「聖争、そして政争」1
備考:舞台は現代政界。勢力図は何となく幕末時を擬しています。


延長国会もいよいよ閉会と相成る。十二月も半ばを過ぎた。冬休み、クリスマス、年末、年始。
どこに重点を置くかは人により様々であろう。
現在衆議院議員四期目となる木戸孝允は、そのモデル顔負けの容姿から、政治家としては異常な
ほどの女性人気を誇っている。現在三十二歳、独身。浮いた話は連日のように流れるが、不思議
と醜聞というものはない。雑誌に載るクラブの女性達の木戸評は、どれも彼への並々ならぬ好意
を感じさせるものばかりである。
陣笠(=平議員)の頃から取材依頼数は国会議員中トップクラス。この日もとあるテレビ局から
女性記者とカメラマンが、議員会館内の彼の部屋にやって来ていた。
「今国会は、主に諸外国に対する政府の姿勢を糾(ただ)し、その提出してきた法案を何とか廃
案に追い込もうということで非常に緊迫、紛糾したものとなりましたが、野党の一員として、木
戸さんはどのように今国会を評価されますか。」
「結果として法案は通ってしまった。残念に思っています。政府与党は与えられた権限をよいこ
とに、力業で押し切りました。中立的な小党を従わせようとする様は、ほとんど独裁国家のそれ
でしたね。脅迫まがいですよ。」
「憤りを隠せない、ということなんでしょうけど、しかし今のままでは来年以降も同じことの繰
り返しでは?」
「仰る通りです。我々野党も戦略を練らないといけませんね。」
「具体的には。」
「はは、戦略というのはあっさり教えるものじゃありませんよ。たとえ今現在、それが僕の頭の
中だけのものだとしても……。」
木戸の言葉に重なって、背広のポケットに入れていた彼の携帯電話が鳴った。「緊急の連絡があ
るかもしれないので、あまりマナーモードにはしないんです。生でない限り編集できますしね。」
落ち着いて取り出し、掛けてきた相手を確認する。「んん、重要な相手かどうかは判断の難し
いところだな……。」
「どうぞ、お出になってください。」
にっこりと笑って女性記者が言った。近頃は政治部だろうと社会部だろうと、テレビ局はそこそ
この美形をそろえている。
「ありがとう。」
けれども、そこそこの美形では太刀打ちできないのが木戸という男である。笑顔で返して、する
りと流れるような動きで立ち上がり、窓際へ歩いていく。その挙措の全てに記者、カメラマンと
もどもうっとりとしないではいられなかった。
記者達に背を向け、木戸は五分ほど話をしていた。向こうに声が届きにくい時には多少大きな声
を出したが、それは別段話の内容を特定できるものではなかった。どこか甘い雰囲気が漂ってい
るように感じられるのは彼の持ち味か、それとも相手が女性であるからか。
戻ってきた木戸が椅子に腰を下ろすやいなや、記者は息抜きの軽い調子で問いかけた。
「重要な相手か分からないとのことで、しかし雰囲気は柔らかに見えましたが、話の内容はお仕
事のこととは違ったんですか?わたしどもの担当分野のことなら、と気になるのですが。」
「担当分野?少なくとも、国会の終わった今の僕の担当は、早く銀座や赤坂の女性達に会いにい
くことですからね。」
「その方たちの内のどなたかからのお電話でしょうか。週刊誌には、ついに木戸さんにも特定の
女性ができた!なんて書かれてましたね。」
「週刊誌は話半分、いや一割くらいで読んどかないと。しかし、そろそろそうした年齢になって
きましたね。いつまでもあっちこっちにクリスマスプレゼントをばらまいてちゃいけない。」
「……そういえばさっきの電話でクリスマスプレゼント、と言ってらっしゃいませんでした?先
ほどは聞き取れなかったんですが、今の木戸さんの言葉であっと思いました。」
「いい耳だなあ。」
「そうですか。」
「うん。クリスマスプレゼントって言いましたよ。何が欲しい?なんてね。訊かれても困っちゃっ
て。基本的に、僕は貰うより人にどんどんあげちゃう方が好きだから。貴女、欲しいものある?」
「……木戸さんを応援する女性たちなら、きっと貴方に総理大臣になって欲しいと思っています
よ。その前にはもちろん長州党による政権奪取が必要ですが。」
「殺伐としてるなあ。僕が言うのも何だけど。」
「政治家の皆さんが望むもの、望まなければいけないものは究極的には一つ、自らの政策を実現
できるポジション。それをあげるよと言われたら、それ以上のクリスマスプレゼントはないので
は?」
「そうやって本筋に戻っていくわけですね。」
「えー残り二十分ほどありますので、来年に向けての豊富と、野党共闘はあり得るのか、という
