「新しい年を貴方と」2


ガラス張りの窓の向こうに、今は少し遠い海が見えている。燦爛たる青さに、波音は聞こえな
いが、潜水艦乗りとして、さながら親密な仲の女性が紡ぐ声のように、それは耳底に焼き付いて
いて、自ずから鮮やかに蘇る。
「そういうわけですので、その一通のみは、後からお届けします。」
「他はすでに、物資とともに港湾に運ばれておるわけですな。」
「皆さん、ご家族からの手紙が届いているか、楽しみにされているでしょうから。」
「ありがたい。」
現実に交わされているはずの声が、溢れ出る思い出の波音に凌駕される。
「おい。」
いつしか閉じていた瞼に風が当たったかと思うと、室内での呼びかけにしてはでかい声が降って
きた。目を開けると、威圧的な髭面が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。怒っている、不愉快
そうでいるというのではなく、ただ不可解そうに。
「……ストリンガー、貴様は音量調節の機能がないのではないか。」
「表敬訪問中に居眠りし出すのが悪い。」
「お疲れですか?」
市長が穏やかに尋ねてくる。
「いや、窓の外を眺めていたのですが、気持ちがよくて。実際、寒気は厳しくとも、室内にいる
分には日差しも柔らかで暖かに見える。」
「ここ数日、よい天気が続いております。皆さんが次の寄港地へ出発するまでは、おそらくもつ
と思われますから、よろしければぜひとも市内を散策なさってみてください。自然と調和した古
い町並みが、我々の自慢です。」
「ぜひとも、そのようにしましょう。」
原潜部隊“沈黙の艦隊”。その一翼を担う中華人民共和国出身の元軍人は、まるでその場の主役
ででもあるように、悠然として頷いた。

昨夕、原潜部隊が入場したばかりの港湾には、今朝から大勢の市民が物見高く詰め掛けていた。
市をあげての誘致工作があったからこそ実現された訪問ではあるが、そうした人々の熱情や切実
な思いが波長を合わせていたかというと必ずしもそうではなく、中にはただ祭りのような盛り上
がりに便乗して騒いだだけというものもあり、こうしてほぼ全ての市民たちにとっては初めての
原潜の群れに、興奮し、我を忘れ、結果として上陸した部隊員たちとの間に一騒動起きるという
のも、大いにあり得る話であった。これまでにも幾度かあったそうした騒動は、ひとつの例外も
なく市民側に問題があって、“沈黙の艦隊”の部隊員においてはぎりぎりまで耐えてのことであっ
た。今のところ、世界に向けての報道もそうした事情をよく伝えており、世界の艦隊に対する
印象は変わらず好ましく、期待に満ちたものである。が、人の心は移ろいやすく、それにより構
成される世論がいつ何時、どういったきっかけで“沈黙の艦隊”に対し不審を抱くようになるか
分からない。ある方向に向けての運動は、それが大きければ大きいだけ反動も巨大なものになる
のであって、一度芽生えた不信感はただちに恐怖を帯びたものになり、“沈黙の艦隊”はその正
義を失うことになるであろう。
「あらかた、積み終えたようだな。」
海上に顔を出した原子力潜水艦。その艦橋に、二人の男が立っている。
「はい。夜には市主催の晩餐会に皆(みな)招かれていますから、張り切っているようです。」
「最低限の人員は残していかねばならんのだが……。」
「すでに心得ているものは、心得ておりますし、わたしか艦長かどちらかが残れば、皆納得せざ
るを得ません。」
副長の言葉に、艦長たる男はふむ……と頷く。湾岸を見下ろす彼の目は、艦に荷を積み込むため
にくるくるとこまねずみのように立ち働く部下たちと、それを十メートルほど離れて取り巻き眺
めている市民たちとの、その間に横たわる距離を注視していた。この距離を、どちらかが軽はず
