「聖争、そして政争」2


「やあ、今日も大した男振りですな。」
昨日とは逆に、この日は木戸のほうが先に料亭に来ていた。ひとりであるにもかかわらず、賑や
かさを存分に振りまきながら入ってきた坂本は、食卓に並んでいるのがどうやら弁当らしい木目
も鮮やかな箱であることを気に留めつつ、訊ねるより先に腰を下ろしてその紐を解き始めた。
「話がどうなるか分からないから、昨日のように料理を食べている暇もないかと思ってね。これ
なら、万一食事の時間がなくとも各自持ち帰りができる。」
「いい案ですな!おお、旨そうな。」
「土方さんとは一緒では?」
「駅に、中岡達を迎えに行きました。何しろ心配症な御仁ですから。」
「心配になるような事態がおきましたかね?」
「そうかもしれんです……!」
坂本は割り箸を割った。持ち帰る気は毛頭ないらしく魚介を炊き込んだ飯を豪快に頬張る。と同
時に、木戸に対して仔細らしい目つきを送る。
「何ですか。」
「無所属というのは、属する組織がないから非力だと思う人もおるでしょうが、何でも一概には
言えんので、わたしの場合は以前に属していた党内に今現在も気持ちの通じ合う友がおるし、同
じ無所属の連中との繋がりもある。政治とは関係のない人脈もいろいろ持っておるつもりです。」
「大手、中小零細問わず、企業との繋がりの広さは大したもんだと聞いてますよ。」
「人脈というのは、言い換えるならば情報網です。」
「うむ……。」
「南にも北にもその情報網はつながっておりまして、たとえば、木戸さんが明後日のクリスマス
にデートするのではないかと思われる女性も、だいたい目星がついていたりする。」
「ふうむ。」
「実は今朝方、どういった種類の人間かは言えませんが、薩摩党内の動きを教えてくれる電話が
ありましてね。」
本題に入ることを報せるかのように、坂本の飯を食う手が一瞬止まった。一重のあっさりとした
目は濁りがなく、よく笑うために細められるので、何を考えているのか読み取りにくいところが
ある。今も笑っている。箸の動きを再開させながら、彼は言った。
「薩摩の党勢は諸党の中でも抜きん出ているが、それでも単独で政権を奪取することは難しい。
必ずどこかの党と手を結ばなければならない。おそらく、きっかけは今回の騒動だと思います。
以前から考えている人間は考えていたが、具体的にじゃあどうするかという展開にはなっていな
かった。それが今回動いた。いつかはどこかと共闘することもあり得るという意識を全ての党員
に持たせようとしている。その裏で、ではどこと組むのがよいかということの検討に入っていま
す。党内部に留まらず、大学の教授や学者、著名な作家や報道関係者、シンクタンク、様々なと
ころに相談して、最良のパートナー選びに本腰を入れているわけです。今は、その真っ最中なわ
けです。」
「直接相手を見定めてやろう、という気にはならんのですかね。」
「まずは完璧なプランを練りたいんですよ。プランが完成する前に、パートナーの、有力とはい
え一候補者に過ぎない相手のところへわざわざ出向いて、相手に、少しでも自分達の方が優位に
立っているなどと憐れな勘違いをさせて、我々にとって、また相手方にとって、何のプラスがあ
るかというわけです。」
「……来ないのだな?」
手の中の湯飲みに落としていた視線を至極柔らかに動かして、木戸は、何の期待も滲ませない無
私の調子でこの核心を抉る問いを投げかけた。
坂本の顔から笑みが消えた。露になった黒い瞳は、奇妙なほど凡庸で、反応の鈍ささえ窺われる
ものだった。彼は簡潔に返事をした。
「来ません。」
「まったく想像しなかったわけではない。が、それにしても屈辱的なものがある。女性に袖にさ
れるならまだしも。」
木戸は湯飲みを茶托に置いた。カタン、と冷たさのある響きは、二人きりの空間に重たく沈んだ。
「中岡らはともかくここに来ます。」
「彼らに謝ってもらってもしようがないな。むしろ気の毒に思う。」
「西郷は、来るつもりでおったようです。」