ところをお訊きしていきたいと思います。」
「電話で五分潰してしまったからね。そちらがよければ延ばしましょうか。」
後ろにいた秘書を呼びながら木戸は言った。
「こちらとしては願ってもないことです。」
「では、そうしましょう。いいね?」
秘書は素早く手帳を開いてスケジュールを確認し、取り出したボールペンで書き込みをしながら、
はい、と頷いた。

その夜の報道番組内で、適度に編集され流されたインタビュー映像は、あくまでも木戸の軽口は
軽口として、ナレーションもキャスターも笑いを交えつつ、彼のいつもながらの女性あしらいの
巧さを少々むず痒く褒め上げる、という形に終始していた。インタビュー中にかかってきた電話
と、その内容の“クリスマスプレゼント”に関しても、取材を行った女性記者の質問を取っ掛か
りとして少々うがった見方を冗談半分で提供していただけだった。
騒ぎは、全体のある一部分から起こってじょじょに広がっていく。折悪しく、その日以降のニュー
スには話題性がなかった。

国会議員が、法案の審議と並んで精力を注ぎ込むのが選挙区回りである。様々な団体の様々な催
しに顔を出すことで自身の名を売り、主張や考え方を浸透させ、支持基盤の拡大を図る。
自身を宣伝するための手段の一つとして、たとえば自分よりも知名度の高い人物を呼んで講演会
を行うというのがある。人脈の広さをアピールするとともに、その講演者の影響力を借りて自分
にも相当な力がある、と選挙区民に思わせることができる。
知名度が高く、人気も、上質な華やかさも持ち合わせている木戸には絶えずそうした依頼が舞い
込む。国会が閉会して五日も経たない内にやってきたそこは、三ヶ月以上も前に、同僚議員の広
沢真臣(さねおみ)にぜひ頼むと言われて引き受けたところのものだった。
木戸や広沢ら、長州党の議員はほぼ全員が中国地方にその地盤を置いている。午後一時から三時
まで、某ホテルの会場で講演会を行った木戸は、そのまま七時から始まる広沢の政治資金パーティ
に出席した後、場合によっては二次会とうにも顔を出しつつ、十時までには帰宅の途につくつ
もりであった。
党が違っても、様々な理由からお互いの主催するパーティに出席し合うというのはある。しかし
それは特別なゲストとしてであって、この日姿を見せた男のように、一般の参加者に混じって、
つまり他党議員の支持者であるかのような格好で、会場に潜り込んできたというのは稀な例であ
ろう。その男の姿を見つけた時、驚き呆れもさることながら、あまりの物好きさに木戸は単純に
笑ってしまった。
「選挙区の鞍替えでも企んでるんですか?それとも、宗旨変えでも?坂本さん。」
「何、面白い騒ぎになっとるから様子を見にきたんですよ。講演会も後ろの方にいたんだが、な
にぶん人が多くて……気づかれませんでしたかな。」
「失礼ながら、僕は講演中は女性しか見ていない。」
「はっは、講演中に限らんでしょうに。しかし確かに女性が多かったですな……おっと、カメラ
がこっちを向いとる。木戸さんがあんな発言してしもうたから。」
「さっきから聞いていれば、まるで自分は無関係だとでも言わんばかりで。実に心外ですな。そ
もそもの発端の電話をしてきたのはあんたでしょうに。」
「あっちこっちで反応があって愉快ですな。木戸さんのお身内の間でも、統一会派の大本命と言
われてる相手さんの間でも。そういえば、今朝、どっかのテレビで大久保さんが喋ってるのを見
たが、ありゃなかなか冷静ないいコメントでしたな。聞きましたか?」
「全てはその時の情勢次第。ま、確かに。」
「それ以上のことを言わんのが巧いですよ。ところで木戸さん、いつでもいいんで、早い方がい
いですが、二人、もしくはごく少数で会って話をすることはできませんか。」
「……別に構わん。君ら、党を抜けてきた連中と我々が時折り会合を開いていることは周知の事
実。年末を控えての慰労会、とでも謳えば何の違和感もない。」
「じゃ、電話します。今日のところはこれで。カメラがたくさん張り付いてきてたまらん。」
「僕は今、注目されている。その僕に近づいてきて、すでに長いこと話し込んでいる君が何者で
あるか、すでにマスコミ連中にはばれている。注目の対象は拡大して、明日の朝のワイドショー
か何かで君はまた変人呼ばわりされることになるんだろうな。ところで、髪の毛がいつになく広
がって見えるんだが……。」
「や、急遽地元から飛んできたんで、昨日は風呂に入っとりません。」
「少し離れてくれるか。……それじゃあ、今夜にでも電話をくれるかな。久しぶりに早く寝たい
と思ってるので、そうだな、十一時半までには。」
「了解しました。」
