「ぐるりと回って最初に戻る」1
備考:昧→信世話焼き、竜且→昧は標準装備


その天幕の奥の三分の一は、厚手の布地によって仕切られ、住人のごく私的な空間とし
て確保されている。その奥の間から、面貌も雄雄しい巨躯が現れるのを、集まった将校たちは当
然のように待っていた。あまり話もしないで、地面に直接置かれた卓上に、無造作に、開きっぱ
なしにしてある地形図を眺めてみたり、午前の爽やかな風が流れ込んでくる入り口の付近に立っ
て、まだ来ていない同僚の姿を左右に求めてみたりする。
仕切りの向こうの静けさには、彼らはみんな最初から、奇妙な感じを持っていた。寝ているのな
ら無防備な寝息のひとつも立つであろうし、起きているのなら、何かしら動いていないと。石像
でもあるまいし。ましてあの大将が、どんな厳粛な場であろうと、一刻とてじっとしていられる
わけはないのだから。
「おい、項将軍は中におられるんだろうか。」
今にも仕切りの向こうに飛び込んでいきたいというふうな、落ち着かない様子で竜且が言った。
「さて、ぴくりともいいませんが。おい、見張り。」
「はい!」
「項将軍はいったい中におられるのか?」
「いえ、さきほど供を連れて出かけられました。」
「何?どちらへ。」
「それが、おっしゃいませんでした。しかし軍議の刻限までには戻る、とおっしゃっておられま
した。」
「貴様、それはまず我々に言うことであろうが。」
周殷と見張りの会話を聞いている内に、竜且はすっかり不機嫌になっていた。
「も、申し訳ありません。」
「まあまあ、問われもしないのにどう口を利いたものか、分からなかったのでしょう。しかし范
増どのも来られないし、ふむ、鐘離昧どのの姿も見えない。もう刻限間近いというのに、珍しい
日もあったものです。」
しかつめらしく周殷が言うのに、竜且はどんぐり眼を動かして辺りを見やった。周殷の指摘した
ように、集まるべきものの姿が三名足りない。
入り口付近に立つ季布に、竜且はその三名の姿が見えないか尋ねた。少し間を置いて、おそらく
現れた人影を見極めるためであろう、上半身を表に乗り出しながら季布は答えた。
「項将軍と范増どのがお見えになった。」
すっかり表に出て、二人を迎える態勢を取る季布の近くへ、他の将校もわらわらと集まる。竜且
の後ろからは周殷が、その肩越しに覗き込もうと背伸びなどしていた。
「これで、鐘離昧どのは一番最後ということになってしまいますな。」
うむ、と竜且は低く呻くような声を漏らす。
「あの方にしては珍しいことだ。いつもは、俺やそなたなどよりもよほど早い。」
「実はわたし、途中までご一緒だったので知っているのですが。」
白面の青年は口調も爽やかに、清流がさらさらと流れるが如く言葉を紡ぐ。
「途中で韓信の姿を見かけまして、今時分に何をやっているのかと糺(ただ)しに行かれました。
すぐに後から行くという風に、その時にはおっしゃっておられたが。」
「韓信?あの股夫かっ。」
吐き捨てるような竜且の言葉に、周殷はにやつく。さらに二、三言、軽口を叩きたいような衝動
がその面(おも)には走ったが、一同、待ちかねていた巨躯が目の前に近づいたためにしおらし
く体を小さくする。比較的年長であり、項羽はもとより他の将校連からの信頼も厚い季布が口を
開く。
「何か緊急のことでも?」
「いや、亜父を迎えに行こうと思ったのだ。つい話し込んでしまってな。少し遅れたようだが……
みな、そろっているか?」
最も目線の位置が高い項羽には、一度ぐるりと見渡しただけで一同の顔がよく見えただろう。い
るはずの顔がひとつ足りないことに、すぐに気づいた。
「昧がおらんようだが。」
小さなざわめきが起こる中、背後を振り向いた季布と竜且、それに周殷の目が次々と合った。普
段は少し眠たげな季布の一重の目が、特に何かを言わんとしているかのように見えた。おそらく
彼には、竜且と周殷が交わした会話の内容が聞こえていたのだ。それを項羽に言うのか、言わな
いのか、小首を傾げてみせる年長者に対し、竜且と周殷は肘で互いをつつき合ったり目顔で盛ん
