【 花の名は 】

 其の、胸に眠る花の名は、誰かが投げた白い百合。
 かき抱き、傍に在れと願うのに。
 花は散って、今は亡い。


 急な階段を登り、墓地の門をくぐって暫く歩くと其処に一際大きな墓地がある。
 周りに並ぶ墓とは明らかに違う其れが、彼女の墓であると知ったのはいつだったか。
 空の棺には不釣り合いなほど、大きな墓地。
 ―――クレーターに似ている。
 隕石が地球の大地に穿つ大きな穴。
 嘗て、地球の覇権を争った者の本拠地であり、最後の審判者と呼ばれる異星人兵器が眠った土地の様に。
 目の前の墓地は此方に何かを訴えかけてくる錯覚を起こさせる。
 形だけの埋葬者。
 弔われたのは、一人の女性。
 名を、カトライア・F・ブランシュタインと言い、己の傍に居る青年の婚約者であった女性である。
 幾度か顔を合わせた事もあるし、喋ったり食事を一緒にした事もある。
 ほぼ顔馴染みと呼んで良い、脳裡に面影の浮かぶひとだ。
 手を合わせながら、然し此は東洋の風習だと気付く。
 此処が東洋の島国―――日本にあるとは言え、然し墓自体は西洋のものに則った形をしている。
 周りに並ぶのは日本墓石そのものだというのに、
西洋式の広い墓が山中の墓地にあるのは何とも不思議に見える。
 ―――だからこそ、記憶に穿たれた穴に見えるのかも知れない。
「…水を汲んできたぞ」
「ああ、有難う」
 近場の水道から木枠の桶に水を入れ、柄杓と呼ばれる其れを持ちながら男は青年に近付くのを止めた。
 声だけをかけて、墓前に膝をつく彼の背中を眺める。
 此処を訪れてからずっと彼は黙ることが多く、
今も手を合わせているのだろうか―――振り向かずに返事をした。
 彼の気が済むまでは取り敢えずすることも、話すこともない筈だ。
 そう思って、己も手を合わせた。
 ―――だが気付くのだ、己は果たして彼女の為に祈る権利など在るのかと。
 外してきた筈の左の薬指が疼く。
 互いを愛し、互いに愛されることがどんなに尊い事であるとしても、
同性同士には其の尊さが認められていないのだと分かっているつもりでも―――あの時に迷いは捨てた筈だった。
止める時も、健やかなる時も二人は共に居ると誓ったからこそ、
焦がれて止まないこの慕情に従う決意を固めていたのに。
 男は青鈍色の瞳を細めた。
 青年の背中に流れる金髪は緩やかに波打ち、彼女の髪型を彷彿とさせ―――佇む、彼女の姿が浮かぶ。
 昼から出掛けていった時にはお茶の用意を、夜に訪ねた時には晩餐を、
其の時々の季節に合わせた菓子やお茶や食事や花々で迎えてくれた。
広い、ブランシュタイン家本家の庭で、三人共に過ごした日々。
 あの頃から、己はおかしかっただろうか。