「坂本さん、こちらにもいろいろな情報が入っている。今回のことはよく分析させてもらう。」
「また次があるからこそ分析をする、と思っていいですか。」
「……結局のところ、政界は新しい段階に入らざるを得ない、と考えている。坂本さん、君の弁
当はあらかた片付いたようだ。一つは余ってしまうから、よければどうぞ。持って帰ってもらっ
てもいい。」
「いや、この場でいただきます。」
木戸に手渡された弁当の紐を、坂本は解き始める。
三十分ほどして、中岡と土方が気の毒なくらいに萎れきった姿で到着した。殊に中岡は鹿児島と
山口を往復した肉体的疲労もあって、部屋に入るなり、木戸に向かって申し訳ないと膝をついた
様はほとんど力尽き倒れたかのようだった。
二人のために、木戸は茶を入れた。
「僕はとても腹を立てているが、それは西郷に対してだ。言ったことを実行できないのなら、最
初から約するべきじゃない。彼は自分の党内の動きに対して理解が不十分だったのだ。」
「大きな一歩になるはずが、大きな後退になってしまったようで、落胆しています。わたしは見
通しが甘かったのか……。」
中岡はまともに木戸の顔を見ることができていない。
「事が結実した後に見込める変化が大きければ大きいだけ、事前の期待感が膨れ上がるのは当然
だ。まして君は若いから、全てを真っ正直にそれに注ぎ込んだ。今回は残念ながら肩透かしを食
らってしまって、費やした労力が大きかっただけに疲労感が大きい。だが、それは肉体的疲労が
大半を占めているはずだ。実際問題、現状を見てみるに、事態は進展はしていないが後退もして
いない。体力が戻れば、自然とまた事にぶつかっていく気力も湧いてくるはずだ。」
中岡は、少しだが涙ぐんでいた。鼻を啜りながら、目の前に置かれた湯飲みを取り上げ、口をつ
けて飲み干した。
「食事はできるかい?」
「今は、無理のようです……。」
「土方さんは?」
「いただきます。あまり食欲はありませんが、腹は確かに空いているので。」
ごそごそと座ったまま、土方は自分の弁当箱の前に移動した。妙に可愛らしいような短い指で紐
を引っ張って解きながら、彼はどこに向いているか分からない目をして、しかし口調ははっきり
として言った。
「今回、西郷がここへ来ることをやめたのは、彼自身の考えではなく周りの、おそらく大久保を
中心とする人々の、どうして我々から行かねばならないか、というスタンスに配慮したためと思
われます。であるならば、今後、薩摩と長州の間で話し合いがもたれるとすれば、それは双方に
歩み寄るか、下手をすれば長州の側から一方的に歩み寄らねばならない、ということになります。
木戸さんは、そうした行動を求められた場合に……。」
そこで口を噤み、土方は視線をまっすぐに木戸に定めた。
木戸は、彼自身の弁当に二度ほど箸を伸ばしながら聞いていた。物を食(は)む速度はゆっくり
として、それは土方の言葉をも丹念に噛み砕いているからであるのに相違なかった。
「一方的にこちらのみが、というのは受け入れられない。そうした要求をまんいち薩摩がしてき
た時には、よく交渉して譲歩させなければならない。でないと我が党内の血の気の多い者のみな
らず、すでに薩摩との連携を現実的な策として了解している者達の間にも反発が生まれるのは必
至だ。まあ、そこは薩摩も分かっているので、そうした要求はないものと信じている。双方が歩
み寄るというのは、それは“可”だ。山口でも鹿児島でもない場所に会場を設けて、双方の代表
者が出席して話し合い、妥協点を探る。その場でいろいろとやり取りはあるだろう。難しい、特
殊な平衡感覚を求められるだろうが、ともかく舞台の書き割りとして、それは“可”だ。」
「京都にしよう!」
不意に中岡が大きな声を出して、身軽く跳ねると食卓を挟んだ木戸の正面に、ほとんど坂本を押
しのけるようにして座った。
「山口と鹿児島はいずれも日本の西方にあり、京都は大阪と並んで西の主要な地域です。そして
長州党には京都出身の議員が幾人かおり、それに薩摩が対抗馬を立てるという事態が過去幾度も
