「春先の冷たさ」1


南西の方角から少しずつ、薄暗い雲が寄せてきている。ぽつり、とかすかな滴(しずく)が降り
かかってくるのももうすぐであろうと思われる。
草色の暖簾を手の先で軽く跳ね上げ、白鴉は店内に足を踏み入れた。この寂れた食堂には、常に
十名前後のやくざ者がたむろしている。以前には堅気の夫婦が酒と小料理を提供していたようだ
が、今は、客がやくざなら、経営している主人もまた一癖も二癖もありそうな悪人顔である。
「おお白、ええところに来たわー。」
健康的な肌色に焼けた腕が、人々の間にぱっと伸びた。この辺りには珍しい上方訛りに促されて、
彼の周りに集まっていた人々も、また無関係であった客たちも、いっせいに白鴉に注意を向け
る。その中で、数人の男たちが立ち上がった。自分の直接の配下の者たちであることを、白鴉は
すぐ了解した。「別に掛けていて構いませんよ。わたしはすぐお暇しますからね。」そう言いな
がら、出入り口に最も近い席に腰を下ろす。そこは元から空席であった。
「何や、また仕事の話か?」
「ええ、今夜はよい天気になりそうです。」
「そういうたら何か湿気が出てきたな。」
「報酬は結構なものですよ。一度の仕事で二晩豪遊できるだけの金が入るというのはめったにな
いことです。」
「そらええなあ。どういう話やねん。」
「今夜四つどき、貴方が仮宿にしている家にお邪魔しますから、その時までに、十名ほど頭数を
そろえておいてください。」
「ええけど……お前のほうでもそんくらい呼ぶんやろ?どんなに報酬が多かっても、それやとだ
いぶん分割されてまうんちゃう?」
「だとしても、十分だと思いますよ。具体的に幾らというのは後ほど、場所を変えてから。不特
定多数の耳目を集めた中でする話ではありませんからね。」
店の隅のほうにいた、自分たちとは組織の異なる男たちへと視線を流すようにする。しっかりと
目が合い、男たちはうさんくさい雰囲気を醸しながら他所(よそ)を向いた。
「まあ、ええけど。うん、そしたらもう帰るんか?ああ、ちょっと待ちいや。聞きたいことあん
ねん。」
立ち上がりかけた白鴉を慌てて制する。何かよい話でもあるかのようににっこりと笑ったが、白
鴉にはつまらない予感しかしない。自分と紅虎では何を愉快とするかの感覚が違うのだと、長く
もないが短くもない付き合いから知っている。
「お前が来る前にな、みんなで議論してたんや。」
そう言いながら、自分の隣に座る若者を指差す。青白い肌にはしみが目立ち、いささか蒲柳の質
らしく見受けられる。十七歳。この町に来てから執心している娘がいたという。
「一月ほど前に、えらい雪の降った日があったやん。こんくらいは積もったかなあ。」と右手の
親指と人差し指で、紅虎は五寸ほどの幅をつくってみせる。「その時にな、下駄の歯、雪にとら
れて難儀してるきれいな娘に会(お)うたんやって。親切心で声かけてみたら鼻緒が切れてる。
代えになる布は自分で持ってたんやけど、雪に足とられてるからうまいこと動かれへん。それで
こいつが、その娘(こ)に肩貸したって、鼻緒もすげて助けてあげたんや。家まで送っていった
ろかあ、なんて声もかけてな。まあ、それは遠慮されたんやけど、お礼に食事でも奢りたい言い
だしてな。嬉しい申し出やんか。三日ぐらい後に再会したんやて。雪降ってない中で見たらます
ますきれいで、別れ際にまた会いたいて言うたんや。死に物狂いやで。そしたらその娘、悲しそ
うな顔してなあ。自分も会いたいけど、実は貧乏で着物がこれ一着しかない。今度会う時も同じ
着物で行かなあかん思たら女としては恥ずかしいからいやや、て言うんや。そういうたら雪の日
にもその着物着てたなあて思い出して、信じたんや。それで、それやったら俺が買(こ)うたる
わ!って、この場におる連中からものすごい勢いで金借りまくってな、何とか十両用意して渡し
たんやて。それで次に会う約束もしたんや。ところが、約束の日に娘は現れんかった。家なんか