『初めまして、ゼンガーさん』

 エルから噂は一杯聞いていましたけど、
本当に背が高くて手も大きくて―――初対面の人間の周りを物珍しそうにくるくると回り、
見上げる彼女に合わせて、己がしゃがむと有難う御座いますと小さく礼をした。
日本という東洋の島国の血が入っている彼女は、何処かあどけないが、内実はとても心の強い女性だった。
 大和撫子という言葉を口にすると、それは言いすぎだと笑われる。
 直ぐに表情が変わる賑やかな顔つきと、ブランシュタイン家の女性として生きる何処か穏やかな強さ。
 ―――人と談笑するのが苦手な己でさえ苦にならない。
 素敵な女性だった。
 三人仲良くお茶をしたり食事をした思い出が蘇る。
 恐らくは、其の頃は其処まで己の醜い感情を意識したことはなく、
彼女と彼の仲に己は野暮であろうというだけであったものを。
そもそも彼の事をどう意識していたのか、はっきりと分かったのはもっと後の事だったと記憶する。
―――それこそ、彼女が亡くなってから、かも知れない。
 浅ましいと何度も感じる分岐点。
 何度も断った食事会を、とうとう根負けして訪れた頃の記憶では、
面白可笑しく彼のことを語り、彼女について彼は又言い争う。
出会った時の話や、料理の腕を競い合う時や、其れはもう眩しいぐらいに楽しい二人で。
 仲睦まじく。
 壊されたくない、一時だった。
 緊張も自然とほぐれ、畏まらずに済んだのは、矢張り彼女の為せる業に違いない。
 ―――全てを過去形で語ることが、此処まで辛いとは思わなかった。
「ゼンガー?」
「…!」
 訳の分からない、否―――寧ろ逆に自覚した上での目眩に身体をふらつかせた瞬間、彼が己の腕を引く。
 顔色が悪い様だが大丈夫かと問われ、強がりに苦笑してみせたがばれているのだろう、
青年の鋭い視線は変わらず、後で休憩所に寄るからもう少し待っていて欲しいと墓の掃除を始めた。
立ち上がらずにそのまましゃがんでいてくれという指示に従い、心の悲鳴が通過した後の名残で額を押さえた。
 手早く、慣れた手付きで其れを行う彼の動作が、ふと悲しいものに見える。
 汲んできた水で墓を洗い、墓周辺の枯れ草や落ち葉を拾い、花を供えた。
 日本式の墓の儀礼であることを頑なに守っている様にも思える数分が終わり、
己は彼の手を引かれて歩いてゆく。
 山中に幾つも並ぶ墓。
 故人と共に、想いを埋葬する場所。

 病院は白い。
 病室も白い。
 己が身体に巻かれた包帯には―――白ではなく、赤が滲んでいた。
『大丈夫か、ゼンガー…!!』
 彼の呼びかけで焦点が定まり、意識の混濁が少しずつ晴れていくと、記憶も徐々に戻ってくる。
 己にとっては初めての実機を使った模擬戦闘だった。
一通りの操作訓練は何事も無く終了したのだが、最後の項目である脱出装置の動作確認を行った瞬間
――回路系なのか其れとも駆動系なのか――負荷がかかったらしく、