坂本は髪をひと撫でした。ひどく癖のあるその髪は、部分によっては肩口までも伸ばされている。
彼なりに、後ろに撫で付けることで一晩洗っていない髪を木戸から遠ざけたつもりだったが、
癖の強いその髪は彼の大きな手の平の下にも上手く収まらず、むしろ横の方では前向きに跳ねた。
反射的に、木戸は一歩後ろに下がって、そのまま軽く手を振りつつ、坂本に別れの挨拶を述べ
た。

年末年始はいろいろな催し事があって忙しい。特に選挙区内で行われるものは、どれほど小さい
規模であっても代議士は細かく顔を出しておきたいと考えている。よほどの無精者か、次の選挙
への危機感の薄いものは秘書や身内の誰かを行かせるか、場合によっては挨拶文ひとつ送ること
で済ませてしまう。が、そうした人物が次の選挙、また次の選挙と勝ち続ける可能性は限りなく
ゼロに等しい。
上のような事情から、木戸も、また坂本にしても、地元に密着して活動する態勢へと速やかに移
行できれば好ましい。広沢主催の講演会、及びパーティを終えて地元入りした木戸に電話をかけ
てきた時、すでに坂本もその地に足を踏み入れていた。明日にも会おう、と坂本は言った。木戸
はそれを受けた。
「場所はどうしますか。」
「僕の懇意の店を取っておこう。」
「このままお宅に押しかけてみようかとも思いましたが。」
「今の君に上がってもらう部屋は残念ながらない。」
「手厳しいですな。」
「君はひとりで来るのか?食事を用意しておかないといけない。」
「他に二名ほど。そちらは?」
「僕ひとりで行く。明日の昼頃には場所と時間を改めてこちらから知らせるよ。」
坂本との会話を終えた直後、木戸の携帯電話は再び着信音を発した。井上馨、とディスプレイに
表示された名前にだいたいの用件を察する。充電器につなぎ、少し背中を丸めたかっこうで、猫
足の、深さのある椅子に腰掛ける。
「何だ。」
気の置けない“身内”であるから、いきおい声には率直な疲労感が滲む。
「知り合いのマスコミ関係者に聞きましたよ。坂本竜馬が広沢さんのパーティに出席してたと。
何か話しましたか?」
「どうせ俺が彼と話してるところを、そのマスコミ関係者は見たんだろ?話したよ。……お前、
嫌な物の尋ね方をするようになったな。昔は裏表のない、いいやつだったのにな。」
「いちおう気を遣ったんですよ!話したくないなら話さなくてもいいですよ、っていう僕なりの
サイン!」
「あっ、そう。」
「……坂本竜馬の考え方というのは一部では理想主義者の妄言とか、大風呂敷広げるしか脳がな
い、みたいに言われてますけど、あれでも当人はかなり本気で、小選挙区で当選してきてるんだ
から支持者もいるわけです。そして木戸さんは、貴方の実際の意思はどうあれ、ここ数日、その
坂本竜馬の考え方に同調しうる、というふうな印象を世間にばらまかれてます。我が党内でも、
貴方の本音はどうなのかとやきもきしてる人間は多いです。すでに国会が閉じてしまって、党所
属の国会議員全員に対して釈明する場がまだ設けられていない。僕としては、党内の意思疎通を
図ることの難しい、この忙しい時期に、あまりまた新しい疑念の種が出てくるのは嫌だな、と思
うことがないわけじゃありません。」
「……お前は正直、どう思っているんだ?こうした話が出てくること自体考えられない、我が党
の一部にあるように、そうした発想をすること自体が党への裏切り行為だと、そういう気持ちな
のか?もしそうなら、俺はこれ以上何も言わん。少なくとも、俺は常にあらゆる選択肢を考えて
いる。今の時点でそのどれも否定するつもりはない。」
「肯定するつもりもないと。分かってますよ。それで、坂本には会うんですか?これは僕の勘で
す。貴方が答えたくないんなら別に、」
「君、僕の質問に答えていないな。こんな時分に堅苦しい言葉を使わせないでもらいたいが、君
の見解を僕はぜひとも承りたいと思うのだがね。」
「僕はまるで何とも思ってません。野党共闘には、長年の政府与党の腐敗政治を駆逐するという、
立派な大儀があります。本当に実行するかどうかの判断、また実行するとしてその時期や手段
といったことはひとまず置いておいて、そうした選択肢を常に頭に置いていることの合理性を僕
はしっかり認めていますよ。その選択肢を、迂闊な言動ではやばやとポシャっちまうようなこと
は、しないつもりです。」
「ははあ……。」
「何です。」
「分かった。お前には言っておく。坂本とは明日、会うことになっている。坂本は他に二人連れ
てくると言っているが、誰かは知らない。俺は一人で行く。場所は、先日お前も使ったあの料亭、