あったことから、京都は両党にとって特に互いのことを考えた場合、因縁深い。その京都で、両
党の代表が話し合い、一つの妥結点を見出すことができたら、それは今後の両党の関係性を象徴
的に示すものとなるのではないでしょうか。」
「中岡、元気になったのう……。」
まあ落ち着けとでもいうふうに、坂本が自分の飲んでいた茶を差し出す。
「坂本、今回のことで俺達は木戸さんに対して借りをつくった。果たす、と言ったことを果たせ
なかったのだ。男として、一度口にしたことは何としても実行せねばならん。先ほど、木戸さん
は事態は何ら動いていないと仰った。やり直しはきくのだ。次は必ずやり遂げよう。」
「うん、中岡。」
相手の手を取って、坂本は自身の湯飲みを押し付けた。
「その案はいいぞ。京都は花街もあるしな。何かと張り切ってやれるというものだ。さっそく明
日にでも行ってみようかな。木戸さんもどうですか。」
「銀座や赤坂や京の花街というのは情報の集積地みたいなもので、男は女性に弱く、女性同士の
連携、人脈もイコール情報網と捉えれば当然のこと。ふらりと寄ってみただけでも実に面白い話
が聞ける。坂本さん、君のことでもいろいろと噂は聞きますよ。」
「はっは……。」
「中岡君、弁当食うかね。」
「いただきます!」
時刻は三時半を回っていた。三時五十分になったらお開きにしようと木戸は言った。箸を置き、
空になった弁当箱に蓋をする。
「木戸さん、長州と薩摩の間を取り持つのは第三者でないとできんと思う。長州党の人間がやれ
ば内部から裏切り者と呼ばれ、薩摩の人間がやれば長州に要らぬ刺激を与えることになる。どう
いうやり方でも結局、両党が歩み寄る中ではそうした反応は避けられないが、まだクッションと
して第三者、我々のような無所属の人間が入った方が、否定的なエネルギーの向かう先が分散し
て混乱を最小限に抑えられるので、いい。いざという時には、全てはあの無所属の連中が勝手に
やり出したことだと切ることもできる。いや、木戸さん、貴方も政治家だ。そうした強(したた)
かさは持ってなくちゃいかん。」
坂本はお絞りを持っている。それで昨日のように口の周りを拭いている。彼はすでに二つ目の弁
当を食べ終えたのだった。
「この舞台の書き割りを設(しつら)える役目、全面的に我々に任せてもらいたい。」
「具体的に、どうします?」
「まずは鹿児島に向かい、西郷から言い訳を聞く。同時に薩摩内の事情もよく分析せんと。これ
は直接、顔つき合わせてやらにゃならん話だと思います。し終えたら、その時点で連絡します。
その時に、だいたいどのような提案ならば互いに呑むことができるか、考えましょう。他の長州
党の面々も巻き込んで、これもまた直接に顔を合わせてやる方がいいかもしれませんな。で、ま
とまった案を薩摩に提示する。薩摩から反応があればまたそれを長州の方で……。交渉事ですか
ら、とにかく段階を外さないで慎重に積み上げていきたい。大事なことは、長州、薩摩ともにで
きる限り多くの党員を巻き込んで話を進めることだと思います。と同時に、これを隠しておかね
ばならん相手には隠し通す。それぞれの支持者やマスコミ、他党の人間、なかんずく与党、もち
ろん党内の人間であっても必要ならそうしなければならない。」
「ふむ。」
「それと今の騒ぎですが、まるでイベント事のような乗りですから、現実感が伴わず、取材する
側もそれを見せられる大衆も、頭を使わないでただ感覚的に楽しんでいるだけです。こちらとし
てはその感覚を適度に刺激してやって、こちらの水面下の動きが結果するまで、彼らにはおもし
ろおかしい夢の世界でしばらくわあわあしといてもらうのがいいかもしれません。」
「ふふん。」
口元に笑みを滲ませながら、木戸はちらりと時計を見やった。三時四十六分過ぎ。
「パイプ役というのは枠がしっかりと強固で、行き来する場所を正確に知っているものでなくて
は勤まらない。どうやらそのどちらもあんたにはあるようだ。……最後に、坂本さん、あんたが
