一方、ヴィマーナから降り立った時臣は静かに屋上に降り立つ。

質量操作と気流制御、この二つの魔術の同時使用による自律落下、これは熟練の魔術師であれば苦も無く出来る事であり、錬度を問うならば、優美さで決まるのは魔術師達では常識と言っても良い。

その点で問うならば、時臣のそれはまさしく完璧であり、完全な直立姿勢を保ったままの直線の軌道、羽毛の様に軽やかな着地、そして着衣や頭髪には一切の乱れは無く、それを魔術師達が見れば賞賛の拍手と感嘆を禁じえないだろう。

しかし、時臣と相対する雁夜から見てみればそれは不快以外の何者でもない。

そもそも雁夜は魔術を忌み嫌い間桐の家を自ら捨てた魔術師から見れば落伍者。

彼の心に魔術に対する崇拝も憧憬も無くただただ、憎悪と怒りに満ちていた。

ましてや彼が文字通り命をも捧げてこの聖杯戦争に参加したのは魔術師としての栄光ではなく、間桐家の為でもなく、二つの私情によるもの。

そのうちの一つが目の前にあるのにそれをどうして抑えられると言うのか。

(貴様は・・・初めて出会った時から・・・っ!!)

言動も物腰もその全てに一部の隙も無い完璧さ。

かつて自分と幼馴染であった葵の前に姿を現した時臣は常にそうだった。

言動に加えて、常に余裕を失わないその態度と優雅な気品、それは雁夜に時臣との格を常に感じさせてきた。

だが、それは燃料であるが火種ではない。

その当時は諦観もあったかもしれないが、嫉妬交じりの羨望も確かに存在したのだから。

やがて、葵は時臣に惹かれ、やがて結ばれた。

葵をただひたすらに想っていた雁夜にとっては失恋であった。

これも燃料ではあるが、火種ではない。

業腹だったが、結婚した時に葵が見せたこの世全ての幸福を凝縮したような笑顔に、失恋の傷は表向きは癒された。

自分の手で幸せに出来なかった事は無念であるが、時臣なら葵を幸福にしてくれる。

時臣なら葵のあの笑顔を曇らせるような事はしない。

ましてや間桐の家の魔術のおぞましさを知るならば、そこに葵を突き落とす様な事は雁夜には出来ない。

だからこれで良かったのだと自らに言い聞かせた。

そう信じ雁夜はひたすら葵の・・・彼女が娘二人を産んでからは姉妹の幸福を祈り続けた。

妹の桜がよりにもよって間桐に養子に出されたと聞くまでは。

それを聞いた時に気丈に振舞いながらも葵が見せた涙を見るまでは。

これが決定的な火種となった。

燃料が積み重なっていた分それは大きく激しかった。

だからこそ雁夜は聖杯戦争に身を投じた。

未来の栄光ではなく自らの未来と命を供物に捧げて一人の少女の未来を拓く為に。

自分が欲してやまなかった人を不幸にしたあの男に全ての怒りと憎しみをぶつける為に。

「・・・哀れだな」

雁夜の内心の憎悪を知ってか知らずか時臣の声には高揚は無い。

ただただ、静かな、軽蔑を含めた声で雁夜を挑発する。

その目元は痛ましいものを見る様に細めながら。

「魔道から背を向け、捨てながら、その様な姿になっても尚聖杯欲しさに舞い戻る・・・自覚はしているかね?間桐雁夜。君一人の醜態が間桐家に拭い難い汚泥を塗りたくっている事を」