みに縮めるようなことがあってはならない。それは両者に直接の触れ合いをもたらし、直接の触
れ合いはどちらか一方、もしくは両方に対して何らかの実害をもたらし得るものとなるであろう。
「陸(おか)に上がる連中には、重ねて言い聞かせておかねば。」
「市民側との交流は間接を旨とすべし。間接とは、肉体的な接触を伴わないことである、ですね。」
「そうだ。未知のものとの接触は、ただでさえ神経を高ぶらせる。実体が伴えばなおさら。初心(う
ぶ)な男が初めて女に触れた時のような興奮、とでも言えば分かりよいだろう。」
「実によい例えです。」
そつのない受け答えをしていた副長であったが、若さのためか、ここで少々顔つきがだらしなく
なる。
「……貴様には、まさにそうした意味合いにおいての警告が必要なようだな。」
「は?」
「女に色目を使われようが、手を握られようが、ふらふらついていくなと言っているのだ。」
「……自分には艦長がいるので。」
上司の言葉がまるでおかしなものに聞こえたらしく、副長は訝しげに首をかしげた。
「そ、そうか。それなら別に……。」
「あっ、艦長、あれを。」
「うん?」
副長の声に促されて右方を見やれば、二名の警官がざわつく群衆の整理に当たる中を、一台の市
の公用車がゆっくりと埠頭(ふとう)に侵入してくる。作業をしていた原潜の乗員たちはその手
を止め、自分たちを迎えてくれた市のことであるから一応は友好的な目を向けはしたものの、各々
の立ち姿はさりげなく、しかし間違いなく万一の事態を想定していた。
「手前味噌ではあるが、なかなか。」
満足げに頷く艦長に対し、副長は合点のいかぬらしい面持ちで尋ねた。
「先ほど艦長たちが表敬訪問を終えたばかりだというのに、何でしょうか。」
「ああ、おそらくあれではないかな。」
「あれとは?」
「うむ、実はよく話を聞いていなかったのだが、おそらく何か後から届けるだの何だの、そういっ
た話をしていたように思う。」
「はあ、それでは。」
「タービュレントと通信する。」

タービュレント艦長のストリンガーは、現在この原潜部隊を代表するものとなっている。代表者
とは顔であり、顔というのは人体の中で最も世俗的な注目を集めるものである。
「まったく……。」
タービュレントとの通信を終え、中国原潜の艦長は呟いた。
「わたしが行かねばならんか。」
「ストリンガーは取材を受けている最中ですか。」
「ああ、代わりに頼むと。」
こつこつと靴音高く歩き出す、その後から副長も従う。
艦の外に出ると、中国人の乗員が訪問者のことについてであろう、報告にやって来たところであっ
た。それに軽く手を挙げて応えながら、艦長はボートに乗り込む。「岸に戻してくれ。ああ、
分かってる。わたしが応対する。」

ストリンガーに頼まれたこととは、単なる使者への応対というような漠然としたものではなく、
元軍属らしく、より具体的に示された三条項の実行であった。
一つ、使者のもたらしたものは日本にいる深町からの手紙であるので、受け取ること。
一つ、それは“沈黙の艦隊”全体へ宛てたものであるので、誰が開封してもよい。
一つ、最初のものが目を通したならば他のものに回し、部隊の全員がそれに目を通すことができ
るようにすること。
「ということは、艦長。」
手紙を受け取り、それをもたらした市の人間を丁重に見送った後、中国原潜の艦長の手に握られ
た手紙を、およそ一メートルほど離れたところからは艦の乗員たちが、さらにそこから十メート
ルばかり離れたところからは市民たちが、興味津々といった面持ちで見つめている。
「とりあえず開けてみるか。貴様ら、ちょうどよいので聞いていけ。わたしが読んでやる。……
何だ、便箋一枚か。後に何か……まあいい、とりあえず読むぞ。」