に何か言い合ったりしながら、結局は何も発言しなかった。
その内に、話題の人が、鎧をかちゃかちゃいわせながら慌てた様子でやって来た。天幕の前にみ
ながたむろしているのに非常に驚いた顔をする。
「ははは、そなたが最後とは珍しいな。」
まったく咎めるつもりなどないらしく、項羽が笑う。
「はっ、申し訳ございません。ところでどうして外に出てらっしゃるのですか。」
「そなたが来ぬから、みなで出てきたのよ。」
「はっ、それは……申し訳ございません!」
顔を真っ赤にして鐘離昧は恐縮の体(てい)である。が、もちろん項羽の発言は事実に反するの
であり、それを指摘できる人間が軍中にはわずかながら存在した。
「昧どの、このお方の冗談を真に受けられてはいけませんよ。我々が出てきたのは、こちらも少々
刻限に遅れられた偉大なる上将軍どのをお迎えするためなのです。」
「何だ荘よ、ばらしてはつまらんぞ。」
「真面目な昧どのをおからかいになるのは、いかがなものかと思いますよ。さっ、どうぞお中へ。」
口調の端々は丁寧にまとめてあるものの、全体に柔らかな雰囲気にはいっさいの気兼ねがない。
表向きに繕った多少の硬さを削ぎ落とせば、彼らは単に仲のよい友達か兄弟のように見えただろ
う。実際、彼らは幼い頃からともに学び、遊んできた、血縁関係も確かな従兄弟どうしなのだっ
た。項羽と項荘。年齢は、荘のほうが幾分か上である。
天幕の内に向かって項荘が手を伸ばすと、その辺りを塞いでいた武将たちは心得顔で素早く脇へ
退(の)いた。うむ、と項羽は頷き、開かれた道を通って、ようやく自身の仮住まいへと帰着す
る。その後から、項羽に比べればほとんど半分ほどの容積しかないような老人、范増が、さらに
は重い鎧を身につけた武将たちが、だいたいにおいて年齢の高い順に入っていく。
遅刻した鐘離昧は何となく控えめにしていたい心境から、一番後ろでみなが入っていくのを待っ
ていた。最も近いところには、周殷の後姿が見えていたが、不意に、その後姿がするすると地面
を滑るように動いてきて、気づけば隣に並んでいた。
「何か?」
「韓信はどうしてあのようなところに?」
「見張りの時間を他の者と代わったのだとか。上の者は把握していないことだというので、あま
り勝手な動きはするものではないと、注意しておきました。するのならば、きちんと報告しなけ
ればならない。それで、行かせたのです。途中までついて行きまして。」
「最後までついて行ったのでは?」
あくまでも鐘離昧には背を向けたまま、周殷は首を後方に傾けて、ちょうど流し目を送るような
感じで相手を見ていた。笑って少し細めた目、弓なりに上がった形のよい唇、品のよいたたずま
い。女を口説き落とすのに、これほど適した姿形の男もそうはいないだろうが、鐘離昧は男であ
るし、周殷が発した言葉も無論口説き文句などではない。
「あなたはあの男のことになると頭に血が上るから。」
「ひとりで、行かせましたよ。」
「そうですか。」
「…………。」
平静を装っているのだろうが、鐘離昧の眉間の皺は険しい。いつもは率直に事態を危惧して、繊
細な趣で刻まれることの多いそれが、今は明らかに不快と反感の色を滲ませている。それが鐘離
昧らしくないのだと、頭に血が上っている証拠なのだと、目の前に鏡を突きつけて言ってやりた
いと周殷は思ったが、それでも、鐘離昧は己の内面を素直に受け止めはしないだろう。
ふう、と鼻から息を出し、周殷は正面に向き直った。自分たちを除く最後のひとりが天幕の内に
消えていこうとしている。それを小走りに追った。軍議が終わったら、今の会話を一言半句漏ら
さず、微細な表情の変化にまで立ち入って、竜且に伝えてやるつもりだった。人と人との感情の
入り乱れは何よりも美味い肴(さかな)だ、と彼は思っている。

すでに体の一部分のようになっている長剣の柄に肘を持たせ、ゆったりと歩く韓信の姿には、そ
れなりに威風がある。身につけた鎧は粗末で、錆びた刀剣一本防ぎきれるかどうかさえ分からな