そんな挑発に雁夜の返答は嘲笑だった。

もはや虫の鳴き声にも等しいか細いだが、そこに憤怒と殺意込めてどうしても聞かなければならぬ事を口にした。

「遠坂・・・時臣・・・貴様への問いは一つだけだ・・・なぜ桜を臓硯に委ねた」

「・・・なに?」

その問い掛けは時臣にとっては想定すらしていなかったのか、眉を潜め彼にしては珍しくあっけに取られたような呆けた声を出した。

余裕があれば時臣の余裕を崩してやったと雁夜は暗い悦に浸っていただろうが、そんな余裕は無い。

「・・・何を言っている?それが今」

「答えろ!!!」

怒りのあまり咆哮する雁夜であるが、今の彼にとってはそれすら命を削るに等しい苦行だ。

更なる問い掛けを遮られた形の時臣だったが、憤怒する雁夜に嘆息しながら返答した。

「問われるまでも無い。愛娘の未来を切り拓く為、未来に幸あれと親として願ったからだ」

「な・・・に・・・」

その返答は雁夜にとってはまさしく予測外の答えだったのか、呆然と立ち尽くし、先刻の時臣のそれを百倍にした呆けた声がかすかに漏れた。

その姿に時臣は首を横に振ってからますます冷淡に、淡白に告げる。

「やれやれ、君も魔術の家に生まれた以上知っている筈だと思ったのだが、二子を設けた魔術師は等しい苦悩を抱く。己が秘術を託す事が出来るのは一子のみ。もう一方は魔術を使えぬ凡俗に下賎に堕さねばならぬと言う苦悩を」

言葉を失う雁夜。

魔術の家が一子相伝である事は彼も知っている。

だが、その後なんと言った?

凡俗?

下賎??

堕さねばならぬ??

雁夜の脳裏に母である葵に甘え、姉である凛とはしゃぎ回っていた桜の笑顔が浮かぶ。

そのささやかだが、輝かしい幸福の光景にその言葉はあまりにも矛盾して響いた。

「いっそ、どちらか一方が完全な無能として産まれてくれた方がまだ楽だった。だが、二人とも才をもって産まれてしまった。しかも我が妻が魔術の素質を育む母体として優秀過ぎた。結果として凛も桜も、稀有の素質を持って産まれてしまった。もはやここまで来れば魔術の家の庇護無くして生きる事は出来ぬ。一方の未来を可能性を選び取り、もう一方の未来を可能性を摘み取る・・・親であればそのような傲慢を悲劇を望む筈がなかろう」

自信に満ちた声と態度で自論を語る時臣の言葉を雁夜は一言も理解出来なかった。

いや、正確には理解したくなかった。

もしも一言でも理解してしまったら、その瞬間雁夜は発狂してしまうだろう。

「その悲劇を回避するにはどちらかを養子に出すしか手段は存在しない。そういった意味では間桐の翁の申し出は天恵と言っても差し支えなかった。我が遠坂、アインツベルンと並ぶ『始まりの御三家』である間桐に名を連ねればそれだけ根源へと至る可能性が高くなる。無論私の代で至る事が出来ればこの上の無い事だが、志半ばで叶わなくとも、凛が、仮に凛が果たせない時には桜が遠坂の悲願を果たしてくれる筈だ」

表情はおろか、眉すら動かす事無く時臣は語るがそれが何を意味しているのか?

落伍者である雁夜ですら良く判っていた。

共に根源への道を目指すと言う事はつまり・・・

「貴様・・・相争えと・・・殺し合えと言うのか!あの姉妹を!!」

雁夜の咆哮のような糾弾に時臣は涼しげに事も無げに頷いて見せた。

「仮にその様な事態になったとしてもそれは幸福と言うべきものだ。勝てば栄光が待っているし、負けたとしてもその名は先祖の家名に名誉をもたらす。誰も苦しまず誰も傷つかぬ。これほど憂い無き事はそうは無い」

