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【 花舞い時過ぎ静かに眠れ 】 |
呉々も気を付ける様に。
そう何度も念を押され言い含められた末に許された連れ添っての外出。
剰りいい顔はしないとばかりに苦笑を浮かべながら見送ってくれた青年にも何処へ行くと告げず。
『此奴にも春を見せてやりたい』
とだけ言って。
何となく想像がついたのだろうか、ならば行ってこい、ただし夕食に遅れた場合は家に入れんと言い返され。
『…了解した』
同じく苦笑を浮かべて出てきた男は
ソファでうつらうつらと春の陽気に誘われて眠りかけていた人物を起こし、手を引く。
―――訳の分からぬまま生返事をした所為で少々強引に此処へ来る事となった。
が、飲み込めていないまま歩が進む此の状況は嫌だと思う。
(むぅ…)
眉を寄せての困惑の表情。
何故急に。
滅多に人が立ち入らぬような深い森の奥に、二つの人影が動いている。
「一体こんな所へ来て…何のつもりだ?」
「来れば分かる」
黙々と進む者と、怪訝な表情を浮かべて其れに従う者。
片方は何の説明もせずに連れてこられた事を不満に思い。
もう一方は頑なに口を閉ざす。
木漏れ日の中ひたすら聞こえるのは大地を踏み締め歩く音のみ。
「……けちくさい」
「…喧しい」
日常と何ら変わらぬ減らず口の応酬を繰り返し、二人は進む。
単純に山登りが疲れたから休みたいなどと幼児の様な駄々をこねているのではなく、
後を行く者が気に入らないのは強引に連れてきた相手のその態度に他ならない。
(…秘密主義でもあるまいに……)
少しくらいは何か教えてくれても良いだろう、と無言でその背を睨んだ。
酷似した容貌に、殆ど差のない背丈。
体格までほぼ同じとあってはなかなか見分けが付かない二人には、分かり易い大きな違いがあった。
一つは心と記憶に。
もう一つはその顔に。
「……」
「……」
小鳥の囀り、葉が擦れる音。
木々から差し込む陽光と、森独特の湿った土の臭い。
あの孤島の住人としては全てが新鮮な事に間違いは無いのだが、其れを楽しもうにも此の雰囲気では。
(お前と一緒に居るなら―――)
どんな無為に流れて行く時の中でも大丈夫だと、想うのに。
記憶を喪い、心は脆く、意思は強く。
そして何かを物語る様な、唯一消えぬ深い疵痕。
左目に大きく引き連れた其れだけが、今と過去とを繋ぐ鎖。
どうして教えてくれないのか。
何も言ってはくれないのか。
出てくる時に微笑でもって手を振る青年の顔つきからすれば彼も知っているのだろう。
(どうして俺には何も言ってくれない…?)
ゆっくりと込み上げてくる感情に薄銀の瞳が揺らぐ。
「ゼンガー…」
「もう少しだ、我慢しろ」
「……」
つい手を伸ばし前を行く者の服の裾に縋るが、やんわりと重ねられた掌と硬質な声。
―――――誤魔化されている。
暫くの間は大人しく何も喋らずに黙って歩いていたのが、
とうとう耐えきれずにもう一度今回の、突然の理由を尋ねようとした時。
思い切り鼻を打ち付けてしまった、相手の背に。
「…着いたか…」
「急に―――!!」
急に立ち止まるなと、そう言おうとした口はそのままの形を維持し。
たった一つ残された世界との繋がり、隻眼の瞳を驚きの色に染めて。
嘆息と共に相手の吐き出す言葉さえ耳に入らぬ様子で、
男は容姿から想像出来る年齢に相応しくない程はしゃぎながら木に向かって走り出した。
「ゼン…ゼンガー! 此は、此は一体何だ?」
森の山頂付近だろうか、少し開けた道に続くのはあらん限りの花。
太く立派な幹と大地に根ざす重厚な根。
しなやかさを具えた枝々に灯る仄かな淡い光は、陽光を吸収したのか反射したのかは分からず、
しかしこの深緑溢れる森にあっては白に近い輝きを放ち。
季節は春。
命を謳い、誕生を慶び、そして心を震わせる。
ひたすら続く様に見える並木道を大きく開かれた薄銀の瞳が見つめた。
表情よりも尚雄弁に唯一の瞳が物語る、此の情景に於いて更に深い憧憬の畏怖を。
「山桜の一種だろう、詳しい事は…俺も知らん」
「やま、ざくら?」
「ああ」
振り向くと男は近くにあった枝を手繰り寄せている、無論折らぬ様に気を付けながら。
梢をそよがせる風が男の――癖の強い、同色とも呼べる――銀の髪をも揺らし、
自然細くなる瞳の奥には自然を愛し悠然と微笑む優しい光。
滅多に表情を変えぬ男がほんの瞬き程の瞬間に見せる、穏やかな表情に思わず視線が絡め取られた。
はっと我に返った時には既に其の手からは花々をたわわに咲かせた枝は離れ、男もまた歩き出している。
「桜は桜でも、山に咲く、野生の種の事を山桜という。公園や里の桜とは違う面白さがあってな…良く―――」
『花見をしに行かないか?』
『…哨戒任務は』
『だから其れが終わった後にだよ、勿論』
勤勉な君の事だから任務をサボるなどという愚を犯しはすまい?
