「バレンタイン」2


現世に対してあの世というのが、いったいどのような空間的広がりを見せているのかは知らない
が、太陽と思(おぼ)しき光源体は毎日一定の方角から昇り、一定の方角に沈み、それを現世に
おける東西と置くならば、北と思しき方角からは、冬と思しき季節になれば、やはり現世におい
て北風と呼ばれたような強く冷たい風が吹いてくる。
二月の十四日。その日に舶来の行事ごとがあることを、睡骨は知っていた。彼にとって、それは
ただ一度すれ違っただけの赤の他人の誕生日を知った、という程度のものでしかなかった。
袷(あわせ)の上に丹前を着て、足にはいちおう足袋を履いていたがうすっぺらな安物だ。近い
から、と適当な格好で飛び出してきた自分は馬鹿に違いないと思いつつ、体が凍りつかないよう
に足踏みしながら、やって来た先の家の木戸を叩く。
「おい、煉骨!」
しかし答(いら)えはない。必ずしも、声を聞いたらただちに飛び出してくるという男でもない
ので、しばらく待ってもう一度呼びかけをしてみるが、やはり同じだ。
「何でえ、出かけてんのか。この寒いのによお。」
袂から合鍵を取り出し、いつもより多少もたつきながら戸を開ける。屋内はほんのりと暖かかっ
た。
勝手に茶を入れて人心地ついていると、少し腹が減ってきた。何か食べるものがないかと冷蔵庫
を開ける。煉骨は食材のやり繰りが異様に上手なので、見たところ調味料と卵くらいしかなかっ
た。おそらく、今出かけているのはこれから二、三日分の食料を買ってくるためであるのだろう。
「あ、何だこりゃ。」
最上段の奥のほうに、黒いものを乗せて皿が置いてある。餡ころか何かだろうかと思って取り出
すが、その軽さに餅や餡の類にしてはおかしいと首を捻る。ラップを外してみれば、どこかで見
たような、限りなく黒に近い茶色い物体。鼻を近づけて臭いを吸うと、それだけでわずかにアル
コールが体に染み入ったように感じた。睡骨は、この類のものはもっと舶来物らしい、不思議な
匂いがするものだと思っていた。
「いつも飲んでる酒の匂いじゃねえか。」
ひとつ摘んで口の中に放る。美味い、不味いというような感想以前に、急激に酒が飲みたくなっ
た。もうひとつ摘んで口に放りながら皿を冷蔵庫に戻し、いつもの場所から酒瓶を取り出してこ
ようとする。が、今までに一度としてなかったことだが、そこに目当てのものはなかった。
「おい、そりゃねーよ。」
当然のように飲めると思っていたので、少々情けないくらいに肩を落とす。
「煉骨のやろう、ちゃんと買ってくるだろうなあ……。」
仕方がないので、再び冷蔵庫から例の皿を取ってきて、今度は食卓について本格的に食べだした。
いくら酒の味が濃いとはいっても、それに比例するように甘味のほうも濃厚であり、しかも舌
に乗った感じや飲み込んだ後の余韻がどうにも慣れなくて、最後まで素直に美味いとは思えなかっ
た。取り合わせに煎茶というのも、おそらくちぐはぐな感じを増幅させたのであろう。それで
もとにかく皿を空にした睡骨は、そこではたと思い至った。
「これ、勝手に食っちまってもよかったんかな……?」