もはや限界だった。

「時臣ぃ・・・貴様ぁ・・・何処まで腐っていやがる!何処まで狂っていやがる!」

全身を震わせ怒りの形相をむき出しにしての咆哮を時臣は冷淡な一瞥をくれてから侮蔑するように嘯いた。

「予測外の問い掛けしてやったから戯れに答えてやったが・・・時間の無駄だったな。魔道の尊さ、崇高さを理解もせず尻尾を巻いて逃げ出した落伍者相手では」

「ほざくなぁ!!」

二人の意見は何処までも平行線だったが、それはむしろ当然だった。

遠坂時臣と間桐雁夜。

共に桜の幸福を願っている事は間違いない。

しかし、時臣が『魔術師』として桜の幸福を願っていたのに対して雁夜は『人間』として桜の幸福を祈っていた。

スタートラインの視点が違えばゴールが異なるのはむしろ当然の事だった。

なまじ共通点が存在する分、齟齬は深刻だった。

雁夜の怒りを原動力とするように体内の刻印虫が更なる活動を始める。

それと同時に全身を駆け巡る激痛と悪寒。

しかし、時臣への殺意に満ち、憎悪に支配された雁夜にはそれすらも福音だった。

「殺すぅ・・・貴様もぉ・・・臓硯もぉ・・・魔術師はぁ一人残らずぅ・・・こぉろぉすぅ・・・殺しぃ・・・尽くしてやるぅ!!」

雁夜の声に応ずるように周囲の物陰から次々と蟲が這い出てくる。

それは鼠ほどの大きさの蛆という、見る者が見れば生理的な嫌悪感に正視に耐えないおぞましい蟲だった。

更に尽きる事なき雁夜の怨念に呼応するように次々と蟲は脱皮、黒光りする全身に四枚の羽を震わせて飛翔する。

それは『翅刃虫』と呼ばれる肉食虫で、俄仕込みの蟲使いである上に、死に掛けの雁夜に間桐が与えた武器だった。

四方から群がられれば三分と持たずに骨すら残らぬほど食い尽くされるであろう殺人虫の群を目の前にしても時臣の態度に変化は無い。

そもそも時臣と雁夜、二人の魔術師としての年期や格は無論の事、実力もどれだけ雁夜が命を燃やして臨もうとも埋める事は絶望的な隔たりがある。

雁夜が心身を捧げて行使する魔術も時臣からしてみれば脅威にもならず、畏怖にも値しない。

言うなれば子供の戯れと大差なく、この聖杯戦争において旧知の、それもかつて一人の女性を争った男と争うことに運命の皮肉を感じ微苦笑を浮かべる余裕すらあった。

「・・・魔術師とは何か?それは生まれ持ったときより『力』を持つ選ばれた者。そして『更なる力』へと辿り着く事を義務付けられた者。その家に生れ落ちる以前から己の血に魂にその責務を背負う。それこそが魔術師の子に産まれると言う事だ」

嘲笑するように、どこか言い聞かせるように呟くと手のステッキを振りかざす。

ステッキに埋め込まれたルビーが術式を起動させる。

その術式は虚空で遠坂の家紋を模した陣となり、陣は周囲の大気を焦がすような紅蓮の炎を発生させる。

触れるもの全てを灰に還す攻性防御陣。

火の属性を持つ時臣からしてみれば造作も無い事、だが、素人に毛が生えた程度の相手には大人気なさ過ぎるきらいもあるが、時臣に手心を加えるつもりは微塵もない。

「君が間桐から背を向けた事で、間桐の魔術は絶える所だった。それを桜に託された事で間桐の血統が絶える事態は回避された。それについて感謝されてもおかしくは無いと思うが・・・だが」

そこで冷淡な時臣の視線に冷たい怒りが宿る。

「私は君を赦す事は出来ない。魔術師としての責務から逃げる軟弱さ、その事に罪悪感すら抱かぬ卑劣さ。今宵はっきりと判った。間桐雁夜は魔術師の面汚しだ。誅を下さねばならぬ」

時臣から見て雁夜はある意味では切嗣に匹敵する魔術師の恥部であったのだから。

「戯言をほざくなぁ・・・人でなし風情が・・・」

「人でなし?違うね。家に、家族に、己に責務を課しそれを果たす事、それこそが人であることの第一条件だ。それも果たせぬのであれば、それは人ですらない犬畜生風情と言うのだよ。すなわち・・・君の事だ、雁夜」

「!!蟲共!!喰らえ!喰らい殺せ!骨も残すなぁ!!」

触れれば焼け焦げそうな激しい怒りに支配された雁夜の号令と共に不気味な羽音と共に攻撃を開始する蟲達を、凍て付く様な冷たい怒りを胸に秘め灼熱の防御陣の中で迎え撃つ時臣。

『未遠川決戦』を尻目に人の条理を外れた戦いがまた一つ始まろうとしていた。









一方・・・今まさに海魔が上陸を目指そうとしている新都側の河川敷では、大勢の野次馬が目の前で繰り広げられる非現実的なだが実際に起こっている光景を呆然と見遣っていた。

川面には大暴れする怪物の姿、上空を見れば自衛隊機が未確認飛行物体と空中戦を繰り広げている。

これがテレビ画面越しであれば子供向け特撮番組のワンシーンで、子供達が怪獣をやっつけるヒーローの登場を心待ちにし、大人達はそんな子供達の姿を微笑ましく見守るだろう。

