「春先の冷たさ」2


草色の暖簾をくぐって現れた白鴉に、紅虎は陽気な声をかけた。
「おはようさん。ええお日さんが出てるなあ。」
「よく晴れましたね。」
軽く表を見やるようにして、白鴉は、暖簾一枚隔てても十分に強い明るさをもった日差しに目を
細めた。その表情が柔らかかったのか、計らずも彼が背負うことになった日差しが柔らかかった
のか、判然としないが、紅虎たちには彼が今日はとても機嫌がよいように見えた。横向きで上向
き、という顔の角度も珍しかった。
「賃銭(ちんせん)受け取ってきたんか。」
「ええ。」
白鴉は頷いて、紅虎たちが囲んで座っていたのとは別の卓を前に椅子に腰を下ろし、懐から白い
紙包みを取り出した。形といい、小振りながら重さのあるらしい厚みといい、思わず、といった
様子で男たちが立ち上がったのも無理はなかった。ただ、紅虎だけは笑顔を見せたのみで、その
場から慌てて動くようなことはなかった。
「ええ感じの厚みやなあ。」
にこにこと頬杖をつく紅虎と、包みを広げてみせる白鴉を中心にして男たちは輪をつくる。
「今回の報酬の総額は二十六両。わたしの方とあなたの方とで出した戦力はほぼ同等ですので、
均等にわけます。お互い十三両ずつ。否やはありませんね?」
「おお、ないよ。」
紙に乗せて差し出された一両金貨の束を、紅虎は手に取って数えた。
「十三枚。間違いなく。」
「お頭、どういうふうに分けるんですかい?」
両手を卓上について、楽しみを待ちきれない子供のように足元をうずうずさせながら、紅虎の部
下のひとりが尋ねた。
「こっちから参加したのは、ええと……わい入れて十二人か。そしたらちょうどええやんか。わ
いはお頭やから一両多く貰うっちゅーことで、ほい、この十一両、みんなで一枚ずつ分けえや。」
「ひとり死んでますよ。」
「あっ、そうか。それやったらその一両を銀に換えて、まあ適当にみんなで分けえな。お前もま
ず、銀に換えてきいや。」
後ろを振り返って紅虎は言った。そこには借金持ちの若者が、大金を前にぽかんと口を開けて立っ
ていた。頭(かしら)に急に声をかけられて、慌てて頷く。
「それでちょっとでも借金返してなあ。花街に探索に行くんはわいが出したるから。」
「い、いいんですか?」
まずもって若者は、その件を紅虎が記憶していたことに驚いたらしい。
「当たり前やんか。そうせんとお前、どうやって行くねん。」
「そうですけど……。」
紅虎が当然のように言うのが、若者にとってはますます思いがけないことであり、また素直に嬉
しくもあり、しだいに顔が綻んでいく。「すいません、ありがとうございます。」やがては素直
な嬉しさと、また想い人に会えるかもしれないという、これまでの経緯はともかくも置いて、目
先の単純な期待感から、若者は深く、勢いよく頭を下げた。
「おっ、ということは、どのみち今夜はみんなで豪遊というわけですか。」
「そんなら、この金はともかく頭に預けときましょう。」
十一両を紅虎から受け取っていた男が、それを再び頭の手に戻す。
「何や、ええんか?今夜一緒に行かんやつには渡しとくで?」
ぐるり見渡し、紅虎は確認を取る。が、ひとり残らず構わないといった様子だ。昨日の襲撃に加
わって、今この場にいないのは、死んだひとりを除けばあと二人いるが、そのふたりも行くこと
は請け合いだとみなが言うので、それならばと紅虎は大金を元の通りに紙に包むと、懐に収めた。
一連のやり取りがひとまず収束するのを待っていたように、白鴉が口を開いた。
「ところで、わたしがこの店に来た時にあなたが持っていた、今はその懐にある封書のようなも
の。血がついているようですが、昨夜の?」
「お前はほんまに目ざとい。」
驚きよりは呆れをその顔に表しながら、懐に手を突っ込んで紅虎は一通の封書を取り出した。掠
れた血の跡がある他に、一度全体に水を吸い込んだようにごわついて見える。
「昨日、屋根の上で殺した相手が握り締めとったんや。ここの、特に皺になってる部分をこう持っ
て……。」
「何か書いてありますね。見せていただけますか。」
「それ名前やねん。差出人の、つまり昨日死んだ男の名前やと思うけど。」
「……まだ封を切っていない。これを、どうするつもりで?」
「いや、どうしようかなあっていうことをみんなに言うてて……ってあーあ、開けてもうた。」
白鴉が姿を見せるまで、紅虎たちはこの手紙をどうしようかということを、内容に関する当て推
量など交えつつ、それなりに真面目に話し合っていたのであるが、結論は出ないまま、封を切る
ということもしないまま、要はそれを手に入れた当初の状態のままにしておいたのである。
「それをな、お前、そんなあっさりと……。」
「名前ひとつでは判断のしようもありませんよ。」
「そら、最後にはわいらかて封切ったと思うで。でも仏さんには何となく遠慮するやんか。もし
かして女に宛てた手紙かなあ思(おも)たら、関係ない人間がわいわい言いながら読むのも野暮
やし。」
口を尖らせて何となく消化不良といった様子の紅虎をよそに、白鴉は書簡を広げて、長さ三尺ほ
どもあるそれに目を通す。やくざな稼業をしていた男が、これほどの紙面を埋め尽くすだけの文
字を知っていたというだけでも驚くべきことである。
「何が書いてあるん?」
「…………。」
「なあ、なあ。」
幾つかの文字は見えるものの、内容は掴めない。同業者に宛てた事務的なものなのか、女に宛て
た艶文なのか。
尻の方まで目を通したと思(おぼ)しき白鴉は、思案を巡らすような、心ここにあらずといった
ような表情をほんのわずかの間(ま)見せてから、おもむろに、手紙を元の通りに巻いて状袋(じょ