彼の声をかろうじて聞くことのできる位置までを、およそ三十人ほどがぐるりと取り囲んで、そ
のためにもはや市民たちからは何が起こっているのかさっぱり分からない。ざわつく市民達の前
には、十名以上の警官隊が変わらぬ姿勢で立ちふさがっている。
中国原潜艦長は、実際の年齢よりよほど若さのある、よく通る声でそれを読んだ。
「新年おめでとう。乗員諸君の無病息災を祈願する。ところで我が国には、年頭に当たり子供ら
にいくばくかの金銭を贈る風習がある。ついては貴艦隊所属の若干名に対し、我が国の五百円硬
貨を一枚ずつ贈る。……圧歳銭のようなものか。しかし子供?うむ?」
彼は封筒を逆さまにした。内容のあまりの簡素さに拍子抜けしつつも、転がり出てきた二つの白
いものに、また皆の注目が集まる。それは円形をしており、どうやら硬貨を固く紙に包んだもの
のようだった。つまりは、それが五百円硬貨ということだったのだが、取り上げてみた艦長の目
は実に不思議そうにそれらに注がれ、手に取り、表にしたり裏にしたり、果ては水平にして眺め
てみたりしていた。
「艦長、どうなさいましたか。」
もっとも近い位置にいた副長が尋ねる。
「うむ、名前が書いてあるのだ。」
「は?……ああ、なるほど、こちらには“溝口”。」
上司の手に残っていた一枚を取り上げ、その包み紙の表に確かに書かれていた人物の名を読み上
げる。それが“沈黙の艦隊”内で最も背の低い男のものだったことから、周りを取り囲んでいた
人々は思わず笑い声をあげた。なるほどそういうことか、と疑問がストンと腑に落ちたのである。
しかし間髪をいれず艦長が口にした言葉に、その場は一瞬にして凍りついたようになった。
「この、もう一枚の方にはわたしの名があるのだが、これはいったいどういうことだ。」
「……か、艦長、それは……。」
その場に集まっていたのは作業していた場所柄ほとんどが中国国籍のものであり、すなわち彼ら
はもともとから同じ潜水艦に乗艦していたのであって結束力があり、階級が違おうとも心は相当
な程度に通い合っている。自身に向けられる部下たちの助けを求めるような視線を受けて、副長
はどうにかせねばならないと必死の思いであった。
「それは、艦長は、お若く見えますから。」
「身長か。」
「は、その……。」
「これはつまり身長の……。」
顔を赤くしながら、この軍人としてのエリートは、弁においても際立った能力を有しているにも
かかわらず、言葉を詰らせた。彼は自身を選ばれたものとして認め、それゆえに幾つかの欠点が
あるといって指摘されることには我慢がならない。それが、もはや補おうにも補え得ない箇所に
対してなされたものであれば、なおさら。
手に持っていた手紙と硬貨を、彼は副長の手に押しつけた。
「それは溝口に渡してやれ。あとはストリンガーにでもくれてやれ。」
速足にボートへと向かうその背中を、今度は、副長は追うことができなかった。彼の上司の背中
はあきらかにそれを拒んでいたし、これまでの経験から、彼の方でも言葉の選択には時間をかけ
なければならないと知っていた。
(溝口とストリンガー……とりあえず、行ってみるか。)
艦長の姿が自艦へと戻るのを確認後、部下たちには大丈夫だと言い聞かせ、作業に戻らせ、副長
は小走りに“沈黙の艦隊”旗艦、タービュレントへと向かった。

取材がいつになく楽しいものであったか、見せられた手紙がよほど彼のツボを心得ていたか、と
もかく中国原潜副長が持参した手紙と二つの小さな包みに、ストリンガーの豪快な笑いと遠慮の
ない発言が止まらない。
「まあ、身長の低さを気にしているのは、あの男の唯一の可愛げみたいなものだからな。」
「ストリンガー大佐、それで、その手紙を全ての乗員に見せるというのは……。」
「まあ、君の話によれば、埠頭にいてこの深町からの便りの内容を知ったのは三十人ばかり。そ