いが、背が高く、腰に届くほどの髪を付け根でぎゅっと縛って、それをほとんど揺らすことなく、
長い足を一歩ごとに静かに運ぶ。滑らかな頬は常に仄かに色づいて、茫洋たる目見(まみ)に
は愚かしさとも、鴻鵠(こうこく)の志とも知れぬものが映っている。
「おい、貴様。」
左の方(かた)から聞こえた声に反応して、足を止めた。
「どこへ行く。」
見れば、竜且が恐ろしげな顔をして立っている。
「鐘離昧のとこ……。」
「呼び捨てるな!……昧どのに呼ばれたのか?」
韓信は頷いた。
「ふん。」
竜且の腕がさっと伸びて、とっさに、韓信は殴られるかと思って後ろに退(の)きかけた。その
韓信の前髪を、竜且は掴んだ。ぐいっと強く引っ張って、ちょうど謝罪でもするように頭を低く
させる。
「お前はじゅうぶんに人と目を合わせることもできんのか!うっとうしい。切れ!」
大して痛くはなかったが、ぐいぐいと引っ張られるので脳味噌が振動して足元がふらつく。竜且
の手を離させようともがきながら韓信が口走ったことは、今までの言動から、もっとも竜且の動
揺を誘う文句を無意識に割り出したものであった。地面につかんばかりに顔を伏せた状態から、
とても小さな声で早口に言ったので、一度目では、竜且の耳にはそれはただの意味を成さない短
い叫びとしか聞こえなかった。
「何だ、何か文句があるなら言ってみろ!」
「……昧に切ってもらう。」
「あん?」
「これから昧のとこに行って切ってもらう!」
頭の上を薙(な)ぐようにして竜且の腕を払い落とし、自由になった頭を翻して韓信は脱兎の如
く逃げ出した。その勢いに多少怯んだというのもあるが、それ以前に発せられた言葉に竜且は何
とも一言では言い表せないような心情を味わい、韓信に対する苛立ちを相対的に減殺(げんさい)
されてしまっていた。ほとんど打ち叩くようにして払われた腕の痛みなど感じることもなく、
ただ竜且は自分の抱いた感覚を読み解こうとしてその場に立ち尽くしていた。
(あの股夫と昧どのの距離の近さを、思い知らされたかっこうだ。髪を切ってもらう、というの
はひとつの象徴的な例に過ぎない。要は間に空間を差し挟むことのない間柄……くそっ、昧どの
の中であの股夫はどういう位置づけなのだろう。単なる幼馴染としても、あの年齢差ならば、あ
の世話焼きぶりもさして不思議なことではないが。昧どのは優しい性質(たち)の人だし、股夫
めは人一倍だらしなくて阿呆ときている。)
竜且は地面を蹴った。詰るところが、愉快でない。さらに重大な問題が持ち上がっていることに
彼は気づいた。
(あっ、いかん!今あったことの詳細が昧どのの耳に入ったら。股夫めは巧いこと昧どのの情を
得ているし、手荒な真似は基本的にあの人の好くところではない。股夫の話しようによっては、
俺への昧どのの心証はもはや修復しがたいものになるぞ。)
大きな体でおろおろし始めるが、韓信と鐘離昧はすでに一緒にいて、韓信の前髪を本当に鐘離昧
が切ってやっているところかもしれず、そんなところに闖入(ちんにゅう)して韓信を拉(らっ)
し去るわけにもいかず、かといって穏当にふたりのもとを訪れ、鐘離昧に不審に思われぬよう
にさりげなく韓信に意図するところを伝え、しかもその協力を取り付けるなど、韓信に対してほ
とんど敵意しか持ち合わせていない竜且にとってはまず選択肢からしてあり得ない。
「くそっ、どうすれば……。」
歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まり、結果として同じ場所をぐるぐる回っている竜且の背
後に、忍ぶような足取りで、すらりとした人影が立った。
「どうなされた、竜且どの。」
「おお、周殷か。いや、うむ……。」
「何かたいそうお困りの様子に見えますな。」
まっすぐ竜且に近づき、淡く憂いを滲ませた目で見つめる。
「何か、お困りですか?」
「う、うむ……。」
躊躇いながらも、竜且はうなずく。その広い背中に手を添えて、お互いの護衛兵から少し離れた
位置に連れてきた時点で、周殷は、もう九割がた相手から話を聞きだすことに成功していたと言っ