うぶくろ)にしまうと、紅虎に向かって全体に含みのある調子で言った。
「あなた、今夜は花街で豪遊でしたね。」
「探索に行くねん。」
「わたしはまだこの町の花柳には足を運んだことがないのですが、あなた、飛天屋というのがど
こにあるかご存知ですか?」
「おお、知ってるで。あそこは二番目にでっかい店や。一番の売れっ子は十七歳の……。」
「その娘に用がありましてねえ。案内していただけますか。」
「へ?」
「“探索”のついでに。」
「…………。」
白鴉は、例の手紙を懐にしまった。元より紅虎のものではなかったが、白鴉が所有を主張すべき
ものでもない。
「その娘(こ)に会(お)うてどうするん……。」
「同席なさっても構いませんよ。いや、そのほうが都合がいいでしょう。」
「誰にとって都合が……おい、どこ行くねん。」
「すぐに戻ります。」
「…………。」
白鴉は店を出て行った。紅虎は考え込みながら、本来仲間たちとともに囲んでいた卓に向き直り、
酒杯を煽った。立ち上がっていた連中も元の椅子に腰を下ろし、箸を動かしたり銚子を傾けた
りしていたが、頭が静かなので得手勝手に会話を進めていくこともできない。そのうちひとりが、
どこか取り繕うような感じで件(くだん)の若者に問いかける。
「そういやお前、今夜探そうってえ女はどんな顔してんだよ。」
「えっ、そうですね、どちらかというとまるっこい顔で、頬骨に険があります。目が大きくて涼
しげで、雪の日に出会ったからというのもあるんでしょうけど、お日様の光が雪面に反射するみ
たいにきらきらしています。睫毛を伏せた時の陰がものすごく濃いです。額が広くて、富士額と
いうんですか。それと唇が紅くて、こう、ちょっと拗ねてるような、前にじゃっかん突き出てい
るような感じです。」
「年齢は十七、八だっけ?」
「そうです。あっ、それと喋り方は舌足らずです。」
「体はでかいのか、小さいのか。」
「女にしては丈がありますが、細身で、肩なんて三寸くらいしかないし、手首は大刀の柄よりひ
とまわりは細くて、折れそうでした。」
ふたりの人間が淡々と交わす会話を、紅虎はしっかりと耳に入れていた。うつむき気味だった顔
を途中から起こし、見過ごすことのできない重大な事実に気づいたように、視線を空中のある一
点に釘付けにする。そうして、若者の描き出す女の容姿に、はっと表情を変えたのは、紅虎だけ
ではない。
「お頭、もしかして……。」
「その可能性はあるな。」
視線を宙に縫いとめたまま、紅虎はいかにも困難な壁に突き当たったように唸り声を上げた。
「あの、どうしたんでしょうか。」
若者を含めた若干名には、何も思い当たることがない。
「いや、お前の話聞いててな、もしかしてあの娘(こ)かなっていうのが出てきたんや。」
「ほんとですか!……あっ、やっぱり花街の……。」
「うんまあ、そうやねんけど。でも似てるだけいうのもあるしな。まあこれから、会いに行った
ら分かるから。」
は、はい、と若者は頷いた。顔色が一瞬の内に赤くなったり青くなったりした。しばらくすると、
すっかり青くなってうつむく。
「どしたん。」
「緊張してきて、気分が……。」
右手で腹をさする。はは、と紅虎は笑い、店の奥に向かって呼びかけた。
「亭主。水や。」
まるで待ち構えていたような素早さで、硬そうな髭を蓄えた強面(こわもて)の男が、春らしい
桜色の湯飲みを持って出てきた。

太陽が西に大きく傾き、町全体が茜色の光に包まれる。小川をまたぐ橋のたもとや、四辻の中ほ
どなどに生えた桜の木はまだようやく三分咲き程度で、空を渡る風が時折りその薄紅の花弁をい
とおしむように撫でていくのに、身を縮めて、怖々と、どこか恥ずかしいらしく揺れている。
「あと十日くらいで満開かなあ。」
今、紅虎たちが歩いている通りには、ことに桜の木が多い。これが満開になり、宵の口、色とり
どりの燈篭(とうろう)が家々の軒先にぶら下げられる中を、二階の欄干から、婀娜(あだ)っ
ぽく着物を着崩した女たちが白い腕を伸ばし、吹き散らされる桜の花弁を掬い取ろうとする様は、
実に幻想的であろう。
「紅虎、まだですか。」
「ああ、あの店や。いち、に、さん……五個目。正面いったら門構えがでっかいのがよう分かる
で。」
出かけた当初は並んでいたのが、気づけば二、三歩も距離があいている。小走りして再び肩を並
べてきた紅虎に、白鴉はじゃっかん顔を寄せて尋ねた。
「あの若者には、まずは別室に隠れていてもらえませんか。わたしが別件で話をしている間に、
相手の女が彼の恋い慕う相手かどうか確認し、外れならば遅れた振りでもして入ってくればいい
ですし、当たりならばしばらくそのまま隠れて、そのほうがいろいろと情報を聞けるでしょうし
ね。わたしのほうでも多少そうした方向へ会話を持っていってもよろしい。とにかく、最初に話
をするのはわたし、ということでお願いしたい。」
「そうやな。いきなり当たりやと、あいつ取り乱すやろうしな。」
「ひとりかふたり、付き添いも置いたほうがいいですよ。荒っぽい行動を取ることのないように
お願いしたい。」
「分かった。……お前、あの手紙持ってるん?」
白鴉は無言で懐を探り、書簡をちらりと出してみせた。状袋が新しくなっていることに紅虎は気
づいたが、指摘しない。
「ああ、それを渡すんや。ということは、あの娘(こ)が本気で好きやって言うてたんは、昨晩
わいが斬ったあの男やったわけか。何か複雑やなあ。」
「本気で好き、とは……。」
白鴉は素早く反応した。手紙を取り出し、振ってみせる。
「この男のことを本気で好きだと、これから訪ねる女が言ったのですか?」
「いや、その男っていうか、今めっちゃ好きな人がおって、その人のこと考えてたら胸が苦しゅ
