「バレンタイン」1
備考:死後の世界はものすごく現代的。


日中、少し眠たくなり、綿入れを一枚引っ掛けて畳にごろ寝していた。すぐに起きようという意
思はあったものの、結局半時近くは眠っていたようである。目覚めた時、頭の下にはなぜか座布
団があった。どこからか寝ぼけて持ってきたのかと思ったが、少なくともこの部屋にはなかった
ものを、他の部屋に取りに行ったのに覚えていないということはないはずだ。今は真冬であり、
暖房器具を置いていない部屋、元より廊下などはすこぶる寒い。
綿入れをそのまま肩に引っ掛けて、煉骨はそっと襖を開け通路に出た。広くはない家である。耳
を澄ませば他人の息遣いは手に取るように分かる。
(台所か。)
目下、この家の合鍵を持っているものは三名。今も昔も兄貴分である年下の蛮骨。かわいい弟分
である銀骨。そして立場的には弟分といってもいいが、年齢的には七人隊内で唯一煉骨より年長
であった睡骨。渡した理由はそれぞれ違うが、判断は自身でしたものであり、納得している。ゆ
えに、それを使って誰がいつ来ようが、基本的には不満には思わない。ただ、そのやってきた人
物によってどう対応するかは多少異なるので、確かめるまでは少々慎重になる。
台所の入り口に立ったところで、煉骨は訪問者がひとりでないことを知った。特徴的な後姿は見
間違える相手さえいない。人というよりは巨大な鉄製のカラクリ人形のような、赤髪の男。「銀
骨。」そう呼びかけると、二つの顔が振り返る。「よう、兄貴!」と元気のよい高めの声を上げ
たのは、銀骨ではない。
「蛇骨、何してるんだ、お前。」
台所の、どちらかというと隅のほうに、傍観者のように突っ立っていた銀骨に対し、その男、と
呼ぶには奇妙な印象ではあるが、ともかく性別は確かに男である蛇骨は、鍋を火にかけている横
で包丁を使い、コトコトと何か固いものを刻んでいる。
「何ってさ、チョコレート刻んでんだよ。」
「チョコ?何だって……おい、こっち向きながら手を動かすな。危ねえな。」
「明日バレンタインだろー。何か美味そうだしよお、俺も食いたいし、何か作ってみんのも面白
そうに見えたからさ。んで、兄貴料理上手いだろ?それで一緒に作ってくんねえかなと思ってさ。」
「チョコレートなんぞ作ったことはねえぞ。」
そう言いながらも蛇骨の隣にやって来る。
「この刻んだやつを、湯で溶かすんだよ。」
「もう沸騰してるな。」
「うわっ、まじで。沸騰ってことはあれだろ、百度だろ。溶かすのは六十度がいいって確か……。」
包丁を左手に持ち替え、目の前に置いていつでも見られるようにしていたメモ用紙を取り上げ、
蛇骨は確かに六十度と書いてある部分を親指の先で示した。一緒に覗き込みながら、煉骨は右手
でコンロの火を止める。
「じゃあ、そこまで下がるの見ててやるから、さっさと残り刻めよ。……これ、何人分だ?十人?」
「テレビでやってたのが十人分だったんだよ。そこから何か計算したら、七人分はどんくらいか
分かるんだろうけど、めんどくさくってさ。あっ、そうだ!」
蛇骨の顔が、何か素晴らしいことでも思いついたようにきらきらと輝いた。
「凶骨は体でかいから二人分持ってってやるとして、残り二人分は兄貴にやるよ。まあ、俺が兄
貴にやったら結局兄貴の手持ちは三人分になるんだけど。」
「それを俺にどうしろと。」
「んー、いいじゃねーか、一緒に作ってもらうんだからさあ、それくらい。」
刻み終えたチョコレートをボールに入れる。まだ湯は冷めていないので、メモを読みつつ蛇骨は
生クリームの処理に取り掛かろうとする。沸騰させて荒熱を取る……と口の中でぶつぶつ言うの