そこまでこのことに心血を注ぐ理由は?」
「これまで共に闘ってきた同志達のため、というのでは不十分ですか?」
「……道程は険しい。統一会派が成ればそれで終わるというものではない。その先に待っている
ものこそ、真の政治闘争だ。」
木戸はゆっくりと立ち上がった。
「この部屋、四時までは使ってくれて構わない。」
「木戸さん、京都も明日は雪になるかもしれんそうです。」
「坂本さん、明日明後日くらいは私的な時間を過ごして構わんのですよ。君も、京都の雪、見た
いんじゃありませんか。」
そう言いながら木戸はコートとマフラーを身につけ、柔らかに笑うと、政争の前にひとつ聖なる
闘争に身を捧げてみようじゃありませんか、とまるで役者のような台詞を残して、部屋を出て行っ
た。

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以下は十二月二十六日発売、某週刊誌の記事である。

今月十七日の国会閉会以降、“クリスマスプレゼント”なる単語で世間を騒がしてきた木戸孝允
衆議院議員。二十一日に同僚の広沢真臣衆議院議員の政治資金パーティに出席したのを最後に行
方をくらましていた。
地元に帰っているとの説が有力であったが、結局、木戸氏の姿が選挙区内で捉えられることはな
かった。近頃は、木戸氏の信頼厚い秘書の伊藤氏の実家に身を潜めてほとぼりが冷めるのを待っ
ているだの、もともと体が弱いために温泉で有名な保養地に滞在しているだのと様々な根拠の薄
い憶測が飛んでいたが、ついに二十四日、恋人達が愛を囁き合うクリスマスイブの夜に、本誌の
カメラマンがその姿を京都にてキャッチした。
きっかけは、二十四日の午後七時頃に入った本社への一本のタレコミ電話だ。衆議院議員木戸孝
允の姿を京都駅の大階段の近くで見かけたというのだ。その電話をかけてきたのは自称木戸氏の
追っかけだという女子大生で、何と電話をかけている間も木戸氏の後を追いかけていたという。
以下、彼女の実況をお聞きいただこう。
「人がものすごく多いです。木戸さんは黒のコートに白いマフラーをしています。一人っきりで
す。秘書さんもいません。あっ、大きなツリーに向かっているみたいです。誰かと待ち合わせし
ているんでしょうか。手を振りました。女性です!和服姿の女性が立っていて、やはり手を振り
ました。あれは……少し前に週刊誌に出ていた花街の芸者さんのように見えます。木戸さん、
ちょっと小走りになって近づいていきます。…今、お互いに手を伸ばして軽く触れ合ったみたいで
す。(略)二人連れ立って歩き出します。木戸さんが先に立って、三歩離れた辺りを女の人がつ
いていきます。ものすごく絵になる二人です。周りの人がだいぶん見てますね。木戸さんだとい
うことにはたいていの人が気づいているようです。写メで撮ってる人もいます。(略)タクシー
を拾いました。発進します。混んでいるのでスムーズにはいきません。行き先は分かりませんが、
八条口出口を右手に向かいます。」
以上を手がかりとして、我々は京都駅周辺に緊急警戒網を敷いた。幸いなことに、その後も何本
かのタレコミ電話があり、木戸氏と連れの女性が国内でも指折りの高級ホテルに入っていったこ
とが分かった。すわ、お泊りか!?という下世話な想像は後に置いておくとして、この時間なら
ばやはりホテル内のレストランでディナーとなるのであろう。どうにかして内部に潜り込みたい
とホテル側と交渉したが、けんもほろろの対応である。しまいにはロビーからも締め出されてし
まった。
ともかく、今話題の人物がこのホテル内にいることは間違いない。我々はホテルの人の出入りを
往来から監視し続けた。
お泊りなら、二人が出てくるのは明日の朝かと思われた。が、午後十時過ぎ、一人の監視員から
連絡が入った。木戸氏と連れの女性がロビーに出てきているようだ、というのである。車の中で
軽食をとっていた記者とカメラマンはただちに現場に急行した。