の全員が、事態のまずさに冷や汗を掻いていたというのだから、まず、自艦に戻ったところで口
外するような馬鹿はするまい。もはや緘口(かんこう)令は敷かれたも同然だ。心配なら、ひと
りひとりに当たってみるのもいいだろうが。」
艦長室の外で人の気配がし、次いでノックの音が響いた。
「溝口、入ります。」
元“やまと”の乗組員であり、優れた水測員。“やまと”沈没後は、他の十数名の日本人ととも
にタービュレントにその籍を移した。
(艦長も小さいが、この男も。軍人だから貧弱とは違うが、しかし、小さい。)
接点などほぼ皆無であった中国人の男の視線に、溝口はもともとの造りからしてどことなく子供
が拗ねているような印象のある顔を、よりいっそうその印象が深まるように動かしてみせた。全
体としてはわずかな動き、だがそれは読み取りの容易いものだった。
ストリンガーの手から、深町の手紙が溝口に渡された。最初、深町の名を聞いて懐かしそうに表
情を緩めた溝口だったが、内容に目を通し、次いで硬貨を包む紙に書かれた自分の名を見るに至
り、やはりまた隠しもしない不機嫌顔、いや、ふくれっ面になった。
「溝口、その硬貨は君のものだ。」
「はあ……。」
「今日はこれから陸に上がるからな。両替をしたらよかろう。今後の行き先によっては、それな
りの買い物ができるぞ。」
「そのようにします。手紙をお返しします。」
声自体は落ち着いて事務的であるがゆえに、ぎりぎりのところで抑制された感情が心中には渦巻
いているのだろうか、と中国艦の副長はしきりに首をひねりながら思う。彼は多大なる関心をもっ
て溝口の一連の反応を見守っていた。それは、彼の上司と比較することによって、何らかの事
態打開のヒントを得ることができるかもしれないと考えたからだった。彼はストリンガーに対し、
目顔で自分にも少し話す時間を貰えるよう頼んでから、溝口に、簡潔な質問を幾つか投げた。
「深町氏の手紙には、そうした硬貨を若干名に対して贈る、とあった。実はここから先は絶対に
口外しないでもらいたいのだが、深町氏から贈り物を受け取ったのは二名。君と、我が艦の艦長
だ。ところで、君は総じて抑制的な態度を見せたのに対し、我が艦長は大いに怒って今もおそら
く不機嫌いっぱいで自室にでも閉じこもっておられる。いったい、この反応の違いは何に起因し
ているのか。また、我が艦長に機嫌をなおしていただくにはどうすればいいのか。君の考えを聞
きたい。」
「初めにお断りしておきますが、自分は心理療法とかそういった知識はいっさい持ち合わせてお
りません……。しかし原因としては、まずお宅の艦長がエリートであること、常に人より優れて
いると認められる立場にあり、今も、特にあなた方によってそうした優越感を保っていられる。
あの人にとって、自分に足りないのはおそらく……身長くらいだとでも思っているんじゃないで
しょうか。唯一の欠点なら、それさえ隠していれば完璧に見えるわけなので、必死にもなるかと。」
「なるほどね。」
「ただ誤解されては困りますが、自分もこうして子供扱いされたことには、相手があの深町さん
ですからあの人に対して怒ろうという気にはなりませんが、ただ身長の低さを意識させられると
男としては当然愉快ではありません。この後ソナー室に戻ったら、多分、誰かに八つ当たりでも
するかと思います。」
「八つ当たり?そうするとすっきりとするかい?」
「そうする以外にないので、身長はもう伸びませんので、そうします。」
「ああ、なるほどね。」
溝口の答えように面白さを感じて、中国艦の副長は声を立てて笑った。それならば、と自身の中
で結論を出しかけたが、その前にさらにもうひとつふたつ、確認のため、溝口に尋ねた。