ていい。そして応じた竜且は、無意識の内にも縋りつく相手をこの目の前の男と決めていたの
だ。

身につけた武具がまるで重たげに見えない。肩で風を切るように颯爽と歩く。青年将校の清潔さ
と漲る力、そして幾らか軽薄らしい内面が、その歩き方には滲み出ている。
頤(おとがい)を高く上げ、ただ前だけを向いて進んでいたかのように見えた彼だが、目的の場
所が近づくにつれ、怜悧な光を湛えた双眸は小刻みに動きだした。歩度を落とし、付き従う警護
の兵を振り向き、鋭く短い言葉を投げる。「ここで待て。」
他よりも一回り大きなその天幕は、軍の中枢を成す将校連の住まいとしてあてがわれたものであ
る。入り口には二名の見張りが立ち、彼が近づいていくと同じような角度で顔を向け、誰である
か認識すると、あっと小さく声を上げ、慌てた様子で敬礼した。いいよ、と彼は手を上げ、次い
で自分に近いほうの兵士を手招きして呼んだ。彼は天幕の内に自分たちの声が聞こえないよう、
自ら声をひそめ、目つきに含みを持たせて兵士にも倣(なら)うよう命じた。
「鐘離昧どのは、今おひとりか?」
「いえ、韓信が来ております。」
「そうか、一兵卒がな。もうずいぶん前から?」
「ずいぶん、というほどではありません。」
「どんな話を?」
「え、それは……。」
「だいたい知っているのだ。髪の話とか、見張りを交代した話とかではないか?」
「そ、そうです。」
「韓信は、何か不満を言っていなかったか。」
兵士は、あまりにも目の前の若き将校が実際にあったことをすらすらと話すので、だいたいどこ
ろかもう全て正確に把握しているのだと感じて、自分の耳に入ったふたりのやり取りを包み隠さ
ず伝えることにした。
「韓信は何度か、同じ男に頼まれて見張りを交代してやったことがあるそうなのですが、その男
が代わりに立ってくれたことは一度もないのだそうで。」
「昧どのは処置してやると言ったか?」
「責任者に注意しておいてやるとだけ。あまり踏み込んだことは。」
「そうか。それとな、竜且将軍の話は出なかったか?」
「竜且さまですか?いいえ。」
天幕というのはぶ厚い布でできているので、耳を寄せてもなかなか容易には中の会話は聞き取れ
ない。それは中からでも同じであるが、何か話しているらしいことは分かる。ゆえに、若き将校
は自分たちが話すに際し声を潜めたのであり、必要な問いだけをし、答えを得た後にはただちに
会話を切り上げた。中からは、鐘離昧らしい人物の声が途切れ途切れにするのであり、しかし何
を話しているのかは、さっぱり分からない。
昼間であるので、入り口を覆うための布は両側に吊られている。ぽっかりと開いた口のすぐ脇に
立って声を立てれば、それは内部にもよく聞こえる。見張りのひとりとの会話を終えた将校は、
もうひとりの、務めを果たしてずっと動かずにいた兵士のほうに近づくと、いたって快活に声を
かけた。
「おい、鐘離昧どのはいらっしゃるか。」
「は、はいっ。」
「取次ぎを。」
兵士は弾かれたように動いた。決して中を覗かぬように体を天幕の入り口に対して直角に向け、
目線を高くして大声(たいせい)を発した。
「申し上げます!周殷将軍がお見えでございます!」

地面には、ほぼ半円を描いて髪が落ちていた。鐘離昧の手が韓信の髪を一束すくい上げ、今しも
匕首(ひしゅ)の刃を当てて削ぎ落とそうとしていた。
ここに来るまでの韓信が、どれほど長い髪を持っていたのか。腰までだったのか、それをはるか
に過ぎていたのか。周殷の記憶は朧に過ぎて、ゆえに今の時点でどれほど彼の散髪が完了してい
るのか分からない。ただ落ちている髪の量からして、前髪を少し整える、という程度のものでは
ないらしい。
「貴公手ずから一兵卒の髪を刈るとは。」
「幼馴染に頼まれてその髪を刈る、というのならばごく自然なこと。」
周殷は、脇に除けられていた椅子を持ってきて、腰掛けた。
「何かご用ですか?必要なら、こちらのほうは後でも。」
「いやいや、そのまま。お切りになって……。水ですか?」