と言えば分かるだろう。さて、この時点で以上の全てを知っているのは俺とお前だけだ。」
「誰にも言いませんよ。」
「明日の夜には電話をくれてやってもいい。さてと、早く寝るつもりだったのにだいぶん遅くなっ
てしまったな。他に話はないか。」
「……気をつけてください。慎重に、お願いします。」
分かった、と木戸は真面目な声で答えた。ふざけた混ぜ返しをするには夜が更けており、もとも
と早く寝るつもりで体が準備していたから、余計にぐったりとした疲労感があった。それにもま
して、井上の似合わない警告を、彼は十分な深刻さで受け止めていた。眠いからといって、投げ
やりにすることはできない。
木戸は椅子から立ち上がり、井上におやすみの挨拶をして電話を切った。覚えず声が甘くなった
のは、そうした挨拶は女子に対してのみしたいものだという、希望からくる無意識の想定が強い
力で働くからであった。
「多分、あの二人が来るんだろうが……。」
何も確定していないことまで話す必要はない。気遣いというのは各方面にしなければならないも
のだ。木戸は布団に潜り込み、明日為すべきことを軽くイメージしながら、ゆるやかに眠りへと
落ちていった。

十二月二十二日、夕方五時。
明日か明後日には雪が降り出すかもしれないと言われている。本格的な寒さを前にした狭間の凪
が訪れていた。木戸は首に巻いたマフラーを少し緩めた。料亭の主人の厚意により裏口から足を
踏み入れた敷地内には、一月ほど前には見えなかったつわぶきの花が咲いていた。
相手の三人はすでに見えている。そう主人は言った。木戸の頭には坂本と他の二人が具体的に浮
かんだ。党を離れた坂本と意見を同じくする人々の中には現在落選中のものが多く、世間にはほ
とんど知られていない。が、木戸を始めとする長州党の人々は、もともとそうした人々と、大雑
把な括りをするならば反政府系勢力として繋がりがあった。坂本の主張に同調し得る、最近でも
行動を共にしていた事実がある、そしてついこの間の電話で直接に坂本の口からその名を聞いた。
おそらく、あれは坂本の暗示でもあったはずだ。それを察しないのでは、足並み揃えて何かし
ようにもあまりに心もとないというものであろう。
果たして、案内された六人用の個室に、先に来ていたのは木戸の想定にぴたりと当てはまる顔々。
坂本竜馬、中岡慎太郎、土方久元の三名であった。
「すぐにお話が。」
一通りの挨拶を終えた後、どこか弱々しさのある声で切り出したのは現在参議院議員に鞍替え中
の土方だった。
「急な話です。幾ら貴方でも驚かれると思います、木戸さん。実は、我々の前にはある可能性が
開かれつつあります。それはこの国の政体を変え得る大きな潮流です。そこに我々が乗るか乗ら
ないかで、この国の行き先が大きく変わる……。いや、単刀直入に申しましょう。分かっており
ます。少々興奮しておるのです……。」
「まあまあ。」
木戸は土方の盃に酒を注いだ。
「かたじけない。」
元来、土方は落ち着いている方だが、根が素直なので何か起こると非常に直接的な反応をしてし
まう。意外なことがあれば驚くし、望ましくない事態が起これば、たとえそれで倒れたのが自ら
の敵であったとしても心から残念そうな顔をする。
「さ、どうぞ。」
「お話します。お聞きください。実は、わたしは先日鹿児島の方に行って参りました。これだけ
でだいたいのお察しはつくでしょう。そしてあの西郷隆盛に会ったのです。」
「土方さん、簡潔に。要点を知りたい。」
木戸は何も、土方の話が婉曲だと非難したのではない。いつもはおっとりとした印象さえある二
重の垂れ気味の目には、純粋に、早急に、事の要点を掴んで自らの中で消化したいという欲求が
満ちていた。
「我々は、西郷にこちらに赴くよう話をつけました。これは決定事項です。この中岡君が今から
鹿児島に行って西郷を連れてくるのです。」
「木戸さん。」
呼ばれた方に注意を向ければ、いつになく鋭い目をした坂本がいる。
「会ってくれると信じとる。」
「西郷とはどんな話を?」
「最新のは、昨夜、電話で。」
そう言って軽く手を挙げたのは中岡だ。
「だいぶん以前から探りは入れておったんですが、木戸さんの発言で一気にそうした話が現実味
を帯びてきたもので、少し踏み込んだ提案をしてみたんです。長州と薩摩の間で人的交流を復活
させてみないかと。西郷は、それはいい、と。みなで仲良くするのはいいことだ、と。これだけ
ならもちろん政治的な意味は認められない。が、昨夜はもう一歩踏み込んだ発言を聞くことがで
きました。西郷は、薩摩と長州の人的交流が順調にいった場合、両者の政策にそれほど大きな違