「八つ当たりというのは、誰に対してするのが一番やりやすいだろう。また、その八つ当たりに
対してはどうした反応をしてくれるのがいいだろう。」
「その程度で、人間関係が壊れないと確信を持てる相手、ですね。同じ日本人とか。反応は、こ
ちらはとにかく発散したいだけなので、相手がどう反応しようが、好き勝手にやるだけなの
で……。」
「そうかい。」
また声を立てて短く笑うと、それに対しストリンガーが、どうにかなりそうなのか、とどこか父
性を感じさせる声で尋ねてきた。
「はい、どうにかなりそうです。」
誠実そうな口元を綻ばせて答えた、実年齢も比較的若い副長は、まるで息子のようだった。

包み紙から取り出した硬貨を、上に放る。歩く速度をまったく緩めることなく、右手で落ちてき
たそれをキャッチする。
「溝口、溝口。」
食堂を通り過ぎたところで、呼び止められた。振り返ると、航海士のヘンリー・ギルバートが食
事を終えたらしい満腹感漂う姿で立っている。遅い昼食だな、と言うと彼は首を振って、常に張
り上げている感のある高めの声で言った。
「作業中に町の女の子たちが何か放ってきたんだ。開けてみるとお菓子がいっぱい詰ってて、今、
休憩中でみんなで食べてたとこさ。それより溝口、艦長に呼ばれたんだって?何で?」
「……郵便物のことで、少しな。」
「少し?」
「プライベートなことさ。」
「おおっ、もしかして彼女!?」
「そんなことじゃいちいち呼ばれないだろ。」
「それもそうだな……。」
「とにかく私的なことなんだ。」
硬めの声でそう言って、ぷいっと横を向く。後は察しろ、聞いてくれるな。ギルバートの頭には
そうした相手の心の声が響いた。
「分かったよ。ところで、その手に持っているものは何だい?」
「……日本の硬貨だ。陸に上がったら両替して、何か買おうかと。」
「おお、溝口は市のパーティに出るんだったね。僕は留守番だ。がっかりだ……。」
「まだ明日以降もいろいろとあるだろ。市民主催のパーティとか。」
「うん、そうだね。でもその時には溝口が留守番かもしれないよ。」
これまでの例から言っても大いにありうることだと、早くも嘆き節のギルバートは、少し前を歩
いていた溝口の肩にもたれかかるように腕を回した。彼ら二人は身長差がだいぶんあるので、溝
口にとってはほとんど真上からのしかかられているようなものだ。重い。とは言っても溝口とて
自衛官として長く体を鍛えてきたのであるから、そう簡単に押し潰されるようなことにはならな
い。むしろほとんど動じないが、そうした鍛錬を積んだにもかかわらず伸びなかった身長には、
己の内部のことながら何やら裏切られたような気分になる。
指先に摘(つま)んだ硬貨をひらりと動かし、ぱちん、と頭上のギルバートの額あたりを見当つ
けて叩く。
「あいたっ!何するんだ。」
「暑苦しい。」
「冬だから、むしろあったかいじゃないか。」
溝口は答えるかわりに、さらに二、三度同じ辺りを打ってやった。
「……近頃は、日本人の心の中もだいぶん読めるようになってきたと思っていたのに。」
弱った犬のような声を漏らしながら、それでも溝口の肩に回した腕はそのまま。不躾な扱いを受
けても好意が殺がれることはまるでないらしい。溝口は、ギルバートに対してはそのようなつも
りはなかったが、これは自分で解説したところの八つ当たりする対象としてぴったりだというこ
とに気づいた。五百円硬貨をポケットに仕舞い、今度は手の平で頭を軽くはたいてやった。
「もう休憩は終わりだろう。」
「おお、そうだった。」
ギルバートの体の重みがようやく肩の上を離れる。彼はぱっぱと制服の弛みを整えて、それをチェッ
クしてくれと言うように溝口の方を見た。溝口は、ただうなずく。それだけの反応で、ギルバー
トはどことなく照れたように笑った。
