【 感触 】 |
男が微睡みを断ち切ったのは、隣で眠る存在をこの目で確かめたかったからかもしれない。
静かに緩やかに流れていく時間は、自分たちにとっては限りなく貴重なもので。
だからこそ、不意に不安に駆られてしまうことがあるのだと。
此は本当に現実なのか、それとも夢の一部なのか。
胡蝶の夢に脅かされている。
「―――……」
上半身だけを起こして、ふと肩に刺さるひんやりとした空気。
蕾がふくらみ始め、木の枝から新緑が芽吹こうとするこの季節。
暖かくなってきたと言っても、それは以前の厳しい時期と比較してのものであって、やはりまだ寒さが残る。
己と同じように肩が出てしまっている隣の人物にも肩まで布団を引き上げる。
「ん……」
その動作に反応してか、小さく声が聞こえた。
起こしてしまったか、としばらく相手の様子を窺うがどうやらその気配もない。
男はひとまず安堵のため息をつく。
やがて男の持つ銀色の瞳が、とある場所へ行き着く。
「………」
数秒の躊躇いの後、手を伸ばしてそれに触れようとした、が。
「―――……ゼン、ガー…」
「…っ…!!!?」
戦場で戦う姿を、正に武神と謳われたこの男――ゼンガー=ゾンボルト――であっても、
心臓に悪いものがあるらしい。
今の様子を彼の部下達が見れば、さぞかし良いからかいのネタにされたことだろう。
一瞬で、全身が総毛立ち・冷や汗をかき・硬直する。
そして60秒ほど数えた後に、これが相手の寝言であることに気付くのだ。
だからといってどうするわけでもない、どうしようもない。
ただ無性に悲しくなったり、空しくなったりするだけだ、一人で。
この想いを分かち合える親友は――一体どんな夢を見ているのか、まさか夢の中でも己と共に居るというのか――
当分現実世界へ帰ってきそうもない。
「……」
今度こそ、と決意を固めて触れた指先。
柔らかに美しく彼の背中に流れるもの、緩やかなウェーブのかかった金糸の髪。
初めて会ったときに比べて、今では随分と長くなった。
その一房を手の平に取り、手触りを楽しむ。
己が持ち得ないふわふわとした感触が、心地良いのだ。
指を絡めて解いては、また絡める。
飽きずに何度も繰り返していたせいか、髪の主が体を動かした。
「………君、か…」
髪に触れているのが分かっているのだろうか、青年は目を開けることなく声のみを発した。
寝起きの人間らしい、掠れた低めの声で。
男は謝罪の言葉を述べた。
「…すまん、起こしたか…?」
「…いや…」
とだけ言っておいて沈黙が続く。
不意に起こされて機嫌が悪いからではない。
彼――エルザム=V=ブランシュタイン――は、実は朝に弱い。
そう言った所で、やがていつもの彼の思考に戻るのに5分とかからない。
だが、目覚めた瞬間だけはどうしても無理なのだ。
長年、直そうと体質改善を試みてきたらしいが、こればかりは。
そうして待つこと約3分。
背中越しに伝わる相手の気配が変わったと、ゼンガーが感じ取ったのと同時に。
先程と同じように、エルザムから今度は問いが投げかけられた。
「何をしているのだ?」
「お前の髪に触っている」
「………」
「俺はそれでお前が目覚めたのだと思ったのだ」
「…そう、か…」
可笑しさを含むにもかかわらず、至極真面目に返ってきた答えに青年は思わず苦笑を漏らす。
自分が起きるまでずっとそうやっていたのだろう、
またそれが面白さを増やしていることにこの親友が気付いたのかどうか。
無論、気付いていないのだろうが。
「―――人間の皮膚には触覚を司る細胞、というものが存在することは知っているか?」
「いや」
「例えば、手の平と指先では感じ取ることの出来るものの直径が異なるのだ。
目を瞑って、隣接した2つのペン先を感じ取ることが出来るのは指先、という具合に」