うなって死にそうになるって。名前言わへんから、もしかして婉曲なやり方でわいに告白してる
んちゃうかなあとか思たんやけど……。」紅虎の相好がだらしなく崩れる。が、次の瞬間には首
をポキリと折って沈んでみせる。「……けど、違ったみたい。」
手紙を口元にあてて、白鴉は思案顔だ。慎重な性格だが、様々な要素を整理した後の決断は早い。
目的の店に着く直前には、小声で早口に紅虎に言った。
「あなた方も、最初は別室に隠れていてくれませんか。まず、わたしひとりで女に会いたい。理
由は後で話しますが、あなたは勘がいいので、途中で察していただけるのではないかとも思いま
すが。」
白鴉の言葉に紅虎はにやりとする。
「今のところはさっぱりやけどな。」
「……隣室ではお行儀よく。」
牡丹色に染め抜いた暖簾を跳ね上げ、白鴉、紅虎に続いて部下たちが、総じて浮かれ調子で入っ
ていく。

カサカサと、乾いた紙の触れ合う音だけが響く。滑らかに脂肪ののった女の手から繰り出される
には、まったく不似合いであり、だまし絵を見せられているような奇妙な心地さえする。左右の
隣室は静かであり、往来に面する仕切りも閉じられているため人のさざめきも遠く、ただどこか
らか細く三味線の音が流れてくるばかりだ。
「そうですか……。よくは知りませが、何でも仲間同士だったはずのやくざな連中が、一派を割
るだの何だので昨晩えらく大騒ぎしたそうですね。死人もたくさん出たとか。まさか、この人ま
で亡くなっていようとは……。あまり、どんな仕事をしているのかなんてことは、聞いていなかっ
たもので。」
「お悔やみ申し上げます。」
女は耐えきれぬように、袖で顔の下半分を覆いながら、すすりあげた。
「それで、あの人の遺骸はもう処分されてしまったのでしょうか。」
「残念ながら。」
「もう、一目もお会いすることはかなわないのですね。」
「ええ。それで、あなたにはお詫びをしなければならない。その手紙に書いてあることは知りま
せんが、あの男が、あなたを身請けしたいらしく思っていたことは知っています。大変に金のか
かることですから、現実にはなるまいと思っていましたが。その手紙は、おそらくその件で……?」
「ええ、近い内に金がそろうので待っていてほしいと。」
「そうですか。しかしそれほどの大金どこで……あの男は、これまでにもあなたのために大変な
額を費やしたのでしょう?」
「ええ、その……。」
「あなたにこういった話をするのは心苦しいが、あまり出所の知れない金です。できれば万一の
時のためにそのまま置いておいたほうがいいのではないかと思うのですが、もうお使いになって
しまいましたか?」
「ええ、何かと、物入りなことがありまして……。」
「まあしかし、あなたなら、いざという時には援助の手を差し伸べてくださるかたが大勢いらっ
しゃるでしょう。……さて、わたしはこのへんでお暇(いとま)します。せっかくの稼ぎ時を潰
してしまって、申し訳ない。」
「いえ、いえ。」
彼らはほとんど同時に腰を上げた。飾り立てられた女の髪は、天井まで届きそうに思われた。そ
うでなくとも、女にしては丈が高い。
「あなたのような美人を身請けしようとは、あの男も分不相応なことを考えたものです。大金を
手に入れようと危ない橋を渡って、結果として命を散らした。馬鹿な男です。最後に一点、お聞
きしますが、あなたはその馬鹿な男の気持ちに応えようというつもりはあったのでしょうか。」
「あの男(ひと)は優しくて、本当にいい方でした。わたくし、お慕い申し上げておりました。」
袖を手の中に握り込み、顔を背け、目元を拭う。耳が少し赤くなり、全身に震えが走る。
「不用意なことをお尋ねしたようです。……御免。」
襖を開け立てする音が滑らかに響いて、部屋にひとりきりになると、やがて女は持っていた手紙
を状袋とともに二つ折にして、懐にしまった。おもむろに上げた顔は、目元の化粧が崩れていた。

白鴉がその部屋を出てきたのと、紅虎たちが隣室から出てきたのとは、ほぼ同時だった。彼らは
ろくに視線を合わせることもせず、むしろ伏せ目がちに互いに歩み寄ると、廊下の中ほどで落ち
合った。
「お前は疑うてるわけやな?あの娘(こ)のこと。」
「別に、構わないのですよ。あの女が、誰を好いていようと。ただ、あの女に渡った金の行き先
が問題でしてね。」
「行き先?」
「当人が使ったというなら分かりやすい話。ですが、あの女が本気で好いていたという男、それ
が、昨日死んだ男でなかったとしたら。」
「金は、そのほんまに好きやったっちゅーやつにまるまる流されてた可能性があるわけや。」
「ええ、その通り。」
最大限に音量を落としているにもかかわらず、流れてくる三味の音に決して紛れることのない明
瞭な、淡々とした声のやり取り。常にそうした話し方をする白鴉はともかく、紅虎までもが何か
ひどく冷ややかな調子であることに、後ろに従っていた数名の部下たちは肝を引き絞られるよう
な感覚を味わった。
「それで、これから行ってわいはこう尋ねたらええわけや。相変わらず、惚れた男のことばっか
り考えてるんか……って。」
「ええ。」
「もし元気に笑って答えでもしようもんなら、それはまだ男が生きてる証っちゅーわけや。」
「その場合、金の流れを聞き出してもらいますよ。」
「その金っちゅーのは……。」
「それが分かれば、我々にも幾らか入る可能性があります。ところで、あの若者はどうしていま
すか。もう女の顔は見たのでしょう?」
紅虎は頷いた。
「当たりや。」
「そうですか。」
袖にふわりと風を孕ませ、白鴉は歩き出した。
「隣の部屋にいてください、まだ。あの女には化粧を直す時間が必要です。」