「Thank you.」
いつもは賑やかに言葉を溢れ出させる唇が、そのたった一言を、やけにたどたどしく紡いだ。

艦に戻るや、乗員たちの一部の、こちらを窺うようにちらちらと寄せてくる視線に気づいた。振
り向いて確認した幾つかの顔は、確かにあの場にいたもののようである。中国人コミュニティの
ナンバー2として、彼らの心を安んじるのは当然のことであり、すでに打つべき手は決めている。
「艦長はお部屋か?」
彼らの視線の意味には気づかぬように、つとめて朗らかな声音で尋ねた。返ってくるのは驚いた
ような、戸惑ったような肯定の頷き。
少々、向こう見ずな案であろうとは思う。が、艦長の起こしている腹立ちが純粋に感情の高ぶり
からのものである以上、理性的に解決の方法を探ることにはあまり妥当性がないのではないかと
思う。
艦長室の扉を叩き、名乗る。
「入ります。」
椅子の背が、こちらを向いている。そこに艦長が座っていることは、肘掛に乗せられた腕がわず
かに見えていることから分かるが、たとえばストリンガーあたりが座っていたならば見えるだろ
う後頭部は、まるで見えない。
「艦長、今夜、艦に残すものたちのことでありますが……。」
「馬鹿にしている。」
「はっ……。」
「うるさいぞ。」
椅子が小さく音を鳴らし、全体に丸みのある体が立ち上がる。太っているのとはもちろん違うが、
鍛え上げられた筋肉がついているのかというと、そういう風にも見えない。小さな子供が、贅
肉はついていないのに全体に丸っこくて可愛らしい、あのバランスを大人になっても保っている
人がいるのだ、と副長は密かに結論を得ている。
「今回、艦長副長ともに乗員のほとんどが残ることになっているのはフランスだ。九月に立ち寄っ
たY市の時と同じだ。よって、こちらの人員の裂き方もその折と同じとする。」
「了解。」
「これを両替してきたまえ。」
副長の方はちらとも見ないで、横柄な上司は常より磨きのかかった横柄さで例の五百円硬貨を突
き出した。紙は剥いでおり、まだ一度も使われていないらしい硬貨はつやつやと銀色の輝きを放っ
ている。
「はっ、了解……。」
副長は少し慌てた。両手を差し出すと、それにポイッと硬貨を放られ、艦長はさっさと椅子のあ
る方へ戻って行く。部屋を訪ねる口実をと思って用意したのが、あまりにタイムリーかつシンプ
ルなものであったために、あっさりと答えを返されて、それにより留まるための口実を失う。
「あっ、艦長。」
とっさに、会話をつなごうと口を開く。
「例の手紙はストリンガーに預けてきました。部隊内の回覧の対象とはなりませんので、ご安心……
ください。」
言いながら、鼻の辺りを歪めた。失言したと思った。安心してくれ、大丈夫だなどと、慰めの言
葉はこの際相手のもっとも望んでいないものではないか。
「ええと、その、では、総員に今夕のことを通達してまいります。」
「うむ。」
「…………。」
副長は頭を抱えた。艦長がもはや椅子に背を預けて、こちらにはいっさい目もくれないがゆえに
できる仕草だった。理論立ててもしようがないとは今でも思っているが、それでもせめてどういっ
た応対を受けるかという予想くらいはしておくべきであった。ここから態勢を立て直そうとい
うのは、ほとんど蜃気楼をこの手に掴もうというくらいに非現実的である。
「艦長、殴ってくださっても結構ですから……。」
頼み込むように言ってはみたものの、相手からの反応はなく、副長はすごすごと出て行かざるを
えなかった。

午後六時過ぎ、中国ハン級潜水艦艦長は、副長以下四十名の乗員をC市主催の晩餐会へと送り出
し、自分とともに留守番をするものたちに短い訓示を行った後、まさに、自室に引き上げようと
していた。
「艦長、ストリンガーが、艦長に話があると!」
