雪降る昼に。
「エルザム……?」
 外にたたずむ一人の青年。
 緩く肩から背にかけて流れる金の髪に降り積もった純白の結晶。
 男は青年の姿を見て、こわごわと声をかけた。
「ゼンガーか。どうしたんだ? その表情は」
 青年が男に気付き、振り向いた。苦笑の笑みを浮かべて。
 そう言って笑う息さえ白く。
「…いや…その、お前が」
 そう男がくちごもる。青年が、また、苦笑して一言。
「ゼンガー、私は神を信じてはいない」
「!?」
 男の銀糸の髪が揺れた。
 伏せかけていた瞳を青年に向け、驚きの表情で見つめる。
 青年は続ける。その瞳はくすんだ雲の更に向こうを見るかのように遠い。
「だが、そんな私でも神に感謝を捧げる事がある」
 歌うように紡がれてゆく言葉。
 青年がすっと手を伸ばして、男の頬に触れる。
「君がこの世に生まれ、今私の傍に居る事……。こればかりは、神に感謝せずにはいられない」
 青年の緑の瞳と。男の灰の瞳が。
 ―――刹那、ぶつかり。
 尚も降る雪に。青年の手を男が優しく包んだ。

【雪に君を感謝すれば。】

 その日は朝から雪が降っていた。
「道理で冷える筈だな」
 そう言って金髪の青年―――エルザム・V・ブランシュタインは部屋に暖を入れる。
 窓の外にちらつく純白の結晶、雪。
 つい数日前に世界は新たな年の誕生を祝ったばかり。
 勿論世間の流れとは大分離れているこの場所でもそれは同じ事。
 ささやかながらも“2人”は世界に習い、1年の幸を祈った。ほんの数時間前の話だ。
 そして今日は。
 エルザムは視線を隣室へと注ぐ。今、そこには親友がいるのだ。
「……」
 自らを闘う事しかできない不器用な男だと言う彼は、
あまり知られていないようだが、実は読書という静かな時を好んでいる。
思えば彼と初めて会った場所も、軍の書庫だった気がする。
彼―――ゼンガー・ゾンボルトは。

 始終、騒がしい軍の基地に於いて。
 少しばかりの静寂が許される場所……それが書庫、だった。
 そう、丁度エルザムがその書庫を訪れたときも、それは例外ではなかった。
 薄暗い書庫の中、彼の瞳と同じ真っ直ぐな銀髪が少しばかりの光を反射して。
もう季節は冬にさしかかり、寒さという厳しさが辺りを支配している時期に。
まるでそこだけ時の流れが違うかのように、穏やかで暖かな時が、そこには存在していた。
 エルザムはその光景にしばし呆然とし、危うく口を開けたままにする所だった。
彼はエルザムが書庫に入ってきた事に気づいていないのだろう、熱心に自ら手に持つ本を読んでいる。
しばらくそれをぼんやりと眺めていたエルザムははっと我に返って、開けた扉をノックする。
「!」
 そこでようやく彼―――ゼンガーは戸に人が立っている事に気付いた。
「す、すまない」
 彼は何を言うでもなくまず謝った。
別段、彼が謝らなければならない理由などないのだが…そう言う男なのだろうと考える。
余り変わらないように見える表情だが、瞳の色が少しばかり違っている……エルザムはゼンガーの感情を読み取る。
「すぐに退く、邪魔をした」
 ゼンガーは慌てて言葉通りに動き出した。
 側には彼が読んでいたのだろう本が何冊も並ぶ。そして、これから読むのであろう本も。
「…いや。私が用があるのは君の書棚ではない、構わない」
 エルザムのやんわりとした断りにも尚。
「いや、しかし」
「私だって君の読書の邪魔をしてしまったのだから。お互い様というわけだ」
 軽く笑ってそう言うエルザム。
その穏やかな物腰に、ゼンガーの表情も不思議と和らぐ。
「……」
 エルザムがそのまま他の書棚へ行き、
数冊本を取り出し出ていこうとすると、呼びとめられる。
「名を、教えてくれ。礼が言いたい」
 一体何に礼を述べたいというのだろう。
 律儀でしっかりとした印象を持つこの人物の礼とは。
「……エルザム、エルザム・V・ブランシュタインだ」
「感謝する、エルザム」
 エルザムが名乗ると、彼はほんの少しばかり表情を緩ませ、笑った。
「!」
 知らずこみあげてきた笑み。それを隠そうと背を向けた。
「君の……君の名前は?」
「? ゼンガーだ、ゼンガー・ゾンボルト」
 不思議な声音が返ってくる。
まるで、どうして自分が名前を聞かれるのか分からないという風に。
エルザムは一つ“賭け”をした。
「人に名乗らせておいて、名乗らないのもまた面白い話だ」
「!! そうだな……すまない」
 ―――思った通りの反応。
 さっきの言葉はどちらかというと不遜な発言だ。
相手が怒っても別におかしくはない。
だが、彼は全く違う反応を示した。考える……想像していたとおりに。
 普通にエルザムの言葉に気付いて、苦笑しながら謝る。
 ただそれだけ。
「いや、今日は私が悪かったのだ。では失礼させて頂く」
 エルザムは振り返りもせず、足早にその場を離れた。
自分自身が理解できぬ、高揚感―――それが確実に足早にさせていたのだ。

