【 ある朝のはなし 】

 とんとん、と誰かが己の肩を叩く。
 低めの穏やかな声で名を呼ぶ。
「…ガー、ゼンガー」
「う…」
 心地良い微睡みから引き離されて―――男は寝返りをうつと億劫そうに声の主を眺めた。
 少し長めの前髪の下、銀の瞳が茫洋としながらも人影を捉える。
「…ル、ザム」
「お早う」
 朧気な視界が次第にはっきりとしてくる中、掠れた声で相手の名を呼ぼうとしたのだが失敗した。
 目覚めの挨拶宜しく言葉を返してきた青年は長い金の髪を一つに束ね。
 そして苦笑した。
「…というには些か時間が過ぎているとは思うのだが?」
「今、何時―――」
「正午だ」
「何、…ッ!!」
 時刻を聞いて飛び起きた男は全身――特に腰から来る――痛みに思わず声を無くした。
 枕元にある時計を手に取り眺めてみれば確かにそう。
 正確に言えば正午10分前。
 何故もっと早くに起こしてくれなかったのか、という恨みがましい視線を投げかければ。
 深い森の瞳をした青年は微笑を浮かべつつ、
「君が余りにも深く寝入っていたので」
 と言う。
 起こすのが気の毒に思えた、と。
 真意が何処にあるのかと問わずとも、男には此が彼の気質である事を知っている為、
恨みがましく諦め半分に愚痴をこぼした。
 癖のある髪を無造作にかき上げて。
「普段であれば何が何でも起こしに来るだろうに…」
「偶には君の寝顔を満喫してみるの良いかと思ったのでな」
「お、前という奴は…っ」
 よくもまぁそんな台詞を平然と吐けるものだ。
 喉元まで出かけた言葉は出せず。
 季節はもう冬だというのに、何故か己の周りのみが季節を戻している様な気がしてならない。
 顔一面を朱に染めた男の顔を眺めながら、青年は嘯く。
「悪戯心を抑えただけでも有り難いと思い給え、ウォーダンなぞ止めるのに一苦労だった」
「っ!? あいつもか!?」
「ああ、勿論」
 結局は青年のペースに巻き込まれている己を叱咤するのだが。
 最近増えたもう一人の家族の事について、話題がふられたとなると。
 流石に堪えようも無い。
 未だに扱いかねるのだ、彼についても。
 彼に対する己の振る舞いにしても。
「どうせお前が起こしてこいと頼んだんだろうが…!!」
「正解だ」
 良く分かったものだと、明らかに相手を小馬鹿にする様な態度で言う青年に
男はそろそろ額の青筋を斬りそうになっていた。―――とは言え。
「う…っ」
「未だ、痛むか?」
 急激に動かした筋肉は無謀だと主を責め立てる。
 青年は男の肩を支えた。
 陸地で過ごす降誕祭を終え、最早我が家とも呼べそうな孤島へ帰ってきたのは昨晩のこと。
 二人の手には互いに誓い合った証が銀光を反射している。
 掌を重ねるたびにその感触をつい確かめてしまう―――――まるで何かに急き立てられているかの様だった。
「疲れているから、だから嫌だと俺は何度も…!」
「向こうの屋敷は壁が薄いから、帰ってきてからが良いと条件を出したのは君だ」
 という二つの主張を繰り返したのだが、どちらの主張が通ったのかは、火を見るより明らかだろう。
「だからといって何も帰ってきたその日の晩でなくとも!!」
「約3週間、私を待たせた君が悪い」
 悲鳴をあげる全身に涙しながら苦情を述べる男と、拗ねた様にからかう様に淡々と反論する青年。
 暫しの睨み合いの後――常に変わらず――男が折れた。
 深く大きく殊更言葉にはしなかった文句を込めて、溜息をつき、尋ねる。
「…ウォーダンは?」
「―――見たまえ」
「…!」

 青年が勢いよくカーテンを引くと、一瞬その眩しさに目がくらむ。
 昼だというのは分かるがそれでもこんなにも明るくなるものなのか、冬の昼が?
 徐々に慣れてくる視界が答えになった。
 天より墜ちるは氷の結晶。
 灰の空から舞い。
 この大地へと積もる。
 其れは雪。
 其れは白原。
 美しく静かに、純粋に清く。
 見る者の目と心を奪う自然の至高芸術。