知るわけないし、その後はまったくの行方知れずで、こいつには九両ちょいの借金だけが残って
もうたってわけや。」
紅虎は愉快そうに笑う。若者は項垂れ、彼に金を貸した者たちは一定の同情心を示しつつも、心
細くなってしまった自分たちの懐を案じている風である。無関係の者たちは、皮相な興味をニヤ
ニヤとした面相に上(のぼ)せている。
「それでな、その女の子は何でけえへんかったのか。何かよんどころない事情があったのか、そ
れとも最初から金だけが目当てやったのか、どっちやろうってみんなで議論してたとこなんや。」
「議論というのは理に理を重ねてゆくものですよ。貴方がたのはただの憶測の垂れ流しでしょう。」
「ええやんかあ。なあ、どう思う?」
白鴉はため息をつき、いかにもどうでもいい様子である。だが何かしら具体的に答えたほうが、
紅虎との会話は短くて済むということも知っている。
「家が貧しいというのなら、十両もの大金を目にして驚かないわけはありませんが、その娘、驚
かなかったのでは?」
若者は勢いよく頷いた。
「そ、そうです。素直に喜んでみせただけで。」
「すぐに受け取りました?」
「はい、そうです。」
「初対面に等しい相手から、平然と十両という金を受け取るなど、少なくとも慎ましい初心(う
ぶ)な町娘とは違うでしょうねえ。」
「そしたら白も、その娘(こ)は最初から騙すつもりやったと思うん?」
「町の娘ではない、と思うだけですよ。そうですね、たとえば花街にいるような女ではありませ
んか。虱潰しに探してみるのもいいかと思いますよ。」
白鴉は言い終わらない内に立ち上がった。話を聞いていた者たちの中で、白鴉と同じ見立てをし
たらしい男がそれ見ろという風に隣の男に肘をぶつけている。
「わいは何か理由があるんちゃうかなあと思ったけど……。」
「もちろん、その可能性もなしとはしませんよ。」
「うーん、でもお前の言うこと聞いてると、何かめっちゃ正しいこと言われてるような気がすん
ねんなあ。」
「違った場合の保証はしませんよ。まあ、色恋などというのはしょせんは肉体の衝動ですから、
頭で考えているよりも行動したほうがよほど確実な前進を得られるとわたしは思いますけどねえ。」
さらりとした白鴉の言葉に、紅虎は一瞬ぽかんとした顔になる。
「何です?」
「いやあ、お前でもそういう意見吐くことあんねんなあ。色恋沙汰なんかまるで意識の外かと思っ
てた。」
「興味はありませんが、こうした稼業をしていると、何かとそれに絡んだ依頼も受けるでしょう?
大方うんざりさせられますが、そのせいというのかお陰というのか、結果として意見のひとつ
も持つことになるというわけです。」
「……なあ、お前って、女と付き合ったことあるん?」
「何ですか、その、女を知らない男がするような問いかけは。」
「いや、あの……せやかてなあ……。」
周囲の男たちを振り返って、紅虎は何やら同意を求める風である。が、ここで頷くことが白鴉に
どういった心証を与えるか、危惧する人々はなるたけ目を合わせないようにする。腰掛に落ち着
いている彼らは全員紅虎の配下のものだが、気安い印象を抱かせる自分たちの頭よりも、何やら
底の知れない怖さのある他所の上司のほうに遠慮をしてしまう。
「何やねんなあ。」
紅虎はぷっと面白くなさそうに頬を膨らませた。無闇と対抗心を燃やす子供のように、それなら
ばこちらもいっさい目を合わせてやるものかと、腕を組んで心持ち目線を上にあげる。と、白鴉
と目が合った。これまでにも何度か思ったことだが、白鴉の目には基本的に感情という色がない。
ためにまるで物言わぬ塑像(そぞう)のように思えて、一瞬、紅虎は声をかけたものかどうか
で躊躇する。
「あー、あの……、」
「今夜四つどき、お願いしますよ。」
「あっ、ああ、はい。」
紅虎が頷くと、白鴉も小さく頷いたようだった。

暖簾が揺れている。少し風が出てきたようだ。紅虎は空になった銚子を振って、店の亭主に追加
の酒を頼んだ。
「お前も来(き)いやあ。」