「エルザム? いたのなら声をかけてくればいいものを」
 書斎の入り口に立つエルザムに気付いたゼンガーが言う。
エルザムは回想を打ち切り、くすりと笑う。
「……いや、君の読書の邪魔をするつもりはないからな」
「ならば一体どうした? 用が有るなら承ろう」
 逡巡。脳裏に、ある考えが閃く。
 その考えに自らを少しばかり苦笑して、ゼンガーに話かけた。
「ゼンガー」
「? 何だ」
「……少し出かけてくる。昼前には戻るつもりだ」
「ああ」
 ―――珍しい。
 それを表情に出す事もせず、ゼンガーは心で呟く。
 ゼンガーにはエルザムの言葉にどことなく引っ掛かるものがある。
しかし、と思い直して。
そのまま出かける準備をするエルザムを見送り、再び本に没頭する。
 それからどれ位の時間がたったのだろうか。
ゼンガーは、あらかた目的の本を読み終え、体を大きく伸ばした。
肩や腰をひねると小気味のよい音がして、己が本へと如何に集中していたのかが分かる。
ふと時計を見ると2つの針が真上をさしている。
(……もうそんな時間なのか)
 ついでエルザムの言葉を思い出す。
 ―――『昼前には戻る』
 多分もうそろそろ帰ってくるのだろうが、まだエルザムが帰ってくる気配はないようだ。
 ならば彼のために、久しぶりに自分が料理を作ってやるのも悪くはない。
(…昔は…)
 彼ほどの腕前ではないにしろ、時々ゼンガーはエルザムに料理を作っていた事もあった。
ぼんやりとその頃の事を思い出しながら、立ち上がる。
書斎を後にして、廊下に出たゼンガーは窓の外の光景に思わず目を奪われた。
「……!」
 鈍色の空から落ちてくる純白の花に。
大地にうっすらとさす光の直線とそれが生み出す陰影に。
ゼンガーは息を飲む。
その光景は一瞬でも彼の思考を停止させ、違う時の流れに身を置かせた。
それでも、ふっ……と口元をその笑みが彩った次の瞬間には歩き出している。
時折窓の外にも視線をやりながら、台所へと足を向ける。
頭の中では、少ない数だが自分が作れる料理を思考中だ。
(…エルザム、お前が喜びそうな…)
 大抵は、ゼンガーの作った料理に
工夫するべき所やまだ直すことのできる点を言いながらも“おいしい”と言ってくれる彼だ。
しかしそれでも何か一番があったような―――そう考えた所で、台所に辿り着いた。