「…朝からか?」
 暫しの間惚けていた男が尋ねる。
「君が寝ていた頃からだ」
 む。と一瞬眉を寄せたが特に気にはしない。
 終ぞ向こうでは積もることの無かった――降りはしたのだが――待望の景色。
 我知らず浮かぶ男の微笑を見て、青年が告げる。
 よく見えるようにとカーテンを寄せて縛りながら。
「彼なら朝ご飯の後すぐに外へ飛び出していった、今頃雪達磨にでもなっていなければ良いが…」
「…後で様子を見に行く」
 その言葉に一抹の不安を覚え、まさかとは思うが用心するに越したことはないと。
 この場合青年にそう思うなら引き留めておけとは言えない。
 向こうでは剰り外に出ない様にと言っていた為、実際に雪を感じた事は無かった筈だ。
 だからこそこの天気に――この寒空の下――外へ出たのだろう。
 何となくだがその時の様子が目に浮かぶ様で、面白い。
 さて、では遅ればせながらリビングへ向かおうと立ち上がろうとしたが。
「…っ…ぅ」
 全身をはしる鈍い痛みに思わず声が出る。
 足や腕をさすりながら、男は言う。
「折角の朝食を無駄にしたな…すまん」
「気に病む事は無い。不慮の事故だ」
「誰が原因だと?」
「さて」
 じろりと睨むその視線から上手く逃げておいて、二人は笑った。
 不意に合った視線に、軽く、唇を重ねる。
 二三度、啄む様な口付けを交わして。
 未だ新しい年は来ないが、今から願ってしまおうか―――来年もこんな風に笑える日々でありますようにと。
 彼と、もう一人の不思議な同居人と共に、恙無き生活を送ることが出来るようにと。
 証は既に交わした、銀の指輪。
 永遠に巡るもの。
「…エルザム」
「?」
 そっと互いに離れていった後で、質問が飛んだ。
「今晩の夕餉は決まっているか?」
「いや、未だだが…何か?」
「シチューを希望する」
「……。了解した」
 突然の夕食の希望――未だ後数時間は先の話――を言われ、少し呆気にとられたものの、青年は笑って了承する。
 何よりも朝食兼用の昼食も済んでいないというのに、全く君は。
 ベッドから立ち上がろうとしてふらつく男に睨まれながら。
「手を貸した方が良いかな?」
「いらん…。っ!」
「意地を張るな―――」
「……」
 漸く男は歩き出した。
 青年の肩と腕を借りながら。

***

 男はずっと空を眺めていた。
 低く垂れ込めた雲の一体何処からこんなものが降ってくるのかと。
 高く澄んだ蒼天は今は見えず、鈍色の雲に覆われ。
 広げた掌に触れれば消えてゆく此は。
 何処から来た?
「……」
(…冷たい)
 当たり前と言われれば当たり前の感想だが、向こうに出かけていた時は窓から眺めやるだけだった。
 触れた事も無い。
 唯静かに積もっていく此が何かと聞いた時に。
『雪だ、触れれば溶けて消えてしまう―――儚いもの』
 儚い?
 消えてしまう?
 窓から見た世界は一色に染まっていて、全てがその雪とやらで覆い隠されていた。
 此の一体何処が『儚い』などと言う形容詞になるのか、理解出来なかった。
 男の目には、ともすれば世界を潰してしまう程の不可思議な力を持ったものに見えていたからだ。
(…此が、ゆき…)
 ポケットから出した掌に雪が墜ちて、溶けた。
 触れたと思えば消える。
 言われた通りに。
 感触など、無い。
「…?」
 不意に名を呼ばれた様にして、振り向く。
 先程から何度かそんな感じがしているのだが、原因は未だ分からない。
 だが今度ははっきりとその音が耳に届いた。
「ウォーダン!」
「…ゼンガーか…」
 駆け寄ってきた男の姿を一瞥すると、又空へと視線をやる。
 普段と同じように整えられた髪に、多少の寝癖がある事はこの際不問の事項としよう。
 朝、起こしに行こうとした時に疲れている筈だからもう少し寝かせておいてやれと言われたのだから。
 欲を言えば一緒に見たかったのだとも想う。
「…よく眠れたか?」
「…お陰様でな」
 皮肉を受け流して、相手は尋ねてきた。
「珍しいか?」
「無論…」
 瞬き一つせずに眺めていれば。
 じっと飽きる事無く。
 実を言えば二三時間程そうしているのだが、相手に言われるまでは気付かなかった。
 鼻の頭が赤いぞ、と揶揄されてから初めて。
 ―――初めて? いや、違う…、何処かで……。
 『雪』を体験する事自体はこの島から出た時に。
 だがそうでは無く。
 もしかすると、無くした記憶の向こうでこの風景を見たことがあるのかも知れない。
 だからこそ。
「懐かしい、と思う…」
「何…」
「分からん―――ふと、思っただけだ」
「……」
 そう呟いた薄い銀の瞳が細くなり、やがて瞼を下ろした。
 大分長い間外に出て、こうやって雪を見ていたのだろう。
 男の頭には薄く白い層が出来ている。
 払ってやるかと、手を伸ばした瞬間。
「似ている、か?」
「! …何が」
 ゆっくりと開かれた瞳が此方を向いた。
 唯一残された目。
 その傷を見る度に思い出し、思い知らされるのだ。
 ―――お前は、本当に。
 無機質な様で居て己よりも感情を千変万化させる瞳が、問い掛ける。
「レーツェルと、雪が」
「!!」