などと嘯く青年の誘いは、そのサボりを促すものでは無いのかと睨めば。
『待っているよ、君が来るまで』
『…お、おい!』
いったいいつの間に入力されたものかは分からないがコックピット内の指定座標軸が二つになっている。
一つは哨戒任務巡回ポイント。
もう一つは。
『―――知らん…』
どれだけ相手を待たせてやろうかと考える片隅に、相手を待たせる訳にはいかないという気持ちもあるのだ。
不本意ながら恐らく、後者に負けて哨戒任務を適度に切り上げないよう、
しっかり気を引き締めて掛からねば、と男は決意した。
そう、良く任務の空き時間、彼と見に来た。
共に過ごした春の時間は短いものだったけれど、共に居る時は必ず、春になれば。
どちらが約束するでもなく自然と落ち合う様になっていた。
「ん? 良く、何だ?」
「―――いや…大した事では無い」
「…少し、気になるが……まぁいい。今回ばかりは見逃してやろう、此の『さくら』に免じて」
「其れは助かる」
実際の処どうでも良いのだろう、きっと今はこの花の事しか頭にないのだから。
日頃の恐ろしいまでの執着ぶりも今はなりを潜めて、ただただ此の景色に見入るばかり。
さくら、さくらと言葉の響きを楽しむ様に繰り返し口にする。
時折吹く強い風に散る花弁と戯れる姿。
零れる純真な笑顔に、男は時を微睡んでいた。
「本当に、凄い…こんなに綺麗なものがあったとは…!」
「そうだな」
水をすくう様な手付きで構えていれば直ぐに二三の花弁が降ってくる。
其れは冬に見た雪と似ている様で似ていない。
(此は…溶けぬ、からな……)
掌に乗せてしまえば雪は直ぐに溶けた。
己の体温がそうさせてしまうのだと知った時、雪の儚さと己の熱を覚えるのだ。
だが雪を儚くさせてしまうのは己自身なのだとも。
触れるが故に消え。
消えぬ内に触れたいと想うのに。
違うもの。
似て非なるもの。
「綺麗だな…」
「……」
語彙力の無さを恨みつつ其れしか言葉が出てこない。
後から付いてくる男が、今まで至極落ち着いた返答をしてきた事に少し拗ねたような声を出す。
夢中になって気付かずにいたのだが、此では。
慌てて取り繕う様に、表情を引き締めて男に向き直る。
「…お前も何か感想を言え、まるで俺一人が子どもみたいに―――」
「事実そうだろう?」
「……」
あっさりと告げられた真実に揶揄めいた響きを感じ取り。
否定の意思を込めた無言の返答を、瞳の中に押し込めて相手を睨んだ。
覗けば分かるだろう、と言わんばかりに。
「……」
「冗談だ」
大抵こういう場合の冗談とは得てして物事の本質的な部分を突いたものである。
少なからず其れを理解ではなく察知出来る勘を持つ者にとっては、もう一言が欲しい、と思う。
と言う事で、再度相手の顔を凝視した。
「……」
「すまん」
短い簡素で呆気ない謝罪の言葉であったが、仕方無し、と言う結論でもって自ら課した沈黙を破る。
「…お前は」
「何?」
「お前は嬉しくないのか、此が?」
「!」
(同じ気持ちではないのか―――悲しみでは無く、お前と分かち合いたいのはもっと)
もっと温かくて、安心出来る。
腕の中で聞く心臓の鼓動にも似た柔らかな想い。
己一人ばかりがはしゃぎ騒いだ所で、其れはまるで道化師の様。
やがて舞台に立つ身が己一人だけだと気付く前に。
傍に、居て。
「……」
突然ではあるが簡単な問に男は答える事が出来なかった。
何故か肯定も否定も出来ずに沈黙してしまう。
少し長めの前髪に瞳を隠して。
元より感情表現が得意でない分、如実に瞳には想いが顕現されてしまう。
其れを恐れたからなのか。
どうして。
「?」
「……」
葉の擦れる音も聞こえず、花弁舞う景色も見ず。
男は考えに囚われる。
「……。ゼンガー?」
喜ぶ、とは何か。
常に沈着冷静であれと言われた事は無い。
己の親友は、そうである様にそう振る舞える様に育てられてきた身の上なのだから大きく例外としても。
軍人たる者感情を押し殺すのが必至ではある。
でなければ戦えない。
戦場で死にたくないなら。
―――だが、喜ぶとは何だろう?