しかし、今目の前で起こっている事は、紛れもない現実に他ならず、周囲からは時折子供達の泣き叫ぶ絶叫が聞える。

そんな異常な光景の中で

「すげえ!!すげえよ!!マジすげえ!!!」

子供の様にはしゃぎまわって歓喜の絶叫を上げる一人の青年の姿はむしろ異様に映った。

二十代半ばでの赤みがかった乱雑なショートヘアの端正な顔立ちであるが故にそのはしゃぎっぷりは良くも悪くも周囲の耳目を集まる。

一部の野次馬はその青年を不気味なものを見るような、あるいは咎めるような視線を送るが、大多数はたった一人の狂態に視線をくれる事もなく、ただひたすらに眼の前の光景から眼を離す事はない。

だが・・・もしもこの青年の正体を知るものが一人でもいたとしたら、その様な事はしなかっただろう。

彼から離れるかその場で捕らえるか、若しくはこの場で即刻殺すか。

青年の名は雨生龍之介、聊か古めかしい名前であるが、彼には二つの別名を持つ。

その中の一つ・・・と言うか世間から贈られた別名はこの冬木市・・・と言うか全国レベルにおいて、知らぬ者のない有名なものに・・・無論だが悪い意味で、なりつつある代物だった。

その名は『冬木市の悪魔』。

聖杯戦争開戦直前から冬木市にて残忍の限りを虐殺の限りを尽くす凶悪殺人犯。

判明しているだけでも今月に入ってすでに四件。

内一件に至っては一家全員を惨殺すると言う善良な一般市であれば震え上がるに相応しい悪行を重ね、法と秩序を重んじる者達から見ればとてもではないが看過出来るものではない。

更には短期間に引き起こされた連続殺人に、無論だがワイドショーも黙っている筈もなく、連日テレビクルーや報道陣が詰め掛け、そしてこちらも無論だが警察も動いているが、現在において警察はあまりにも無力だった。

だがおぞましい事に、この男の惨殺行為はこの冬木市での連続殺人が初めてではない。

龍之介は表の顔ではフリーターとして全国を転々としながら生計を立てつつ各地で殺人を繰り返し続けていた。

その数は冬木での犠牲者まで入れれば既に五十人に届く。

しかも、証拠隠滅や捜査攪乱の手腕には天性のものがあったらしく、悉く捜査は難航若しくは迷宮入り、一部に至っては、行方不明として扱われ未だに遺体すら発見されていない。

そして更におぞましい事だが、この男には人を殺す事に関する善悪の区別は無い。

人を殺すその理由はただひたすらに『死を堪能したい』の一言に尽きる。

幼い頃から本物の死というものに並々ならぬ関心を抱き続けてきた龍之介はホラー小説に始まり映画やパニックサスペンス、戦争映画、一般的な冒険活劇などあらゆるフィクションから人の死を見続けてきた。

極稀なケースで無い限り、普通はそれで満足する。

龍之介も普通であったならば平凡な、だが善良な一般市民としてその生を全う出来ただろう。

しかし、あらゆる方面に不幸であった事に龍之介は極稀なケースに分類されてしまった。

フィクションで満足するにはあまりにも本物の死に魅入られてしまった。

だからこそ彼は死と言うものを知ろうとした、己の人生がつきるまでそれを探求しようとした、堪能しようとした・・・他者に死を与えてそれを見続ける事で。

死において多種多様な人が見せる痛み、苦しみ、嘆き、絶望、断末魔。

これを彼は美酒の如く心行くまで味わい堪能しつくす、それが彼の目的だった。

天性の手腕で司法の目から逃げ続けるのも自身が犯した大罪の後ろめたさではなく、捕まってしまえば死を堪能する事が出来なくなるに過ぎず、言うなれば子供がお気に入りのおもちゃを取られたくない、その心境が最も近い。

もしもこの男の本質を別の平行世界の衛宮士郎や、遠坂凛が知れば苦々しい思いを共有しただろう。

彼らは知っているのだから、生まれながらにして悪性だけを持つしかなかった男を。

そして・・・もう一つは、今現在この冬木の地において異形の戦争を繰り広げる当事者達からは無視出来ぬものだった。

それは・・・『キャスターのマスター』・・・

そう、この男こそ、キャスター=ジル・ド・レェのマスター、魔術の秘匿も神秘の隠蔽も無関係に、思うままに条理の外側の力を己の欲望を満たす為だけに使い続ける、その元凶の一人だった。

だが、ここで疑問が生じる。

何故この男が聖杯戦争に身を投じたのか?

