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【 ツキハナにハナヅキ 】 |
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
凍えた空気。
零れた息が白く。
頬をさす様な風に髪が揺れた。
男は闇の中、一人佇む。
「……」
ぽつんと星々の中で唯孤独に。
空に在る其れを眺めては。
呟くが。
「……」
止めておいた。
開いた唇を真一文字に結び、視線はずっと上に。
結局は言葉にならず、口の中で留めておくものであっても。
想いは何ら変わら無い。
己が望んでいる事も。
「ウォーダン?」
「…!」
呼ばれ、男は振り向く。
声をかけたのは己より僅かに背の高い、良く見知った人物。
長い前髪は銀の光を反射し、折れぬ強い意志を秘めた瞳が見え隠れしている。
普通であれば近くへと寄るのだが、今日ばかりは勝手が違う。
男は突然背を向けて走り出した。
「―――!?」
「…!」
今、捕まってはいけない。
あの男に捕まりたくない。
男が走り出したのは反射的なものだった。
呼ばれた事によって其の声の主が誰かは分かっているだろうに、振り向くまでは不覚にも思考が止まっていた。
(今まで何の為に…!)
無論そんな心境など知らぬが故に。
―――この想いを、看破されたく無い。
と、考える。
「…っ、何処へ行く!?」
「……」
深く暗き森、冬になっても尚樹が生い茂るその中へ男は姿を消した。
森の多くは常緑樹であり、年中草木が風に揺れているのだ。
今の時間ならば、多少夜目の利く己でも人一人を追うのには難しいものがある。
思わず溜息をつくが、といって諦める筈も無く。
留守を任されている者として、その責を果たさずにいるとあっては。
(問題だ…!!)
しかし、何故彼は己の前から逃げ出そうとするのだろう。
まるで見つかりたくなかったかの様に。
―――其れについても問わねばなるまい。
一つ決心をして、歩を進める。
***
事の起こりは1時間程前。
これからは日の長くなる季節だとはいえ、
流石に空に翳りが見え始めた時間になっても未だ戻らないというのはおかしい。
厨房に立ちながら窓の外を眺めていた男は思った。
出かけてくると言った時間から逆算してみても、矢張り。
1日中外にいる事が珍しくない質ではあるものの、この時間になっても帰ってこなかった事は無い。
一応それなりに戻ってこない理由を考えてはみるのだが、どれも当てはまりそうにない。
逡巡の末に、男は屋敷を出た。
(何故、逃げる…?)
振り向いた瞬間に交差した瞳の中には、驚きと焦り。
まるで隠れ鬼の鬼に見つかったときのような色。
すぐに背を向けて走り出す程に。
勝手知ったる森とはいえ、こう暗くては多少向こうに有利だろう。
迷い無く進む事からしても少しの躊躇いが仇になる。
開く距離を瞬時に詰めなければ、相手の足を止める事は出来ぬ。
姿を見失わない為にも。
『未だ…』
微かに動いた唇から読み取れたのはその2文字。
続く言葉は無い。
おそらくその続きになる言葉が男を逃走へと導く理由。
そしてこのまま逃げおおせられる程―――。
(甘くは無い…!!)
「其処だ!」
「!?」
相手が方向転換をするタイミングを見計らって仕掛ける。
咄嗟の事に受け身を取った相手の足が止まり、共に地に伏せた。
緊急の事態に息が上がってしまったものの、未だ逃げようと機を見計らっている人物を抑えておく位の余裕はある。
漸く此で。
「……」
「何故…逃げた?」
問い掛けに男は答えない。
視線を合わせようともせず、明後日の方向を向いたまま。
暫く様子を見ようと黙っていたのだが、ずっと其の沈黙が続くので、溜息をついた。
互いに頑固である事は分かっている。
一度口を閉ざしてしまえばなかなか喋らないと。
きっと何かを考えているのだろうが…親友ほど人の気持ちを測る事に炊けていない己にとっては、
言ってもらわない限り伝わらないのだ、残念な事に。
だが、帰るぞと言おうとした其の時。
「………」
起こした上半身に触れる掌。
強く掴まれているのは己の左腕。
低めの呟き。
「行くな…っ」
***
―――其れに気が付いたのは一体何時のことだったか。
突然飛び出した男が一晩帰ってこずに。
殆ど寝ずに夜を過ごした次の朝だったか。
それとももっと後だったか。
少なくとも男の様子がおかしい事、何か落ち着かない様子で居た事は知っていた。
その日が何か特別な日だろうという推測をしていたのだ。
あの夜が来るまで、どことなく普段とは違った雰囲気の男をずっと見ていたから分かる。
生憎と当の本人はこの視線に少しも気付いていないだろう……多分そんな余裕は無かった筈。
そう、そして。
己は確かにこの目で確認した。
気付いてしまった、見つけてしまったというのが正しい。
(…ああ、そうか…!)