エラーランプで真っ赤になったと同時に、コックピット内での爆発が起きてしまった。
 咄嗟に身体が行った反射神経やパイロットスーツが、多少なりとも守ってくれていたけれども、
結局は火傷や裂傷などの浅くはないが深くもない傷を負い、斯うしてベッドに横たわっている。
 己が目覚めた事をナースコールで青年は報告し、直ぐに医者が駆けつけた。
何度かの基本的な事項確認を行い、記憶障害や身体障害も起きていない無事を告げ、
ひとまずは安静にする様に言われた。
 熱い。
 痛い。
 ―――まるで他人事の様な感覚で己の身体を感じるのは、麻酔が抜けきっていないからだろうか。
 其れとも先程看護士に渡された、薬の所為か。
 遠くに感じている、体内の灼熱。
『……え、…』
 最近親しくなった友の名を呼ぼうとして、一番最初に助けに来てくれた礼を言おうとして、
大丈夫だと言ってやりたくて、出来なかった。彼の不安げな微笑が薄れ、意識が飛んでいく。
 隣で起動に成功し、共に歩行訓練や火器装備訓練を受けていた彼が、一番早くの異常に気付いた。
 通信が途絶え、爆発音と共にくぐもる声。
オペレーターや指導教官たちが居るコントロールルームに緊急事態を告げるアラームが鳴り響き、
消化班と救急班に指示が出るよりも先に、何を言っているのか分からずとも、
真っ先に駆け寄り、自機を支える彼の機体。
『ゼンガー!』
 ―――天涯孤独の身であれば、何時死んでも構わないと、だから軍人に志願したつもりが。
 世話になった人に恩を返したくて、言われるままに此の道を選んだ筈が。
 友と呼べる者に出会い、温かい時間を過ごした事で初めて。
 生を意識する。
 渇望する。
 生きていたいのだと。
 未だ、死ぬ訳にはいかないと。
『………』
 彼が己の名を強く呼んだ時に、生きたいと願う現金な奴。
 未だ死ねない事を意識する愚かさ。
 休憩所につくなり椅子に座り込み、男は呼吸を整えた。
 白は、死者の為の色。
 黒は、生者の為の色。
 弔われる者の色。
 弔う者が纏う色。
 ―――炎天下での強行軍でもないというのに、この体たらく。
 それ程までに、彼女の存在は大きいと言う事だ。
其れは彼にとっても、己にとっても同じ事で、意味合いだけが少しずつ変わってくる存在。
時を経て、自身の大切なものが増えれば増えるほど、悲しみや苦しみも増えていくのと同じように、
永遠に年の変わらぬ彼女の姿は、何時までも記憶の中で鮮やかに存在し続けている。
 彼女の姿は、変わらないのだ。
 己を許すのは己自身であり、甘やかすのも己自身。
 己を責めるのは己を置いて他になく、許さないのも己自身。
「何か飲み物を買ってこよう、君は此処で休んでいたまえ」
「…ああ」
 横になりたい誘惑を堪えて、椅子に大きくもたれかかる。
 吐き出した息に合わせて精神集中してみても、目眩と、幻覚はなかなか消えていってはくれない。