「……なあ、あれはほんまに泣いてたと思う?」
「そうだと思いますよ。」
「泣きの演技?」
「どうですか……。」
白鴉は、足を速める。その後姿と女のいる部屋を交互に見ながら、とりあえず、元の部屋に戻る
ために紅虎たちも踵を返した。

どやどやと部屋に入ってきた男たちを、装いを凝らした女たちが迎える。白く塗った顔はどれも
艶冶な笑みを浮かべ、ことに中央に座する女の微笑み、佇まいといったら、男に対する媚と同時
に、その骨の髄までしゃぶりつくしてやるのだと言わんばかりの獰猛さを身内には秘めているよ
うな、そんな抜きがたい毒気を帯びて、実に目をそらしがたい。並大抵の男ならば、あっという
間に魂まで食われてしまうように思われる。
「久しぶりやなあ。」
飛びつかんばかりの勢いで、紅虎はその女のもとへ馳せた。
「元気やった?」
「ええ、とっても。」
高く結った黒髪を自慢げに翻し、女は硬質な笑みをその唇に上せた。
「綺麗やな、相変わらず。」
「どうも。御酒は召されますか?」
「もちろんや。」
紅虎が立ち上がると、途端に女たちの顔が引き締まり、いっせいに左右分かれて脇に退(の)く。
彼女らの狭間の畳は、単なる畳であっても何やら艶やかに思われ、そうしてできた束の間の廊
下を渡り、紅虎は上座に設えられた唯一の席についた。そのそばに、まるで最初から寄り添って
いたかのように、いつの間にやらぴたりと女が付いている。
銚子を持った、艶(なま)めくような白い手を、すらりと紅虎の前に差し伸べてきながら女は言っ
た。
「ところでその腕は、どうなさったんですか?」
「ん?」
「腕、怪我をされてるじゃありませんか。」
「おお!」
初めてそれに気づいたように、紅虎は驚きの声を上げた。利き腕ではないほうだから、今まで何
をするにもあまり使わず、不便を感じずにいた。
「そうや、そうや。」
「どうなさったんです?」
しっかりと黒く引かれた女の眉が、不安の色を滲ませて寄せられる。
「何や、心配してくれるんか。おおきに。」
「男の方は血の気が多くて、すぐ喧嘩だとか何とか、物騒なものを持ち出して騒いだりなさるで
しょう。ほら、昨夜も大きな騒ぎがあったというじゃありませんか。」
「おお、知っとるで。ぎょうさん人が死んだらしいな。」
「もしかして、その場にいらっしゃったとか……。」
「いや、いや。」
「だったらどうして?虎さんはお強いんでしょう?ご自分でおっしゃってたじゃありませんか。」
「うん、強いよ。そやから、これは人につけられたもんとちゃうんや。」
女は小首を傾げた。
「これはな、犬に噛まれたんや。」
「犬!」
その瞬間だけ、女は童のように瞳を輝かせた。
「まあ、おかしい!」
「こんくらいの真っ白い犬でなあ。あんまりかわいかったから撫でたろ思て手伸ばしたんやけど、
野良は警戒心強いから、いきなりがぶっ、や。」
「どんなふうになってるんです?」
「そんなん見たいん?怖い娘(こ)やなあ。」
「だって……。」
口元を袖で覆いながら、肩の震えは隠すつもりもないようだ。涼やかな鈴の音のような笑い声は、
いっこうに収まる気配がない。
未使用の猪口に酒を注いで、紅虎は女に渡してやった。女は頭を下げ、上げながら、一息に飲ん
だ。
「ああ、美味しい。」
頬がほんのり色づく。
「ご機嫌さんやな。」
「これは笑いすぎて息が苦しくなったから。」
紅虎は重ねて酒を注いでやりながら、体を傾け、女の顔を覗き込んだ。
「何です?」
「めちゃくちゃ幸せそうやん。」
うふふ、と女は笑った。
「好きな人がおるって、ええなあ。」
「何ですか。」
「ええなあ、って言うてんねん。ずーっとその男のこと考えて、にやにやにやにやしとんのやろ。」
「いいえ、いいえ!」
着物の袖を握り締めて、女はパン、パンと畳を叩いた。先ほどよりも濃くはっきりと、その面上
には紅色の花弁が散っている。怒ったようにつんけんとした顔になりながら、弱気の混じったよ
うな、震えを帯びた声でしかし懸命に訴える。
「わたし、お客さんのいらっしゃった時にはちゃんとその方のことだけを考えてるんですから。」
「ほんまに?」
「そうですよ!ひどいわあ……。」
紅虎の腕に縋りつき、女は今にも泣き出しそうな表情で見つめるが、その眉間の皺に力が入るに
つれ、同時に込み上げてくる別の衝動を抑えきれないように口元が引き攣(つ)れる。次第にそ
れは彼女の口角を笹の葉のように鋭く持ち上げ、白い歯を零してなお贅沢に赤い舌まで覗かせる。
「ほんまにい?」
紅虎は女を囲い込むように腕を伸ばし、体を前に倒して獲物を追い詰めるようにその逃げ場を失
くす。女は身を引く素振りを見せ、男はいっそう前のめりになって半ば押したようにする。どち
らからともなく、笑い声が漏れる。女の滑らかな白い腕が紅虎の肩を押し返したのを合図として、
その戯れは終わった。
「ああ、おかしい!」
体全体を震わせ続けて女は笑った。彼女は紅虎に対して何ひとつ飾り立てて、もとい隠し立てし
て接する必要性を認めていなかった。それは紅虎のある種の洒脱さに起因するものだった。誰よ
り女を愛する風の彼は、しかし別段女を求める風でなかった。この男は自分に執着していないの
だと思えば、後はその軽妙さと人懐こさに流されるがまま、たわいもなく、くだらない一瞬を盛
り上がって過ごせればいいと思えるのだ。
酒を注いだ盃を、ぶつけんばかりの勢いで紅虎は女に差し出した。
「そうかそうか、幸せか。」
「ええ幸せ。とっても、とっても幸せよ!」
女は受け取ったそれを豪快に飲み干すと、止まらない発作のように笑い続けた。

「もう少し、具体的な話を聞きたい。」
「これからでしょう。」
襖に耳をくっつけて、ふたりの男が隣室の様子を窺っている。
