠の海で消えて暫くが経つ。
 あの日と変わらずに空の海は穏やかで、立て続けに二人の人間の命を飲み込んだとは思え無い程。
 否、彼らは帰ったのかもしれない。
 大地の海より生まれたものが、空の海へと帰る。
 もしそうであれば。
 ―――この瞳に映る星々が彼の人の魂を導いてくれる様、願っている。
 彼自身の手が引き金を引いた、彼の妻の魂と。
 目の前でどうする事も出来なかった、己が上司の魂に。
 どうか、せめてもの祈りを。
 この基地を離れる直前、哨戒任務が最後に己の所属する部隊に当たったのは単なる偶然だ。
 実際、決して何が起ころうとも当番表には以前からそう書いてあるのだから。
 死者を悼む事が主だって許されるのはせいぜい2日程度。
 それ以上は引きずる事も口に出す事もしてはならないのだ。
 戦場に生きる者ならば。
人間という生き物がそんな簡単に割り切れるのか割り切れないのか、
が論点では無くて、そうするかしないかというだけの話だ。
 もし後者を選ぶのであれば、直ぐに戦場に背を向けて生きる選択をしなければならない。
「(…死にたくなければ、な…)」
 其れも又当然だろう、と考える。
 無機質な灰色の床に己の足音が響き、静寂な空間に谺した。
 男は漸く辿り着いた目的地で身を屈め、握り拳で閉ざされた扉を軽く叩く。
 親しみ深く呼びかけを込めた2回のノック。


 操縦席のハッチが開くと、案の定其処には予想した通りの顔。
 銀の瞳と、緑の瞳が互いの姿を視認する。
 コックピットの外に立つ男が先に呟いた。
「ご苦労な事だ」
 可笑しげに、呆れた口調。
 その裏には何故此処にいるのか、と言う問いをも秘めている。
 問い掛けられた相手はその意図さえ酌み取って逆に尋ね返す。
「それは……お互い様だな、君もそうだろう?」
「俺は、違う」
「ふむ、では…今宵が最後の硝戒任務である同じ部隊に所属する君と私、の差は一体何処にある?」
 舞台の役者宜しく演技のかかった口調で、未だコックピットから動こうとしない人物が尋ねた。
「俺の記憶に間違いが無ければ、残る、機体の整備は明日の0900から行われる筈だが?」
 夕刻のミーティングでの連絡事項だ、あの時隣に居たお前が知らぬ筈が無いと告げたが、
思わず途中で言い淀んだのは不覚だった。
 ―――癒えぬ疵に触れた痛みに全身を支配される。
 軽い痺れと麻痺。
 硬直する言葉。
「……」
「……」
「…君は…愚か、と笑うか」
 薄暗いコックピット内で青年が嗤った様に見えた。
 酷く自虐的で見る者を欺く笑み。
 男が暫くの間をおいて尋ね返す。
「…何が」
「……」
 返ってこない言葉は何を意味するのか。
 ゆっくりとした動作でハッチから身をコックピット内に滑りこませ、正面に構える。
 計器に置かれたままの青年の手に触れると、矢張、と嘆息した。
「すっかり身体が冷えている―――」
「……」
 一体いつから此処に居たのか、こうしていたのか。
 問が増えてしまった。
 それともその事を叱るべきなのか、思い悩んでいると、微小の台詞が耳に届く。
「酷く、不安だったのだろう…」
 例え其れがどんなに独白めいたものであったとしても、男には理解出来る。
 言い淀んでしまっても、最後まで言葉にならなくとも。
 互いの心情を酌み取れる間柄なのだ。
 青年がずっと胸の更なる奥に秘めてきた怒濤とも呼べる自責の念を見破る事が出来る。
 自身について語るというのに推量の域を出ようとしない其れ。
 何よりも如実に、彼の瞳が揺れている。
 強く毅然とした深い緑の瞳が、儚げに、水面に浮かぶ葉の様に揺れ。
 焦点も見定めぬまま、見上げてくる。
「そして…忘れたくなかったのかもしれない…大佐はこの機体と共に消えた事…」
「……」
「…妻を殺したのは私だという事…」
「……」
 後者は、否定してやりたかった。
 だがそれが益々彼を追い詰めてしまうのだと解り切っている。
 慰めなど、何の意味があろう。
「―――触れるな、我が友よ」
「!?」
 完璧に硬質化された声音が耳朶をうち、頭から水でも浴びたかの様に、即座に顔を上げて愕然とした。
 男の銀の瞳が、見開かれる。
「……」
 酷薄な笑みの形へ唇を曲げ。
 音には出さず、紡がれた言葉、が。

 君が、今、触れているのは、
 血塗られた手。
 こびりついた、臭いが、
 わからない、か?