『エルは元気にしていますか?』

 響く其の声は寸分違わず彼女のもの。
 記憶の中に遺された、優しい声を優しく感じられなくなる日が来るのかと怖くなる。
 彼女との思い出をねじ曲げて、正しく、思い出せなくなる。
 彼女が亡くなってから一体どれ程の年月が流れたというのだろう?
 其れなのに。
 彼の中の彼女は絶対値で、揺るぎなく、動かさず、消すことも忘れることも出来ない。
 否、そうしてはならないのだ。
 最早彼女は彼の一部。
 彼は常に彼女と共にある。
 ―――死して尚、理想的な夫婦愛。
 代わりではないと分かっていても、代わりであるという感覚は何処か拭えずにこびり付いている。
 彼からの想いに怯え、受け止めたくても受け止めきれず、不意に見えるその影に謝りたくなる。
 生者の傲慢と。
 死者の無言。
 酷く危うい、彼女との関係。


『彼女は私が殺したのだ』
 其れは紛れもない真実。
 目を逸らしてはいけない、事実。
 過去という名の重り。
「暖かい…」
「日本茶にも色々種類があると、迷ってしまうな」
 苦笑しながら親友の隣まで戻ってくると、お茶を手渡して自身も椅子に腰を下ろした。
 ―――自分は無難に缶コーヒーであるのだけれども。
 自動販売機の前で眺めていると、日本にあるお茶の種類は、各メーカーによって異なり、濃さや味が異なり、
英国の紅茶にも勝るとも劣らないものになっている気がする。
更に大量生産を可能としているその体制すらも恐ろしく、
紅茶も日本茶も元は同じ兄弟だとすると紅茶好きのあの少年は何と言うだろう。
 思考をぼんやりと遊ばせながら、隣に座る親友をちらりと覗き見る。
休憩室で暖を取ってはいるものの、冬の隙間風には勝てず、寒さは足下から忍び寄り、
せめてもと選んだ温かなお茶は、開封されず男の手の中にある。
 大きな手の平の中に収まっている小さな飲み物。
 墓参りをしようと言ったのは親友の方からだったが、其れが何故かは未だ問うていない。
 特に予定もなく、哨戒任務の序でに寄ろうと思えば寄れるコースを、
先日から考えていただけに―――突然の申し出に、戸惑いを覚えたのは寧ろ此方だ。
 花を供えに来るのはいつも一人で、時間は短い。
 墓前にやってくると毎回違う思いで手を合わせ、花を供え、世間話でもするかの様に近況報告をしていく。
 此はずっと自分一人だけでするもので、
弟と来る事はあってもまさか親友である此の男と一緒に来る事になるとは正直考えていなかった。
 其れに、彼女との過去を回顧する暇なく、自分たちは直ぐに新たな戦場へ旅立ってしまう。
 大きな戦乱が起きない限りはルーチンワークの中に収まってしまう日々は、世界が平和である事の証拠で。
 束の間の平穏を支えているのは影ながら世界を脅かす者の芽を摘んでいる自分たちだからだと。
 そんな自負心があっても、未だに彼女と真っ直ぐに向き合える勇気は無い。
 彼女が亡くなって―――否、自身が殺してからの年月を思えば、
そろそろ向き合える頃だと思うのに、なかなかそう上手くはいかない。
 家族の中でも彼女を大切に、一番大切に考えていた弟でさえ、
先日の大戦で多少なりとも和解――恐らくは形としては弟からの多大なる譲歩に近い――できたように思える。
過去からの因縁を断ち切って、二人で墓参りをしようと言った約束。
許されないと思っていた相手からの、思わぬ、許し。
 ―――けれど。
 人の心は脆弱で、簡単には過去から離れて生きることが出来ないのだ。
 過去が現在を作りあげる以上は、人は過去に縛られ続ける。
 彼女はもう、居ないのに。
「………」
「どうだ、少しは落ち着いたか」
「……」
 小さく頷く親友の視線は、何処か此処ではない虚空を見つめている。
言葉は少ないが、気分が悪いという訳でもなく、先程よりかは顔色が良くなってきている様で安心する。
彼女の墓に、誰かと来るのは初めてで、しかもその初めての同伴者が親友だというのだから、
一体どうしたのかと問い掛けた方が良い。なのに、問えない。
 問うた答えが、生々しすぎる。
 この場で。
 彼女の墓がある此の場所で、等と。
 忘れたい訳ではないのに成る可く避けてきた其の名前は、日常剰り口にする事がない。
 けれど、も。
『墓参りに、行こう』
 突如、突然の唐突な申し出に反論すら忘れること数秒。
 其れからゆっくりと浸透してきた其の言葉に、本気かと尋ねれば、彼はそうだと肯定した。
 嘘など、冗談など。
 言うはずもない、親友が何故。
 航路変更や支度を調えて慌ただしい中聞きそびれてしまった事だけれども、
二人揃って同じ行動をしていたのは何とも言えない。
 ―――二人を結んでくれている銀の指輪は外してきて居る、と。
 あれだけ強く願ったことも忘れ、唯厳かに彼女の墓の前で手を合わせる。
 其れしかできない。
 空の棺の中、眠っているのは彼女の何だろう。
 好きだと言ったのは嘘ではない。
 彼のことが好きなのも嘘ではない。
 同時に成立する正の命題。
 矛盾するのは、間にいる自身のみ。

『可愛らしい人ね』

 打ち解けられるかと少し席を外していた間に、どうしたものか髪にリボンを結ばれていた親友。
 困っているのは分かっているが、基地では滅多に見られない其の表情に笑いを堪えきれず。
 助けたいが、助けてしまうと勿体ない様な気もして。
 恨みがましい親友の目線を避ける。
 三人で居るのは楽しかった。
 本当に。
 ―――彼女が死んでしまった今、此の絆を彼女はどう思うのだろう?
「…そろそろ、かな…」
 良くも悪くも、此の場所は神聖すぎて、自分たちには不似合いな気もする。
 哀しさと愛しさは同じ言葉だと、思い知らされて。