朧気に懐いていた感覚がはっきりとした真実に変わる。
それ以来、何故か己が落ち着けなくなった。
じっとして居られない。
同じ時を過ごす事が出来ない。
同じ、場所に。
まるで見続けていた彼と同じ様に。
『ゼンガー、其れは?』
『あ、ああ…此か…此は―――』
無骨な指に唯一つの輝き。
困った様な笑みを浮かべて男が告げる。
此が俺達の契約の証なのだと。
共にいる事を永久に誓うのだと。
心なしか頬が赤いと思ったのは気のせいでは無かろう。
己の見間違いでもない。
確固たる事実に煽られて、生まれるのは。
―――寂寥感。
(嫌だ…!)
でもきっと。
(お前が…せ、なら…其れで―――)
良いのかも知れない。
***
「お前に、見せたい…ものがある…だから……」
「行くな、と?」
相変わらず顔は背けられたまま。
聞き返した言葉に男は首を縦に振る。
見せたいものが何かは問わず、男が立ち上がるのを待ってその後ろについて行く。
観念した気配が背中から伝わってくるのだ、其れと共にもう一つ。
(何か、違う…)
混沌とした気配。
強いて言えば迷っているという感情に近い。
真なる其れが何かは問うてみなければ、結局のところは分からないのだが。
先を歩きながら男は考えていた。
(遅かれ早かれ―――こうなっていたのだ、だからわざわざ逃げずとも)
しかし心が相反する。
違う、そうでは無いと誰かが叫んでいる。
逃げずとも良かったと納得している己と、逃げなければならないと警告する己。
たった一つの身体だというのに。
分からなくなる。
このまま自分が自分では無くなりそうで。
どうしてかも分からないのに。
どちらに従えば良かったのかも。
「ゼンガー…」
「何だ」
辛うじて声が出た事に喜ぶ。
掠れず、はっきりと喋る事が出来た。
「目を、瞑っていて欲しい」
「目を?」
「その代わりに俺の腕に掴まって歩く様に」
「……ああ」
何の疑問も投げかけられなかった事を今は感謝した。
気遣ってくれているのだと分かっていても、腕に男の手が触れた事に安堵する。
其処だけが確かな部分―――己にとっては。
序で、目を瞑った男の為に歩む速度が格段に落ちる。
ゆっくりと二人は森の中を進む。
交わされる言葉は無い。
ひたすら進むだけ。
「目を…開けてくれ」
足が止まり、男が告げた。
恐る恐る目を開けば。
「……? !!」
「……」
―――白はお前に。赤はあいつに。
きっと最初から決めていた。
***
1枚ずつ散る花弁に黒き土は覆われて。
いつか降った雪、其れに酷く似た景色。
時折見える赤が鮮やかにその色を際立たせても。
視界には余りある、白一色。
美しく清らかに綻ぶ。
無音の空間を染め上げる事の出来るもの。
「偶然見つけたのだ…」
先導していた男が花に近寄る。
ぽき、音を立てて枝を手折ってゆく。
一つ又一つと。
視界が開けた瞬間の光景に目を見張るだけだった男が、その言葉に我に返った。
まるで森の中でも此処だけにしか咲いていないと思ってしまう程多くの。
花。
白い、花。
そしてぽつりと見える赤。
「…何という花かは知らぬ…だが、俺はお前に此を」
―――渡したかったのだ。
男はそう言って束になった其れを持って目の前に立つ。
「誕生日おめでとう、ゼンガー」
「!?」
「…レーツェルが、教えてくれた」
「…いつの間に…」
驚きと同時にあの親友への呆れた思いを抱く。
確かに任務中であろうが仕事中であろうが、所構わず己の誕生日を祝う人物ではあったが。
まさか今回は。
―――託したのか? 否、違う…。
祝いの辞を述べておきながら、浮かぬ表情をしている相手は。
曇天の空に押し潰されそうな瞳をして。
そう言ったきり続く言葉が見つからないのか、黙り込んでしまった。
腕に抱えられた白い花びらが、揺れている、それに気付いていないというのか。
(震えているというのに…?)