やはり端のほうに片付けられていた円卓には、水差しと、重ねられた状態の数個の椀が、盆にの
せられ置かれていた。その水差しの取っ手を握り、傾ける。
「いや、酒です。だいぶん薄めてありますから、どうぞ。」
「いただきます。」
周殷は嬉しそうに笑った。
「しかしあれですな、そういうところを竜且どのが見たらと思うと、愉快ですな。」
「はっ?」
「あなたが韓信と仲良くいることを、よく思っておられないから。」
「ああそれは、そういった声ももちろん聞きます……。これは、いろいろと誤解されているので。」
匕首を持たないほうの手で、鐘離昧は韓信の頭を撫でた。年長者として年下を慈しみ育てる心が
あるのは当然だろうが、それにしても、これ、と韓信のことを呼んだ声の調子は単に優しいとい
うだけでなく、対象への並々ならぬ思い入れというのか、一途な響きを含んだもののように周殷
には感じられた。
「そうですな。何かと生まれのことでは。しかしあなたの前ではぐっと抑えておられる、竜且ど
のは。あなたに重きを置いていますから、韓信を非難することで、あなたまで何か否定するよう
な、そうした受け止め方はしてほしくないわけです。」
「はあ。」
「ですからあなたの前では極力慎んでいらっしゃるので、そのあたりのことはぜひとも汲(く)
んで……。」
酒を注いだ椀を、口元の前で表情を隠すように持ちながら、周殷は、韓信の髪を丁寧に切り整え
ていく鐘離昧と、その手にまったく身を任せて、先ほどからほとんどぴくりとも動かないでいる
韓信の姿に、さも興味を掻きたてられる何かがあるとでもいうような目つきで見入っていた。
(この男、俺の話を聞いているのかな?)
体を前に倒すと、椅子の底が半分ほど地面から浮いた。不安定な体勢から腕を伸ばし、周殷は韓
信の鼻先に椀を突きつけた。
「飲まんか。石像のように固まっているのは疲れるであろう。」
「…………。」
一呼吸置いて、韓信は右手だけ動かし、それを受け取った。
「いただきます。」
まるで寝起きのように不明瞭な発音。
「こら、人と話をする時は口を開けて……。」
鐘離昧は、身内の失敗を恥じる人のように顔を赤くして、叱った。が、それを受けて韓信が何か
改めて言うことはなかった。ただ小さく首を傾げた。だいたいにおいて長さのそろった前髪が揺
れて、つるりとした円(まる)い額が現れた。
つと腕を伸ばし、周殷はその額と前髪をそろりと撫でた。それまで茫漠としていた韓信の表情が
わずかな硬さを見せ、離れていく周殷の手を目だけで追う。
「ぜひとも、汲んでいただきたい、ということです。」
虚空に円を描くように、浮かせた腕を自らの眉間へ持ってきて、追いかけてきた韓信の視線を捉
えた機を逃さず周殷は言った。口調そのものは丁寧に保たれ、装いとしてはいまだ鐘離昧に対し
ての言葉のようであった。
「周殷どの?」
「あなたをやきもきさせたくないのです。あなたには安らかでいていただきたい、と竜且どのは
思っている。わたしもですよ?」
「はあ……。」
鐘離昧は韓信の背後で腰をかがめる。わずかに長く残った髪を手に取り、匕首を近づける。さくっ、
と静かに響く音。
「うむ、だいたいこんなものだろう。」
後ろに身を引き、仕上がり具合を確かめる。韓信の後ろ髪は、ちょうど背中の真ん中あたりで切
りそろえられていた。
表へ向かって、鐘離昧は呼びかけた。
「おい誰か、これを片付けてくれないか。」
左手を開き、髪を落とす。半月型に降り積もったそれの高さは、踏み込めば、足首まで隠れそう
なほどであった。

元来、気配りの人である鐘離昧は、何かを完全に他人任せにするということがうまくできない。
使用人も大勢いる家に生まれたのだから板についていそうなものだが、そこは家族構成や兄弟間
の仲の結果として、かえって必要以上に気を遣う人間というのもできあがってくるものである。
散髪を済ませた後の片付けを兵士たちに言いつけたにもかかわらず、韓信の座っていた椅子を持
ち上げて動かしてみたり、何かと口を出してみたりして鐘離昧は落ち着かない。それを横目に見
