「ぐるりと回って最初に戻る」2
空に雲はひとつもないにもかかわらず、晴れやかさが感じられないのは、太陽の輝き方があまり にも弱いからだ。いったい、太陽はどこにあるのだろう。もはや昼近いというのに、いっこうに | その姿を認めることはできない。降り注ぐ光はいちおうあるものの、肌はひんやりと日陰の石の | ように冷たいままだ。
| 「あの愚か者を遠ざけてみせると、言ったではないか。」
| 「竜且どの、それは事実を切り貼りしすぎですよ。あなたが韓信に暴力を振るったことに関して | は、どうとでも言いつくろってみせましょうと言いましたが、その後の件に関しては、わたしも | その場の思いつきですから、ともかく試してみましょうと、こう言っただけです。」
| 「ううむ、しかし……。」
| 「うまく行くかもしれないという思いはあったのですが。鐘離昧どのに少しでも、韓信を自立さ | せようという思いがあったなら、受け入れてくださっていたと思いますよ。しかしあの方、韓信 | を猫かわいがりしていることは事実ですが、能力の評価というとさっぱりのご様子で。」
| 周殷が話している間、竜且は腕組みしながら絶えず唸っている。「ううむ、それは無論ではある。 | だがしかし……。」
| どこへ行くと定めるでもなく、彼らは陣中を歩いている。周囲では、明日の出立に備えて兵士た | ちが荷物の整理をしている。その指揮監督に当たるのは、百人ほどの部隊を率いる小隊長級とい | うことになるから、大将の項羽は言うに及ばず、そのすぐ下に位置する竜且らにしても、あまり | 為すべきことがない。彼らの受け持ちの範囲は広すぎて、細かなことを承知していないし、せめ | て自分たちの身の回りのことをと言っても、それはそれで、長いこと専従してくれているものが | いるので彼らに任せたほうがよほどてきぱきと事が済む。上位のものが何にでも口を挟むのは、 | 下位のものの仕事を奪うということでもあり、あまりよろしくない。
| 「韓信は不満のようでしたよ。あなたにも覚えのあることかもしれませんが、母親の愛情という | のは時に疎ましく感じられるものですから。」
| 「そのようなことは、俺はあまり……。決してなかったとは言わないが。しかし何だ。つまりあ | の股くぐりめは、あやつを思う昧どのの気持ちをまるでありがたく感じていないわけだ。罰当た | りな浮浪児めが、分不相応な待遇を受けておきながら、増長して、ふんぞり返って、思いあがっ | ておるのだ。」
| 「おや、あれは。」
| 竜且の罵言を面白そうに聞いていた周殷が、前方に何か見止める。互いの距離から、まだまった | く声は聞こえないだろうと思いつつ、小声になる。
| 「韓信ですよ。」
| 「分かっている。」
| 黒々とした竜且の髭が、心なしか硬さを増して、上向いて見える。
| 「不思議と後姿も鈍重らしく見えるもんですなあ。」
| 「……髪が短いな。」
| 「そりゃ昧どのが昨日刈ったばかりですから。しかし、よく分かりますな。」
| 「掴んだから分かるのだ。……掴んだのは前髪だが。」
| 何となく自分の言に不本意さを覚えたらしく、竜且は苦虫を噛み潰したような顔になる。韓信の | 名前が会話に出てきた時点で不機嫌は間違いなかったが、こうして何かきっかけがあるごとに、 | 彼の不機嫌さは増していく。そうして全ての悪感情は、有無を言わさず目の前の、彼にとっての | 諸悪の根源のような男に向かっていく。
| 竜且の足音は、彼も知らぬ内荒くなっていたが、韓信は最後までその存在に気づいた様子を見せ | なかった。同僚たる周りの兵士たちは顔を上げ、視線を走らせるくらいしていたのに、ただひと | り韓信だけが、近づいてくる竜且と周殷に対してずっと背を向け続けていた。
| 「鈍重な男だ……。」
| ついに韓信のそばを通り過ぎ、竜且と周殷は、逆に彼に対して背を向けるかっこうとなった。だ | が果たして、韓信が偶然にせよ意図的にせよ、顔を上げてそれを見ていたかどうか。確かめる術 | もないまま、ふたりの将校は無言で数十歩も歩き続けた。
| おい、と声を掛けながら、竜且は隣を歩く周殷の体を軽く肘でついた。
| 「そこを曲がろう。」
| 周殷は言われた通り、右に曲がった。そしてまた、しばらく彼らは黙って歩いていた。
| 「竜且どの?」
| 「少し、先に行っていてくれるか。」
| 不意に、竜且が足を止める。
| 「行けと言われれば行きますが。まあ先に行くといっても、我々、どこに行くというのでもあり | ませんが。」
| 「すぐに追いつく。」
| 「分かりました。……ああ、項将軍の天幕に行ってみますよ。きっと退屈しておられるでしょう | から。」
| 「亜父のところに行っておられるかもしれんぞ。まあ、いい、ともかく……。」
| 何となく気が急くらしく、竜且は会話を切り上げた。つき従うふたりの兵士とともに元の道を数 | 歩ばかり戻り、そこで立ち止まって何やら話し始める。
| 「行くぞ。」
| 盗み聞くつもりはなかった。周殷には、竜且が何をするつもりか分かるような気がした。自身の | 従者たちを促して、彼はその場を離れた。
| 韓信の背中は、その身長に比べるとあまり大きく感じられない。鍛錬を積んで、どこから見ても 厚みのある逞しい体を手に入れた、というわけではなく、かといって、浮浪児出身らしく痩せこ | けているかというとそうでもない。不思議と、食べ物には困らなかった人のように、ほどよく肉 | がついている。手元で何か作業している彼は、時折頭を動かして、そのたびに背の中ほどで切り | そろえられた髪の束が、馬の尻尾のように揺れる。
| 「おい、そこのお前。」
| 右手の方から聞こえた声に、韓信は注意を払わなかった。その場には彼以外に大勢人がおり、よ | もやその中から自分に声を掛けられたとはなかなか思わない。
| 「おい、お前だ。」
| その人影が、地面をのそのそと、こちら側に移動してくるのに気づいて、ようやく彼も、また彼 | の周りの兵士たちもはっきりと顔を上げた。それでもまだ誰に声がかかったのか、分かったもの | はいなかった。韓信は、自分とその近づいてきた男の目が合ったのも、単なる偶然と感じていた。
| 「お前だ。」
| 「……俺?」
| 顎を使って男が指したのは自分かもしれない、とようやくここで思った。
| 「そうだ、お前だ。少し来い。」
| 「何で……。」
| 「お前、体がでかいだろう。力の要る仕事があるんだが、人手が足りなくてな。」
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