いはないのだから、地域によっては選挙協力も可能ではないかと。たとえば京都などは今は与党
系が衆参のほとんどの議席を占めてますが、実際の数字を見てみると長州はとても人気が高い。
ただ薩摩も候補者を立てているから、政権交代を望む支持者の間で票が割れてしまっている。そ
こで薩摩が全面的に長州の支援に回ったらどうなるか。反与党の票が集約されて全議席を野党で
占めることも夢ではなくなる。数字を積み上げていけば、本当にそうなるんですよ……!」
「会って話ができるのなら、それはいいことだ。西郷は実力者だからな。」
「今から連れてきます。」
「どうして今日この場に呼ぶことができなかったんだ?」
「本当は年が明けてからにしようとわたしと土方さんは考えていたんですが、この坂本が十二月
二十五日にやろうと。お祭り好きなわけで、その……年末で世間が慌しい中での方が目立たない
だろうという思惑もあったのかなかったのか、そちらの広沢議員のパーティに堂々と出席してい
たそうなのでもう、よく分かりませんが……。」
「まま、そこは置いとくとしよう。で、急なことだったので間に合わなかったと?それでも、今
朝早くに発っていれば十分間に合ったと思うが。」
「木戸さんとの会談を持ちかけたのが昨夜で、西郷としては会うこと自体はまったく構わないが、
その前に一人だけ意見を聞いておきたい男がいる、と。おそらく大久保のことだろうと思いま
す。それで明日……場所と時間は木戸さんにお願いしたいと。持ちかけた側ではありますが、な
にぶん地元でないもので特に場所の選択ができないので。」
「分かった。また電話しよう。坂本君、君に電話するのでいいんだな?」
「ああ。」
ぷつりと会話が途切れる。おのおのの目の前には料理が並び、ほとんど最初から坂本は箸を取っ
てそれらに手をつけていた。木戸は数口茶を飲んだ程度。他の二名は、少なくとも木戸が来てか
らは一度も卓上に手を伸ばしていない。
坂本の前にある料理はすでに半分以上が彼の腹の中に収められている。この料亭の味の確かさは
誰より木戸が知っているのだから、当然、いっさい手をつけずに残すという選択肢はない。料理
人に対して失礼でもある。中岡や土方に軽く視線をやり、自ら箸を取ることで彼らにも倣うよう
促した。
二十分ほど、会話といえば料理に関する事柄が続いた後に、坂本が、
「俺としてはありゃ、いい商売人になってやろうちゅう意気込みからきたもんで、いろいろな憶
測を呼んだのはあくまでも副産物、まあいい副産物ではあったけども。」
とどれだけ察しのよいものでも、一瞬は前後の繋がりに戸惑いそうな話の飛躍のさせ方をした。
正確には、最初の話柄に戻ったということであるが。
「それは半分本当で、半分は嘘じゃありませんか。」
真っ先に、坂本の言わんとするところを汲み取ったのは木戸だ。「あのタイミングも偶然だった
かわたしは疑わしいと思ってますよ。会話の中身も今になって思い返せば何かと含みがあったよ
うな。しかし一方で、君が商売に興味を示していることも知っている。何でも、近頃は外資系の
商社マンと盛んに親交を結んでいるとか。」
「そう、それで、なかなか凝った趣味をお持ちの木戸さんに、何かクリスマスのプレゼントでも
リクエストしていただこうと。商品のカタログを眺めていると、それを誰かにプレゼントしたく
てしようがなくなる。そこは木戸さんと一緒じゃありませんか?いい品がありますよ。スウェー
デンのガラス工芸なんてどうですか。スイスの時計とか。」
「女性達に送る品なら発注してもよかったが、今からではさすがに間に合わんだろう。」
「木戸さんの分くらいなら何とかなるつもりでおりましたが……。女性達にですか。まあ、木戸
さんならそう言われるのは分かりきったことでしたなあ。今回のことがいいプレゼントになれば
いいが。」
「まさにマスコミが盛り上げた方角にいくわけだ。しかしクリスマスプレゼントを統一会派結成
の隠語のように使っていたと思われるのは何だかきな臭くて、嫌だな。」
「まだお年玉の方がよかったですか。」
「ははは、お年玉は交換するものじゃないから、クリスマスプレゼントの方がまだいい。統一会
派というのは施しじゃない。対等な、ギブアンドテイクの関係ですよ。……ま、今の時点ではな
かなか難しい。我が党内に薩摩と協力することへの拒否反応が強いのは、もちろん様々な経緯が
あったからだが、その結果として、今現在の両党の力関係がどうしても対等でない。どうしても、
我が党が薩摩に支援してもらう形にならざるをえないからだ。薩摩の奸計によって今のような
状態になったのに、その薩摩と手を結んであろうことか引き上げてもらおう、守ってもらおうと