「此処を俺に知られたくなかった、其れだけで逃げた訳ではあるまい」
「…!」
「ウォーダン、お前は何を隠している?」
俯いた男の顔に触れようとして伸ばした手が、左手首が掴まれる。
強く。
痛いとさえ思う。
捕まえた時と同じ声が、耳に届く。
「…一緒にいても良いのか」
「な、に?」
「俺は、お前と一緒に―――居ても良いのか…?」
「!」
銀の双眸が大きく見開かれる。
発せられた言葉は小さく、剰りにも細い。
それでも己の耳朶を打った。
徐々に上がってくる表情には畏れ。
薄い銀の瞳にはうっすらと。
其れでしか世界を捉える事の出来ぬ者が訴えかけてくる。
是非を、許可を。
(共にいられるだけで良い。傍にあるだけで良い)
―――まるで天空に浮かぶ月の様に。
(その姿が視認できるだけで、十分だ)
―――安心できるから。
だが。
「もし…お前が、居な、く、なれば」
「…そ、れは」
「俺は、どうすればいい…」
両肩を揺さぶられる、この感情が求めているのは。
「どうやって生きていけばいい…!」
眼からこぼれた雫は頬を伝い。
真っ直ぐにぶつけられた視線が問う。
怯まずに。
***
2日後。
帰ってきた親友は家の中に飾られている花を見て微笑んだ。
「…貴方には赤を、私には白を、か―――」
「何かの詩か?」
「いや、彼女が言った言葉だ」
深い森の色をした瞳が細められた。
黙り花弁に触れる。
「あの場所を見つけたのだな」
「…ウォーダンがな」
「!」
そうか、と青年は言った。
奇妙と言えば奇妙だし、当然と言えば当然か。
確率は二分の一だから符号が合うと言った大層な事でも無い。
(可笑しな懐かしさだ)
「彼女が育てたのは赤の山茶花、元々生えていたのは白の山茶花…」
不意に懐古を打ちきると、青年が入り口の側にあったコートを手に取る。
「? 何処へ―――」
「彼も誘って出てくればいい、私は先に行って待っている」
「エルザ…おい!?」
「どうした?」
足早に出て行く青年と入れ違いに現れた男を見た。
薄い銀の瞳の中には未だ不安げな光が宿っている。
あの答えを己が出さなかったが故に。
『俺はどうすればいいのだ!?』
卑怯だと思ったが、それ以外に方法が見つけられなかった。
多少なりとも出た答えとて、未だに告げては居ない。
(本当は、お前に伝えなければいけない事があるのだ―――)
告げるべきは今なのか。
まさか青年が其処まで考えを及ぼしていたとは思えない。
突拍子も無く己の想像を超える彼であっても、其れは厳しいだろう。
とは言え。
「レーツェルは、何処に行くのだ?」
「…俺たちも行こう」
絶好の機会でもある。
逃す手は無い。
「……」
沈黙の応答が、出発の合図だった。
***
「―――居ない、が?」
「…!?」
あの日と同じ場所で、彼も同じ場所に来ている筈だった。
青年が見た花は此処で男にもらったものと同じ。
花。
先に行くから待っていろといった本人が居ないのでは話にならない。
否、在る意味己にとっては都合が良いのだろうが。
思わず切欠を失い、途方に暮れていると男が呟く。
背後にあるのは重い気配。
「あの時、お前は答えをくれなかった……」
独白のようで居て実は責めている。
正当な要求だ。
「だが、今日は? 今日は答えてくれるのか?」
「…俺は…」
変わらず咲き誇るのは白い花、彼が山茶花と呼んだ花。
持ち帰り、今も屋敷の中に飾ってあるものと同じ。
青年の亡き妻が育てていたという。
冬の黒い森に咲く、小さな灯火。
少しでも強い風に吹かれれば一枚でも二枚でも其の花弁は散る。
命を終えてゆくのだ、微かに。
―――一体、この花群は目の前で回答を要求する男にはどう見えたのか。
(無理に笑おうとしたのだろう、あの時)
誕生日を祝う言葉が、震えていたのだから。
不安に翳る瞳を隠そうとして俯いたのか。
『彼は君だが、彼は彼なのだろう? そして彼は―――』
いつかこの男の話をした時に。
青年が少し悲しそうな眼をしたのを見逃さなかった。
しかし結局彼も答えなかった。
笑っている、だけ。
(お前と俺の気持ちは同じものなのだろうか、それとも違うものなのか…
エルザム、ならば俺は俺でウォーダンに告げるべき事を告げよう)
「お前が俺の誕生を祝ってくれたのが、嬉しいと思った。エル…レーツェルとは又違った、気持ちで」
「……」
「この年齢になって、誰かに祝われることがこんなに良いとは思わなかった」
男は黙って言葉を聞き、真っ直ぐに顔を睨む。
どんな言葉も聞き逃さぬと。
嘘偽りではないのかと。
「……」
「出来れば来年も…その次も…。お前に祝って欲しい」
「……」
揺れる思いは一体誰のものか。
何に。
誰への。
この感情は何処から?