両手ともに大量の荷物を持って帰ってきた煉骨は、それらをまとめて片手に持って大いに苦闘し
ながら鍵を開けた。荷物を持ち直した右手で木戸の引き手を押しやる。当然開くだろうと、相当
の力を込めたものが、開かない。おや、と思ってもう一度鍵を取り出し、先ほどよりも荷物の重
みを耐えがたく感じながらカチャリと確実に音が鳴るまで回す。と、今度は開いた。(さっきも
音は鳴ったはずだが。)不思議に思いながら土間に足を踏み入れ、そこに自分の持ち物以外の履
物を見つけて合点する。
「おい、睡骨!」
両手の荷物が重いことと、体の芯は冷え切っていることとで煉骨は少し怒りっぽくなっていた。
台所のほうからのっそり出てきた睡骨を怒鳴りつける。
「てめえ、鍵開けたまんまだろうが!ちゃんと閉めやがれ!草履もきたねえ脱ぎ方すんじゃねえ
よ!」
上がり框(かまち)にどんと荷物を置く。疲れが足元から寄せてきて、はあ、と息をつきながら
自分もそこに腰を下ろした。
「おっ、すまねえ。」
睡骨は腰を屈めて草履を並べなおす。その口元から、わずかに日本酒の香りが流れてくるように
感じて、煉骨は軽く身を寄せながら鼻を蠢かした。
「お前、酒飲んできたのか?」
「ん?ああ……。」
睡骨は曖昧な声を漏らしつつ、しかし頷くのはしっかりと頷いた。その脇に置いていた買い物袋
に手を伸ばし、煉骨は中身が見えるように袋を押し下げてやった。そこには日本酒の瓶が現れた。
「おお!」
「飲むか?」
「ったりめーよ。」
言うなり、体を前に倒して睡骨は自分の唇を相手のそれに押し付けた。単純に驚いてしまって、
煉骨は後ろに下がりかける。が、それを追って、しかもそれより早く睡骨が前に出てきたので彼
らの唇は離れず、煉骨も平静を取り戻してからは、しばらく啄(つい)ばみ合っていた。唇の先
だけで、決してそれより先の行為に進もうというものではなかったし、お互いにそれは了解事項
だと思っていた。ところが、そろそろ離れようかというところで、煉骨のほうが急にのめるよう
に体重をかけてきたかと思うと、するりと舌先を滑り込ませて、だいたい彼のほうからの一方的
な仕掛けということからして珍しいのに、その上に口中をたっぷりと味わうように舐めてくるの
で、睡骨は大いに驚いた。
「おい、何でえ、お前ぇ……。」
相手の勢いが弱まったところで顔を離す。存外に落ち着いた白面が見えた。
「お前、チョコレート食っただろ。」
「あん?」
「冷蔵庫にあったやつ。」
「ああ、あの……。」
「だから酒の匂いがすんだろが。」
右手で、煉骨は睡骨の頬をつねった。
「いてえな……。」
「たいして痛くもねえくせによ。」
薄めの肉をぎりぎりまで引っ張って、離す。
「腹が減ってたんだよ。」
頬をさすり弁解する睡骨の上から退(の)いて、煉骨は立ち上がった。買い物袋を、酒瓶のもま
とめて持ち上げる。台所に運んでいく後ろから睡骨もついて行くが、相手がどういった気持ちで
いるのかさっぱり分からない。怒っているのかどうかを疑うのがまずは妥当なのだろうが、頬を
つねられている最中にすら、そうした感じは受けなかった。
「おい、煉骨。」
買ってきた食材を、煉骨はてきぱきと冷蔵庫や棚に収めていく。
「お前、あれ、作ったのか?」
「昨日、蛇骨が来てな。」
「ああ、あいつか。」
「今日か明日中にでも、さっきのと同じやつを蛇骨から貰うことになると思うぜ。」
「……あんまいらねーなあ。」
「……俺もひとつ食ったが、美味いことはなかったな。」
「お前が手伝ってあれか?」
「まあ、いちおう……。」
買ってきたものを全て片付け終えて、煉骨は休む間もなく夕飯の準備を始める。炊飯器から釜を
取り出して米を三合分計り入れる。彼ひとりではそんなに食べないから、何も聞いてはこなかっ
たけれども、今夜睡骨が泊まっていくことには何の文句も、また疑問もないらしい。おそらくは
ほとんど無意識の内にしているのであろう、この目の前の男の行為に、睡骨は少々むず痒いよう
な、笑い出したいような感覚を覚える。
「どうせあれだろう、蛇骨のやろうが適当な知識だけで作ろうとしたんだろう。」
「まあ、そうなんだが。……やっぱりラム酒にしといたほうがよかったんかな。」
「何だ?らむ?」
「酒のことだよ、舶来物の。蛇骨がそれを買ってこなくて、別に日本酒でいいだろうって。それ
で全部使っちまったんだよ。」全てをチョコレートに費やしたわけではないが。その後には蛇骨
と銀骨に飯を振舞ってやったので、わずかに残っていた酒もあっという間になくなってしまった
のだ。
「なるほどねえ。しかしそれであの出来だと、ちっともったいなかったな。」
「やっぱ、そうだよな……。」
「いやまあ、別に不味くはなかったんだよ。」
「俺はちょっと不味かったよ。」
「そ、そうか?いや、まあ……。」
米を研ぐ煉骨の後姿を見ていても、またその声を聞いていても、怒っているとは到底思われない
のだが、そのある種安定感のある全体としての静けさは、どうにも睡骨の心をざわめかせる。あ
まりいい予感がしないし、どちらかというと帰ってきた当初のように怒鳴ってくれていたほうが
よい気がする。
(元気にしてっと感情も読みやすいし……。)
湯飲みの茶を飲み干し、睡骨はふっと短く息を吐いた。茶葉は同じものを使っているはずなのに、
自分で入れた茶は、いつも煉骨が入れてくれているものに比べて渋みがきつすぎて美味くなかっ
た。
「今日は何作るんだ?」
下の戸棚から、まな板と包丁を取り出そうとしている男に尋ねる。
「寒いから、鍋。」
「おお、いいな。」
睡骨は立ち上がって冷蔵庫に近づく。
「何がいるんだ?」
「適当に出していいぞ、お前が食いたいもん。そんな厳密に考えて買ってきてるわけじゃねえか
らな。」
「魚は……鱈(たら)か。白子はついてんのか?んー、白菜に春菊に豆腐だろー。にんじんも入
れとくか。あとはえのきと椎茸と糸こんにゃく。」
目に留まったところから、言われた通り適当に取り出してゆく。それを見ながら煉骨はたすきを
締める。まずは最初にざっくりと野菜を切ろうと、白菜の葉を根元から丁寧にはがしていく。
「お前は出汁とってろよ。そんくらい俺がやる。」
あまり聞かない台詞を聞いたというように、不思議そうに煉骨が顔を上げる。
「何でえ、失敬な顔しやがる。前だってたまにゃやってただろうが。」
「どんだけ前の話だ。」
「いいからよお、材料切るのは誰がやったってそんな変わらねえだろ。魚はちっと知識がいるが、
俺は自分で言うのも何だが妙に上手いしな。知ってんだろが。」
煉骨の手から白菜を取り上げる。
「あっ、たすき。」
「ほらよ、動くな。」
横から煉骨が、器用にたすきを締めてくれる。

