「待て、エルザムっ…どこへ行く!?」
 返事は無い。
 振り返るその表情に色は無い。
 何も読めないままに、彼は再び歩き出した。
 手を伸ばして叫んでも戻ってこない。
 名を呼び、声枯れたとしても。
 もう彼は戻ってこないのだと。
「エルザムっ!!」
 ―――不思議と、涙は流れなかった。

 夢の記憶はない。
 それでも嫌な夢だったのだろうか、背中が汗ばんでいた。
 手はしっかりとシーツを握りしめたまま。
 目を開けていても世界を関知するのに暫く時間を要した程だ。
 如何ほどの夢なのか。
 怠い身体が睡眠時間の不十分さを告げる。
 ふと見やった時計が起床予定時刻まで後2時間だと言っていた。
 銀の瞳を瞼に隠し、ゼンガーは再び眠りに落ちた。


 君に向かって歩いていくはずなのに、何故か離れてゆく距離。
 遠ざかる足が勝手に動いているのだと。
 気付いても心に反逆心は全く起きなかった。
 そのまま、流されるままに。
 促されて歩いていく。
 ふと、このままどこへ行くのだろうと考えて。
 ―――エルザムっ!!
(…君なのか…?)
 耳に届いた声を幻と疑う。
 君はいないはずだと想う。
 今、ここにいるのは。
(…ああ…もし、そうなら……)
 心に芽生えた想いを口にしようとした。

「……」
 身体を起こそうとしたが、軽いめまいに襲われた。
「…夢、か?」
 こめかみあたりに疼く小さな痛み。
 指でそれを押さえながら、エルザムはゆっくりと身体を起こした。
 悪い夢だと呟いて、唇に寒い笑みを浮かべる。
 夢が自身の密かな願望だとは聞くが。
 ―――では、あれは一体何の願望か。
 愛する彼の下を去り、彼を悲しませ、彼を。
 それが何の願望というのか。
「……」
 ああ、そうかと。
 歪んだ愛情なのか。
 彼へぶつけられぬ想いからか。
 自身の苛立ちを彼にぶつけるというのか。
「…解って、いて……」
 彼がどんな行動を取るのか、何というのか。
 理解している、想像できるからこそ?
 緑暗色の瞳に深い侮蔑の色が滲んだ。


「ゼンガー」
 その声も。
 その瞳も。
「君を愛している」
 己を見つめてくれている。
 己へと言ってくれている。
「私は」
 幸せであることに恐怖を覚えるのはこんな時。
「本当に」
 こんな自分で良いのかと。
 幸せになる価値があるのかと。
「君が大切だ」
 もし死ねる運命を自分で決められるなら。
「ゼンガー、愛している…」
 お前の腕の中で死ねたらいいとさえ想う。

 脆く美しく。
 強く、在る。
 その心の琴線が揺れている。
「一人で行こうとするな…」
 驚く程に震えて。
「…お前一人を行かせはしない、だから―――」
 知るわけがない意志を。
 瞬間おそれるのはこの。
「…だから…もう……っ…!!」
 声もあげずに方を震わせて呟く。
 広い背中が小さく感じる。
「…もう…お前、―――…一人で……」
 今、君を私のものだけにしたい。
 永遠に、ずっと。
 鳥のように閉じこめて。
 でも。
 君を殺してしまったら、それは叶わないと知っているのに。

【今其処へ】

 ただ二人で生きる為だけに。
 生き残る為だけに。
 今そこへ。
 もうすぐ、行くから。
 必ず貴方に手を伸ばすから。
『…まるで…知らない君がいるようだな』
『…そうか、お前…は…』
 だから、行かないで。
 今は側にいて欲しいと想う。
 儚くゆるりと虚しく散ったのは。

<了>

   writing by みみみ
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