は何事か、というわけだ。感情的に過ぎるとはいえ、まったく理解できないことでもない。」
「分かります、木戸さん。しかし、」と中岡が、拳に力を込めて言う。
「そこを何とか結んでもらわねばならんのです。日本のためです。貴方はわたしの知る限りで最
も開明的な考えの人ですから、この計画を進めるには絶対に貴方の力がいる。」
「君の言葉はいつもまっすぐでいい。ぜひとも応えたいと思う。」
「……今から鹿児島の方に行ってまいりますので。」
「タクシーを呼ぼう。呼んでないだろ?」木戸は身軽に立ち上がって部屋の外に声をかけた。
「まあ、中岡君、もう少し座って。デザートも頼んだよ。寒天を使ったさっぱりと美味いやつでね。
最後にそれだけ味わっていってくれ。」

中岡が出て行った後の部屋は六人席の半分が空になり、一瞬、沈黙が落ちたこともあってそこは
かとなく寂しい。会が始まって二時間ほどが経過しており、そろそろ散会とするにはちょうどよ
い頃合である。
デザートも食し終えた坂本は、お絞りで口元を拭っている。が、畳んでいたのを広げて、さらに
手の動きが大きいのでまるで顔全体を拭いているように見える。
「それにしても、木戸さんは性質(たち)が悪いですな。」
「何ですか、急に。」
木戸はびっくりした顔をする。
「綺麗な顔に見つめられて、やけに素直な言葉を吐かれては、心を奪われないのがおかしいとい
うもんです。さっきの中岡の顔、見ましたか。貴方があんまり優しげに笑うから、心臓が喉元ま
で飛び上がってたに違いありません。」
「……中岡君は、昔からわたしによい感情を持ってくれている。年下の、しかも有能な青年に慕
われて悪い気はしない。」
「そうですか。しかし、ほどほどに。女性が好きなら女性にのみ、と気をつけないと、勘違いす
る輩が出てこないとも限らない。いや、もう出てきているかもしれませんがな。」
「それはない、と言っておく。ところで、今日は何時くらいに電話したらいいだろうか。」
「何時でも、構いません。風呂場にも携帯は持ち込んでますから。トイレにも。」
「くれぐれも落とさないように……。では十時くらいに電話しようかな。」
「分かりました。ところで、木戸さんは薩摩の大久保と何か個人的な関係がありますか?」
「うん?党は違うし、同期当選でもないし。まあ、勉強会とうで何度か言葉を交わしたことはあ
りますよ。」
「そうですか。いや、大久保に繋がりがあれば何かとスムーズに進むのではないかと思ったんで
すが。うん、まずは議員同士の信頼関係を構築しなくてはいけませんからな。まずは西郷、それ
から他の薩摩党幹部にもどんどんと会うことです。言わでものことでしょうが。」
「仲立ちをお願いする。さて。」
木戸はにこやかに立ち上がった。
「ここはわたしが持ちますよ。とわざわざ言うのも何だが、わたしからのクリスマスプレゼント、
ということでね。」
「木戸さん……。」
その表情がいかんのですよと言おうとするも、目の前の男があまりに端正に笑うので、それを止
めてしまうのも無粋な試みかと思って、結局坂本は口を閉ざした。

木戸が自宅に戻った時、途中で別の料亭やクラブ数軒に寄ったこともあって九時を大きく回って
いた。もちろん彼のことであるから馴染みの女性達に挨拶をしてきたのだが、政治家は選挙区内
の住民に贈り物をしてはいけないという決まりがあるために、十二月二十五日を前にしながら、
ただ気持ちを言葉に込めて贈ることしかできなかった。
「必要な規制だとは分かっているが、特例処置が欲しいな、やはり。」
ぼやきながら靴を脱ぎ、使用人にコートやマフラーなどを渡して洗面所に向かう。大きな鏡の中
に現れた姿はいつもながらの男前だが、どこか表情にさっぱりとしないものがある。ぬるま湯で
顔を洗いながら、彼はまず坂本に電話しようと考えていた。
(それから……。)
時刻を見れば十時にはまだ二十分ほど間がある。が、いつでもいいと本来坂本は言っていたのだ
し、遠慮の必要のない相手であることは確かだった。
軽い食事をしたいと使用人に伝え、木戸は居間である和室にやってきた。朝から一度も暖房器具
を使っていないためかひどく冷たく、少し震えながら電話機の前に膝をつく。「や、坂本さん、
今なにを。」と出てきた坂本に名乗らず訊いた。
「やあ、木戸さん、トイレです。」
「君はなんか、僕とかかわる時はいつも臭いな。」
「すいません、もう出ますんで。」と言っているそばから水の流れる音がする。
少し間があった。坂本に電話するため右手にアドレス帳を持っていた木戸は、五ページほど前に