 粘着性の糸の様に絡み付いて動きを封じる。
 言葉を無くさせて、思考を停止し、瞬時に硬直化。
「それは…!」
「……だが、紛れも無い事実」
 細められた目からは翠玉の瞳がどんな想いを隠しているのかがわからない。
 少なくとも、その想いの深さを窺い知るには距離が有り過ぎる。
 だが、近付きたくとも青年が其れを許そうとはしない。
 光を映さない無明の瞳が、男をその場に留まらせている。

(例え傍に在りたくとも、君を、殺したくは無い)

 青年はそう考え続けてきた。
 運命にでも呪われているのか、それとも此が自身の定めなのか。
 安易に確かめる事など出来よう筈も無く。
 ではどうすれば良いのか。
 機体を確認していたのは、またあの様な事故が起きないとも限ら無いから。
 自身の大切な者を殺した人間に、近付いてはいけないと警告する。
 ―――君も又、私の運命によって殺される人間になってしまうのかもしれない、と。
 そして大切な者を喪う夢を見てしまいそうだったから。
 いつか悪夢は現実になるのか否か。
「私は、君の死ぬ場面など見たく無い」
「当たり前だ……!」
 男の沸々とした怒りが伝わってくるが、動じる事は無い。
 心は今、何にも動かされ無い。
 青年は瞼を下ろし、再び背をシートに預ける。
 眠りたい、と切に思って。
 何を想っているのか、瞑想を始めた様に見える青年に、男は我が心中の激昂をぶつけてやりたいとさえ思った。
 結果的に其れが青年を普段通りの様相に戻すのであれば、構う事は無いだろう。
「誰が死ぬものか…誰が…!?」
 独白めいた台詞にも青年は目覚め無い。
 下ろされた瞼は身動ぎ一つ無く。
「俺は約束を果たす日まで決して死なぬ、生き恥を晒し…苦渋の選択をする」

 ―――約束?

 その一語が、青年の心に波紋をつくる。
 何かが、心の琴線に、触れる。
 忘れてしまっているのだ、自身が。
 何かを、彼と交わしたはずの大切な事を。
「必ず、生き抜く為に」
「…それでも…」
「諄い!」
 青年が尚も否定的な言葉を続けようとしたのを制した男は、次の瞬間に表情と声が一転していた。
「…何故…何故分からんのだ……?」
 悲痛、では言い足りない。
 まるで青年の心に呼応するかの様に深い哀惜の意。
 嘆き悲しむ、想い。
「…どうして…お前は……分からない?」
 何が、と問おうとして開けた瞳を大きく見開き、完全に破壊された言語機能。
「…ゼンガー…」
 唯、名前を呼ぶだけしか出来ない歯痒さよりも、秘めていた想いの方が優った。
 透明な雫が彼の頬に線を引く。
 幾つもの。
 銀の瞳が次々に溢れる水を湛えて、こちらを睨んでいた。
 其れは見つめる、などという生易しいものでは無く、見る者を射殺そうとする意志さえ在る。
「俺、は…お前が居るから……生きたい、と…!!」
 流れる、想い。
 感情から生み出される、願い。
「…俺が生きたいと、強く思うのは…お前と居たいから…だから…!!」

(傍にお前が居ないのであれば、其れは、意味の無い事)

「…何故、それが…」
 男はそう言ったきり、黙り込んだ。
 しかし青年はその胸中を図る事が出来たのか、緩やかに顔の表情を柔らげていく。
 最後には苦笑さえ浮かべて。
「…すまない」
 と、一言だけ呟いた。
「……」
 対する男は無言で、叱責の意を込めた瞳で顔を上げた。
 今すぐに恨み事の一つや二つでも出てきかねない雰囲気ですらある。
 固く引き結ばれた口元が青年の続きを催促していた。
「…私の命は、私一人だけのものでは無いのだな…そんな当たり前の事に、今更気付くとは―――」
「……」
 そう、約束した。
 妻を亡くしたあの日に、命を投げ出そうとした自身に、命を与えた男と。
 逃げることなく、生き延びようと。
 お前は弱い男ではないのだから、強い男の筈なのだから。
 決して諦めないで、くれ。
 泣く事の出来なかった私の代わりに君が流した涙が、大地に染み込んだ。
 互いの心に誓った、命ある限りの契約。
 その約束を果たす日まで、死にはしない、死ねはしない。
 真っ赤に目を腫らしてしまった親友に、本当に今更だ、
と怒られるかと思ったのだが、不思議とお咎めの言葉は無かった。
むしろまだ待ち構えている態度から鑑みても、これは。
「…すまなかった、ゼンガー」
「…」
 苦笑して再び謝罪すると多少視線が柔らぐのだが、今度は態度に変化の兆しが見える。
 どうやら、拗ねて、いるようなのだ。
(…これは…)
 ―――ちなみに。
 頑固な男が拗ねてしまうと、一筋縄では決していかない事態に陥る。
 非常に、まずい。
「……」
 さて、どうしたものか?
 そんな風に思い悩むよりも早くに自然と身体が動いたのは、何故だろう。
 考えるよりも先に、身体が反応する。
 今はきっと。
「誓おう、この手にかけて」
 先程から重ねられたままの左手を横目に挟んで、シートから腰を浮かせた。
 中腰の体勢から身を乗り出して彼の傍に、近付く。
 きっとこうする方が良いのだろう?
「…忘れはしない…迷いはしない」
 自身の右腕を彼の背に回すと、戸惑いながらもぎこちなく応えてくれる男の手がある。
 低く小さな声で名を呼んでもらえる。
「…エルザム…」
「共に生きる、誓いを」
 男の肩に青年の額が触れ、長い金糸の髪が揺れる。
 僅かなこの時間を、永遠とも思える時間へと変える、己にとって唯一の奇術の種。
 戸惑いも躊躇いも、心臓の鼓動で掻き消える。
 二つにして、一つの心。
「ゼンガー」
 それ以上の言葉は無い。
 頬に寄せた唇が何かを言うよりも、共有出来る想いが在るなら、其れを優先させた方がいい。
 分かり合う為の謝罪の印に、確認したいと願う互いの熱を、重ねる。
 ただそれだけ。

 甘い吐息に、今宵君を。

<了>

   writing by みみみ

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