「新しい年を貴方と」1
備考:こちら天津編。2のほうがサイレントサービス編となっています。あくまでもひとつな
がりの話ですが、どちらか一方だけでもご理解いただけると思います。


例の一件以来、世界中の外交官が綱渡りをやらされている。そんな印象を受ける。
「次官、A国駐在のY大使よりお電話です。」
「大使が?直接に?」
「はい。」
「何だ、年始の挨拶というわけでもないだろうに……。」
天津の頭の中にはある予感が浮かんでいた。それはどう捌(さば)いても、明るい材料にはなり
そうにない、むしろ災厄を詰め合わせた折り箱のように、今現在の彼には思われる。一方で、Y
大使はかつて一度だけ天津の直接の上司だったことがあり、非常に和やかな雰囲気の、知識量
豊富な楽しい人で、その人と久方ぶりに話ができること自体は、とても嬉しいことであった。
「つないでくれ。」
不安と喜びが入り混じった複雑な心境で指示を出したが、受話器を握りしめ、先方の声を待ち受
ける中で、やはり勝(まさ)ったのはどういった厄介事が持ち込まれるのかという不安、腹がきり
りと締め付けられるような、もはや馴染みとも言える、緊張であった。
「や、天津君。」
「あけましておめでとうございます。」
「おめでとう。まことにおめでとうではあります。」
「どうかなさいましたか。」
「経費節減のこともあるので簡潔に話しましょうか。何、そう構えることはありませんよ。わた
しの駐在するここA国の一都市に、つい昨日、原潜部隊が到着したことは君もご存知でしょう。
先ほど、こちらの時刻で午前十時頃、その原潜部隊を迎え入れたC市の市長から我々に問い合わ
せがありましてね。何でも日本から郵便物が届いていて、市長宛の手紙を読んでみると、ぜひと
もその郵便物を原潜側に届けてほしいとか。中身はどうも重いような気がするが、見た目はB5
サイズのいたって普通の封筒。市長は最初、何のためらいもなく届けようとしたそうです。原潜
内にいる日本人の家族からのものではないかと思って。これもまあ、我々としては大いに問題と
せねばなりませんが、しかし結果として市長が我々に問い合わせをしてきたのは何故かというと、
その差出人の名前に覚えがあったからです。」
「その名前というのは。」
「フカマチ。」
「…………。」
「市長はその郵便物を届けていいものかどうか。フカマチ氏と言えば日本の国軍、まあ実質的な
話です、その一員であり、かつて海江田氏に会うため国連から特別調停員として派遣された人物
でもあります。原潜部隊と現在どれほどの繋がりがあるのかわたしは知りませんが、何らかの連
絡手段を確保し、今後連携を強めていくというような可能性がなきにしもあらず。我が国は“沈
黙の艦隊”を認めていない。一自衛官が独断で、この存在を認めるかのような行動を取るなど言
語道断。市長もこうしたことは分かっており、またA国と我が国との関係はしごく良好ですから、
さすがにその関係に暗い影を落とすやもしれぬ、そのきっかけとなるやもしれぬようなことを
自らの手ですることにはためらいがあったようですね。」
「なるほど。」
天津はその細長い指で、己の額をとんとんと叩いた。フカマチの名前を聞いた時から、眉間には
皺が寄せられている。
「分かりました。その郵便物を届けたものかどうか、判断せねばならないわけですね。」
「すぐには判断できないだろうとお察ししますよ。」
「二時間、三時間……いや、二時間半後には。」
「お任せします。」
「では。」と受話器を静かに置いて、それを天津はまた持ち上げた。早い動きで番号をプッシュ
し、かけた先は防衛庁であった。

霞ヶ関から横須賀へ自ら向かうか。相手を呼びつけるか。いずれにせよ、直接に顔を合わせなけ
れば満足のいく聴取はできまいと考えていた。
防衛庁事務方トップとの話し合いを終え、天津は椅子の背もたれに深く身を持たせた。首を左右
前後に動かすと、骨肉の悲鳴が盛大にあがった。ふと、壁にかけた時計を見やる。午後五時を疾
うに過ぎている。深町の到着まで一時間半として、事情聴取はどれだけ手際よくやったとしても
三十分はかかるだろう。その後にはY大使に“外務省総意”として天津の判断を伝えねばならな
いし、当然、この一件で時間を食われてまだ終わっていない諸業務がある。下手をすれば家に帰
るのは十時以降になってしまうかもしれない。
ほんの数十秒にも満たない休息の後、だが、天津の意識はすでに一分の隙もなく目の前の書類へ
と向けられている。大使より電話を貰う以前と変わらないスピードと的確さで、彼の手と頭はま
た黙々と動き出した。