繰ってそこに記憶通りにひとつの名前があることを確認した。野党であり、今現在世間から統一
会派の可能性を取り沙汰されているだけあって、例の男とはそれほど考えに差があるわけではな
い。勉強会とうで会う中で、打ち解けた政治家同士、次はも少し私的な集まりをしてみましょう
となるのは自然の流れで、木戸のアドレス帳の中には長州に比較的近い他の野党の議員はもちろ
ん、与党内、もしくは与党に近い立場の人間の名前も少なからず見受けられた。
「携帯を変えていなければ、この番号であの男につながるはずだが……。」
そっと呟いたところで、受話器の向こうでおそらく坂本が携帯電話を持ちなおしているらしい気
配がした。やあ、と木戸の方から声をかける。
「どうも。」
「もちろん手は洗ったでしょうね。」
「ご心配なく!」
「む、結局いろいろと場所を考えたが、こういった表沙汰にしたくないことはとにかく動きを小
さくしておくべきだと思ってね、帰りの車の中で今日の店に電話して、また部屋を取ってもらっ
た。この時期だから宴会が多くて、時刻は二時からで、四時までには終えないといけないんだが。
どうかな。」
「話の展開によっては二時間は短いかもしれませんが、しかし今回の会合で何かを決めようとい
う気は少なくとも今の時点では西郷にはないようだし。木戸さんはどうですか。」
「うむ、俺の独断で事を進めるつもりはない。事務的な話は電話でもできるのだし、今回は実際
に顔を合わせることでの関係の構築、その端緒ということでいいのではないかな。後は今後の政
局へのイメージをだいたいのところで開陳し合うとして。」
「うん、いいですな。では、明日の二時に。」
ええ、よろしく。そう言って受話器を置いた瞬間、木戸の表情にはさっと迷いが走る。すでに食
事の用意は整っているだろうか。使用人がそのことを伝えにきたら食堂に行くとしよう。電話機
から、まだ完全に離すことのできていない己(おの)が手を見ながら、半端に腰を浮かせた姿勢
で木戸はじっとしていた。
一分も経ったか知らないが、木戸は待つことが嫌になった。受身は本来、彼の好く姿勢ではない。
こうして迷っているのは訊ねたいことがあるからであるし、わたくし的なことではまったくな
く、互いの党の利害得失に絡むことと思えば、何も逡巡することはない。
よし、と木戸は受話器を取った。アドレス帳に記した番号の通りに人差し指をまずは0のところ
に置いたその時、ズボンのポケットに入れていた携帯電話がピピピと機械音を発した。
「何だ。」
「あ、先生、伊藤です。」
「そんなことは分かっている。」
自分では不機嫌に発したつもりの声だが、どこか安堵の響きが混じっていたことは否めない。木
戸の私設秘書たる伊藤は普段、主人の機嫌を敏感に察して変幻自在に態度を変えてくる男である
が、この時にはしばらく間合いを計りかねていたようである。
「ええと、その、今披露宴から戻ってきたところなんですが。」
「ああ、ご苦労さん。」
「井上さんと同じテーブルになりまして、どうもだいぶんお疲れの様子でした。今回のことは先
生がいわば震源地ですが、党所属の国会議員は、先生ではなくまず幹事長代理である井上さんに
問い合わせの電話やら文書やらを集中させてるようです。井上さんはあの性格ですからね、マス
コミもネタを拾えるのではないかと攻勢をかけてますよ。先生は、当事者のわりにあまりテレビ
に出ていないようですが。」
「マスコミはその辺にいるよ。ちらちらと姿は見かけるし、インターホンが鳴ったり電話がきた
りすることもあるようだが、まあ、結論としては上手く雲隠れできている。俺が自宅にいるとい
う確信も、奴らは持っていないだろう。」
「流石ですね……。しかし井上さんにはその種の器用さがありませんから、見ていて気の毒に思
うわけです。先生は、井上さんにも詳しい事情はお話になっていないんでしょう?どう説明した
ものかも分からないのに、党内の、特に一部からの問い合わせには糾弾めいたものもあるわけで、
なかなか、年末の忙しい時期にはつらいものがあるだろうと思います。わたしも先生の口から
真相をうかがったわけではありませんが、もし差し支えないのであれば、少なくとも井上さんに
は事情をお話しいただけないかと思うのですが。」
「んん、なるほど。」
昨日(さくじつ)、木戸と井上が電話で話し合ったことは伊藤は知らないのだ。もちろんその折
にも木戸は全てを話したわけではないのだから、伊藤の進言には耳を傾ける一定の価値がある。
「分かった。折を見て、井上には電話をしておこう。とりあえず、今は君の方から慰めの言葉で