艦橋で任務についてた下士官が降りてきて伝えた。
「ああ、奴の声だったか。」
何かのがなり声が聞こえてくると思っていた。それも耳に馴染みのある。
下士官のコートを借りてメインデッキに出ると、冷ややかではあるがとてもよい匂いを孕む風が
吹いていた。西方の空の端にはまだ残光が淡く射している。日中、波止場に詰め掛けていた群衆
は、乗員の多くが出かけるのを見て、ちょうど祭りに出かける時のような雰囲気を醸しながら、
ぞろぞろとついていった。
ストリンガーは、ちょうど岸壁に着ける途中であったようで、ぷかぷかと浮かぶボートの上に、
防寒具に身を包んで立っている。
「何か用か、ストリンガー。」
「首尾はどうかと思ってな。向こうでそちらの若いのにも聞いてみるが。」
「何の話かよく分からんが、首尾というならこちらはいつでも上々だ。」
「優秀な艦長はさすがに言うことが違う。部下もさぞや頼もしいだろう。」
ストリンガーは右腕に巻いていた時計を見た。
「では、メルビルたちとともに留守番を頼むぞ。俺は大いに晩餐会を楽しんでくる。」
ボートが発進し、暗い波間に無数の白い泡が立つ。それが消えるのを待つことなく、中国艦の艦
長はいかにも面白くなさそうに、その形のよい眉を動かし、くるりと踵を返すと艦内に姿を消した。

率直な感想として、この中国人の元エリート軍人は、自身の身長の低さを指摘されることには非常
な不愉快を覚える。若い頃にはそれが理由で掴み合いの大喧嘩などしたものだが、歳を重ねた今
現在でも、やはり瞬間的には頭の中が火を噴いたようになる。そうした反応を目の当たりにして、
大人気ないという評価が成り立つことはもちろん理解できる。が、彼自身がそうした評価をし、
さらに進んで反省し、態度を改める努力をしたなどということは、無論ない。
彼は、乱闘騒ぎを起こしていた若い時分にあってさえも、自身の属する組織の利益を損なったこ
とは一度としてないと自負している。彼が自らに課していたのは何よりも組織、軍隊内の一部隊
であれ国家という巨大なものであれ、その内部にあって具体的な貢献をすることであり、ひいて
はそのような有用な人物としての自身を認めさせることであった。それは現在にも引き続く。唯
一至高のその自身への課題を達成し続けている限りにおいて、他のあらゆる事象からの自身への
責任の追及を免れ得ると、彼は考えている。

一人で、部屋にいて本を読んでいた。インド原潜の艦長から借りた、何ともインドらしく理論も
輪廻転生といったような、不思議な数学の哲理書である。留守番組の仕官がつい先ほど持ってき
てくれた紅茶を傾け、自己の内部でも大いに思索を発展させつつ読み進んでいると、コンコン、
と扉が静かにノックされた。誰を呼んだ覚えもなく、ノックの仕方からして緊急性もないようで
ある。となれば、いったい誰が何の用で来たのか、さっぱり読めない。が、ノック後、聞こえて
きた声にハッとする。市から提供されたボートに乗り、大勢の部下とともにその人物が陸へ輸送
されていったのはつい一時間ほど前のことだ。
「ただ今、戻りました。」
やけに白い顔をして、まっすぐに立っている副官の姿を、振り返り、確認した。
「なぜ、すぐに戻ってくる。」
椅子に腰掛けたまま、艦長は咎めるような口調で言った。
「両替を、してまいりました。こちらの物価では、安い靴なら一足買える程度ということです。」
「そこに置いて、行ってよろしい。」
「ストリンガー大佐に、会いました。」
急いだ様子で、副長は言った。
「彼はこう言いました。八つ当たりというのは、それくらいでは関係が壊れないものに対してす
る。それならば、八つ当たりされたものが同じように行動しても、やはりその関係は壊れない。
どちらもが、自分の好き勝手な言動をしても保たれる仲ならば、回りくどい方法はいっさいいら