計ったようなタイミング。ホテルの敷地からちょうど一組のカップルが公道に姿を現したところ
だった。
「木戸さん!衆議院議員の木戸孝允さんですね!?」
記者が大声で呼びかけたのに対して、氏は顔を上げて少し微笑んだ。タレコミ情報にあった通り
のファッション。連れの女性は紫を基調とした和服にいかにも上質の襟巻きをしており、それに
小さな白い顔を隠すようにして、終始控えめだった。
「そちらの女性は、最近本命として噂になった幾松さんじゃありませんか?お付き合いなさって
るんですか?」
その時、ホテルの敷地内から一台のハイヤーが出てきた。さらに後から屈強なガードマンが。客
の送迎にしては妙だと思っていると、木戸氏らの前でそのハイヤーは止まり、ガードマンがドア
を開けるために近づいた。どうやら氏らはここで乗車するようだが、ある程度の大きさのホテル
ならば車の乗り降りは敷地内の正面玄関前にて行うのが普通だ。
「木戸さん、お話いいですか?木戸さん。」
記者とカメラマンは急いで車に近づこうとする。が、ガードマンがこちらを阻むようにして立つ。
なおも木戸氏に対して呼びかける記者らの前で、氏は微笑みを浮かべながら静かに連れの女性
の手を取った。そしていかにも親密そうに囁きかけると、彼女を先に車に乗せたのである。
「木戸さん!お付き合いしてらっしゃるんですか!?」
何度目かの記者の問いに、氏はどこか憐れむような笑みを浮かべた。それは、そんなことは見て
分かるだろう、と言わんばかりのものだったという。記者は確信した。こうしてわざわざホテル
の敷地外で車に乗ったのは、この光景を我々に見せんがためであったのだ。無言と微笑の内に、
氏は我々に対して堂々たる交際宣言を行ったのである。
カメラマンが何度もフラッシュをたく。その中を、氏と女性を乗せた車は悠然と去っていく。記者
も急いで車を出したが、折から振り出した雪と、視界を幻惑するイルミネーションのために、ほ
どなく姿を見失ってしまった……。
さて、“クリスマスプレゼント”発言で政界を揺るがし、今回また別の方面から世間にお騒がせ
の種を撒いた木戸氏だが、某テレビ局の新春の特別番組に大物ゲストとして登場する予定だ。共
演には、薩摩党幹部の大久保利通氏が予定されている。新年そうそう、政界のプリンスの一挙手
一投足に世間の注目が集まりそうだ。

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テレビ局前で報道陣に囲まれ、井上、広沢、果ては党首からと立て続けに電話をもらい、木戸は
少々辟易している。それほど現在の党内が、自分の一挙手一投足に対して過敏になっているとい
うことだ。正月に放送されるこの番組も必ずチェックされるのだろうなと思うと、下手なことは
言えない、いっそのこと一言も喋らないでいてやろうかと、今日の討論相手の顔を思い浮かべつ
つ投げやりに思う。もともと、あまり乗り気ではなかったのである。
「おい、品川。」
あてがわれた控え室で、秘書代わりに連れてきた一年生議員の品川弥二郎に声をかける。
「ちょっと出てくるから。」
「トイレですか?」
「年末年始の特別番組撮影ラッシュで、あっちこっち女優やらモデルやら、綺麗な女(ひと)が
歩いてるんだよ。絶対何個かアドレス持って帰ってやる。」
「……そのへんで大久保さんに会いますよ。」
「そっちも目的だ。お前も来るか?」
「あの、急に僕を随行させたのは、何かお考えあってのことで?」
「昨日、大久保に電話してな。」
「ええ?」
「携帯、変えてなかったんだなあ。」
「あ、あの……。」
「向こうも一人、同僚の議員を連れてきている。」
「…………。」
「黒田清隆。」
「ああ、同じ一期目の。」
「お前、俺と大久保が番組収録してる間に、その黒田とコンタクトを取れ。相手をよく見て“話”
ができるやつかどうかを確かめろ。」
じっと自分に据えられた木戸の目が、あらゆる事情を物語っている。品川はだいたいのことを察
した。それができる男と見定めたからこそ、木戸は彼を選んだのだ。その通りだ、と相手の心を