「ようやくいつもの型にはまった、というところでしょう。」
「そうか?それより、お前はひとりなのだな。」
「は?」
「てっきり、金の在り処が分かったら、すぐに迎えに行ってくれるものと思っていたが。」
「そのつもりですよ。」
「ほう、それでは、今隣にいる連中の中に手下が?」
「おりますが、ひとりで十分かと……。」
ほう、ほう、と猪首を回して笑う男。
「若干、迫力不足ではないか?」
「…………。」
こちらも首を回してみる。白い蛇が、鎌首を揺らめかしてゆっくりと、周りを舐めて見るように。
浮遊感のある目つきをしながら、彼は言った。
「桜の、咲く季節となりました。」
「うん?」
「わたしの、好きな季節です。」
「……そうか。」
「ええ。」
笑ったような気配を漂わせながら、その実、口元は凍りついたように動かない。およそ体温など
感じられないその姿に、触れて確かめてみたい衝動とともに怖気(おぞけ)が立つ。
(気味の悪い男だ。だがともかく、金が戻るのであれば……。)
猪首の男はますますその首を短くしながら、唸り声を低く漏らす。

ひとしきり笑った女は疲れたらしく、紅虎にしなだれかかりながら、しかしむしろ軽やかな口吻
で切り出した。
「ねえねえ、聞いて、虎さん。わたし、とってもいいことがあったんですよ。胸の空くような出
来事ってのはこういうことを言うんだわ。」
「へえ、どんな。」
「それは内緒なんです。でもね、それでわたしとっても機嫌がいいの。」
「分かった。相手の男がお前のことを、好きや好きや言うてくれたんやな。」
「それはいつもよ。」
「今日も会いにきてくれるんや。」
「うふふ。」
「ええなあ、お前に好いてもろて。何でもしたるんやろ。膝を枕に寝せたったりするんや。そう
やな、きっと三十代の金持ち、商売人やな。」
「あら、いい勘。」
「ぴったり?ついでに、商売は上品な感じやな。呉服屋とか。」
女はどこか得意そうに首を振った。
「もっと泥臭い感じよ。そうね、泥水の臭いがするわ。それからその人自身はお商売はしてない
の。親のすねかじりって感じね。」
「何や、あかんやつやん。」
「ついでに年齢は二十四よ。」
「はずればっかりや。」
あぐらを掻いた両足をばたつかせて、紅虎は笑った。すっかり赤い顔をしている。女もそうで、
彼女はいっそう飾ることを忘れている。不意に真剣な顔になってうつむくと、畳をむしるような
仕草をし始めた。
「その人ね、あんまり自由になるお金がないの。」
「へえ、そしたら何や、肩代わりでもしたってるんか?」
「ん……それで、とっても幸せなんですど、わたし、もっとお金が要るの。」
「ほうかあ。」
箸の先で、平目の刺身を五切れも六切れも寄せ集め、掬い上げると、紅虎は首を前に突き出し、
じゃっかん受け口になりながら一息に頬張った。
「そういうたら、お前に何や、騙されたっちゅーやつに会うたなあ。」
「ええ?」
「ほんまかどうか知らんでえ。」
たとえそうしたことが行われていたとしても、他人事であり、単なる愉快な話の種でしかないと
いう風に、紅虎は笑う。
「そいつがな、言うには、お前が着物買う金欲しい言うから渡したのに、次の約束の日にお前は
来んかった上にその後いっさい音沙汰なし。九両やったか十両やったかの借金だけが残って、も
う首が回らんて、泣いとった。」
「あら、あの人かしら。」
「何や、知ってんの?」
「でも、あの人にはわたしがここに勤めてるなんて話、しなかったけど。」
「ああそうそう、何や、まったく嘘の話されたって言うとったな。暮らし向きが苦しいとか、お
前、言うたんやって?」
「昔はそうだったんですから、まったくの嘘じゃないですよ。でも……その人、虎さんのお知り
合いだったんですね。何か嫌だわ。」
「別にええやん。そいつもう萎れきってなあ。怒鳴り込みにくる元気もないて。しかしお前、金
が欲しいんやったら金づるは捕まえとくもんやないのか?」
「だあって……。」
女は身をくねらせて、くすくすと笑った。
「あんなに張り切って飛び出してったのに、集めてきたのがたった十両ですよ?そんなの金づるっ
て言うかしら。一度搾り取っただけで十分ですよ。」
「悪い娘ぉや……。」
口の中に残った食べかすを、酒を飲んで流し込む。左隣の部屋がにわかに騒がしくなり、女たち
はみな顔を上げて不思議そうにしていた。あかん、あかん、と紅虎は、苦味の残る口の中で呟い
た。
隣室を仕切る襖が、吹き飛ばされそうな勢いで開いた。男が三人、内ひとりを残りのふたりが押
さえつける形で立っていた。
「あっ……!」
紅虎の隣にいた女の顔色が、一度、二度の瞬きの後にさっと変わった。女は立ち上がり、逃げよ
うとした。その着物の裾を捕らえて、紅虎がなだめる。
「まあ、まあ。」
「紅虎さま!」
押さえつけられていた若者が、暴れ馬のように身をよじって、叫ぶ。
「その女を斬らせてください!」
いまだ少年の細腕は、するりと拘束の手を逃れて刀を掴んだ。重たく鋭い音を立てて、三寸ほど
も抜かれかかったその柄頭を、宴会に参加していた他の紅虎の手下のひとりが飛び掛って押さえ
た。「落ち着け!」
紅虎は立ち上がり、若者に歩み寄ろうとした。そのそばで、女が兎のようなすばしっこさで動い
た。彼女は紅虎の膳から空の小皿を取り上げると、若者に向かって投げつけた。
「やめてよ、馬鹿!」
女は手当たり次第に物を掴んでは、投げた。その形相に表れていたのは、怒りだった。ここに至
るまでの若者の心情など知ろうとも思わない。ただ自身に危害を加えようとしている男が許せな
かった。
まだ刺身の乗った陶製の皿を力いっぱい投げつけた後、女は立ち呆けている紅虎の部下や仲間の