で、煉骨は未使用の鍋を渡してやった。
「だからさあ、兄貴も誰かにあげたらいいんじゃねーかと思ってさあ。」
「誰にだよ。」
「へへ、そりゃ好いてるやつにさ。」
「馬鹿か。」
腰を屈めて温度計の目盛りを読む。ちょうど六十度だ。チョコレートの入ったボールを煉骨は中
に浮かべた。初めてなので要領が分からず、ある程度沈めたほうがいいのか、単に浮かべていた
らいいのかで少々迷うが、そうした細かい点を蛇骨がチェックしているはずもなく、適当でいい
んじゃねえの、などとしか言わないので、とりあえず少し力を込めて沈めておく。
「兄貴はあんま、思ってること言わねえだろう?」
泡だて器を手に取って、蛇骨は面白そうに眺めている。
「まあ、兄貴のそういうところはみんな知ってるからさ、普段は俺もよーく察してあげてんだけ
ど。」
「うるせえぞ。」
「でもたまにはさ、素直な言葉のひとつでも言ってくれると嬉しいかなあ、なんて。」
「…………。」
「たぶん、思ってると思うんだよなあ。」
含みのある笑みを浮かべて覗き込んでくる蛇骨を、煉骨は視界の外へ閉め出す。
「誰がだ。」
「へへへへ。」
溶けたチョコレートに、沸騰させ荒熱を取ったクリームを加える。泡立て器でかき混ぜたらラム
酒を加える、とメモ用紙にはきちんと書いてあったのだが、蛇骨はそれを買ってきていなかった。
忘れたわけではなく、日本酒でいいじゃないか、と思ったらしい。勝手知ったる他人の家の台
所、というわけで、よく見れば煉骨が呑みかけにしていた日本酒の瓶が、すでに目の前に置かれ
ている。
「いいのか?」
それを使うことに文句はない。ただ、ラム酒でなく日本酒を使うことに、何か不都合が生じない
のだろうかと思う。大丈夫、大丈夫、と蛇骨は言うが、その言葉に特に根拠がないことを煉骨は
経験から知っている。
「まあ、失敗してもお前が食えばいいだけのことか。」
「大丈夫だって!心配性だなあ、兄貴は。」
「……何だ、このあと冷蔵庫で冷やさねえと駄目なのか。面倒だな。」
差し当たりやることのなくなった煉骨は、足元の戸棚からやかんを取り出した。
「おい銀骨、茶いれてやるから、座って待ってろ。」
「あー兄貴、俺も!」
「分かってるよ。わざわざひとり分の茶なんていれねえよ。」
水を入れたやかんを火にかけている間に、食器棚から湯飲みを取り出す。座っていろと言ったの
に、銀骨は茶葉の入った缶を持ってきた。少し笑いながら受け取る。
「ああそうだ、座布団。」
「…………。」
「枕代わりにしてくれたんだろ?」
「ああ。」
「ありがとよ。」
「…………。」
銀骨の姿は、故あって人間離れしている。体が部位によって柔らかな人肌ではなく、それは顔面
についても例外ではない。そのため表情は読みづらい。が、兄貴分の素直な感謝の言葉に、片方
だけ残った目元がわずかに緩んだ。煉骨は手を伸ばして、銀骨の真っ赤な髪の毛を撫でてやった。
「あー、何だよ。」
首だけこちらに向けて蛇骨が叫ぶ。
「そんなん俺たちにはしたことないのによう。ほんと馬鹿みてえに銀骨には甘えなあ。」
「うるさいぞ。できたのか。」
「できたよ!」
「んじゃラップして冷蔵庫入れて……ん?ラップするのかは書いてないな。まあでもするんだよ
な、たぶん……?」蛇骨を見るが、当然のように頼りになる答えは返ってこない。「時間も書い
てねえしなあ、ちょっと固まってきたくらい、か。んん、だいたいの感覚でやるしかねえなあ。」
蛇骨からボールを取り上げ、冷蔵庫に入れつつぶつぶつ言っている煉骨の横顔に、思わずとい
うふうに、ぷっと蛇骨は吹き出した。