「…さて、行こうか」
 振り払っても振り払っても傍には必ず罪悪感が、
苛む心が付きまとってくる―――生きているならば、幸せになっても良いはずだ。
死者に囚われることは即ち、死だ。
 軍人である以上、誰かの命と自分の命を天秤にかけ、強い方が生き残るは当然のことだ。
 例外中の例外で失われた彼女の死は、何処へ逝けばよいのかと問いつめても答えは出ない。
自分の命と同じくらい大切な者を殺してまで、自分が生き残り、
一族の宿命に囚われて大義という名の戦争を引き起こす。
 尊い犠牲と呼ばれる、其の犠牲を生み出したのは自分自身である。
 幸福を追い求めてみても、矢張り、逃れられない。
 ―――迷い。
「迷う…つもりでは無かった」
「…?」
 缶コーヒーを飲み終わって立ち上がり、去ろうとした自分を引き留めたのはそんな親友の一言。
 すまないとも取れるし、気にするなとも考えられる。
 言葉が少ないのではなくて感情の表し方が低いのでもなく。
 直感的に喋る時と、考えながら何かを話そうとする時があるからなのだと知れる。
 開封されていない日本茶のペットボトルを両手で握りしめながら、告げる。
 邪魔をしてはいけない。
 其れが、今回の目的を話すものであるならば余計に。
「迷ったつもりもない…疾うに心は決まっていて、覚悟はあった…だが、難しかった―――」
 ―――彼女の墓をいざ目の前にしてみると、強靱な意志で纏めていたはずの思いが揺らぐ事に気付いた。
 親友は訥々と表情を変えず、声も変わらず、言葉を続ける。
 真っ直ぐに何処かを見ている様な、視線で。
 だからこそ、痛切に見えて仕方がない。抱きしめてやりたくても、此処では、不謹慎すぎる。
 聞く自分もかける言葉を忘れて、暫くの独白を聞く。
「彼女に対する裏切りだと、苛む力は微弱だが、底からやってくる」
「…底?」
「俺達の今を支える、底から」
「―――!」
 見れば震えている親友の手。
 寒さから来るものではなく、内側から怯えている震え。
 俺達は決して天国には行けないと語った、昔を思い出す―――。
 罪人の、話。
 咎を負った者が、どうなるのか。
『人をのろわば穴二つ…』
『? 何だ其れは』
『東洋の古い諺だ、人を呪いにかけて殺しても、
その呪われた者の隣にある穴は、いつか自分が入る為の穴であると。
殺した者は、殺された者同様に死ぬ運命なのだ…と』
『……』
 殺し、殺されることを常とする戦場で生きる者達にとって、死後の世界は生易しいものではあるまい。
 決して常人とは、自らの愛する人たちとは同じ死後では無かろう。
 積み重なる死体の山に幾つもの愛しい顔を見つけてはしゃがみ込むのかも知れない。
 自分も又、誰かの愛しい人を奪ったのだと。
 自分で自分の愛しい人を殺した場合も、同じなのか―――彼女の笑顔が、
思い出が、ぼんやりとしか思い出せないことに腹が立つ。
其の記憶を思い出すことで痛む心があるから、無意識に記憶には鍵がかけられ、
あくまでも大切なものとしてしまわれている。
 ―――何処か蔑ろにされて、自分には見えない。
 愛しいと想えば想うほど、過去との隔たりが大きくなる覚えすら在る。
 年をとらないままの彼女と、年をとり続ける自分たちとの差が、歴然と開いていく様に。
「未だ、言えないのだ…俺は」
「………」
「許して欲しいとも、責めて欲しいとも」
「…ゼンガー…」

『人は弱いから、二人で一緒に居ることが多くなるの、きっと』

 どちらの側にも寄れないから狭間で苦しむ事になる。
 寄り添い在った日々は、夢幻の様に遠く。
 其処彼処に居る筈の存在はうっすらと。
 確かめ合った絆すら、分からなくなる。
 地図も磁石もないままに霧の中を歩き続けて行くばかり。
 孤独に。