女たちの間に入り込み、若者の刀身から姿を隠した。
「あーあ、めちゃくちゃ。」
足の踏み場を選びつつ、紅虎はようやく若者の前にやって来た。若者は、刀の柄を握った手を絶
えず震わせていた。抜こうとしているのだが、押さえつけてくる大人の男の力にはなかなか敵わ
ない。だが一瞬、力の強弱が逆転し、三寸ほど出ていた刀身が一気に伸びた。男たちは色めきたっ
て、さらに二、三人が若者の体に飛びついて押さえた。
「よせ!」
「やめろ!」
「紅虎さま、俺は……!」
若者は、涙混じりの声を上げた。
紅虎は笑った。ひどく切なそうな眉をして、しかし口元は笑っていた。
「女はな、許せ。」
どこか自分自身をあきらめさせようとするかのような、そんな調子を滲ませた、声だった。

誰一人身じろぎもしない部屋に、しくしくと女のすすり泣く声が聞こえた。みなは振り返ってそ
の女を捜したが、さほど広くもない部屋に二十人近くが立ち上がり、ひしめいており、しかもそ
れらの人々の間に女はうまく入り込んでいるらしく、見えない。いや、幾人かの人々は発見し
ており、次第にその女を囲んでしゃがんだり、中腰の姿勢で覗き込むようになったりして、最も
遠くの位置にいた人の目にもようやくその女の姿……さんざん小皿や箸など投げつけた後、人々
の間に逃げ込んで紛れていた女の姿が、見えるようになった。彼女は両の袖で己の顔を隠して
泣いていた。
「何や、どないしてん。」
紅虎は一、二歩、その女に近づいた。
「わたし、考えが足りなかったみたいで。そんなに……あなたのこと傷つけるつもりは、なかっ
たのよ。」
女は真実泣いており、それが証拠に白塗りした顔には幾筋もの涙の通った跡があり、見苦しさを
隠すために極力袖を前に置いて、うつむいて、しゃくりあげつつ、これも真実らしい言葉を紡ぎ
だす。
「あなただって分かってくださると思うわ。わたし、それくらい、好きな男衆(おとこしゅ)が
おりますの。もう、もう、その人の他には何にも見えなくなってしまうくらい。そりゃ、虎さん
がいったように、いい歳して親のすねかじりなんてだらしないですよ。でも、わたしがその人の
こと好きになったのは、そういうことじゃありませんもの。あなただって、わたしのこと郭(く
るわ)の女だって分かっても、そうやって腹を立ててくださるのは、わたしへの気持ちをそう簡
単に無くしてしまうことができないからじゃありませんか?こんなところで刃傷沙汰なんて、ま
ともなことじゃありませんよ。けど、そうしたことをしてしまうのが、本当に人を好くってこと
じゃありませんか。」
騒ぎを聞きつけて、店の主人を先頭に、近くにいた芸妓や仲居らが途中から襖を開けて、中の様
子を窺っていたが、物の散乱した現場と刀を抜きかけた男にいたく驚いた様子を見せつつも、店
の売れっ子があらぬ姿で何か話し、みなは静まり返って聞いているので、結局彼らも何とも言え
ず、廊下に膝をついたままの姿勢で最後まで拝聴することとなった。
話を終えた女は、肩で息をしていた。紅虎は、その女の様子をじっと見た後に、ゆっくりと頭(こ
うべ)を巡らして若者のほうに目を向けた。
(ああ、あかん。)
紅虎は直感した。
(知らんかったなあ。こいつ、女に騙され続ける性質(たち)やねんなあ……。)
若者の手は、まだ刀の柄を握りしめていたけれども、それを抜こうという気はもはや見られず、
むしろそれは少しずつ鞘に収められていく。彼の表情は、まるで道に迷った子供のようだった。
女の言葉が、彼から明確な指針を奪った。誰が正しく誰が間違っているのかということは、この
くらいの年頃の若者にとって非常に重大なことだった。物事は全てそのように二元的に解釈され
るものと思っていたし、また間違ったものが正しいものに討たれるというのも、彼らにとっては
論を俟(ま)たないことであった。
女は、自身もまた色恋という魔物に食われて、正常な判断ができなくなっていたかの如き物言い
をした。それは若者にとっては理解できる感覚であったので、後は彼女の言葉を真実だと感じる
か否か。真実だという思いが一瞬でも頭を掠めたら、その時点で彼の、自分を騙して嘲笑った悪
としての女を討つ、という大義は大いにその根幹を揺るがされることになる。そして彼は今、紅
虎の見立てからすると明らかに、女の言の中に真実を見出している。
「ほうかあ……。」
紅虎は、短い襟足を掻きながら、ふらりと女の前に立った。女は顔を上げずにいたが、何か全身
から感じるものがあったらしく、その身がわずかに硬く縮こまるのを紅虎は見逃さなかった。
「まあ、ええから、泣き止んで。化粧なおしといで。それから、話するんやったらしたらええし。」
そっと若者を見ると、彼は完全に緊張の糸が切れたらしく、音もなくその場に座り込もうとして
いるところだった。
「それはともかくなあ、わいはひとつ、訊いとかんとあかんことがあるんや。」
「はい……?」
「わいとお前の話をな、隣の部屋で聞いとったのは、あいつらだけと違うんや。」
「…………。」
「隣の部屋、もう一個あるやろ。そこにさっきまでふたつ気配があったんやけど、お前が惚れて
る男の話した後に、おらんようになったんや。いや、ひとりはまだしばらく残ってた。そやけど、
もう今はおらんよ。」
「虎さん?」
両目から下の肌を特に隠しながら、紅虎を窺う女の目見(まみ)。流したばかりの生温い液体に
覆われて、ぬらぬらと揺らめき、黒目が大きく膨張して見える。
「わいも全部は知らんで。ただ、そいつらはたぶん、昨日死んだ男がお前に貢いでた金の行く先
を知ろうとしてたんや。何のためにかって?そら、取り返すためや。」
「取り返す?」
「お前がご執心の、泥臭い商売してるゆう家の息子で、いつまでもだらしなく親の世話になって