タコとワカメの酢の物を噛み締めながら、低い声でポツリと言った。周りにいた人々は、いった
い誰に言ったのだろうと紅虎の顔を覗き込む。
「お前やん。」
隣にいた若者の頭を、紅虎は軽く叩いた。
「ちゃんとなあ、ここで仕事して、幾らかでも貰って返せるようにせなな。」
上方言葉の緩く伸びた響きが、いかにも思いを込めて若い人を諭している風である。
「は、はい。」
「その女の子が見つかったとしても、あげたんやろ?金は返さんとあかんねんから。」
「はい、あの、必ず返しますから。」周りにいる、借金して回った人々に向かって若者はぺこぺ
こと頭を下げた。
「まあ、気長に待つさ。」
その中のひとりが大様に手を振る。若者とは反対側にある紅虎の隣席を占めていた彼は、亭主が
運んできた酒を頭(かしら)の猪口に注ぎながら言った。
「あの白鴉さまが十人も応援を頼むんですから、今回の相手はよっぽどじゃないですかね。手だ
れを集めといたほうがいいと思います。自分、行ってきましょうか。」
「ああ、そうやな。こいつと、あとお前も来るやろ?そやからあと八人。」
「白鴉さまは十名ほど、と仰ってましたよ。そいつはまだまだ人を斬る腕は半人前ですから、数
には入れねえで九人、場合によっちゃ十人くらい見つけときます。」
「そうやな。ほな、そうしてもらおか。」
「行ってきます。」
男は立ち上がって速足に店を出て行った。
「そんな暗い顔しな。」
若者の肩に、紅虎は優しく手を置く。
「十七の時なんかみんな半人前や。お前だけちゃうねんから。」
「いえ、そうなんですが……。その、何だか、駄目だなあと思って。お恥ずかしいんですが、実
はいまだに目の前にあの娘(こ)の顔が見えるので。ほんとに、駄目ですよね、俺。……あの娘、
どうしてるんだろう。」
耳まで真っ白になりながら、苦しい胸中を吐き出す。若者の恋の悩ましさは、その季節を通り過
ぎてきた人々にとっては単に共感するのでなく、懐かしいような、羨ましいような、また微苦笑
を誘われるような、何ともいえないむず痒い心持ちになるものである。
「白鴉さまの仰ったことが、たぶんほんとなんですよね。」
「ああ?まあ、そうかもしれんけどやな。」
「それでも、会えるものならまた会いたいです……!」
注いでもらった酒を呑むのも忘れて、紅虎は天井を見上げた。
「ええけどなあ、もし花街で見つかって、それでお前の好意を馬鹿にするようなこと言われたら、
どうすんねん?」
「分かりません、そんなこと。今は彼女が好きで、好きで……。」
自分の周りに座る、直属の部下だけでなく白鴉の配下に属する者たちもいたが、それらも含めて
ぐるりと見渡しながら、紅虎は無言の内にどう思うかということを問いかけた。ひとりが頷くと、
ぱらぱらとみなが頷く。
「しょうがないですよ。どうせひとりで探しにいっちまうんでしょ。それだったら大勢でやった
ほうが手っ取り早くていいってもんです。」
にっこり、と紅虎は笑った。そう言うと思っていたというように頷く。
「差し当たりはやっぱり花街を重点的にあたりましょう。白鴉さまの仰ったことは的を射てます
よ、残念ながらと言うか。」
ああ、と頬杖をつきながら紅虎は首を傾げ、よほどの難問でも抱え込んでいるように眉間に深く
皺を寄せた。問うべき相手はいなくなった。が、この手の話であの男の口から詳細が聞けるとは
とても思えず、頭の中をぐるぐると回る疑問とそれに伴う揣摩(しま)臆測の類を、とりあえず
は垂れ流してみたくもなる。
なあ……、と紅虎は自分自身の内に語りかけるかのような茫洋たる表情をして言った。
「白って……女の子、知ってるんやろうか。」
はあっ、と幾つもの見開かれた目が自身に向けられるのに気づき、少々慌てる。
「いや、そやかて、想像でけへんやんかあ。白が女の子と喋ったり、その、ごにょごにょ……し
てるん。」
「そりゃ間違いなく想像できません。というかするのが怖いです……。」
「そ、そやからな、でもゆうたかて白もええ大人やんか。まさか全然女の子知らんとかそういう
