「春先の冷たさ」3
柔らかな春の光に包まれた町を、紅虎はどこか眠たげな顔をしてひとりで歩いていた。彼はまっ たく堅気な仕事をしている人ではなかったので、こうした時刻には普段ならまだ布団の中にいる | はずであったが、昨晩ともに呑んで酔いつぶれていた女のひとりが、朝になって気まぐれに目を | 覚まし、窓外をぼんやり眺めていたところ何か非常に感動するものがあったらしく、紅虎に声を | かけながら、彼の体を揺さぶって無理に目を開かせた。
| 「見て、ねえ、桜がとっても綺麗に咲いてるわ!満開よ!」
| 桜の開き具合ならば、前の日からもうすでに満開に近かった。ただその日は、雨こそ降らなかっ | たが終日曇天で、人々は、彼らの待ち焦がれていた花の絶頂が近づきつつあることに、迂闊にも | 気づかないでいたのだ。
| 今朝は大気の澄み具合が素晴らしく、仄かに温かな日差しに包まれて、桜の花はそれこそ突如と | して降り立った天女の如く嫣然と輝いて見えた。
| 「ああ、綺麗や……。」
| 紅虎はすっきりと眠気が晴れていくのを感じて、心地よいそよ風に誘われるまま店を出てきた。 | ほとんど人の往来がないことも気に入って、そのまま界隈を一巡りしようとここまで二町ほども | 歩いてきたのだが、ぽつりぽつりと見える、幻のように美しい桜の木を絶えず仰ぎ見ている内、 | 覚めたと思った頭の中が、再び不思議な靄(もや)によって塞がれていくように感じた。
| 「虎さーん。」
| 甘く舌足らずな女の声が、頭上から降ってきた時、紅虎はいよいよほんものの天女が舞い降りて | くるのだろうかとぼんやりと思った。
| 「虎さん、ねえ、こっちよ、ねえ。」
| もどかしげに呼びかけてくる声に、どうやら知り合いのようだと気づいて、その声のする方を見 | 上げた。すると、やはりまた幻の続きのように、生白く丸みのある女の腕が二本、手の平の筋が | 見えるくらいにまで迫って見えて、少々ぎょっとして紅虎はあとずさった。ほとんど往来の中ほ | どまで下がったところで、女の顔が見えた。
| 「あ、お前か。」
| 「お前か、やあらへん。」
| 紅虎の上方訛りを真似て、女はうふふと笑った。彼女は紅虎に気づいてもらうために一生懸命に | 体全体を伸ばしていたので、今は二階の窓辺に腰を落ち着け、両手は重ね合わせて欄干の上に置 | いている。
| 「最近お見えにならなかったですねえ。お仲間の人に聞いたら、何でもそろそろこの辺りを離れ | るって。もう遊びにきてくださらないのかと思ったわ。」
| 「そないに生活に余裕があるわけとちゃうからなあ。」
| 「でも、他の女の子とは遊んでたんでしょ?」
| 「お前は高いやないか。」
| 「うふふ。」
| 自分の上等を意識した女の笑みは、自信に満ち溢れており、美しかった。
| 「ね、虎さん、結局あの後は何にもなかったんですね。わたし一晩中、心配しすぎて胸が潰れる | かと思ったのだけど、次の日あの人がいつもと変わらない姿でわたしをお座敷に呼んでくだすっ | て、嬉しかったわ。心底ほっとした。」
| 「……よかったな。」
| 「ほんとに!あなたがいろいろ怖いことおっしゃるから、わたしもうてっきりただでは済まない | んだとばっかり。でも、あの人にその話をしたら、何のことだ?って。全然知らない風なんです | もの。拍子抜けしてしまったわ。ねえ、あの夜、結局何もなかったんですか?金を取返そうって | 輩は、いなかったんですか?」
| 「ああ。」と紅虎は明瞭に頷いた。
| 「おらんかったよ。」
| 「はあ……よかったわあ。」
| 両手を左胸の上に重ねて、ほっと肩の荷を降ろすような仕草をしてみせる女の、意外にも楚々と | して見える様子を、紅虎は全体に雲がかかったような表情で、見上げていた。
| それは一連の出来事があってから、丸一日が経過した肌寒い夜のことだった。稼いだ金を一晩で ほぼ使い果たしてしまったために、その夜は仮の宿としている家で男ばかりと酒を呑み、しかし | それも嫌いではない紅虎は、ほどなくして酔っ払った。そしてもともと用事を持って行こうとし | ていた先へ、まさに着の身着のまま、ふらふらと出かけることにしたのだった。通りには、すで | に人影ひとつなかった。酒の効果でほかほかと心地よくいた紅虎は、星の冴えて見える夜空と、 | ようよう五分咲きになろうかという桜の仄白さを愛でながら、これから訪(おとな)う男の顔を、 | ぼんやりと思い描いていた。
| (まさかわいがおらんようになってから、こっそりあのにやけた馬鹿息子殺しに行ったりしてな | いやろなあ……。)
| ふと頭を掠めた考えに、嫌な予感がむくむくと膨らんでゆくが、昨夜のやり取りを思い出して、 | お互いに偽りの言葉はいっさいなかったのだからと気持ちを落ち着かせた。
| 「うん、大丈夫や、白やもん。嘘つくの上手なように見えて、結構わいは分かるんやから。」
| 辿り着いた先の宿の戸は、当然すでに閉め切られていたが、そう更けた時分でもなかったので、 | 二、三度勢いよく叩くと、すぐにひょうそくの明かりを手にして人が出てきた。
| 「すまんなあ。知り合いがここに泊まっとるはずなんや。」
| 「どのようなお方で。」
| 紅虎が特徴を告げると、宿の者はすぐに了解して取次ぎに立ち、待つほどもなく戻ってきた。
| 愛想のよい顔をした男に連れられ、急な階段を少々おぼつかない足取りで上ってゆくと、最奥の | 部屋の襖が開いており、中からぼんやりと明かりが漏れているのが目に入った。あの部屋か、と | 紅虎は立ち止まって尋ねた。
| 「さようでございます。」
| 「ほな、もう戻ってええよ。おおきに。」
| 宿の者が階段を下りて行き、ひとりになった紅虎は少し酔いの醒めた心地で、足裏に、廊下の冷 | たさを今更ながらに感じた。よく乾拭きされているらしい、つるつるとした廊下を、半ば滑るよ | うに歩いて明かりの漏出している部屋の前に立つ。「白。」と呼びかけたのと同時に、その人の | 姿を見つけた。どんな家屋を宿に定めようとも、己の定位置はここだとでもいうように、彼はい | つも窓を開けたそのそばに座っている。
| 「寒ない?」
| 「呑んでいますからね。」
| 一呼吸も置かずに返ってきた言葉に、なるほど、白鴉の手には猪口があり、目の前の畳には二本 | の銚子が立っていることに紅虎は気づいた。
| 「珍しいなあ。何や、ええことでもあったんか。お前の場合は、どっちかゆーたら嫌な気分の時 | に呑んでるような気がするけど。」
| 部屋の中に入り、襖を閉め、白鴉の前にやって来て紅虎は腰を下ろした。一本の銚子を手に取る | |