『兵士は任務に忠実な人形で有りさえすればいい』
喜怒哀楽と呼ばれる感情の中で最も重きを置かれている様な其れに。
ずっと忘れていた何かを揺さぶられている感覚。
目眩に近い、思考。
「喜ぶ…?」
「そうだ」
口から思わず零れた言葉に、隻眼の男は肯定を示す。
其れが聞きたいのだと。
ふと地面に落ちた視線が見つめるのは可憐とさえ呼べる様な花。
薄桃に咲き誇り、そして散る定めの。
柔らかな大地に還ってゆく花弁たちとはまた来年出逢う事になるのだろう。
自然の中に在る命の連関にふと思いを馳せる。
(…美しく、儚いものに対して嬉しいという感情は当てはまるのか)
否、同情めいた愛しさが芽生えるのだとしても。
喜ばしいとは。
(言わぬのではないか?)
不意に薄銀の瞳を見た。
そう、同じもの。
きっと同質のもの。
儚いのではなく、強さ故に脆い己の写し身。
仮初めの命と運命を違えた世界の可能性を持って、目の前に現れた者。
折れた剣。
純粋で。
幼い。
喪った記憶の向こうで泣く彼の姿を何度夜に見てきたか。
魘され悪夢に怯える彼を宥めて。
漸く安息の眠りに至る瞬間までをゆっくりと見届けて。
再びあんな悲しい事が起きぬようにと祈る。
其れの繰り返し。
「…ウォーダン、お前…」
「どうやったらお前は喜んでくれる? 笑ってくれるというのだ…!?」
弱い力で胸を叩き、震える声でそう言う男は静かに胸に頬を寄せて、背中に手を回す。
簡単に揺れてしまう心は純粋と不安の混合物。
相手の感情に敏感で、過敏とさえ呼べるだろうに。
(―――お前は矢張り…泣いているのだな)
小さな子。
喪いたくないと。
「…俺と一緒に居るのは嫌なのか…?」
違う、と言おうとして。
痛切に真摯な薄銀の瞳に捕らえられてしまう。
言葉を無くし沈黙の時が二人の間に降りる。
唯時が静かに、桜舞い散るこの空間で。
男は穏やかに名を呼んだ。
「…ウォーダン」
「嫌ならば、良い…から、だけど今は…今、くらいは」
(こんなにも震えているのに?)
続く言葉を聞きたくないと言わんばかりに遮るか細い声。
そうやって嘘を付く。
大丈夫だから、と。
精一杯に堪えてみせる。
無理をして。
だけど。
『今だけは一緒に居て欲しい。こうやって…居たい』
(素直に言えないのは―――)
其れは恐らく己も同じなのだと思う。
上手く甘える事が出来ない、いつまでも優しい其の手に甘える事が出来ない。
依存してしまいそうで怖いのだ。
どうにも抑制の利かぬ、不器用な想い。
「ウォーダン」
そっと頭を撫でるとびくっと身を竦ませてしまう所も、きっと同じ。
どうしたらいいのか分からない、どうすれば。
「……?」
風貌に似合わぬオドオドとした様子で、一度視線が交錯した。
『本当に此の温もりを喪わずにすむというのか? …絶対に喪いたくない…』
お前は一度喪ったが故に。
俺はいつか来るその時を恐れるが故に。
「…安心しろ」
「!」
口にしたのはたった一言だけだったが、
其れに合わせて何度も優しく頭を撫でてやる内に震えていた手は次第に落ち着き、
強く握りしめていた指を服にそっと絡めてくる。
「…ゼンガー…」
「……」
瞼を下ろし頬を擦り寄せる、其れは無意識な仕草。
幼子がするものと大差なく、だがあどけない笑みを浮かべ。
後は、感じる鼓動に耳を澄ませた。
「…有難う…」
そう小さく呟く男の髪に肩に降り注いでくる薄桃の花弁に、唇で触れる。
神聖な願いを胸に甘く苦い思いを感じながら、そのままゼンガーも瞳を閉じた。
<了>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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