【 春風の微熱 】

 この世で一番の御馳走は君自身。
 何の味つけが無くとも最上級の美味が約束されている。
 唯、未だ心行くまで味わった事が無いだけで。


 月が水面を照らす海岸に一人の男が佇んでいる。
 ピンと真っ直ぐに伸びた背筋、周りに誰もいないのに隙の無い立ち居。
 深紅のコートが風に合わせてはためくのみで、全く先程から微動だにしない。
 癖のある長い前髪の下に隠れた瞳は、何処か遠くを見つめ続けていた。
 ―――不意に静寂を破る声。
 疾うの昔に耳に聞き馴染んだその声に男は振り向く。
「…久方ぶりの陸はどうだ? ゼンガー」
「……」
 問いに答えぬ男は頬を撫でてゆく風に何かを想ったのだろう、僅かばかり目を細めたばかり。
 だがその唇からは何一つの音も出てこぬまま。
 近寄って来た青年は――長い金糸の髪を揺らしながら――男の隣に並び立ち、
「仕方の無い事とはいえ…ずっと海の中で艦にこもっていては、君も身体がなまってしまうからな」
 と言った。

 彼らが居場所は世の影。
 表に立つ者を支える役割。
 世の乱れが我らを呼ぶ。
 そうでなければいいと、思うのに。

 深海に潜む母艦は滅多に地上には姿を出さない。
 時折、乗組員の交代と物資の補給をする為に、決められた場所へ寄る事を除けば。
 殆どの時間を冷たく暗い海底で過ごす。
 久方ぶりに大地へと足を下ろした時に、太陽の光に圧力を感じるというのも無理からぬ事だろう。
 艦内は十分すぎる程広く、設備も万全だが、しかし大地の重力は分からない。
 地球の鼓動は感じる事が出来ない。
 青年は其れを気にしていた。
 ずっと。
 彼が存分に鍛錬を行える場所は陸なのだと。
 まるで死を思わせる様な深き海の底では無く。
 本来であれば、命を司るあの輝きの下であるのだ、と。
 ―――自身が水底に感じる心地良さを彼にはひた隠しにしている。
 空間の重厚さが何故安らぎを与えるのか。
(私は)
 其処で思考を中断し、そっと男の顔を覗き見る。
「……」
 矢張り、男は何も答えない。
 その瞳は月の光に似た薄い色素、銀。
 彼の髪と同じ色、見る者を射抜く輝き。
 仕方無しに男と同じ方向を眺めていた青年は、漆黒の闇に浮かぶ儚げな月を見る。
 濃紺の天を支配する、優しく穏やかに時の流れを狂わせる存在。
 お前は私に魅入られているのだよとは何人たりとも気付くまい。
 否、気付かないようにしているのかもしれない。
「…エルザム…」
 突然男が青年の名を呼び、其れに振り向こうとして―――不覚にも目を奪われた。
 男が微笑している。
 ほんの少しだけ先程とは表情が違う。
 付き合いの長い者しか分からぬ様な変化。
 彼が瞬き程の垣間に見せる表情があったから、だから。
 何だ、と言うたった一言さえ発せられなかった。
「…誰よりも何よりも、真に陸を恋しく想うのはお前だろう…?」
 やがて困った色の漂う瞳が更に細められ。
 苦笑の意図を含んだ呟きが漣の音に混じって、青年の耳へ届く。
「お前と共にいれば、なかなか…体力不足にはならんぞ」
 そんな男の言葉には照れが隠れている、と青年は思う。
 滅多に心情を表に出さない分、こんな時にはより多くを語ろうとするが、大抵は形にならぬまま消えていく。
 彼が昔そう言った、事を思い出しながら。
「何故…そう思う?」
「お前の自慢の食材は…陸にあるものが多いからな…」

 言葉少なに。
 捕まえられない言葉を手繰り寄せて。
 彼は何処か惚けた様に喋る。
 何かに想いを寄せている。
 何処かを眺め続けている。

「……」
 青年はその言葉にふと考えた。
 将来は宇宙の統率を図る椅子が約束されていた――逆に、結局は父の所存に依るのであって、
そうではない場合も二十分に有り得た――頃よりも、ある意味で今は自由ではあるものの不自由も多い。
 世界の海を泳ぐ合間にたまにこうして陸に上がりはするが、
本来ならば堂々と時間をかけて巡りたい食材もあるのだろう? と言うのだ。
 武骨な男に似合わぬ気遣いをさせてしまったか、とも感じる。
「すまない、君にそんな台詞を言わせる気ではなかったのだ…」
「無論、承知の上だ。俺が言いたいのは」
 男の言葉を遮るように冷たい風が強く二人に吹き付けた。
 二人の上着を騒がせて通り過ぎ、互いの髪を暴れさせる。
 瞬時に水面も騒いだがすぐに収まった。
 やがて風が収まった頃には身体がすっかり冷えている事に気付く。
 ―――そう言えば、気付かぬ内に大分長い間こうしていたのではなかったか。
 何をするでも無く海を眺めるだけ。
 頬に風を感じるだけ。
 昔を回顧する事も、今を想う事もしていなかった様に思う。
 ただぼんやりと立っていた、立ちつくしていた。
 同じ空間で同じ時を過ごした。
 其れのみ。
首筋の後ろから背中へ真っ直ぐ冷気が通り、体内からは次々と熱が発生する。
 耐えられる程度に軽くうなされる身体が、互いの肌から感じる温かさを呼び醒ました。
「……」
「……」
 二人は視線を交わし合う。
 無言の内に気持ちの応酬が為され。
 先に動いたのは男の方だった。
 恐る恐る伸ばされた腕を引き寄せて、指を絡めた青年は男の胸元に顔を寄せて呟く。
「!」
 ―――今宵君に囁く睦言は如何か。
「…もう、季節は春だというのに……陸は冷たいのだな…」
「え、エルザム」
 パニック状態に陥っている親友が慌てる様子を楽しみつつ、青年は目を閉じた。
 どんな冷たい風でも平気なのだ。
 慣れない手付きで回されてくる、大きな腕がある事を知っているから。
 包まれた腕の中で自分の名を呼ぶ声があるのだから。

<了>

   writing by みみみ

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