ことはないと思うというか、何か白って何でも知ってそうやし。そやけど、ほんならどうやって、
どんな娘(こ)とそんな仲になったんやろうって思うと、全然想像つかへんねや。そやから……。」
「いや、仰ってることはよーく分かりますよ。」
力こぶをつくりながら、部下のひとりが大いに共感を示す。そしていっぱしに何か見解があるら
しく、語り始める。
「思うに、白鴉さまが何でも知ってらっしゃる風に見えるというのは、ちょうど神仏は何でもお
見通しでいらっしゃるのと同じような感覚だと思うんです。対して、白鴉さまが女とその、ごにょ
ごにょ……してたりするのが想像できないというのは、人間臭さがいまいち感じられないから
だと思うんです。あの人、酒も煙草も気まぐれていどにしかやりませんし、自分から進んで花街
に行くなんて、そこで依頼に絡むことでもない限りありえないし、とにかく俺たち俗物が嬉々と
してやるようなことはいっさいやらないじゃないですか。つまり、まとめて言うとですね、あの
人はあんまり人間っぽくなくて、むしろ神さまとか仏さまとか、何かものすごい力を持った存在
に近い、ような気がする。だから女のことは当然何でも知ってそうだけど、それをどうやって知っ
たかってのを想像すると、俺たちは自分らがやった……のを想像するから、それはものすごく
俗物的なので、白鴉さまみたいな俗っぽさのカケラもないような人にはそれがうまく当てはまら
ないんだと思うんです。」
「うんうん、その解釈はええわあ。それは確かにそうやわ。でもなあ、それでわいらが白のその、
ごにょ……を想像でけへんのは分かったけど、実際にでもたぶん白は経験ある……とわいは思
うねん。それはどうや?」
「それは、まあ、たぶん……。」
「そうするとやで、あの白が女の子と二人っきりになって、何か隣の部屋には布団とか敷いてあっ
たりとかして、それで二人で酒とか呑みながらそういう雰囲気にだんだんなっていって……。」
いかに想像することが困難であるとはいっても、現実にそれがあったというならば、やはり思
いつく限りの創意工夫を凝らせばどうにか形が見えてきそうなものである。が、紅虎の想像の中
で、“そのための準備”は万端整っているにもかかわらず、白鴉と女とはついに手と手を重ね合
わせることすらできなかった。「あかんわ……。」たとえ女が積極的に動いたとしても、白鴉に
は触れることができない。「何か怖い!」まるで自分がその女になったかのように、真に迫った
調子で紅虎は叫んだ。
タン、タンと店の屋根を叩く音がした。
「雨ですね。」
ひとりが表を見に行く。草色の暖簾が、湿気のために霞んで見える。
「えらい暗いですよ。こりゃざーっとくるかもしれません。」
「……白との約束もあるしな。」
猪口を置き、紅虎は店の奥を覗くように体を大きく傾けた。思いのほか酔いが回っていたらしく、
一瞬、体勢を崩しかける。もちろん大勢の部下の前で椅子ごとひっくり返るなど無様な真似は
できない。下半身に力を込めて踏ん張り、澄ました声を出しながら、亭主に勘定を頼んだ。

ほっそりとした姿容に、暗緑色の傘は重たげに見えた。一党を率いる者じきじきに戸を開けにき
たことにいささか驚いたらしく、挨拶の言葉が半拍ほど遅れた相手に、珍しいものを見たと紅虎
は口元を緩める。何とはなしに得意げな気持ちになりながら、一歩退いて道を開け、屋内へ進む
よう促す。「お邪魔します。」降りしきる雨の音に馴染んで消えるかのような、抑揚のない低い
声で白鴉は言った。
白鴉は、ひとりだった。彼が、ひとりを好むことはみなが知っている。ただ今宵に限っては、紅
虎に依頼した内容から、彼自身も少なくとも十名ほどの仲間は引き連れてくるものと思っていた。
「ひとり?」
紅虎は尋ねた。
「すでに、しかるべき場所に待機させています。見張りも兼ねましてね。十五人ばかり。」
「大所帯やな。相手に見つかるんちゃう。」