「何だ?」
「いや兄貴って、何でも熱中するよな。俺よりも熱心だ。」
「お前が適当すぎるんだ。作るのならちゃんとしたものを作れ。」
「俺のは暇つぶしだもんよ。兄貴みてえに本命はいねえから、」
「言っとくが、俺はこんな甘ったるいもんを男にやって喜ぶ趣味はない。」
「あっ、俺べつに相手は男って言ってないのに。」
「ん?い、いや待て、お前が俺たちにくれると言ったから、当然俺もお前や大兄貴を念頭に置い
てだな、」
「それに本命もいる風な。」
「そんなわけねえだろっ。」
冷蔵庫の扉を閉め、蛇骨から顔を見られないように回れ右して煉骨は食卓のほうに歩いていく。
「ああそうだ、昨日のカステラの残りがあったな。銀骨、皿と黒文字を出しといてくれ。」そう
言って自分はカステラを取りに行く。その足の進め方が、いつもよりもせかせかしている。
(分かりやすいんだからな、兄貴は。)
目を細めるように笑う、とは年端のゆかぬものや花や小動物に対してなされるべきものなのだろ
うが、蛇骨はたまにこの年上の男にそうした表情をするに足る心情を抱いてしまう。かわいくて
たまらない、とはその心情を言葉に表してみたものである。
「兄貴ー。」
持ってきたカステラを、およそ三センチの幅に煉骨は切り分けていく。
「俺、こんくらいのが欲しい。そのままでかぶりつきてーの。」
「食べかすが落ちるから駄目だ。」
ちらとも顔を上げないで答える兄貴分に、蛇骨は擦り寄る。
「ちゃんとこぼさねえで食べるからさあ。」
「……でかめの皿を持ってこい。」
にっ、と蛇骨は笑った。食器棚に飛んで行き、すっぽり顔が入るくらいの擂り鉢状の素焼きの皿
を持ってきた。それへ、煉骨は切らずに残していた十センチ幅の、ほぼきれいな立方体といった
感じのカステラを放り入れてやった。「ありがと、兄貴!」蛇骨は弾んだ声で礼を言うと、その
まま犬猫のように皿に頭を突っ込んだ。「これだと絶対食べこぼさねーだろ!」と自慢げな声が
皿の底から跳ね返って聞こえる。馬鹿か……、という表情で、煉骨はそれこそ呆れて物も言えな
い。
気づけば、やかんの蓋がガタガタと鳴っている。すっかり煮えたぎってしまったらしい。煉骨は
慌てて火を止めにいき、ある程度熱が飛ぶのを待つ間に冷蔵庫に冷やしてあるチョコレートの様
子を見にいった。触れてみなければ固まり具合は分からないが、触れるという行為を指先でして
いいものかどうかでまた悩む。
「箸の先だと分かりづれえよなあ。」
それにしても、まだまだ見た目にも柔らかそうである。もう少し待つのがよかろう、とひとり納
得しながら冷蔵庫に戻す。「これ全部失敗したらもったいねーからな。固さによって何段階かに
わけて、そうだな、三通りくらいでつくってみたほうが……。」冷蔵庫を閉めた後もぶつぶつ言っ
ている。
皿に頭を突っ込んだ姿勢で、少しだけ視線を上げながら、蛇骨は銀骨のそばに椅子を擦り動かし
てきた。こそこそと低い声で囁きかける。
「やっぱあの熱心さは本命がいるからじゃねえの、なあ?」
「さあな。」
「へへ、あれ貰ったらどんな顔するんだろうなあ、あいつ。」
「あんまり甘いものなんか食わなそうだが。」
「だから酒をたっぷり入れてやったんだろう。それに好いたやつから貰えりゃ何だって……。兄
貴、喉渇いた。」
「うっせえな。まだ冷めてねえんだから。水でも飲んでろ。」
「……なあ兄貴、もしもな、もしもの話な?」
「何だよ。」
「そのチョコレートさ、あげたやつがすっげえ喜んでくれたら、嬉しい?」
「あ?そりゃ……。」
「嬉しい?」
「う、嬉しいんじゃねえか?…………。」
