「春先の冷たさ」1
南西の方角から少しずつ、薄暗い雲が寄せてきている。ぽつり、とかすかな滴(しずく)が降り かかってくるのももうすぐであろうと思われる。
| 草色の暖簾を手の先で軽く跳ね上げ、白鴉は店内に足を踏み入れた。この寂れた食堂には、常に | 十名前後のやくざ者がたむろしている。以前には堅気の夫婦が酒と小料理を提供していたようだ | が、今は、客がやくざなら、経営している主人もまた一癖も二癖もありそうな悪人顔である。
| 「おお白、ええところに来たわー。」
| 健康的な肌色に焼けた腕が、人々の間にぱっと伸びた。この辺りには珍しい上方訛りに促されて、 | 彼の周りに集まっていた人々も、また無関係であった客たちも、いっせいに白鴉に注意を向け | る。その中で、数人の男たちが立ち上がった。自分の直接の配下の者たちであることを、白鴉は | すぐ了解した。「別に掛けていて構いませんよ。わたしはすぐお暇しますからね。」そう言いな | がら、出入り口に最も近い席に腰を下ろす。そこは元から空席であった。
| 「何や、また仕事の話か?」
| 「ええ、今夜はよい天気になりそうです。」
| 「そういうたら何か湿気が出てきたな。」
| 「報酬は結構なものですよ。一度の仕事で二晩豪遊できるだけの金が入るというのはめったにな | いことです。」
| 「そらええなあ。どういう話やねん。」
| 「今夜四つどき、貴方が仮宿にしている家にお邪魔しますから、その時までに、十名ほど頭数を | そろえておいてください。」
| 「ええけど……お前のほうでもそんくらい呼ぶんやろ?どんなに報酬が多かっても、それやとだ | いぶん分割されてまうんちゃう?」
| 「だとしても、十分だと思いますよ。具体的に幾らというのは後ほど、場所を変えてから。不特 | 定多数の耳目を集めた中でする話ではありませんからね。」
| 店の隅のほうにいた、自分たちとは組織の異なる男たちへと視線を流すようにする。しっかりと | 目が合い、男たちはうさんくさい雰囲気を醸しながら他所(よそ)を向いた。
| 「まあ、ええけど。うん、そしたらもう帰るんか?ああ、ちょっと待ちいや。聞きたいことあん | ねん。」
| 立ち上がりかけた白鴉を慌てて制する。何かよい話でもあるかのようににっこりと笑ったが、白 | 鴉にはつまらない予感しかしない。自分と紅虎では何を愉快とするかの感覚が違うのだと、長く | もないが短くもない付き合いから知っている。
| 「お前が来る前にな、みんなで議論してたんや。」
| そう言いながら、自分の隣に座る若者を指差す。青白い肌にはしみが目立ち、いささか蒲柳の質 | らしく見受けられる。十七歳。この町に来てから執心している娘がいたという。
| 「一月ほど前に、えらい雪の降った日があったやん。こんくらいは積もったかなあ。」と右手の | 親指と人差し指で、紅虎は五寸ほどの幅をつくってみせる。「その時にな、下駄の歯、雪にとら | れて難儀してるきれいな娘に会(お)うたんやって。親切心で声かけてみたら鼻緒が切れてる。 | 代えになる布は自分で持ってたんやけど、雪に足とられてるからうまいこと動かれへん。それで | こいつが、その娘(こ)に肩貸したって、鼻緒もすげて助けてあげたんや。家まで送っていった | ろかあ、なんて声もかけてな。まあ、それは遠慮されたんやけど、お礼に食事でも奢りたい言い | だしてな。嬉しい申し出やんか。三日ぐらい後に再会したんやて。雪降ってない中で見たらます | ますきれいで、別れ際にまた会いたいて言うたんや。死に物狂いやで。そしたらその娘、悲しそ | うな顔してなあ。自分も会いたいけど、実は貧乏で着物がこれ一着しかない。今度会う時も同じ | 着物で行かなあかん思たら女としては恥ずかしいからいやや、て言うんや。そういうたら雪の日 | にもその着物着てたなあて思い出して、信じたんや。それで、それやったら俺が買(こ)うたる | わ!って、この場におる連中からものすごい勢いで金借りまくってな、何とか十両用意して渡し | たんやて。それで次に会う約束もしたんや。ところが、約束の日に娘は現れんかった。家なんか | 知るわけないし、その後はまったくの行方知れずで、こいつには九両ちょいの借金だけが残って | もうたってわけや。」
| 紅虎は愉快そうに笑う。若者は項垂れ、彼に金を貸した者たちは一定の同情心を示しつつも、心 | 細くなってしまった自分たちの懐を案じている風である。無関係の者たちは、皮相な興味をニヤ | ニヤとした面相に上(のぼ)せている。
| 「それでな、その女の子は何でけえへんかったのか。何かよんどころない事情があったのか、そ | れとも最初から金だけが目当てやったのか、どっちやろうってみんなで議論してたとこなんや。」
| 「議論というのは理に理を重ねてゆくものですよ。貴方がたのはただの憶測の垂れ流しでしょう。」
| 「ええやんかあ。なあ、どう思う?」
| 白鴉はため息をつき、いかにもどうでもいい様子である。だが何かしら具体的に答えたほうが、 | 紅虎との会話は短くて済むということも知っている。
| 「家が貧しいというのなら、十両もの大金を目にして驚かないわけはありませんが、その娘、驚 | かなかったのでは?」
| 若者は勢いよく頷いた。
| 「そ、そうです。素直に喜んでみせただけで。」
| 「すぐに受け取りました?」
| 「はい、そうです。」
| 「初対面に等しい相手から、平然と十両という金を受け取るなど、少なくとも慎ましい初心(う | ぶ)な町娘とは違うでしょうねえ。」
| 「そしたら白も、その娘(こ)は最初から騙すつもりやったと思うん?」
| 「町の娘ではない、と思うだけですよ。そうですね、たとえば花街にいるような女ではありませ | んか。虱潰しに探してみるのもいいかと思いますよ。」
| 白鴉は言い終わらない内に立ち上がった。話を聞いていた者たちの中で、白鴉と同じ見立てをし | たらしい男がそれ見ろという風に隣の男に肘をぶつけている。
| 「わいは何か理由があるんちゃうかなあと思ったけど……。」
| 「もちろん、その可能性もなしとはしませんよ。」
| 「うーん、でもお前の言うこと聞いてると、何かめっちゃ正しいこと言われてるような気がすん | ねんなあ。」
| 「違った場合の保証はしませんよ。まあ、色恋などというのはしょせんは肉体の衝動ですから、 | 頭で考えているよりも行動したほうがよほど確実な前進を得られるとわたしは思いますけどねえ。」
| さらりとした白鴉の言葉に、紅虎は一瞬ぽかんとした顔になる。
| 「何です?」
| 「いやあ、お前でもそういう意見吐くことあんねんなあ。色恋沙汰なんかまるで意識の外かと思っ | てた。」
| 「興味はありませんが、こうした稼業をしていると、何かとそれに絡んだ依頼も受けるでしょう? | 大方うんざりさせられますが、そのせいというのかお陰というのか、結果として意見のひとつ | も持つことになるというわけです。」
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