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はじめ通信・子どもと教育のはた0406

国旗・国歌と認めようとしていた人々も怒り始めた/都教委の日の丸・君が代強制の行き着く先

●すでに報道されているように、3月30日の臨時教育委員会で、都立学校の卒業式の君が代斉唱の際に起立しなかった教員176名が戒告処分されました。
 都教委は200人ほどの教育庁職員を総動員し、都庁だけでは足りないので、教育庁のあちこちの施設の部屋を使って、都立学校だけでなく、都教委と同様の規定を設けている区市町村の小中学校での卒業式で起立しなかった教員の”取調べ”を続けているようです。これから入学式での不起立問題で、さらに調査が続くことになるでしょう。
 しかも、それだけにとどまらず、すでに板橋高校をはじめ、生徒がまとまって起立しなかった学校の担任教諭などに対して、「国旗・国歌の指導」についての取調べが始まっています。いわば「生徒への不起立の扇動」もしくは「国旗・国歌の指導不足」の責任を問おうというものです。

●はっきり言って、今、教育庁職員の仕事のかなりの時間が、この”取調べ”で忙殺されていると思います。いつから教育庁は公安警察みたいになったのでしょうか。また、そういう仕事に没頭させるために教育庁職員の給料を、税金から支出していることに納得できる都民がどれほどいるでしょうか。
 しかも、この”取調べ”は、本人の処分を前提にしたもので、きわめて身分や職務上の利害にかかわるものであるにもかかわらず、本人側には一切の記録や立会いを認めないという密室型で行われ、その”取調べ”自体が職務命令によっているので、断れば、さらに処分が待っているという理不尽なものです。ここまでやると、もはや学校の職場には、教育基本法も、憲法の基本的権利さえ通用しないのだといわざるを得ません。

●さらに都教委の日の丸・君が代の強制と学校現場への介入を進めていくと、攻撃の矛先はどこに向うか・・・。
 ズバリ「国旗・国歌を教えるべき」歴史や公民の授業そのものに、都教委の調査員が立ち会っての実態調査が始まるでしょう。「正しく教えていない」と判定された教員は、その授業からはずされ、都教委が認めたとおり教える、いわば「模範的教員」が授業を受け持つことになるでしょう。
 もう一つは、生徒会活動の中で国旗・国歌問題を学んだり考えたりすること自体が、事実上禁止されていくでしょう。ひいては、すでに小中学校の児童会や生徒会無用論が出ているように、高校の生徒会も自主的な運営ができなくなっていくと考えられます。これが教育の自殺行為でなくて、何でしょうか。

●最近、「自分は、日の丸・君が代を過去のいきさつはあっても、冷静に国の象徴として認めていこうと思ってきた」という人から、「私から見れば、君が代は、歌詞はあまり気に入らないがメロディーは別に悪くない。日の丸は国旗デザインとしては優れている。だから自然に国民生活に溶け込んで行くのを待てばよいのに、強制すれば、私自身も反発したくなる。ましてや子どもたちは、そういう強制に一番敏感な世代だ。まったく逆効果だから、(都教委のやり方は)やめさせてほしい」との訴えがありました。
 最近の東京新聞や朝日新聞にも、そういう人が怒り始めたという記事が出ていましたが、これは重要な変化だと思います。なぜなら、私たちと考え方は違いますが、日の丸・君が代を国旗・国歌として認めている7割から8割といわれる人々の圧倒的多数は、こういう「冷静な黙認者」にほかならないからです。

●今回の都教委の介入・処分の押しつけと、それを先取りしたり支持している民主党や自民党、また公明党の都議らの言動は、日の丸・君が代は、子どもを主人公にお祝いすべき行事の場で強制し、教員処分を見せしめにして脅しつけなければ国民に定着しないことをあからさまに認めてしまっていることになるのです。
 いわば「国旗・国歌は国民に定着してきた」との大方の論調の、事実上の敗北宣言に他なりません。「冷静な黙認者」が怒り出すのは当然といえると思います。

●国旗・国歌にどういう考え方を持とうと、それを国民一人一人に、ましてや子どもたちに、心の自由を奪ってまで押し付けられるものでないことは、誰もが共感できることのはずです。
 私は、同じ「キョウセイ」という言葉を使うなら、「強制」による「矯正」ではなく、認める人も認めない人も冷静に受け入れていける、まさに「共生」という言葉こそ自由社会にふさわしいと思います。

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