ながら、周殷は、自分の渡した椀を物乞いか何かのように胸の辺りに持って立っている韓信のそ
ばに歩み寄った。
「おい、さっきの意味は分かったのだろうな。」
韓信は、意外に素早い反応で周殷を見た。少し間を置いて、頷く。
「分かったよ。」
「……本当だろうな。」
うん、と頷く。そして周殷を見るのをやめて、片付けをしている鐘離昧や兵士たちの動きを見る
ともなしに見ている。その横顔から内面を読み取ろうとしても、果たして読み取るほどの何かが
あるのかどうか。牛や馬を相手にするほうがまだしもましだ、と周殷は思った。
「お前、竜且どの、嫌いか?」
韓信は少しだけ周殷を見たが、またすぐ前方に顔の向きを戻した。
「何も、思わない。」
「……そうか。」
牛や馬には知性がないので、喉が渇けば水を欲する、子孫を残す本能に目覚めれば雌を求めると
いったふうに、分かりやすい。本能や五感からの刺激を受けて、それで何か改めて考えたり、捻っ
た行動をしたりということはない。しかし、韓信という男はどれほど愚かしく見えても、人間だ。
その頭には知識を蓄える場所があり、複数の事象を掛け合わせて独自の結論を得るべく働く場
所がある。そこを覗き見ることが困難である以上、目で見て分かる表情、耳で聞く声の調子など
から読み取るしかないのだが、韓信という人間の出力の機能、すなわち表情や発言を司(つかさ
ど)る器官の働きはといえば、それはひどく鈍く、まるでブタのようなのであった。
周殷は、特に効果的な文言を思いついたわけでもなかったが、ともかく多くの働きかけをしたほ
うが得るものはあるだろうと、また韓信に声をかけようとした。が、それを遮り、優しい声が響
いた。
「何を話しておられます。」
「あ、いや、これといって……。」
歩み寄ってくる鐘離昧の動きを制するように、周殷は自ら歩みを進めた。
「大した話ではないのですが、ただ少し、思ったことを話しておりまして。」
「思ったこと?」
「ええ少し、真面目な話といいますか。」
自然さを演出するために、周殷は広く辺りを見渡した。隅のほうに寄っている円卓に目を留め、
「あれを戻しましょうか。」と言った。
「椅子も元に戻しまして、それから真面目な話……少し、真面目な話です。」
比較的背の高い彼は、手足もちょうどいい具合にすらりと長く、広げるとそれなりの大きさの円
卓でも小さく見えるくらいに余裕があった。腕っ節もそれなりであって、持ち上げたそれを苦も
なく場の中央まで運んできた。静かに歩いたが、重ねられた椀はがちゃがちゃと神経質に鳴った。
「かたじけない。」
仄かに笑みを浮かべ、鐘離昧はやはり端のほうにあった椅子のひとつに近づいていくと、それを
両手でかかえ上げた。
「お前も、それを持ってきなさい。」
顎を前に突き出して韓信に指示する。木の幹を輪切りにして形を整え、腰を据えるところに厚手
の布を張っただけの椅子は、全部で五つあった。簡素を旨とする鐘離昧だが、気を遣う性格ゆえ、
あれもこれもと思い巡らし手配するうち、こうした行軍中の荷物においても気づけば人より少々
多くなっているのが常であった。
韓信は、まだ両手でひとつの椀を持って立っていた。
「何をしている。早く、それを。」
「…………。」
指差された足元の椅子を見つめ、腰をかがめる。椀を左手に持って、空いた右手で丸みのある椅
子の胴を抱きかかえるようにして、持った。覚束ないような印象さえ受ける足取りで円卓のそば
まで歩いてきて、また腰をかがめて地面に下ろす。まるで赤子を下ろすように慎重に。そして左
手に持った椀はそのままに、まだ一隅には残された椅子があるにもかかわらず、取りに行く素振
りさえ見せずぼんやりと、円卓の上に何か見るような目つきで立っていた。
「信、これも。」
鐘離昧からの新たな指示を受けてようやく動く。相も変わらず左手には椀を持って。その姿を横
目に見ながら、周殷はただ鈍重な男だと思った。


続く 


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