「見つからないんですよ。いえ、正確に言うと相手の連中の目に留まったとしても不審がられな
い。普段から、人の出入りが盛んな場所なのです。」
いずれも六畳の二つの部屋の間仕切りを取り払って、そこに十一名の男たちが詰めている。安普
請で雨音がひどく響き、雨漏りこそしないものの、充満する湿気が畳の肌触りを重たく気味の悪
いものにしている。知覚的にも視覚的にも、一歩足を踏み入れれば息苦しさを覚える場所だ。せ
めて空間的な広がりを、と紅虎は廊下に面した襖を全て開けっ放しにさせていた。「むさ苦しい
けど我慢してやあ。」女っ気のない状態に馴れている、という点ではむしろ白鴉のほうが紅虎に
勝るのに、自然とそうした気遣いの言葉が出てくるのはおそらく白鴉がひとりを好み、かつ彼自
身はというと、すこぶる男臭さからかけ離れた存在であるからだろう。抜けるような肌の白さは、
色香を売り物とする花街の女たちですら息を呑むほど。ほっそりとした姿はむしろ女性的であっ
て、近づけば仄かによい香りでも漂ってきそうな風情である。
部屋に足を踏み入れた白鴉は、集められた男たちをさらりとした顔で見渡し、言った。
「これで全てですね?」
「わいのとこの腕自慢連中をそろえたんやで。」
「そうですか。彼がいるのは?」
最も後方に、小さく目立たぬように座っている若者に白鴉は目を留めた。
「お前、興味ないような顔してちゃんと見てんねんなあ……。ああ、あいつはほら、金返さんと
あかんから。」
「死にますよ?」
「大丈夫、……ってそんな危ない?」
「じゅうぶん察せられるようにお願いしたつもりですが。報酬金額が相当なものだということは、
それだけこちらも大きな危険を覚悟しなくてはいけないということですよ。死人が出るとは限
りませんが。」
「うん、まあ、その辺はわいがしっかり……。」
若者の面相はものすごく怯え、青ざめている。多少の修羅場は潜り抜けてきたし、人を殺したこ
ともあるものの、これほどの人数が投入される現場がどれほどのものとなるかは想像もつかない。
刀の鍔の辺りをぎゅっと握り締め、緊張と高揚、何より恐怖感を体の中に抑え込もうと死に物
狂いの努力をしている。少しでも気を緩めれば、何かわけの分からないことを叫び出さずにはい
られない、そんなぎりぎりの雰囲気である。
「大丈夫や。ちゃんとわいがそばにおったるから。」
淀みなく、力強い声で紅虎がそう言ってやると、若者は力むのをやめてはっと顔を上げた。それ
に笑顔で頷いてやる。また周りの者も何かと声をかけてやり、不安と恐れを打ち消すことはでき
なくとも、若者はそれらに立ち向かう勇気と冷静さを取り戻すことができた。ありがとうござい
ます、と感極まった様子でみなに礼を言う。
白鴉は、小首を傾げていた。その目には相変わらず感情という色が見えなかった。「みなさん。」
重く柔らかに、建物全体を包む雨音のようにその声は聞こえた。
「すぐに発ちますからね。よく、お聞きなさい。」
男たちの顔がいっせいに白鴉に注目する。紅虎は、白鴉の隣に突っ立ったまま、男の口元やら目
元やら眺めていた。瞬きは規則正しく、唇は一定以上には開かれない。首は少し傾けられたまま
動かず、まるで人形のようだと驚き呆れても無理からぬことであった。白鴉が話を終えて、隣か
らぶしつけに自身を眺めていた紅虎に、
「虎、分かりましたか?」
と声をかけた時も、紅虎は彼から目を離さず、
「うん、何かお前が人間っぽくないことはよう分かったよ。」
と真面目な様子で答えた。

「表と裏、後は路地を固めます。中にいるわたしの手下たちは、何も連絡がないということは、
問題なく仕事に取り掛かれるということでしょう。……いいですか、虎。我々が突入したら、屋
内の明かりは全て消えます。敵味方を区別するのは、この鈴です。味方は全員この鈴を体のどこ
かにつけ、相手が鈴を鳴らしたらそれは味方ですから引き、こちらが鈴を鳴らしているにもかか
わらず斬りかかってくるものがあれば、それは敵ですから反撃します。少し手間ですが、相打ち