「ふむ…」
突如始まった講義に戸惑いながらも、男は相槌を返した。
相変わらず飽きることなく眺めていた髪を弄っていた手を止め、次の言葉を待つ。
「中でも一番敏感な場所はどこだと思う?」
「……。指先ではないのか」
「外れだ」
「…………」
「人間が太古の昔より、手と同様の頻度で使ってきた場所だ。人体の、な」
「…わからん…」
今与えられたヒントを元にして思いつくのは足だが、それも違うような気がする。
相手がこんな風に尋ねてくると言うことは、全く意外な場所なのだろう。
男が悩んでいると、催促の声がする。
「―――終いか?」
「……ああ」
青年は、結局降参してしまった問の答えをさらりと明かした。
「―――舌、だ」
「舌!?」
「そして、唇。この二つの器官には他と比べて多くの細胞が集まっているため、より複雑な判別を可能とした」
「……」
「そんな話を聞いたことがある、というだけだ。真偽の程は確かでは無い」
青年は身体をくるりと回転させて、男の方へと向き直った。
成人男性が二人寝ようとも余裕の広さを保つベッドが少し軋んだ音を立てる。
気がつくと男は翠玉の瞳に捕まっていた。
視線を反らすことも出来ずに、完全に相手に呑まれて。
ふっ、と青年が微笑んだ。
「触れてみるか?」
挑戦的な笑み。
しなやかで美しい獣を思わせる瞳が笑っている。
そう言われれば――必ずと言って良い程――受けて立ってしまう男である。
「ああ」
多少の後悔など頭の片隅に追いやって、青年の肩に掛かっていた髪に手を伸ばす。
同時に青年が揶揄めいた言葉をかける。
「噛み切るのは、止めて頂きたいものだな」
「…獣か、俺は」
「少なくとも、夜の間は」
「っ!!」
一瞬で朱に染まる男の顔。
昨晩の痴態を今更こんな所で持ち出された事に腹を立てると同時に、まざまざと甦ってきた感覚に身構える。
肌と肌とが触れあう距離にあっては、次の一手で昨晩の続きに流れかねない雰囲気がある。
少なくとも、この目の前の親友に関しては其れを平然とやってのけるだろう。
抵抗出来無い己も又、情け無いの一言で一蹴されても文句は言えないのだが。
青年は喉の奥で笑い声をあげ、其れを咎めるような視線を受け流しておいて、目で続きは?と促した。
未だ何かを言いたげだったものの其れを諦めた男が、完全に上体を起こして、顔を青年の方に近づける。
殆ど背中へ流れてしまった金糸の波を、ほんの一握り残した肩に、唇を寄せ。
慈しむように、楽しむように、ゆっくりと。
―――この時の緩やかな動作の所以は、多少の意趣返しも含まれていたのかもしれない。
唇が動いた。
「……だな」
「な、に…?」
青年は途切れ途切れに聞き返す。
実を言えば、あまりに緩慢とした動作がこそばゆくて仕方が無いのだが、
男が触れている手前、下手に動くことも出来ない。
肩に力を込めるあまり、男の呟きを聞き逃してしまったのだ。
しかし、男の口から出た台詞に思わず反応が鈍る。
「案外、旨そうだ」
暫し沈黙の後。
「―――褒め言葉として受け取らせて貰うべきかな」
「案外、だがな」
「手厳しいものだ」
男から帰ってくる淡々とした批評――自身の髪を美味らしいぞと言われたことをどう受け取るべきなのか――
について考え倦ねていると、男が背中を指で叩く。
……俯せになれ、ということか。
もうその後の行動は十二分に想像がついてしまう。
どうやら自身はこの男に妙な楽しみを増やしてしまったようだと、ぼんやり考えながら、青年は瞼を閉じる。
背中に感じるくすぐったさに笑いを堪えて。
<了>
writing by みみみ
© 2003 C A N A R Y
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