見聞録


人間は複雑だ、複雑さそのものが人間ともいえる




コギト・エルゴ・スム(「我おもう、ゆえに我あり」)
 デカルトの残したこの有名な文句を、木城ゆきとは「浅はかな考え方である」と評した(‥‥注釈でだけど)。その評言はわたしをいくらか動揺させたが、わたしは努めて平静を保つとともに、コギトと宣うデカルトへのわたしが抱く想いの相貌を対象化するに至った。それを贔屓といえば、有り体に表しているだろうか。
 おそらくは、精神と肉体という、デカルトによって歴史的に明言された伝統的な二元論を取り巻く、ありがちな一述語にすぎまいが、木城ゆきとはコギトに対する反意を示すことで、二元論に対置する自らの相対を露わにしたのだ。
 作中にも現れていると思う。ひとつは、電とケイオスとの関係だ。生まれながらに二重人格の性を背負ったケイオスに、EPR通信機(超光速通信機)?を移植し、裏人格である電の精神をケイオスから切り離して、電のかりそめの肉体たる機械のボディへと送信し遠隔操作する。二重人格の性質上人格同士が相互に不干渉であるために生じていた分裂(症)が克服され、ケイオスの自我も電の自我も、肉体と精神の同一性に支障を来すことがなくなる。心身二元論に触れる要点は、ケイオスなる一個の肉体を起源とする二個の精神の分離を、EPR通信機を移植するという肉体の改造によって為しえたこと。そして電の精神の消滅を意味するものが、かりそめの肉体(機械)の消滅ではなく、ケイオスの死であるということ(その設定)、すなわちケイオスの肉体に依存した電の精神であるということ。
 他にはマカクが面白い。マカクの口からニーチェの言葉を引用している。「精神は肉体のオモチャにすぎない」 出力過剰なボディを離れ、小さなウジ虫ボディ単体へと変化して急に饒舌になった理由をマカク自身がニーチェの引用で説明したのだ。「どうも知能レベルがボディに左右されていかん‥‥」(^^;
 こうして頻繁に作中あらわれている、肉体の精神に対する優越性を表現する数々のセリフや人物設定は、木城ゆきとの主張そのものなのであろう。それにも拘わらず一方では、作品考証の矛盾なのか、あるいは虐げられたる精神の叫びを表すのか、肉体の優越性を世界の摂理とみなすシニカルな描写をしながらも、肉体への懐柔から超克へと変貌する精神と、その輝きをも確実に表しているのだ。肉なる人間存在の苦痛に満ちた絶対的牢獄から、勇ましくも這い出ようとする精神の痛ましさ、たくましさ、そのいずれもが人間が存する在り方への木城ゆきとの謳歌ではないか。

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