はっきりと見透かして、木戸はゆっくりと頷いた。
「しばらくは、間に坂本竜馬を挟むつもりだ。彼にも近く会わせよう。」
「木戸さん、不安が多いんですが。」
腹痛でも抱えているように、品川は顔を歪めた。
「俺も不安だ。ああ、せめて今日の討論の相手が女性ならよかったのに!」握っていたドアノブ
を回して、木戸は廊下に一歩を踏み出した。「あっ、今ちらっと見えたの女優の○○じゃないか。
ちょっと行ってくる。」
一人残され、品川は腹をさする。
「何だかんだで、図太さもあるんだよな、あの人は……。ああ、トイレ行きたい。」

討論の相手は大久保利通さんです、と伝えられた瞬間、個人としては会いたくないと思い、政治
家としてはぜひとも会いたいと思った。自ら望んで組織に属し、為すべきこと、為さねばならな
いことをはっきりと位置づけている男が、後者の立場を優先したのは無論のことであった。よろ
しい、と至極上品な言葉の調子で番組への出演依頼を受けた時には、彼の頭にはすでに、品川を
それに同行させることと、何としても大久保に連絡をつけることの両方が、すでに必然のことと
して計画されていた。
大久保への電話をするには、それでも二、三分の気持ちの整理が必要だった。過去と現在を分析
し、自分達は異なる野党にあって、それほどの個人的付き合いもない、ただ一つの目的のために
手を組めば偉大なる変革を起こし得る、そうした可能性を秘めた政治家同士である、というよう
なことを自覚する。それ以上、長い時間を整理に費やすことはない。瑣事(さじ)にこだわるこ
とは、結局は全体を乱すことに繋がる。
アドレス帳を見ながら番号をプッシュし、後は大久保に繋がるかどうか。繋がらなくとも、他に
伝手(つて)は幾らでもある。人脈というのは予測できない、不思議な繋がり方をしているもの
である。
鳴り続けていたコール音が、ぷつりと途切れた。すぐに男の声が聞こえた。大久保は、木戸に教
えた番号を使い続けていた。
「あー、大久保さん、こんにちわ。」
「ご無沙汰しております。」
「木戸ですけど。」
「画面に出てたので、知ってますよ。」
「あっ、そうね。」
暫時(ざんじ)沈黙。木戸は言葉を考えて、自分のペースで話し続けた。
「明日の収録は、お願いしますよ。あなたとは討論らしい討論をしたことがない。昔やってた勉
強会では、確かだいたい意見が合ってたようだから。」
「今の時点でも、それほど大きな違いはないでしょう。明日は何を討論するのか。まあ、例の話
なんでしょうが。」
「……大久保さん、そのことで実は少々お話がありましてね。」
「西郷とのことなら、全て聞いておりますが。」
ははは、と笑おうとして木戸は止めた。強がっているようで、惨めさの演出にしかならないと感
じた。
ふん、と木戸は鼻先で何かを小馬鹿にするように笑った。
「貴方は労せずして一つのカードを手に入れたわけだ、大久保さん。考えてごらんなさい。野党
の幹部が独断で他の野党と統一会派を組むことを目論んで、相手方との接触を計ったが直前になっ
てふられた。こんなみっともない話はありませんよ。僕は恥を知っているから、そんな話が表
に出てくるのは何としても防ぎたい。」
また暫時の沈黙。
「……今、その話が表に出たら、僕の党内での求心力は確実に弱まる。と同時に、長州、薩摩両
党が手を組むという話は遥か遠景に退くだろうと思いますよ。」
「貴方は、わたしが薩長の連盟を望んでいるとの前提に立ってお話をされているようだが。」
「貴方は野党の人間であり、現政権打倒を目指している。そのために何が必要か。よくお分かり
になっているに違いない。」
「過分なお言葉……。」
木戸は、目の前に大久保がいないことを歯痒く思った。目を見れば、もっとより的確に相手の心
中を読み取ることができるに違いなかった。長州との連盟を、大久保は理性的に欲しているはず
だ。その確信を、まだ完全に得ることができていない。
「魚心あれば水心。」
木戸は呟いた。受話器の向こうで、大久保が小さく笑うのが聞こえた。