ず、簡単でいい、と。」
「わたしが貴様に八つ当たりしていると……。そうだな、不愉快なものは不愉快だからな、う
ん……。」
「ならば、わたしも好きなように行動したいと思いまして。わたしは、艦長。」靴の踵(かかと)
を鳴らして、副長は椅子に座る相手の正面に回りこんだ。背筋をまっすぐに伸ばして、それゆ
えに、腰掛けているものからすれば見下ろされていると強く感じる。
神経質な動きを見せた相手の眉を見逃さず、副長は腰をかがめてその場に片膝をついた。
「艦長、わたしは、ただ貴方とともにゆっくりとした時間が過ごせれば嬉しいと思い、戻ってま
いりました。新しい年になって、皆でそろってわいわい騒ぐというのはありましたが、余人を交
えず話ができたのはお休み前の数分くらいで。」
「それでは不満足か。」
ぷいっと艦長はあらぬ方(かた)に目をやる。
「満足ならば、こうしたことはいたしません。」
椅子のアームに乗せられたた手に、副長は自身の手を添えた。相手は瞬間的に引っ込めようとし
たが、下位のものに動揺させられるなど自尊心の許すところではなく、すぐに思いとどまった。
ただ顔は、いっそう遠くに向けられる。
「わたしは、どうでもいいのだ。誰が何と言おうと、わたしはわたしの職責をまっとうしている
のだからな。」
「はい。ですから艦長が、気に食わないものは気に食わないとはっきりと態度に表明されること
は、わたしは当然と思います。そしてわたしも、与えられた職責はまっとうしていると、自負し
ております。」
見上げる位置から、わずかに腰を上げる。
「わたしはただ、貴方が好きなのです。」
「…………。」
気づけば椅子に座ったまま、逃げ場がなくなっている。艦長は少し赤くなった顔を動かし、よう
やく相手に視線を向けた。
副長の右手は、拳をつくっていた。その中には、例の硬貨の両替分が握られているのだった。指
を開くことができないために、どこか所在無げだ。
「……そんなものは、貴様にやる。」
「はっ?」
「その、右手に持っているものだ。どうでもいいのだからな、わたしは。」
わずかに、虚を突かれたらしい顔。だが、すぐに得心したらしく、副長は右手を上着のポケット
に入れ、空にした手をさっと出すと椅子に座る相手へと伸ばした。
「キスして、よろしいでしょうか。」
質疑応答は精確に、簡潔に。艦長は返事をするために唇を動かした。だが、気持ちの上では大い
に一方に傾いてはいるものの、それを口にすることは組織人として以前に、人としての彼の性分に
そぐわない。
「その問いに答えることは、わたしの“職責”とは違うが……。」
「職責を離れてお尋ねしておりますので、艦長も。」
また少し逸らされようとする顔を、副長は手を添えて捉えた。しようがなく目だけが動く。その
目尻にかかる睫毛の震えるような細かな動きが、何よりもこの上官の心の機微を伝えているよう
である。抑えた声で囁くように、その睫毛の動きに真意を尋ねた。
「よろしい、でしょうか。」
何度かの瞬き、その後に閉じられた目元は仄かに赤い。うん、と漏らされたらしき声はあまりに
も心もとなく、だが震えを帯び続ける睫毛に副官は満足する。自身も目を閉じながら、そっと唇
を重ねる。
「よい年になりそうです。」
嬉しげな声で囁くと、相手はなおいっそう赤い顔をしながらも気の強さの滲む目をして、黙れ、
馬鹿者、とやり返してきた。だがそれも囁き声には違いなく、訪れる静けさにすんなりと馴染む。
後には衣服が体に擦れる音と、時折、副官の上着のポケットの中で、複数枚になったらしい例
の硬貨が、チャリチャリと、高い音を立てていた。




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