深町は、背広姿でやってきた。
「急なお呼び出し、何事でありましょうか。」
型通りの十度の敬礼。慇懃な言葉遣い。だがその立ち姿と口調、全体に漂う雰囲気から、天津に
それをすることが彼の本意でないことは容易に知れる。
「まあ、掛けてくれ。」
速い足取りで、自身、応接用の卓に歩み寄ることで、天津は事は急ぐのだと相手に伝え、しかも
それは単に用件が急ぐというのではなく、深町と仕事以外の話をするつもりはないということも
同時に臭わせていた。正しくその意図を読み取った深町はにやりと不敵に笑った。天津もまた静
かな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「深町一等海佐、君はThe Silent Service、例の原潜部隊に向けて郵便物を発送した。それは現
在C市市長の手元にあり、市長はその処置を我々に委ねた。今から四十分足らずの後に、わたし
は最終的な回答を行わなくてはならないのだが、さて、ここで最も重要なことは深町一佐、君が
何を送ったのかということだ。」
深町は両手を組み合わせ、大きな目玉を一度として天津から逸らさず、語られる言葉を聴いてい
た。それは彼が話す段になっても同じことだった。
「何を送ったか。それはこの時期ならば当然……。」
「年賀状かね?」
「それも込みです。」
「中に、何らか、重いものを入れはしなかったかね。」
「硬貨を二枚ほど。」
「硬貨?」
「お年玉というやつですな。」
「幾らだ。」
「私はケチな男ではありません。」
「五百円玉が二枚か。間違っても、札を、何枚もの一万円札を入れていたりはしないだろうな。」
「政治家じゃあるまいし。」
「口を慎みたまえ。わたしは、額が大きければ資金提供の疑いもかかるということを言っている
のだ。」
「次官殿。わたしが封筒に入れたのは便箋が一枚と五百円硬貨が二枚。何なら開封して確かめて
いただいても結構です。」
「便箋にはどういったことが書いてあるのか。」
深町は目をつむり、眉間をぐりぐりと指で押しながら、つくづく感じ入ったというようにふっと
息を吐いた。
「新年おめでとう。乗員諸君の無病息災を祈願する。ところで我が国には、年頭に当たり子供ら
にいくばくかの金銭を贈る風習がある。ついては貴艦隊所属の若干名に対し、我が国の五百円硬
貨を一枚ずつ贈る。」
「子供?」
「さよう、子供であります。」
深町の口調ははっきりととぼけている。
「深町一佐……。」
「あんたも苛立ったりするんだな。」
天津は無言で、壁にかかった時計を見上げた。
「端的に。」
とわずかに強めた口調で言う。深町はにやにやと笑みを浮かべながら、わずかに肩をすくめた。

天津は、Y大使に対して郵便物を届けることは可である、との自らの判断、すなわち“外務省の
総意”を伝えた。予定していたより二十分も早いタイミングでの電話に、大使はしごく満足そう
に、天津のことをさすがであると褒めた。
「相手の行動も迅速だったものですから。問題を起こした張本人ではありますが、さすが自衛官
といったところです。」
「そうですか。しかし君の帰りは、結局は遅くなってしまいましたね。」
「多少の業務は残っていますが、すぐ片付けますよ。」
「ところでこの早いタイミング……海原大臣には指示を仰がなかったということでしょうか。」
「考えましたが、大臣は現在海外出張中で、今の時刻は歓迎レセプションに出席しています。大
臣のことですから結局はわたしに一任してくださったと思いますし、また深町一佐から事情を聴
いて、さらに伝える必要はないと判断しました。」
「君がそう言いきるのなら、わたしの心配は杞憂に終わるのでしょうが、世間では、事務方レベ
ルで処理したというのは時に批判の対象となりますからね。」
「承知しております。その危険性をゼロに等しくするためにも、例の郵便物は事前に封を切って、
中身が確かに証言通りのものであることを確かめてから、先方に渡していただきたいのです。」
「過(あやま)たず、そのようにします。原潜部隊の皆さんには気に入らないでしょうが。しかし五
百円玉でお年玉とは、事実であるなら、深町氏という自衛官は茶目っ気のある方なのでしょう。」
「そうしたかわいらしいところは、わたしの前ではまるで見せてくれませんが。」
「天津次官、それは君もまた深町氏の前でそうした態度であるからに違いありませんよ。」
天津は声を立てて笑った。
「そうですね。」
「今のように、素直に笑ってみせることです。ああ……君の帰りがますます遅くなる。年寄りは
話が長くていけません。天津君、年の初めにお騒がせしましたが、本年も日本外交は波高し、で
す。体を大事に。僕の萎(しな)びた腕でよければ、いつでも力になりますよ。」