る、そやけど女にはもてる二十四歳。これだけの手がかりがあったら、分かるやつには分かるん
やろうな。」
「取り返すって、そんな……。」
「もしその男がまだ金を使ってなくて、しかも大人しく返すようなことのできるやつやったらえ
えで。そやけどもう金がないとか、あったとしてもごねて返さんとか……。」
ひょいと腰を屈めて、紅虎は真正面から女を見る。
「お前に貢いでたあの男は堅気(かたぎ)やないんやから、そいつがどうやって金を手に入れて
たのか、その金を取り戻そうとしてるのがどういう連中か、だいたい分かるやろ。」
「虎さん、わたし……。」
女は決して、見苦しく化粧の崩れた様を見せようとはしなかったが、その大きな目はまさに心を
映す鏡であったし、ほつれた鬢(びん)の黒い髪に紛れて見える、異様に青くなった耳。まるで
青い釉薬(ゆうやく)を施して焼いた磁器のような、いかにも冷え冷えと見える硬そうなその耳
が、彼女の内面の血の凍りまでも見せつけるかのようであった。
紅虎は真剣な顔を女に近づけて、尋ねた。
「ええか、お前は今すぐに、お前の好きな男のおる場所を、わいに教えるんや。もう何か起こっ
てるかもしれんし、まだかもしれん。それを確かめにいったる。何か起こるようやったら、わい
はその男を助けたる。ええか。」
「虎さん……。」
女は満足に事態を飲み込めないらしい顔をしていたが、それは一度すっかり理解していたためだっ
た。想定しうる事態としての最悪のものを頭から追い払うため、自ずと理解も行き届かないよ
うな顔をしていたのだ。
「ええよ。わいはどうも、女の子には優しいにしてしまうからな。」
「……じゃあ。」
お願いしようかしら、と言った女の目は、まるでうつけたように、焦点すら満足には定まってい
なかった。

店を飛び出した紅虎の後には、数名の部下が従っていた。紅虎自身は何も指示しなかったが、彼
らは店に残る人数と頭について行く人数とを彼ら自身も知らぬ内、等分に分けていた。ちなみに
数名いた白鴉の部下は、残らず紅虎の後に従っていた。紅虎が女に言った、もう一方の隣室にい
て話を聞いていた、ふたりの男のうちのひとりは間違いなく白鴉であった。部下として、頭が何
か事を起こそうという時に、そばにいたほうがいいのではないかと思うのは当然であったし、彼
らは何となく、常に白鴉に引き寄せられるような感覚を持っていた。それは白鴉に初めて会った
当初から、少しずつ、彼らの中で強まっていく感覚であった。
もはや辺りは暗く、女に聞いた豪勢な店構えもひっそりと闇に沈んでしまって、紅虎だけでなく
他の全員が、危うくそれと気づかず前を通り過ぎていってしまうところだった。
「お頭、これじゃないんですかね。」
「うん?……そうゆうたら何か、でかいみたいやな。」
言われて立ち止まり、紅虎はその建物の間口の長さを右から左に見やった。ゆうに六間は超えて
いるであろうと思われる。その間口の上には今は隙間なく雨戸が立てられているのだが、よく見
ればその中ほど、二枚の雨戸にまたがってしっかりと屋号が印されている。
「間違いないみたいやな。」
「傘も提灯も買いにくることなんてありませんからねえ、我々。」
「うん、それにしても……。」
雨戸のひとつに、紅虎は耳をくっつけた。
「えらい静かや。」
「白鴉さまはいらっしゃってるんですかね。」
部下のひとりも同じようにして聞き耳を立てる。
「そのはずやけど、しかし遊び人やったら、もしかしたら遊びにいってるかもしれんねんなあ。」
「どうしますか。」
「うーん、とりあえず……。」
紅虎は三度、強く雨戸を叩いた。それは夜のしじまによく響いた。一同は打ち黙って内からの返
答を待っていた。と、かすかな物音を、紅虎の耳が捉えた。彼は戸にぴたりと耳をつけ、その音
が確かにこちらに向かってくるのを聞いた。草履を擦りながら、中の人物は近づいてきているよ
うである。
「どなたですか。」
それは若い男の声だった。
「あのー……ん?この声。」
中では物音がし、雨戸が揺れ、開かれようとしているのが分かった。紅虎は半歩ほど後ろに下がっ
た。
ガタリ、と戸が開いた。そこに立っていた男には見た目に明らかな特徴があり、それは夜目にも
目立つものであったし、また紅虎たちの目はだいぶん、暗がりで物を見ることに馴れてきていた。
「あーっ、白!」
「……あなたですか。」
「何してるねん。」
紅虎がたいそう驚いた声を上げたのも、無理からぬことであった。まるでこの商家の使用人か何
かのように、白鴉が出てきたのだから。しかし、白鴉の態度はあっさりとしたものだった。
「少しお静かに。わたしはただ、この家に用事があって来ていただけです。」
「あっ、そうや、その用事!お前、ここの息子から金を取り返してきて……ないみたいやな。」
通りに出てきて、雨戸を元のように閉める白鴉の手元を覗き込み、何も持っていないことに拍子
抜けして、紅虎はようやくその声を小さくした。
「袂(たもと)にでも入れてんの?」
白鴉の左右の袂を交互に、指先で摘んでゆすってみる。
「その程度の金ではありませんよ。」
「まあ、そうやろうけど。」
再び閉め切られていた雨戸の向こうで、小さく怯えたような音がした。白鴉の出て行ったのを確
認してから、この商家の本当の使用人が急ぎ戸締りにやって来たものだろう。
「……何や、本人には会われへんかったっちゅーことか?」
「遊びに出かけているようですよ。つまり、別の女のところに、ですね。」
「あー……。」
「父親に会いまして、話をしましたが、なかなか峻烈の気質でしてね。息子の金を肩代わりする
ことはしない、正確には、もうするつもりはないということです。」