は避けねばなりません。全ての出入り口と窓の前には見張りを立たせますので、打ち漏らしはな
いはずです。慌てず騒がず、ひとりびとり確実に片付けていけばよいのです。」
春先の雨は冷たく、降り方はとても柔らかであったが、およそ二町の距離を歩く間にはだいぶん
体が冷えてしまった。頭巾の端に鈴を結びつけた紅虎は、先ほどから小刻みに体を震わして、背
中の辺りからチリチリと澄んだ音を響かせている。寒さのためであろう、と紅虎の袖のない衣服
を見るにつけても人々は思うが、やはりそうした理解を込めてよこした白鴉の視線に、紅虎は、
「違うで。」
と肩をすくめ、両腕を撫でさする動きをいっそう早くしながら言った。
「これはお前の言うこと聞いて武者震い起こしてんねん。相手の中には結構強いやつもおんねや
ろ?人数もこっちより多いし、ほんまやったら不意を突いたところで一気に四、五人はやっつけ
ときたいとこや。そやけど月明かりのない夜で、部屋の中も真っ暗になる。相手はとにかく無茶
苦茶に刀振るって自分だけ助かること考えといたらええけど、こっちは確実に向こうさんだけ殺
すようにせんとあかん。相手を見定める分、始動が遅くなる。向こうが敵やった場合には、まず
は初太刀をかわさんといかん。鈴の音も気にしい、相手の刀の動きも気にしいや。いつもやった
ら何てことない相手でも、一歩間違(まちご)うたら致命的。実力が対等の相手やったらと思う
と、さしものわいかて下っ腹近くのこの辺が縮こまってくるゆうか、むず痒くなってくるゆうか。」
「……あなたは、大丈夫だと思いますよ。」
「守らんとあかんやつがおるやないか。あいつにはわいにくっついとくように念押ししとかんと。」
「そうすることで、より困難な状況をつくりあげて楽しもう、というわけですか。」
「そんな余裕あるかなあ。ああ、わい心配になってきた。ちょっとあいつらんとこ行ってきてえ
えか。」
「すぐに戻ってくださいよ。あの格子窓の間から白い布が落ちてきたら、寸刻を置かず突入です。」

ほとんど凪と呼んでもいいくらいに風がない。ゆえに雨滴はまっすぐに落ちてくるのであり、頭
頂部に当たればちょっとした礫(つぶて)を投げられたようであり、着衣に当たればたちまちに
吸い込まれて大きな染みをつくる。夜目に染みの広がりは見えないにしても、しだいしだいに増
してくる、体全体に感ずる重みは確かなものだ。
「白鴉さま、これ以上は……。」
紅虎配下の男が、肩口に張り付いた着物を持ち上げてみせながら、これ以上の雨水の浸透の害を
白鴉に陳情しようとしたその時、待ちに待った真っ白な布切れが、格子窓の間をするりと猫のよ
うにしなやかに降りてきた。おっ、と喉の奥で一同快哉を叫び、同時にすらりと刀を抜く。幾つ
もの修羅場をくぐりぬけてきただけあって、容赦のない殺気がたちまちに全身から立ち上る。
「行きましょうか。」
白鴉は戸口に手を掛ける。その隣にぴったり張り付くように、槍を持った紅虎が体勢を低くして
構えている。見えないはずの表情は、どこか笑っているようだった。彼の背後には、例の若者が
早くも呼吸を荒くして、やはりぴったりと張り付いている。
「どうしたん。はよ開けえや。」
「あなたは袖がないのでいいですね。濡れても何ら問題ない。」
ひどく静かな声でそんなことを呟きながら、白鴉はまるで平生(へいぜい)における訪問客のよ
うな何気なさで戸を開けた。
すでに内部は狂乱のるつぼと化していた。同じような合図を受けた紅虎の手下たちが、一足早く
裏口からなだれ込んできていたのだ。それを受けて、内部にいた白鴉の手のものが明かりという
明かりを全て吹き消し、髪を結う紐や刀の鍔などにくくりつけた鈴を鳴らしながら、今の今まで
適当に言葉を交わしていた見知らぬ男たちに向かって白刃を振り下ろす。元より、このように大
掛かりな襲撃を受けるなど、相手方も穏便に世を渡ってきたものたちではあり得ない。「やつら
の罠か!」と叫ぶものあり、舌打ちしながら刀を抜くものあり、ただちに迎え撃つ態勢に移る。