居間のこたつに鍋を挟んで潜り込み、ようやく夕飯の時間とあいなった。午後七時過ぎのことで
ある。二人でやれば事が早く進むと思いきや、喋ったり、お互いに分担事項を決めたり、もしく
は同じ作業を一緒に黙々とこなしている内に、なぜか時間のほうがてきぱきと、あっさりと過ぎ
ていってしまった。
「ああ、疲れた。」
「慣れねえことすっからだよ。」
器に鱈や白菜をたっぷりとよそったのを、煉骨は睡骨の前に置いてやる。
「まあ、お疲れさん……。」

一時間もしない内に、鍋は空になった。煉骨が器一杯分をもそもそと食っている間に、睡骨は三
杯分を平らげた。よって七割以上が睡骨の腹に収まったことになる。
多少張った腹をさすりつつ、睡骨が食後の満足感に浸っている間に、煉骨は卓上の食器やら鍋や
ら片付けようとしていた。食事の用意と同様、彼にとってはそれは誰に言いつけられてするでも
ない、もはや専業である。
「おい、それは俺がする。」
「はあ?」
本気で煉骨は耳を疑う。今まで一度だって、睡骨が自分から食事の後片付けなどしようと言い出
したことがあったろうか。しかも発言の内容を吟味するに、どうやら自分ひとりで全ての後片付
けをするというふうな主旨に受け取れるのだが。
「お前は風呂入れろよ。風呂入ってこい。」
「ああ?」
「お前いつも風呂入れって言うだろうが。ちゃんと順序を踏んでやろうってんだよ。」
「…………。」
「もたもたしてっと俺も行って、そのまま風呂ん中で……。」
続きを言わなかったのは相手への配慮からではなく、その方が効果的だと感じたからに過ぎない。
その種の熱を仄かに滲ませ笑いかければ、さっと煉骨の頬に朱が走る。すでに幾つかの皿を重
ねて持っていた手が、逡巡しながらも下りていく。
「そうそう、俺に任せろって。」
空になった鍋にほとんどの食器を放り込んで、睡骨は立ち上がった。