「我儘勝手に、堪忍袋の尾が切れたわけやな。」
「それでわたしとしては、金は返してもらわなければ、親が肩代わりしないというなら当人のと
ころに行って直接取り立てるがいいか、と。」
「そやけどそいつ、女にまで金出してもらってるような奴やで。」
「ないでしょうねえ、身銭など、一銭も。」
「……どうするん?」
「依頼の内容をお話すると、どうしても金が返ってこない場合には、それに見合うだけの償いを
させろと。夜と言わず昼と言わず遊びまわっているような男の命など、誰も、ビタ一文でも買お
うとはするまいが、それでも腹の虫は多少は収まるから、と。」
「斬るん?」
「父親にも、まったく同じ風に話したのですよ。しかし、これまでさんざん迷惑をかけられ通し
てきたのでしょうねえ。構わん……、と。」
着物の中に両手を引っ込め、白鴉は歩き出した。
「ちょ、ちょ、行くんか。」
「男がよく行っているという店を、何軒か教えてもらいましたからね。じきに見つかると思いま
すよ。」
「わいも一緒に行くで!」
「……お好きに。」
闇が深まる中を、男たちはまた花柳の巷へと引き返していく。

白鴉は歩くのが速いが、それは彼にとって通常の速度だった。紅虎はゆったりと大股に歩くのが、
性に合っていた。彼らはどちらも人に合わせるということをめったにしない性質(たち)なの
で、二人そろって出かけると、いつも決まって紅虎がだいぶん遅れることになるのだった。が、
この夜、紅虎は前方を行く白い髪と肌をした男の姿を注視し、それから一定の距離を保つことを
無意識の内に心がけて、時に小走りになりながら歩き続けていた。
「なあ、白。」
と声をかけると、白鴉の頭はわずかに後方に傾いた。
「お前、金をもらうことにはあんまり執着せえへん性質やんな。」
「……受けた依頼は、やり遂げますよ。」
「いろいろ詳しいに知ってたら、受けへんかったんとちゃうんか。ひとりのやくざもんに溜飲下
げてもらうのに、お前のそのきれーな獲物振るうんは、正直気がすすまんのとちゃうか。」
「しかし、受けましたからね。」
「つまらん男やで。頼んだやつも、これからわいらが会いに行く男も。」
「…………。」
「いざとなったら、わい、止めるで。」
「そんなに、守ってやりたいですか、あの女。」
「……どうにも、ならんことなんや。」
紅虎は鼻を啜り上げながら、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。空を見れば、ちょうど流れてきた細い
雲が月に覆いかぶさって、その周辺を朧に輝かせている。
「あの、わいとこの若いのなあ、女の涙にほだされてまいよって、またすっかりまいってしもた
みたいなんや。あほやろ……。あほやけどなあ、どうにもならんやんか。誰を好きになるとか、
自分でも分からへんもん。あいつはええやつやけど、ちょっと悪い娘(こ)に惚れてしもて、あ
の娘はあの娘で、しょーもない男に惚れてしもたんや。」
紅虎の言葉に耳を傾けながら、白鴉もまた夜空を見上げた。足の下にある地面に草履の裏を擦り
付けて、ことさらに音を響かせる。
「思うのですがね、あの女、しばらく経てば移り気しますよ。」
ええ、と少し笑ったらしく、白鴉は声を漏らした。
「わたしが今から行って、男を斬ろうと斬るまいと、つまり男が明日以降も生きているいないに
かかわらず、おそらくああいった女は、すぐにまた他の男を好きになる。違いますか?」
「……わいは知らん。」
「あなたは知らないが、分かるでしょう、と言っているのです。」
少々面倒な感触を覚えたらしく、白鴉はため息をつく。
「あなたは分かっていますよ。それでありながら、束の間の女の情に付き合ってやろうとしてい
るのです。」
「わいのことも分析するんかあ……。」
紅虎は、彼にしては歯切れの悪い返事を繰り返した後しばらく黙り込み、やがてぽつりと言った。
「わいも、そう思う。」
「…………。」
「わいがさっき、どうにもならんことや言うたんは、そういうことも含めてのことや。どっちも
どっちや。あの娘は今たまたましょーもない男に惚れてるけど、一瞬だけなんはあの娘の気持ち
だけとちゃう。ほんまは金を取り戻したいのに、相手に蓄えがないからゆうて、ほんだら代わり
に命取ってこいゆうたかて、それで得られる満足感も一瞬やないか。しばらくしたら、また忌々
しさが復活してきよるで。そんだけ大金やったんやろ?幾らやくざな商売してるゆうても、それ
を専業にしてるもんやったら、普通は人殺しには慎重になる。自分は手を下さんと、わいらみた
いなもん雇てやらせるゆうたかて……。」
「どちらを取るかということですか。」
「血生臭いことはないに越したことないやろ。」
トン、と地面を蹴って速足になり、紅虎は白鴉に並んだ。夜の闇に溶けていた町並みはガラリと
変わって、すでに辺りは眠ることを知らない艶美な輝きに溢れかえっている。
「わいは強いやつとはやり合いたいけど、根性なしの金持ちのぼんぼんなんか、悲鳴上げて逃げ
まくるのが関の山やないか。そんなん追いかけて殺(や)るのが趣味なんか、お前。」
「…………。」
「まあ、止めるついでにお前とやり合えるんやったら、それはそれでおもろいけどなあ。」
「本気で止める気ですか?」
「ああ、止める。」
右手を開いたり閉じたりしながら、どこか嬉々とした声で言った紅虎の横顔を見やれば、何か楽
しみなことが待っている子供のように笑っている。
白鴉は、ひとつ小さくため息をついた。
「……骨が折れそうですね。」


続く 


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