もかけといてくれたまえ。あとわたしから、悪く思っている、感謝している、ということも。」
「分かりました。ところで、わたしはこのまま休暇に入ってしまって本当にいいんでしょうか。
事態がどう動くか、先生はお分かりなのかもしれませんがどうも不安で。」
「とりあえず二十五日まではいいよ。その後のことはその後。君にも特別な女(ひと)くらいい
るんだろう?」
「え、まあその。あっ、そうか、先生のほうでひとりになりたいんですね?まさかご自宅にどな
たか招くなんてことは……。」
「品のよい勘繰りをしたまえ。そんな目立つことはしないよ。しかし予定が入っているのは当然
のことだ。さて、食事の用意を頼んであるのでね、もうそろそろ切るよ。井上には電話しておく。」
「お願いします。」
受話器を置く。今度はあっさりと手を離した。アドレス帳をパタンと閉じて、木戸は急ぎ足に食
堂に向かった。

十二月二十三日の早朝は、冷たい氷のような雨が降った。さあさあと音だけ聞けば優しいのに、
漂ってくる空気は射すようで恐怖すら覚える。
旦那さま、旦那さま、と古くから木戸家に仕える忠勤の使用人が、くすんだ紙の束をいっぱいに
持って、縁側に立つ木戸のもとへやって来た。「外に出ていると、どこから報道のカメラに狙わ
れるか分かりませんよ。」その声は雨中にあっても、主人の命を守って密やかに保たれている。
「さすがにこの雨では、塀に取り付こうと思ってもできまいが。しかし、うむ、引っ込むとしよ
う。」
木戸は先に立って、朝食を取るため食堂に向かった。あまり食べる気がしないのはいつものこと
だが、用意してくれた人物の優しさがこもっているという点で、木戸は食卓の風景というのはひ
どく好きだった。
老僕が両手いっぱいに抱えていたのは、毎朝、木戸が目を通すことを日課としている新聞の束だ。
食事の席についた木戸の手の届く場所にそれらは置かれる。
(近頃は一面が雑多だな。二つか三つの中くらいの話題が占めている。俺の発言ひとつがこうも
引っ張られるわけだよ。)
コーヒーを右手に、積まれた新聞紙に左手を伸ばしてまずは一面をチェックした後に五大紙の一
つを取り上げ、二面、三面と単語を拾い読む。こういうものは、何年といわず数週間でも読み続
けていると、まるでひとつの小説を読むように話がつながってきて、“著者”が選択する単語も
だいたい定まっていることが分かるので、たとえばある国名と、交渉難航、などという言葉が見
えたらもう、あああの件だなと合点が行く。
ほとんどの政治家は、全国紙の後には必ず自らの選挙区内で発行部数の高い、すなわちその地方
でのみ知名度の高い新聞を手に取るであろう。そこにはまるで井戸端会議にでも取り上げられて
いそうな話題がある一方で、全国紙とはまた趣を異にする、ひどく生々しいがゆえに真をもって
迫る政治家達の日々の言動が綴られている。
ここ最近、木戸の地元の新聞でもこの話題は多く取り上げられていた。当事者がいるのだから当
然だが、その当事者に関する新たな情報を得ることができていない点では地元紙も他の報道各紙
と変わらない。そのことに業を煮やしたか、この朝、彼らの発行する新聞には事のもう一方の当
事者、南国を基盤とする党のさる実力者の発言が実名は伏せて取り上げられていた。
「そうしたことがあるとしても、少なくともこちらから頭を下げていくことはない。どちらがより困
難な状況にあるかは火を見るよりも明らかだ。我々は高いところから全体を見渡して、向こうが
それを望んでくる時にちょっとだけ下りていってやればいい。それが嫌だとごねる子供をあやす
義務はない。共闘する相手は幾らでもいるのだ。我々はその中から最も信頼できるものを、我々
の従来からの姿勢に適(かな)う形で選ぶ。」
このような長い台詞が、本当に一言一句違わず発せられたかは無論どうでもよいことであるし、
実際に、このような発言がなかったとしてもいいことである。間違いなく真実であるのは、こう
した心情を持った人々が、かの党の内部には多数存在しているということだ。
「この発言が出たのは……昨日か。党の実力者、ねえ……。」
目の前に置かれて久しいサラダの中から、木戸はトマトばかり立て続けに口の中に放り込んだ。
酸味と仄かな甘味が広がったところでレタスを何枚かまとめて押し込む。時刻を見れば、七時半
になろうとしている。その後、木戸はいっさい食べ物には手をつけず、コーヒーもやめてしまっ
て水を持ってきてもらい、冷たいグラスを片手にしながら黙々と、残りの新聞を読み続けた。


続く 


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