「聖争、そして政争」2
「やあ、今日も大した男振りですな。」 昨日とは逆に、この日は木戸のほうが先に料亭に来ていた。ひとりであるにもかかわらず、賑や | かさを存分に振りまきながら入ってきた坂本は、食卓に並んでいるのがどうやら弁当らしい木目 | も鮮やかな箱であることを気に留めつつ、訊ねるより先に腰を下ろしてその紐を解き始めた。
| 「話がどうなるか分からないから、昨日のように料理を食べている暇もないかと思ってね。これ | なら、万一食事の時間がなくとも各自持ち帰りができる。」
| 「いい案ですな!おお、旨そうな。」
| 「土方さんとは一緒では?」
| 「駅に、中岡達を迎えに行きました。何しろ心配症な御仁ですから。」
| 「心配になるような事態がおきましたかね?」
| 「そうかもしれんです……!」
| 坂本は割り箸を割った。持ち帰る気は毛頭ないらしく魚介を炊き込んだ飯を豪快に頬張る。と同 | 時に、木戸に対して仔細らしい目つきを送る。
| 「何ですか。」
| 「無所属というのは、属する組織がないから非力だと思う人もおるでしょうが、何でも一概には | 言えんので、わたしの場合は以前に属していた党内に今現在も気持ちの通じ合う友がおるし、同 | じ無所属の連中との繋がりもある。政治とは関係のない人脈もいろいろ持っておるつもりです。」
| 「大手、中小零細問わず、企業との繋がりの広さは大したもんだと聞いてますよ。」
| 「人脈というのは、言い換えるならば情報網です。」
| 「うむ……。」
| 「南にも北にもその情報網はつながっておりまして、たとえば、木戸さんが明後日のクリスマス | にデートするのではないかと思われる女性も、だいたい目星がついていたりする。」
| 「ふうむ。」
| 「実は今朝方、どういった種類の人間かは言えませんが、薩摩党内の動きを教えてくれる電話が | ありましてね。」
| 本題に入ることを報せるかのように、坂本の飯を食う手が一瞬止まった。一重のあっさりとした | 目は濁りがなく、よく笑うために細められるので、何を考えているのか読み取りにくいところが | ある。今も笑っている。箸の動きを再開させながら、彼は言った。
| 「薩摩の党勢は諸党の中でも抜きん出ているが、それでも単独で政権を奪取することは難しい。 | 必ずどこかの党と手を結ばなければならない。おそらく、きっかけは今回の騒動だと思います。 | 以前から考えている人間は考えていたが、具体的にじゃあどうするかという展開にはなっていな | かった。それが今回動いた。いつかはどこかと共闘することもあり得るという意識を全ての党員 | に持たせようとしている。その裏で、ではどこと組むのがよいかということの検討に入っていま | す。党内部に留まらず、大学の教授や学者、著名な作家や報道関係者、シンクタンク、様々なと | ころに相談して、最良のパートナー選びに本腰を入れているわけです。今は、その真っ最中なわ | けです。」
| 「直接相手を見定めてやろう、という気にはならんのですかね。」
| 「まずは完璧なプランを練りたいんですよ。プランが完成する前に、パートナーの、有力とはい | え一候補者に過ぎない相手のところへわざわざ出向いて、相手に、少しでも自分達の方が優位に | 立っているなどと憐れな勘違いをさせて、我々にとって、また相手方にとって、何のプラスがあ | るかというわけです。」
| 「……来ないのだな?」
| 手の中の湯飲みに落としていた視線を至極柔らかに動かして、木戸は、何の期待も滲ませない無 | 私の調子でこの核心を抉る問いを投げかけた。
| 坂本の顔から笑みが消えた。露になった黒い瞳は、奇妙なほど凡庸で、反応の鈍ささえ窺われる | ものだった。彼は簡潔に返事をした。
| 「来ません。」
| 「まったく想像しなかったわけではない。が、それにしても屈辱的なものがある。女性に袖にさ | れるならまだしも。」
| 木戸は湯飲みを茶托に置いた。カタン、と冷たさのある響きは、二人きりの空間に重たく沈んだ。
| 「中岡らはともかくここに来ます。」
| 「彼らに謝ってもらってもしようがないな。むしろ気の毒に思う。」
| 「西郷は、来るつもりでおったようです。」
| 「坂本さん、こちらにもいろいろな情報が入っている。今回のことはよく分析させてもらう。」
| 「また次があるからこそ分析をする、と思っていいですか。」
| 「……結局のところ、政界は新しい段階に入らざるを得ない、と考えている。坂本さん、君の弁 | 当はあらかた片付いたようだ。一つは余ってしまうから、よければどうぞ。持って帰ってもらっ | てもいい。」
| 「いや、この場でいただきます。」
| 木戸に手渡された弁当の紐を、坂本は解き始める。
| 三十分ほどして、中岡と土方が気の毒なくらいに萎れきった姿で到着した。殊に中岡は鹿児島と | 山口を往復した肉体的疲労もあって、部屋に入るなり、木戸に向かって申し訳ないと膝をついた | 様はほとんど力尽き倒れたかのようだった。
| 二人のために、木戸は茶を入れた。
| 「僕はとても腹を立てているが、それは西郷に対してだ。言ったことを実行できないのなら、最 | 初から約するべきじゃない。彼は自分の党内の動きに対して理解が不十分だったのだ。」
| 「大きな一歩になるはずが、大きな後退になってしまったようで、落胆しています。わたしは見 | 通しが甘かったのか……。」
| 中岡はまともに木戸の顔を見ることができていない。
| 「事が結実した後に見込める変化が大きければ大きいだけ、事前の期待感が膨れ上がるのは当然 | だ。まして君は若いから、全てを真っ正直にそれに注ぎ込んだ。今回は残念ながら肩透かしを食 | らってしまって、費やした労力が大きかっただけに疲労感が大きい。だが、それは肉体的疲労が | 大半を占めているはずだ。実際問題、現状を見てみるに、事態は進展はしていないが後退もして | いない。体力が戻れば、自然とまた事にぶつかっていく気力も湧いてくるはずだ。」
| 中岡は、少しだが涙ぐんでいた。鼻を啜りながら、目の前に置かれた湯飲みを取り上げ、口をつ | けて飲み干した。
| 「食事はできるかい?」
| 「今は、無理のようです……。」
| 「土方さんは?」
| 「いただきます。あまり食欲はありませんが、腹は確かに空いているので。」
| ごそごそと座ったまま、土方は自分の弁当箱の前に移動した。妙に可愛らしいような短い指で紐 | を引っ張って解きながら、彼はどこに向いているか分からない目をして、しかし口調ははっきり | として言った。
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