「何です。」
「いや、それを貴方が言うのかと。」
「長州は……。」
「過去の私的なことをあれこれと言うつもりはありませんよ。魚心あれば何とやら、ですか。前
提として、一方が魚(うお)であり、もう一方が水でなければいけないということですね。」
「今の我々は、まさにそうでしょう。互いに互いを必要としている。わたしは……歩み寄る用意
がある。」
「党内をまとめきっているわけではないでしょう?」
「事が成れば、その衝撃の大きさに小異はなぎ倒される。もはや誰にも止めることのできない巨
大な流れが生まれる。」
木戸は、固めたこぶしで床柱を強く叩いた。
「貴方には分かるはずだ。我々が、長州と薩摩が手を組むことがいったい何を意味するか。この
国の歩みが大きく変わる。権力の頂点に、我々が立つのだ。何のために政治家をやっている?国
家という巨大な有機体の、頭になるためじゃありませんか。」
「答えは決まっている。その通り。木戸さん、政権与党には一度すっかり死んでもらうのがいい。
新しい政権には、現在の野党のみを入れる。入りたくない、という党にはできるだけ潰れても
らうのがいい。その際、大きな党同士で潰しあうことは、政界の勢力図をいたずらに乱すだけで
あまり益がない。我が薩摩、貴方の長州、いずれも他党に影響を与え得る立場です。」
「……明日(あす)、会うわけです、我々は。」
「さすがに収録後に食事などすると、うるさいですかね。」
ふっと木戸は笑い、大久保も笑顔でいるのか、伝わってくる雰囲気が柔らかい。
「誰でもいいんですが、“お使い”のできそうな議員を一人、連れてきてくれませんか。いろい
ろと動いてくれる、有能な駒が要るでしょう。」
「今ぱっと浮かんだ顔があるので、それにしましょう。黒田清隆、ご存知ですか?」
「一年生のね、うん、知ってますよ。」にやにやと木戸は笑った。「大丈夫ですか?酒が入ると
大したものだと聞いてますよ。」
「大したもの、ならいいじゃありませんか。ま、この“お使い”中は禁酒でもさせておきましょ
うかね。」
明日の討論をどのようにこなすか、当然のように心得ている二人はただ簡単な打ち合わせをし、
明日を楽しみにしていると、別段飾り立ててもいない平凡な挨拶で、一連の会話を締めくくった。

この日テレビ局内で、収録の場とは別に二人で話をする機会はあってもなくてもよい、と木戸は
考えていた。収録後には、いっさいの詮索を許さないためにも、お互いすぐ地元なり講演先なり
に出発しようと決めていた。
個人的な趣味の範囲でやりたいと思っていたことはだいたいし終えて、そろそろ控え室に戻ろう
かと、その前にはやはりトイレに行っておこうかなどと思いながら、廊下を歩いていた。すると
前方から、テレビ局のスタッフらしき女性がどうやら木戸めがけて慌しく駆けてくる。
「ああ、もしかして時間?」
「はい、いえ、まだ始まるわけではないんですが、最後の打ち合わせということで、司会者も交
えて。」
「じゃあ、ちょっと部屋に戻ってから、場所は分かってるんで一人で行きますよ。」
「お願いします。」
「わざわざ、ありがとう。」
にっこり笑って手を振って見送る。その言葉の通りにいったん部屋に戻り、どことなく青い顔で
腕組みしていた品川に声をかける。
「おい、終わったら飯食いに行こう。何食べたいか考えとけ。」
そしてあらかじめ案内されていたスタジオに向かう。その途中で、同じくスタッフに呼ばれてい
た大久保に会ったのである。やあ、やあ、という挨拶もそこそこに、お互いどちらからともなく
低い声になって言葉を交わす。
「数年ぶりにこんな近くでお顔を拝見しました。」
「そう?まあ男同士で感慨もないですけど。その髭(ひげ)、結構似合うんじゃないですか。」
「お褒めの言葉をどうも。貴方は相変わらずの色男ぶりで……。」
「ああ、よしましょ。気持ち悪い。男同志で容姿の褒め合いもないですよ。」
「そうですか。」
何か面映いような沈黙が、わずかの間(ま)落ちる。
「今は、クリスマスプレゼント、ですか。」