 またしばらくの後。
台所に人の食欲中枢を刺激するような香りが広がり、その中心でゼンガーが料理を作っている時に。
考えていたレシピも殆どを作り終わり、後は皿に盛り付けるだけだと手を止めた。
(…しかし…)
 誰が見ても分かるような大きさで、ゼンガーはため息をつく。
 先ほどから気になり続けていたのはエルザムの事なのだ。
料理を始めてから、かれこれ1時間がたつが、未だに彼が帰ってくる気配はない。
「……」
 確かにあのとき、『昼前には戻る』と言っていた。
エルザムは別に子供ではないのだから、これと言って心配する理由はないのだ。
出かけたついでに買い物に行ったのかもしれないし、たった1度言動から外れたからというのもどうか。
自分が心配症なだけだと思うが……。
 こうなりだすと止まらないのか、ゼンガーの表情がみるみるうちに曇っていく。
 脳裏にはあのときの不可思議なエルザムの様子が気にかかって仕方がない。
もしかしなくとも、あれには何か意味があったのではないか……!?
とか何とか、考え込んでしまう。
ただでさえ、考えの深すぎる男なのだから、
はっきり言ってその心境はとても穏やかではいられない。
 一応ゼンガーはそれから30分ほど待っていた――彼にしては驚異的ともいえる――だが。
(もう…待てぬ…!)
 とうとうというのか、漸くというのか。
痺れを切らしたゼンガーは、勢いよく立ち上がった。
外出する準備を整えて勢いよくドアを開けて一歩外へ出ると、強く冷たい風が雪と共に吹き付けた。
思わず片腕を上げて目を細める。
 ―――エルザム…? この寒い中、何処へ行ったというのだ。
確かに風流や風雅を好むお前なら有り得ない話ではないだろう。
それでも、そうだとしても。
(……俺は)
 ゼンガーがそう思惑を巡らした瞬間、視界の端に金糸の輝きが映り――――。
「エルザム!?」
 間違う筈のない、それは探していたエルザム本人だった。
 家を出て100メートルもいかないところに、空を見上げて立つ金髪の青年。
 慌ててゼンガーは駆け出した。
 そうして駆け寄ってきたゼンガーをエルザムは不思議そうに眺める。
「どうした?」
「どうしたって……お前まさか、あれからずっと!?」
 呆然と呆れたゼンガー。
しかし当のエルザムは全くそれを解していない。
確かに彼ははコートを着てマフラーをしているが、鼻の頭は赤くなっているし、
肩に流れる長い金髪にも白く透明な薄氷の結晶が積もっている。
ゼンガーはすっかり声を荒げたままで、エルザムに言う。
「しかも、手袋もしていないだろう!? ……馬鹿か、お前は」
「…君を…」
 もうずいぶんと冷たくなっているエルザムの手にゼンガーは触れる。
安心半分、あきれ半分のため息が白くこぼれた。
疲れたというよりは、毒気を抜かれてしまった様子。
ゼンガーのそんな様子を見ながら、エルザムはぽつりと呟いた。
「…君を、待っていた…」
「…俺を?」
 ゼンガーが聞き返すと、エルザムは頷いた。
「…賭け、だったのかもしれない…」
「?」
「君を、君と……この景色を」
 エルザムの言葉は途切れ途切れで、ひどくつたない。
いつもの彼らしくない、はっきりとしていない喋り方。
ゼンガーは黙って次のエルザムの言葉を待っていた。
「……」
「例え、粋狂と言われても……私には、今日、が」
 しかしゼンガーは気付く。
エルザムは長時間外にいたのだ。
当然歯の根も合うまい。
それではうまく喋る事が出来ないのも当然なのだ。
「エルザム、もう喋るな…!」
 寒さで舌すら回らなくなってきたであろうエルザムに言うと、エルザムが笑った。
それに何かを含んでいるのかと、ゼンガーは考えた。
 灰色の瞳と、緑の瞳が互いに互いの奥を見つめる。
「? …お前、何か…」
「忘れているのか、ゼンガー?」
 今日が何か大事な日だったかと考えるが、それでも思いつかないゼンガーにエルザムが手を招いた。
そのままエルザムはそっとゼンガーの耳元へ囁く。
「誕生日おめでとう、ゼンガー」
「!?」
 驚きのあまり、口をむなしく開閉させるだけのゼンガー。
エルザムが悪戯な瞳でゼンガーを見、笑っている。
「エルザム、まさかそれを言うために!?」
「いや、別段このためだけというわけではないのだが…
…ただ、言うだけでは能がないと思ったのでな」
「エルザム…お前…」
 少し得意気に、心底嬉しそうに話すエルザム。
普段の冷静沈着な彼では、とても見る事の出来ない顔だ。
ましてや、戦場で指揮官として、一人の兵士として背中合わせで生きてきた頃には。
 ―――こんな表情をされては何も言えなくなる。
 ゼンガーは軽く笑って言った。
「有難う、エルザム。……だが」
「だが?」
 きっと、顔を引き締めて。
「次からはもう少し自分を大切にした、祝いをしてくれ。…これでは…そう素直に喜べん」
 眉根を寄せて言う親友に、さすがのエルザムも吹き出した。
勿論その親友がにらむので、軽く咳をしてごまかす。
「ゼンガー」
「何だ?」
 まだ何かあるのかと、疲れた顔でゼンガーが聞き返す。
内心ではエルザムが心配でならない。
凍傷になりはしないか、風邪をひきはしないか。
そんなことばかりを考えてしまう。
 しかしエルザムの言葉はゼンガーの予想外のものだった。

 雪は降り続ける。
ずっと。
先程軽く払ったエルザムの髪にもまた純白の結晶が積もり。
同じく、ゼンガーの銀色の髪にも雪が重なり続けてきた。
「…私は…神を信じてはいない」
「!?」
 突然の言葉に目を見開くゼンガーを見つめるエルザムの瞳は愚直なまでに真っ直ぐだ。
その瞳の色に先程までの気軽さはどこにもなく、真摯に想いだけをのせているエルザムの言葉は続く。

「…しかし…、今ばかりは感謝しよう」
 ―――神よ、愚かな男の戯言と。

「君が、居てくれて良かった……この世に」
 ―――戯言と、聞き逃してくれても構わない。だが。

「この世に……今、私の側に君が存在している事」
 ―――この言葉だけは。今告げているのは、心からの真実なのだから。

「そればかりは…本当に、神に感謝する…」
 ―――どうか無視される事のなきよう、願う。

 瞬間の沈黙。
 全てを言い切ったエルザムは、満足そうに目を閉じた。
 しばらく彼にかける言葉を探していたゼンガーは、たった一言だけを言う。
「…帰ろう、エルザム」
「そうだな…」
 ゼンガーはそっけなくエルザムに背を向けたが、彼は確かに見た。
親友の笑みを。
これ以上はないというほどに暖かな。
「今日は久々に俺が昼食を作ってみたんだが…」
「! ……それはすまない事をした、急いで帰らせて頂こう」
「…ああ」
 エルザムは前を歩くゼンガーの背を追った。
 二人のいた場所だけでなく、歩いた跡さえも。
雪がきれいに消していく。
 ……雪降る日に。君の誕生を神に祝う。
少しでも、私のこの思いが君に届けばと願いながら。

<了>

   writing by みみみ
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