合鍵を渡した三人の内、蛮骨と銀骨がやって来て泊まる場合には、客間を提供する。残るひとり
がやって来て、やはり一夜を過ごすという場合には、その部屋は提供されない。居間に寝るとい
うのでも、廊下に寝るというのでももちろんない。風呂から上がった彼は、台所でいっぱいの酒
を飲んだ後、まっすぐにこの家の持ち主である男の私室に向かう。
「邪魔するぞ。」
廊下の板敷きは素足に冷たく、睡骨は挨拶もそこそこに畳の部屋に飛び込んだ。
「ああ、ほっとすらあ。」
後ろでに襖を閉めて、すでに敷かれていた布団にどっかりと腰を下ろす。
「おい、ひとり分しかねえぞ。」
「ああ、いちおう……。」
「何だ、いちおうって。」
脚の短い机にあぐらを掻いて向かい、煉骨は本を広げて読んでいた。言葉を交わす間にもあまり
顔を上げない。しばらくふたりともに黙っていた。と、何か思い立ったように煉骨が立ち上がり、
押入れを開けると中からもう一組布団を出した。今、睡骨が腰を下ろしているのは日常もっぱ
ら煉骨が使っているものであり、煉骨が新たに取り出したのが、泊り客としての睡骨専用のもの
である。
「お前はよう、何だって最初から敷いとかねえんだよ。」
「別に……。」
「意味はないってか。」
煉骨の敷いてくれた布団に、睡骨は移る。煉骨は立ち上がって、机のあるところへ戻る。
「おい、もう寝るぞ。」
うつ伏せになりながら睡骨が声を掛けると、すでに腰を下ろしていたもののわずかに振り向く素
振りを見せ、少し間を置いてから本を閉じて立ち上がった。こちらに近づいてくるのを横目に見
ていた睡骨は、その足の指が床に触れるところまで来たと見るや素早く身を起こし、右腕を伸ば
して武骨に相手の袖を引っ張って倒した。胸の中に抱き込み、そのまま自分の体の下に組み敷く。
「おい、明かりっ。」
「後で消してやる。」
唇を合わせれば、わずかに抵抗を見せていた両腕もじきに大人しくなる。舌を絡め合い、男とは
いえ他の部位よりは柔らかな唇をお互いに貪(むさぼ)り食うようにする。息が上がってきたと
ころで、睡骨の方が顔を離した。相手の目を覗き込むように、また右の手の平で柔らかに頬を包
み込むようにしてやりながら尋ねる。
「お前、俺があの舶来もんの菓子に文句つけた辺りから元気なかっただろ。」
煉骨はわずかに身じろぎ、あらぬ方へ目を泳がせた。
「まあ、初めてだろうが知識がなかろうが、自分の手が加わったもんの味をいまいちだと言われ
りゃ、気分が落ち込むのも無理はねえか。」
「別に落ち込んじゃいねえよ……。」
「そうかよ。」
煉骨の額に、睡骨は軽く口付けを落とした。
「鍋は美味かった。」
「…………。」
「来年は何か、酒に合う甘味でも作れよ。お前が自分で作ろうと思って作って、不味かった例
(ためし)なんてねえだろ。チョコレートに日本酒混ぜ込もうが、まんじゅうにらむ何とかって
やつをぶち込もうが、美味いに決まってんだ。」
右手に触れている頬を撫でさすると、煉骨は顔を傾けて、心地よげにそれを享受した。睡骨は笑
みを滲ませた表情で、相手のもう一方の頬に、自身の左頬をほとんど産毛だけが触れ合うような
軽さで擦り合わせた。
「どうだ、元気出たか。」
「別に落ち込んじゃいねえってっ……。」
「そうか。」
肩を揺らして睡骨は笑った。じゃっかん、相手より高い位置にあった体をずらし、足と足を絡め
合う。下半身を意識させる動きは、大人である彼らの体を高ぶらせずにはおかない。
「煉骨。」
息がかかるほどの近さで、睡骨は囁く。
「好きだ。」
見つめた先の闇のように黒い目が、普段の硬い印象を和らげて、その上に熱っぽさを滲ませて潤
む。
「返答は?」
煉骨は目を伏せ、白く長い二本の腕をまるで糸で操られているかのようにゆっくりと伸ばし、睡
骨の首に絡めた。重さをかけて抱き寄せる。俺も、好きだ……と告げた声はほとんど消え入りそ
うであったが、その口元にくっつかんばかりの位置にあった睡骨の耳には、はっきりと聞こえた。
そうか、と満足げな声で言って、睡骨は互いの体を擦り付けるようにし、腕を伸ばして相手の
腰紐を手早く解いた。話すべきことは話した。後は何も考えずに行為に没頭するだけだ。
「お、おい睡骨、明かり消せっ。」
「ん、後でな。」
煉骨の腰を持ち上げて、睡骨はすでに硬く膨らみ始めていた自身のものを、相手の同じ場所に擦
り付けた。上半身を起こそうとしていた煉骨の動きが止まる。この種の行為に及ぶことは、こう
して布団を並べている時点で彼とて乗り気でないわけはなく、ゆえにその部分への刺激を間断な
く与えられ続ければ、体の方がその気になってくる。荒い息をつきながら、欲情も露(あらわ)
な目をして布団に身を沈める煉骨を見下ろしながら、睡骨は深く感じ入ったように呟く。
「お前が一番美味そうだな。」
「……何か言ったか?」
「いいや、何でもねえ。」
煉骨の肩口に顔を埋(うず)め、熱い息を吐きながら、睡骨はその仄かに赤く色づいた首筋に舌
を這わせた。


終  


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