「ぐるりと回って最初に戻る」1
備考:昧→信世話焼き、竜且→昧は標準装備
| その天幕の奥の三分の一は、厚手の布地によって仕切られ、住人のごく私的な空間とし て確保されている。その奥の間から、面貌も雄雄しい巨躯が現れるのを、集まった将校たちは当 | 然のように待っていた。あまり話もしないで、地面に直接置かれた卓上に、無造作に、開きっぱ | なしにしてある地形図を眺めてみたり、午前の爽やかな風が流れ込んでくる入り口の付近に立っ | て、まだ来ていない同僚の姿を左右に求めてみたりする。
| 仕切りの向こうの静けさには、彼らはみんな最初から、奇妙な感じを持っていた。寝ているのな | ら無防備な寝息のひとつも立つであろうし、起きているのなら、何かしら動いていないと。石像 | でもあるまいし。ましてあの大将が、どんな厳粛な場であろうと、一刻とてじっとしていられる | わけはないのだから。
| 「おい、項将軍は中におられるんだろうか。」
| 今にも仕切りの向こうに飛び込んでいきたいというふうな、落ち着かない様子で竜且が言った。
| 「さて、ぴくりともいいませんが。おい、見張り。」
| 「はい!」
| 「項将軍はいったい中におられるのか?」
| 「いえ、さきほど供を連れて出かけられました。」
| 「何?どちらへ。」
| 「それが、おっしゃいませんでした。しかし軍議の刻限までには戻る、とおっしゃっておられま | した。」
| 「貴様、それはまず我々に言うことであろうが。」
| 周殷と見張りの会話を聞いている内に、竜且はすっかり不機嫌になっていた。
| 「も、申し訳ありません。」
| 「まあまあ、問われもしないのにどう口を利いたものか、分からなかったのでしょう。しかし范 | 増どのも来られないし、ふむ、鐘離昧どのの姿も見えない。もう刻限間近いというのに、珍しい | 日もあったものです。」
| しかつめらしく周殷が言うのに、竜且はどんぐり眼を動かして辺りを見やった。周殷の指摘した | ように、集まるべきものの姿が三名足りない。
| 入り口付近に立つ季布に、竜且はその三名の姿が見えないか尋ねた。少し間を置いて、おそらく | 現れた人影を見極めるためであろう、上半身を表に乗り出しながら季布は答えた。
| 「項将軍と范増どのがお見えになった。」
| すっかり表に出て、二人を迎える態勢を取る季布の近くへ、他の将校もわらわらと集まる。竜且 | の後ろからは周殷が、その肩越しに覗き込もうと背伸びなどしていた。
| 「これで、鐘離昧どのは一番最後ということになってしまいますな。」
| うむ、と竜且は低く呻くような声を漏らす。
| 「あの方にしては珍しいことだ。いつもは、俺やそなたなどよりもよほど早い。」
| 「実はわたし、途中までご一緒だったので知っているのですが。」
| 白面の青年は口調も爽やかに、清流がさらさらと流れるが如く言葉を紡ぐ。
| 「途中で韓信の姿を見かけまして、今時分に何をやっているのかと糺(ただ)しに行かれました。 | すぐに後から行くという風に、その時にはおっしゃっておられたが。」
| 「韓信?あの股夫かっ。」
| 吐き捨てるような竜且の言葉に、周殷はにやつく。さらに二、三言、軽口を叩きたいような衝動 | がその面(おも)には走ったが、一同、待ちかねていた巨躯が目の前に近づいたためにしおらし | く体を小さくする。比較的年長であり、項羽はもとより他の将校連からの信頼も厚い季布が口を | 開く。
| 「何か緊急のことでも?」
| 「いや、亜父を迎えに行こうと思ったのだ。つい話し込んでしまってな。少し遅れたようだが…… | みな、そろっているか?」
| 最も目線の位置が高い項羽には、一度ぐるりと見渡しただけで一同の顔がよく見えただろう。い | るはずの顔がひとつ足りないことに、すぐに気づいた。
| 「昧がおらんようだが。」
| 小さなざわめきが起こる中、背後を振り向いた季布と竜且、それに周殷の目が次々と合った。普 | 段は少し眠たげな季布の一重の目が、特に何かを言わんとしているかのように見えた。おそらく | 彼には、竜且と周殷が交わした会話の内容が聞こえていたのだ。それを項羽に言うのか、言わな | いのか、小首を傾げてみせる年長者に対し、竜且と周殷は肘で互いをつつき合ったり目顔で盛ん | に何か言い合ったりしながら、結局は何も発言しなかった。
| その内に、話題の人が、鎧をかちゃかちゃいわせながら慌てた様子でやって来た。天幕の前にみ | ながたむろしているのに非常に驚いた顔をする。
| 「ははは、そなたが最後とは珍しいな。」
| まったく咎めるつもりなどないらしく、項羽が笑う。
| 「はっ、申し訳ございません。ところでどうして外に出てらっしゃるのですか。」
| 「そなたが来ぬから、みなで出てきたのよ。」
| 「はっ、それは……申し訳ございません!」
| 顔を真っ赤にして鐘離昧は恐縮の体(てい)である。が、もちろん項羽の発言は事実に反するの | であり、それを指摘できる人間が軍中にはわずかながら存在した。
| 「昧どの、このお方の冗談を真に受けられてはいけませんよ。我々が出てきたのは、こちらも少々 | 刻限に遅れられた偉大なる上将軍どのをお迎えするためなのです。」
| 「何だ荘よ、ばらしてはつまらんぞ。」
| 「真面目な昧どのをおからかいになるのは、いかがなものかと思いますよ。さっ、どうぞお中へ。」
| 口調の端々は丁寧にまとめてあるものの、全体に柔らかな雰囲気にはいっさいの気兼ねがない。 | 表向きに繕った多少の硬さを削ぎ落とせば、彼らは単に仲のよい友達か兄弟のように見えただろ | う。実際、彼らは幼い頃からともに学び、遊んできた、血縁関係も確かな従兄弟どうしなのだっ | た。項羽と項荘。年齢は、荘のほうが幾分か上である。
| 天幕の内に向かって項荘が手を伸ばすと、その辺りを塞いでいた武将たちは心得顔で素早く脇へ | 退(の)いた。うむ、と項羽は頷き、開かれた道を通って、ようやく自身の仮住まいへと帰着す | る。その後から、項羽に比べればほとんど半分ほどの容積しかないような老人、范増が、さらに | は重い鎧を身につけた武将たちが、だいたいにおいて年齢の高い順に入っていく。
| 遅刻した鐘離昧は何となく控えめにしていたい心境から、一番後ろでみなが入っていくのを待っ | ていた。最も近いところには、周殷の後姿が見えていたが、不意に、その後姿がするすると地面 | を滑るように動いてきて、気づけば隣に並んでいた。
| 「何か?」
| 「韓信はどうしてあのようなところに?」
| 「見張りの時間を他の者と代わったのだとか。上の者は把握していないことだというので、あま | り勝手な動きはするものではないと、注意しておきました。するのならば、きちんと報告しなけ | |