冬の夜空は硬く張り詰めているようでありながらどこか危うく、ガラスの破片のように輝く星は
今にも重たく落ちてきて、寒さに震える人の肌を柔らかに切り裂いていくかのようだ。まるでそ
れを避けようとでもしているかのように、家路を急ぐ人々の足は速い。
天津は、九時近くに帰宅した。体は疲れているものの、思っていたより早く帰ることができて心
は軽やかに弾んでいる。何をしよう、と考えることができるのが幸せであった。
一人身らしく、買ってきた弁当で夕食を済ませながら、録画していたNHKの七時のニュースを見
る。“沈黙の艦隊”の動向と、外務大臣海原渉の、主に安全保障問題を話し合うためのオーストラ
リア訪問とが大きな話題として取り上げられていた。
“沈黙の艦隊”はその内部での役割、単に潜水艦を動かす上でのものではなく、対外的に、誰が
代表として振舞うのかや、報道機関の取材依頼を誰が一括して受け付けるのかといったような、
それこそかつて“やまと”に対して言われた国のような形を、その活動の早い段階から作り上げ
ていた。乗組員全員が軍属またはそれに相当する立場であったため、堅牢な組織の創立とその円
滑な運営、さらにその内部における自らの職掌の明確化は、彼らにとり、自らが有機体内の正員
であることを意識する上で、絶対に欠かせないことであった。
天津は、C市の市長を表敬訪問する一団の中に、今日という日においては特に意識せざるを得な
い人物が混ざっていることに気づいた。彼は何しろ部隊を構成する一原潜の艦長であるから、必
ずいつもそうであるわけではないが、こうした場にはやはり当然のこととしてよくその姿を現す。
(改めて見ると、周りが周りだから異様に若く見えるな。)
英国、インドの原潜艦長はいずれも大柄な上に髭を蓄えている。他に副長以下数人の幹部クラス
が従っているが、皆、“彼”よりはよほど大きい。
(これは……現地時間で午後一時頃の映像か。ということは、まだ深町の手紙は届いていないな。)
成人男性が、低身長ゆえに正月にお年玉を贈られて、さて、素直に喜ぶものだろうか。天津は複
雑な笑みを浮かべた。自身の友人を思い浮かべてみても、体の小さいものはほぼ例外なく負けん
気が激しい。
(どうやら、向こうの騒動はこれからのようだな。)
テレビ画面は、オーストラリアの外務大臣と会談中の海原を大写しにしていた。この会談の内容
はすでに天津には伝わっている。特に進展はない。が、日豪の外務大臣は互いの趣味のことなど
で大いに盛り上がったようだ。個人レベルの関係性が、国家レベルのそれに影響を及ぼすという
のはままあることである。
「元気そうだな……。」
箸を止めて、天津は海原を見ていた。映像は歓迎レセプションのものへと移り、海原は会場全体
に向かってワイングラスを掲げている。
「向こうはワインで、こっちは烏龍茶か。」
テレビ画面の向こうで海原がグラスを傾ける。飲んだ後に、またそれを軽く掲げてみせながら左
右の人々とにこやかに言葉を交わし始める。
天津の心の中で、羨望と寂しさが入り混じったような感情がわずかに、しかしゴソゴソと確かな
音を立てて動いた。烏龍茶の缶をテーブルに置いて、彼は困ったようにため息を吐き、自身を嗜
めて心の中で思った。
(まったく、どうかしている。海原の隣にいたい、なんて……。)
一連のニュース映像は終わり、アナウンサーと解説者が今後の国際社会の動向に関してスタジオ
で質疑応答を行っている。ぼんやりと耳を傾けながら、天津は手の中で缶をぐるぐると回した。
やがて短いため息をハッと大きく吐くと、
「早く帰ってこい。」
その場にいない人物に向かって、呼びかけた。烏龍茶の缶を傾ける。
外務省事務次官である彼が、呼びかけた相手の日程、すなわち外務大臣の帰国はまだ三日の後で
あるということを把握していないわけはないのだが、瞬間的に強く抱いた感情に、彼自身、少々
驚いていたのだ。
ばかばかしい……。
そう一人ごつ彼の顔は、少し、赤くなっていた。


天津編終 


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