****

「………?」
 ―――目を覚ませば、其処はブランシュタイン家本家にある屋敷の庭。
 目の前に居るのは婚約者唯一人。
 未だ眠いという瞼を擦りながらゆっくり瞳を開き、焦点を合わせていくと状況が次第にはっきりとしていく。
 普段は周りに控えている侍従たちの姿が見えないとなると、どうやら二人っきりにしてくれた様だ。
 気を利かせた、と言う所か。
 不規則な軍人生活が長いと、ついつい斯うした日常を忘れがちだが、
其れでも待っていてくれている―――婚約者が愛おしくてたまらない。
婚約者を目の前にしながらうたた寝をする様な、そんな男であっても彼女は愛想を尽かさずに笑う。
 少女の様に、花の様に。
「よく眠れましたか?」
「……嫌味ならば真摯に受け止めるが…本気だとすれば、さてどうしたら良いかな」
「私が怒る所ですね」
「…成る程」
 顔は笑っていても心の中にはきっと、
自分への罵倒があるのだろう―――そう言って伸ばしてきた彼女の手は自分の頬を思い切り引っ張った。
 彼女の気持ちを考えると痛いとも言えず、此方としてはただ謝り続けるしかない。
 突発的な哨戒任務が多かったものの、流石に昼食を腹に入れた辺りで限界が来るとは思わなかった。
 久方ぶりの婚約者との時間が、睡魔に潰されたとあってはブランシュタインの名折れだろう。
 いや、何よりも。
「女性に恥を掻かせる男は最低、だな」
「ええ、覚えておいて下さい」
 拗ねように振る舞う仕草も可愛らしく、
けれどその中には強くて熱い意思が宿っているのを知っているからこそ。
 好きだった。
 彼女が、大切で、愛おしくて。

『カトライア…ッ…!!』

 宇宙に吸い込まれてしまった叫び。
 地球の重力にも囚われず、あのコロニー周辺を漂い続け。
 風化するまでは果てる事の無い軌道を描く。
 青年はもう一度瞼を下ろして、椅子に大きく凭れながら―――コロニーが持つ、偽物の空を眺めた。
 翠玉の瞳に映ったのは、脆くて悲しい記憶だらけの空。
 呟く。
「…君が、死ぬ夢を見た」
「嫌なことを言いますね」
「……コロニーを占拠され、テロリストの人質に…」
「ありそうな事です、でも大丈夫でしょう?」
「…私が、君を殺して―――――」
「貴方が居ますから」

『―――!!』

 思わず両手で顔を覆う。
 震える言葉は、それ以上何も生み出さず。
 彼女も、もう喋らなかった。
 庭に座っているのは自分唯一人だったのだと、その時気付かされる。

****


 今回彼女の墓参りに行こうと突然言いだしたのは己だ。
 普段は彼の弟が時折掃除に来るほどで、
彼女の生家からよく思われていないブランシュタイン家の人間は剰り近寄ろうとはしないものだと聞いていた。
だからこそ、彼ら兄弟も、ブランシュタイン家に連なる者達は、
彼女の墓を守り、維持しようと援助はしても、直接来ることは少ないのだという。
 だがどうしても来なければならなかったのだ、己は。
『ゼンガーさん』
 例え夢であっても、其れが現実でなくても。
 ―――彼女は己の目の前に現れた。
 何も言わず、唯微笑むだけで、静かに穏やかに目の前に立っていた。
 軍人一族へ嫁いだ女性の強さは、武人でしか生きることを知らない己には眩しすぎる。
 戦場で、生死を賭ける事しか知らぬ男には鮮やかすぎる。
 然し、結局彼女が何を言いたかったのか、其れとも何かを言うつもりではなく、
単純に青年の姿を見に来ただけなのかは分からない。
 宇宙の闇に抱かれて、亡くなったひと。
 強いひと。
 少女の様にあどけなく笑うひと。
 貴女はどうして―――今、俺の夢を訪ねたのか。
「…業だな…」
「業…?」
「カルマ、とでも言い換えた方が分かりやすいか…人が生まれながらにして背負っている宿命の事だ。
運命、ならば分かるだろう?」
「………」
 温かかったお茶は疾うに冷めてしまった。
 其の温もりは己が掌から発するもの。
 己で口にしながらも―――生まれながらの宿命、運命だとは胡散臭いと思う。
 彼との出会いも、彼女との死別も、斯うして再び共に居るようになったこと全ても。
 何もかもを業だと捉えてしまうのは軽すぎる。
 酷すぎる。
「……今日は、1月の5日か」
「……ああ、そう言えば…」
 いつの間にか日付変更線をまたぎ、時差も含めて日本では己の誕生日になっていた。
 ―――運命だな、と彼は呟き。
 皮肉にも程があると、己は呟き返した。

<了>

   writing by みみみ

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