不気味なほど静まった空気を破るのは。
こうまでしても頑なに怖がってしまうのは。
「俺が嘘をつくというのか?」
「違う…」
「俺が信じられないか?」
「そうでは無い…! 違う、違う……」
「では、何が―――」
「…俺には此、が…」
男がゆっくり触れたのは左手に輝く、リング。
己と青年の誓いだと言った、其れ。
(確固たる証が無いというのか…)
気付いた事がある。
もしや、此の男は。
「嫌、だ」
「……」
「お前を―――」
「今晩は」
「!!」
男の身体が大きく跳ねた。
背後からかかった突然の声に。
「レーツェル、お前は先に行くと言ったのでは無かったか?」
「途中で道に迷ったのだ」
「……」
訝しげな視線を投げかけておいてから、もう一つの質問をする。
先の質問に納得したわけでは無いとの意を込めながら。
勿論これしきの事で素直に答えてくれる人間でも無い事は知っているのだ。
だからこそ不満として受け取ってもらう。
「此処へ呼び出した理由は?」
「呼び出した…君の誕生日を祝う場所に此処がちょうど良かった…では不服かな?」
「少し、な」
「―――ゼンガー」
「…大丈夫だ」
会話の途中、服の裾を掴んできた男に対して言葉をかける。
震えている手が。
必死で此方へと縋り付く。
そう、この姿はまるで―――。
少し前に気付いた事がほぼ確証へと変わる。
間違いなく。
その前にとあるひらめきを実行に移す事にした男が言う。
「……レーツェル、誕生日を祝うのが遅い」
「確かに」
「遅延を見逃す代わりに俺の要求をのんでもらっても構わんか?」
「…例えば?」
「ウォーダン」
「な、何を」
不意に名を呼ばれ、隣に引き寄せられた男が慌てた。
耳に囁かれる言葉に更に目を見開く。
「…何か、欲しいものは?」
「ほ、欲しいもの…?」
「そうだ。俺と、お前の誓いになるもの」
「……い」
「何?」
良案はあっさりと否定されてしまった。
理由としては分からなくもない。
耳まで朱に染めながら言われる限りは、其れに従うつもりだ。
無理を言えば言うほど意固地になるところもあるのだから。
「要らない…! 俺はお前と、一緒に」
「……」
「一緒にいること、だけ、が」
「―――そうか」
「ずっと…一緒に……」
消え入りそうな言葉の奥に、あの時の瞳と同じ想いがある。
秘め続けていた声。
答えてやる事が出来なかった。
でも今であれば。
「ならば、誓おう」
「…ゼンガー」
「冬は山茶花に、春は桜に、夏も、秋も。その花々が咲く限り……お前と共に居ることを」
「…本当に?」
そっと見上げた視線が此方を伺っている。
少しずつではあるが、瞳には普段通りの光が宿ってきた。
不遜なほど純粋な、心。
「お前も相当疑り深いな」
「当たり前だ」
「全く…」
「ゼンガー」
「?」
今度は違う方向から名を呼ばれ、振り向いた視線の先に不機嫌そうな顔をした青年が立っている。
その表情が和らいで笑ったかと思うと。
「正直…目の遣り場に困るのだが?」
「だ…っ、何がだ何が!!」
「ウォーダン」
「?」
次は己の隣にいる者に。
不敵な笑みを張り付かせたまま。
「もしなしなくとも、私はお邪魔かな?」
「…帰った方が良いかもしれん」
「―――と言われれば仕方が無い。ゼンガー、君に祝いの言葉を述べるのは又今度にしよう。
今日はウォーダンに譲ることにする」
そのまま本当にこの場を去ろうとする青年に向かって男が叫ぶ。
「俺の意見は!?」
「「無い」」
何故か此処だけで息の合う二人組に即答され、言われた側は言葉に窮してしまう。
で、何か言い返す言葉はないかと探している内に、隣から再び声がかかる。
「先程お前は確かに言ったな? 欲しいものがあるかと」
「あ、ああ…」
なんとなしに感じる不吉な予感が当たらぬようにと祈りつつも、だが嫌な予感ほどよく当たるというもので。
「ならば今夜はお前と一緒に寝る、前と同じ様にな」
「!!」
「……。…では私は君の部屋を借りることにしよう」
「そうだな」
「レ…お前、よくも…っ…止める気が無いのかっ!?」
「君が言ったのだから」
「お前が言ったのだが?」
「「仕方の無い事だ」」
「レーツェルっ!! ウォーダンっ!!」
つくづく此処が孤島で良かったと青年が思ったのかどうか。
ただ男の顔に笑みが浮かんだ事だけは見逃さずに。
今夜も月が騒ぎを見ていた。
<了>
writing by みみみ
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© 2003 C A N A R Y
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