「そっかー。だったら頑張って手伝わねえとな。」
「手伝うって……こら馬鹿!お前が作るっていうから、俺が、お前を手伝ってやってんだろうが。」
「うんうん、兄貴、カステラもっと食っていい?」
「……勝手に食え。」
湯はまだ冷めていない。煉骨はガラスコップに水を入れて、蛇骨と銀骨に持ってきてやった。自
分も空いていた椅子に腰を下ろし、カステラを小皿に取る。
「なあ、兄貴ー。」
大皿から蛇骨が顔を上げる。
「俺、頑張って手伝うわー。」
「…………。」
表情にも声音にも一定の真面目さがある。主客の転倒を再び指摘する気にもならず、煉骨はあき
らめの色を滲ませため息した。
「ああ、そうかよ。」
「うん、頑張るぜ。」
カステラの甘味はあっさりと上品で、腹に溜まるような重みがない。チョコレートはどうしたっ
て粘りのある甘さで、いつまでも口中に残るから、甘味(かんみ)を特に好きでないものはあま
り食べたいとは思わないだろうが、それでもひとつふたつなら食べるだろう、と黒文字の楊枝で
カステラを切りつつ、ひとりの男の顔を煉骨は思い浮かべた。すると、カステラを前にして唾液
の分泌が盛んになる条件反射よろしく、頬にわずかな熱が上る。
(いやいや、馬鹿なことを考えるなよ。チョコレートなんぞ、どんな顔して渡すってんだ。笑わ
れんのがオチだぞ。それもとびきり馬鹿にしくさった感じで……。)
兄貴、と遠慮がちに煉骨を呼ぶ声がした。
「ん、何だ?」
「もうそろそろ見てきたほうがいいんじゃないか。」
冷蔵庫とコンロの上のやかんを、銀骨が指差す。
「あっ、そうだな。」
「茶は俺が入れとくから。」
「ああ、すまん。」
それでは、と煉骨は冷蔵庫のチョコレートを見に行く。少し色が変わったそれは、触ってみなく
とも固まりつつあることが分かる。また触ってみれば、完璧に固まっているのでもないことが分
かる。柔らかにへこんだチョコレートと、乾いたままの指先を見つつ煉骨は満足げに口角をあげ
る。
「おい蛇骨、絞り袋とかいうのはお前、買ってきたのか。」
「ああ、あるよ。」
「んじゃ用意しとけ。俺はこれを木べらで混ぜて、と……。」
裸足でぺたぺたと蛇骨がやって来る。
「おーこれだけで美味そう。なあちょっと舐めていい?」
「駄目だ。ちゃんときれいに仕上げてからな。」
「んん、そっか。きれいに仕上げたのをあげるのかあ……って、いてっ!」
「お前はそればっかだな。」
「んだよ、羨ましがってんだよお。」
叩かれたというよりは押しやられた頭を押さえつつ、蛇骨は壁際に置いていた買い物袋をひょい
ともう一方の手で摘(つま)み上げる。白い布の切れ端のようなものと、円形の小さな金具を取
り出し、二つを組み合わせるために少しうつむく。その手元を、物珍しそうな顔で煉骨が覗き込
む。
「なあ兄貴。」
「何だよ。」
「ちゃんと渡せよー。」
「…………。」
木べらを持っているのとは逆の手を、ゆっくりと蛇骨の背後に伸ばし、先ほどよりも鋭い動きで
煉骨は弟分の頭を叩いた。いてっ、と短い声が上がる。その頭にもう一度手を伸ばし、結った髪
を崩さぬようにと一定の配慮をしつつ、前髪近くを掻き回す。
「うるせえんだよ、お前は。」
蛇骨の肩が震えている。どうやら笑っているらしい、とそのこそばゆいように動く赤い唇から察
する。
「兄貴、金具がうまいことはまんねえんだけど。」
今にも笑い出しそうな声だ。
「うるせえよ……。」
渋面をつくりながら、煉骨は最後に蛇骨の額を強(したた)かに叩いてやった。


続く 


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