「何です?」
「ということは、半年もしてこの話がまだ続いていたら、その時には木戸さんへの誕生日プレゼ
ント、なんて感じに変わってるわけですか。」
木戸は少々面食らった顔をする。
「何か用意しておきますよ。」
「それは、政治的な意味で……。」
「どうですか。」
「…………。」
廊下を歩く二人の靴音が重なる。政治家であるからきちんとスーツを着て、靴はもちろん皮革製
である。木戸の方が、あきらかに高くてよいものを履いている。
「そうだな。結婚のお祝い、とか何かにしといてください。」
「おや、結婚なさる。そういえば週刊誌に出てましたね。」
「もういい歳ですから。」
「幾松さんには何度か酒席に来ていただいたことがある。素晴らしい女性です。そうですね、結
婚のお祝いは彼女にあげましょう。」
「僕には?」
「ひとりの女性が他に幾らでも男がいる中で、貴方を選んで嫁いできてくれるんですよ。いつも
の貴方なら、それ自体が僕にとって人生最高のプレゼントだ、とか何とか言いそうなもんですよ。」
木戸は納得せざるを得ない。
スタジオの入り口が見えてきた。声を低くするのに加えて、彼らの口調は早くなる。
「貴方は、我々が権力の頂点に立つのだ、と言った。いい響き、また、いい眺めでしょうね。」
「そこにたどり着くまでには、しかし嫌なものも多く見なければならないでしょう……。」
「新しい国を造る、そのためには必要な犠牲もあります。」
「分かってますよ。大久保さん、ここからはちょっと離れて歩きましょうか。」
「どうぞ、先に。」
そう言うと、普通は相手の背を押すところを、大久保は木戸の手に軽く自身の指を絡めて前方に
引いた。互いの体温がダイレクトに伝わり、木戸の体が一瞬強張る。どうしてそこに触れるのか、
という面持ちだ。が、大久保はその内心の問いを分かっていながら答えない。無言で手を離す
と、後ろに下がった。
「ああ、お二方。」
スタジオに入ると、二人の討論を仕切ることになっているベテラン司会者が、歩み寄ってきた。
大勢のスタッフの注意がいっせいに彼らに向けられる。後ろの大久保に多分に気を取られながら
も、木戸はごくごく無難な笑顔を浮かべてみせた。
「ああ今日は、皆さん、よろしくお願いします。」
スタジオ全体に響き渡ったその声に、誰もがどこか嬉しげにしながら、よろしくお願いします、
と言葉を返した。

「日本(にっぽん)国民の皆様、あけましておめでとうございます!今日は一月の三日、三が日
最終日でございます。明日は仕事始め、という方も多いと思います。そこで本日この時間は、明
日の日本を考える!と題しまして政治家の皆様方に丁々発止、議論を戦わせていただきたいと思
います。まず第一弾、いきなり大目玉でございます。年をまたいで世間を騒がす“クリスマスプ
レゼント”なる言葉。その言葉の出所たる長州党大幹部の木戸孝允氏、そしてその言葉を向けら
れた先と目される薩摩党、こちらも中心人物であります大久保利通氏。どんな話が飛び出すのか。
目の離せない大注目の一騎打ちで、まずは番組をスタートさせて参りたいと思います。という
わけで、お二方、どうぞ本日はよろしくお願いいたします。」
司会者の声が響き渡る。木戸は卓を挟んで三メートルほど先にある大久保の顔をじっと見つめ、
大久保は腕組みして目を閉じていた。
「木戸さん。」
「はい。」
「大久保さんとはだいぶん久しぶりに会って話をするんだ、とおっしゃっていましたが。」
「ええ、だからとても楽しみにしています。」
「そうですか。大久保さんは。」
「まったく同じく。楽しい時間を共有したいと。」
司会者は深く、深く頷いた。
「お二人が楽しみにしている、そして我々日本国民の全てが楽しみにしている本日のこの討論、
CMを挟んで、お送りしたいと思います。ニッポンはどこへ向かうのか!その鍵を握る二人の激突
は、この後、すぐです……!」




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