「表は出られないのか!?」
退路の確保は優先事項である。二、三人が裸足のままで土間に飛び降りた。先頭を行くのはもっ
とも小柄な男で、その手が木戸にかかろうかという寸前に、白鴉の手によりその戸は開けられた
のである。驚きに目を見張りながら、退路を求める男は戸外がすでに屈強な男たちによって固め
られているのを見ると、
「ちくしょうっ、どけ!」
叫びながら、握り締めた大刀を、白鴉に対し横様に振り切った。距離と速さからいって確実に捉
えたと男は思った。だが手応えはまるでなく、霞を払ったかのごとくだ。
「くそっ。」
男はもう一度刀を振るおうとした。だがその意に反して、両腕が肩の辺りでしか動かない。恐ろ
しい予感に意識が凍りつく。強張った顔で目線だけを動かし見てみれば、両腕とも肘の先がない。
ぐらりと視界が揺れる。と同時に腹部に激しい痛みが走るのを感じた。熱いものが溢れ出して
衣服を濡らす。その場に倒れこんだ男は、間もなく自分自身が造り上げた血だまりの中に没した。

闇の中の死闘はおよそ小半時に及んだ。出入り口は完全に塞いだとはいえ、建物には二階部分も
あり、敵が動き回ることに徹するとなかなか追い詰めるには骨が折れる。相手の動きにばかり気
を取られていると、あちこちに転がる死体に足を取られて、逆にこちらが絶体絶命の状況ともな
りかねない。
「死体を集めなさい。鈴がついているのは味方のものですから除(の)けて。全部で三十五体あ
れば任務は完遂したことになります。」
手の空いたものたちに、白鴉が命ずる。さらに、明かりをつけるようにとの彼の言葉に、屋内に
あった幾つかの行灯に火が点(とも)される。襲撃者たちにとって久方ぶりのその光明は、彼ら
自身が繰り広げた殺し合いの凄まじさの一端を浮かび上がらせた。
「おいお前、ひでえ格好になってるぞ。」
「お前こそ、袖を片方どうしたんだ。ついでに額が切れてるぞ。」
白鴉自身が、運ばれてきた死体を一体一体確認しているところへ、二階から、戦いの最中はぴっ
たり紅虎にくっついていた例の若者が、ほとんど転げ落ちるような勢いでやって来た。
「三人が屋根に上って逃げています!紅虎さまが今ひとりで追っています!」
二階にある唯一の窓は、裏通りに面している。地面に下りようとすれば、当然裏口を固める連中
と一戦を交えなければならないが、屋根に上がればそこはとりあえずは安全圏である。地上から
の追っ手よりも速く走り、追いつかれずに地上に下り立つことができれば逃げおおせる可能性も
なくはない。だが、今宵は雨である。
「何をそんなに必死の形相で。大丈夫ですよ。その三人も、この悪天候の中屋根に這い上がった
だけでも大したものですが、幾らなんでも地面を走るものより速く走るなどできないでしょうし、
途中で転げ落ちるのが関の山……まあ、その前に全員紅虎の槍の穂の餌食になる、というのが
もっとも大きな可能性でしょうか。」
「し、しかし、紅虎さまは腕に怪我をされているのです。」
「おや。」
「俺がちゃんと後ろに気をつけてなくて、紅虎さまは前方の敵と槍を使って戦ってましたから、
それでとっさに左腕を……。」
「利き腕ではないのですね。」
土間に屈んで、白鴉は死体の点検を続けている。
「それなら大丈夫でしょう。しかし、おそらく裏口を固めていた連中が行っているのでしょうが、
その彼らに紅虎が片付けた後の死体を持ち帰ってくるよう伝えねばなりません。あなた、その
くらいの伝令役はできるのでしょうね。」
「はっ、はい。」
「では行ってきなさい。」
研ぎ澄まされた刃物のような白鴉の視線を、ほんのわずか向けられただけで、若者は肝を冷やし
たように表情を固くした。掠(かす)れた声で短い返事をすると、ところどころ血糊でぬめる室
内を、やはりまた転げるような勢いで裏口の方へと駆けていった。


続く 


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