魔術師であるならば魔術を秘匿せよという唯一無二にして絶対の掟を、その掟を破った場合の苛烈な罰則を知らぬ筈がない。

生前の士郎のように全てを覚悟の上で神秘を行使しているのかと思えばそうではない。

いや、そもそもこの男は魔術師ですらない。

確かに彼の家はかつては魔術師の血族であったが、今では彼もおそらくは彼の家族もそれを知る由は無い。

悪意に満ち溢れた偶然と不条理そのもののタイミングの良さで彼は魔術師としての証とも言える魔術回路が復活、キャスターを呼び出し、今日における冬木市の混乱と聖杯戦争の混沌を生み出していた。

そして今・・・彼は歓喜の咆哮を上げ続ける。

「いけぇ!やっちまえぇ!!どいつもこいつもぶっ殺しちまえぇ!!」

もう彼はわざわざ自分の手で殺さなくてもすむ。

彼がそんな事をしなくてもこれからは至る所で人が死んでいく。

それこそ数え切れないほどの死が龍之介の目の前に現れる。

右隣の女はどんな腸をしているのか?

泣き叫ぶ子供の脳髄がどんな色なのか?

白人の心臓は?

黒人の胃袋は?

龍之介の望むがままに、思うがままに全てを見る事が出来る、今目の前で縦横無尽に暴れる怪物が、そしてそれを使役するキャスターが。

想像すればきりがないほどの歓喜と興奮に龍之介は高揚していく。

偶然の産物とは言え、時の壁を越えて得る事の出来た同士、いや主従を越えて盟友の立場にまでなった自身のサーヴァントに声援を送り続ける。

「青髭の旦那ぁ!ガンガン行けぇ!遠慮する事無いぜ!何もかもぶっ壊せぇ!ぶっ殺せぇ!神様もびっくりする位の」

その時だった突然、龍之介の腹部に衝撃が走り、その勢いに数歩たたらを踏んだ後、尻餅をついたのは。

「へ?ええええ?」

突然の出来事に他ならぬ龍之介自身が混乱し立ち上がろうとするがどうしてか身体に力が入らない。

仕方ないから回りの野次馬の手を借りようとしたが、何故か、自分の周りにいる筈の野次馬は一人もいない。

龍之介を中心に誰も彼も後ずさりしながら離れようとしている。

視線が合うと恐怖に表情を歪め、龍之介から更に離れようとする、まるで川に出現した怪異が目の前で現れたように。

「何?何があったの?ねえ」

何があったのか理解出来ない龍之介が周囲に尋ねても誰も答えようとしない。

何度目かに視線が合った一人がようやく自分を、正確には自分の腹部を指差して口だけを虚しく開閉させる。

そこでようやく、龍之介は自身の腹部を中心に何かが塗れている様なそんな感触を覚えた。

その瞬間、腹部から熱さと激痛を覚え、思わず腹部を押さえると火傷しような熱い滑り気を感じ手を見遣る。

赤く、真っ赤に自身の血で塗れた手を。

それを見て龍之介の表情は一変した、誰もが予想もしない変化を。

「うわぁ・・・」

一言そう呟くと子供の様に眼を輝かせ、先程とは違う歓喜が全身を満たすのを自覚していた。

暗闇でもはっきりとわかる輝かんばかりに鮮やかな真紅。

これだと龍之介は理解した。

これを見たくてこれが欲しくて求道者のように彷徨い、様々な場所で探し回っていたのにどうしても見つける事の出来なかった赤。

「そっかぁ・・・こんな所にあったんだぁ・・・」

静かに呟く龍之介の表情は幸福に満ち溢れていた。

「まさか、自分の腸にあったなんて気付かないよなぁ・・・灯台下暗しってよく言ったよなぁ・・・」

自虐するように、だが、心の底から嬉しそうに呟くと、全身に満ち溢れる幸福感に導かれるままに自身の鮮血に塗れた腹部を愛おしそうに両手で抱きしめる。

その瞬間、猛烈な衝撃が眉間を直撃、龍之介の意識はそこで永遠に途絶えた。

目の前で起こった現実的な惨劇を目の当たりにしたことで周囲の野次馬達は今度こそ悲鳴を上げて逃げ惑う。

血だまりに倒れ付す龍之介の死体をもしも見る勇者がいたとすれば得体の知れぬ恐怖とおぞましさに支配される事だろう。

何故ならば・・・龍之介の死相は苦痛でも恐怖でも絶望でもなく・・・至福の笑みに満ち溢れていたのだから。

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