 無意識の奥深くに眠る、氷の中の記憶。
 邂逅するは面影。
 恋い焦がれた人と過ごす事の出来た、愛しい残像。
 希うはもう一度。
 もう一度?
『―――!』
 待ち合わせ時間通りに青年は現れた。
 いつも己は少しばかり早く到着して彼を待つ。
 不安と期待が入り交じって落ち着かなくなるのだとしても、彼よりも遅くに来た事は一度たりとして無い。
『こんな所にいたのか、探したぞ』
『……』
 第三格納庫の裏か、演習場土手寄りの丘で―――等という実にアバウトな待ち合わせ場所を指定したのだが、
青年はきっちりと約束の刻限を守る。
 不思議と、彼も時間に遅れた試しは無い。
 己よりは余程忙しい身であるにもかかわらず、一体どのようなスケジュールの都合を付けるのか。
 吐く息も白く、青年は男に封筒を差し出した。
『此は…?』
『招待状だ』
『! あれは本気だったのか―――』
 白い、まるで和紙の様な感触の其れにはきちんと封書と署名付き、尚かつ宛名は己である。
 思わず凝視してしまう。
『当然だ。リシュウ先生にも宜しく伝えておいてくれ給え』
『……』
 呆れ半分、不承不承といった様子で男はその封筒を懐へとしまった。
 以前冗談で話していた事――彼らの晩餐に己と己の師を招くという話――が、まさか本気だったとは。
 何も聖夜の晩にわざわざ新婚夫婦の家へ行く程、野暮ではないと断った記憶があるのだが。
 そう告げると青年は言う。
『彼女も日本料理を振る舞いたいのだよ』
 と。曰く、一族の民族系統からして風習の差により、なかなか彼女の故郷料理を創れず、
あれはあれでストレスがたまっているらしい―――苦笑を交えながら解説されたそのエピソードに、
そうかと頷くしかない。
 だからこそ必ず来てくれなければ私が怒られてしまうと。
 付け加えて頼まれた。
『…分かった』
『そうしてくれると助かる。では、また』
 去って行く青年の後ろ姿を眺めながら、男は足下の花を見た。
『……』
 そして灰の空から降ってくる其れを想いながら、先程の青年と重なり合わせた。
 触れれば消える、其の存在は此の想いにも似ている。
 口に出してしまえば、もう終わってしまう。
 きっと見ているだけが一番良い。
 何も望んではいけない。
 何も欲してはいけない。
 唯傍に在り続けられる様、祈る事だけを赦されているのだから。
 けれど。
『………』
 きつく瞼を閉じると、男は暫しその場から動こうとはしなかった。

 沈黙はどれ程の時間だったのか。
 長くも無いし、短くも無かったが、きっと感じ方は違う。
 白く儚いものが彼に似ていると思うのは。
 胸中を過ぎった想いに苦笑を浮かべ、男は問う。
「―――……」
「何故、そう思う?」
「…なんとなくだ、あまり…理由を聞くな」
「尋ねておいて其れか」
「ああ」
 不遜な態度をとってはいるものの、内心は困惑しているのだろう。
 其れを打ち消すかの様に、男は純白の平原へと歩を進める。
 踵を返し、質問者が来たのとは別の方向へと。
 しゃくり、という音が耳に良い。
「…雪は、好きか?」
「……」
 同じように後ろからついてくる相手が言った二つ目の質問に答えようとして。
「―――っ!」
「おい!」
 間一髪。危うく後頭部を打ち付けてしまう所を、背後の人物が肩から支えてくれた事により免れた。
 どうにもこうにも、ばつが悪い様な気もして慌てて立ち上がる。
 何故だか落ち着かない。
 照れ臭い、と言い表す事が出来ないが故に。
「〜〜〜。帰る」
「! 急に立つと…」
「!!」
 結局同じ体勢になってしまって、もうどうしようもなくなった。
 相手の促す通りに身体を起こして、足下を確認しながら歩を進める
―――きっと温かい料理を用意してくれて居るぞ、という言葉につられたのだとは思いたくもないが。
 行きとは逆に、前を歩く男の背中を眺める。
「…ゼンガー」
「ん?」
 相手が振り向くよりも早く、男はその背中に張り付いた。
 腕を回して、完全に固定してしまう。
「!! どう、した?」
「……」
(少なくとも、お前は消えない。儚く溶ける雪とは似てもにつかない)
 懐旧の彼方で己がそう思っていた事など知らぬ男は、少しの間だけ、と呟いた瞼を下ろす。
 其れを聞き届けたのか、相手も黙り、これ以上歩こうとはしなくなった。
 ―――本当の理由を告げてはいけない。
 無意識的な警告。
 白い雪に誘われたのでは無く。
 珍しいものを見たかったからでは無く。
(確かめたかった)
 何故、あの青年とこの雪とが似ていると、己が想うのか。
 雪を見ていると何か思い出せそうな気がしたら、外へ出てこうしてずっと雪を眺めていたのだと。
 その事を、何故か言ってはいけない様な気がしているのだ。
 己の内に秘めたまま。
 そのままで。
「……」
「……」
 男が回した腕に、掌が置かれた。
 温かいもう一つの熱。
 少し、指を絡める様に触れて。
 冷えてしまった分、時を戻そうかと。
「…ウォーダン…?」
「…未だ、もう少し…」
 未だ目覚めぬ其れが、恋心と呼ばれるものである事を。
 男は知らぬまま、瞳を閉じた。

<了>

   writing by みみみ

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