「新しい年を貴方と」2
ガラス張りの窓の向こうに、今は少し遠い海が見えている。燦爛たる青さに、波音は聞こえな いが、潜水艦乗りとして、さながら親密な仲の女性が紡ぐ声のように、それは耳底に焼き付いて | いて、自ずから鮮やかに蘇る。
| 「そういうわけですので、その一通のみは、後からお届けします。」
| 「他はすでに、物資とともに港湾に運ばれておるわけですな。」
| 「皆さん、ご家族からの手紙が届いているか、楽しみにされているでしょうから。」
| 「ありがたい。」
| 現実に交わされているはずの声が、溢れ出る思い出の波音に凌駕される。
| 「おい。」
| いつしか閉じていた瞼に風が当たったかと思うと、室内での呼びかけにしてはでかい声が降って | きた。目を開けると、威圧的な髭面が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。怒っている、不愉快 | そうでいるというのではなく、ただ不可解そうに。
| 「……ストリンガー、貴様は音量調節の機能がないのではないか。」
| 「表敬訪問中に居眠りし出すのが悪い。」
| 「お疲れですか?」
| 市長が穏やかに尋ねてくる。
| 「いや、窓の外を眺めていたのですが、気持ちがよくて。実際、寒気は厳しくとも、室内にいる | 分には日差しも柔らかで暖かに見える。」
| 「ここ数日、よい天気が続いております。皆さんが次の寄港地へ出発するまでは、おそらくもつ | と思われますから、よろしければぜひとも市内を散策なさってみてください。自然と調和した古 | い町並みが、我々の自慢です。」
| 「ぜひとも、そのようにしましょう。」
| 原潜部隊“沈黙の艦隊”。その一翼を担う中華人民共和国出身の元軍人は、まるでその場の主役 | ででもあるように、悠然として頷いた。
| 昨夕、原潜部隊が入場したばかりの港湾には、今朝から大勢の市民が物見高く詰め掛けていた。 市をあげての誘致工作があったからこそ実現された訪問ではあるが、そうした人々の熱情や切実 | な思いが波長を合わせていたかというと必ずしもそうではなく、中にはただ祭りのような盛り上 | がりに便乗して騒いだだけというものもあり、こうしてほぼ全ての市民たちにとっては初めての | 原潜の群れに、興奮し、我を忘れ、結果として上陸した部隊員たちとの間に一騒動起きるという | のも、大いにあり得る話であった。これまでにも幾度かあったそうした騒動は、ひとつの例外も | なく市民側に問題があって、“沈黙の艦隊”の部隊員においてはぎりぎりまで耐えてのことであっ | た。今のところ、世界に向けての報道もそうした事情をよく伝えており、世界の艦隊に対する | 印象は変わらず好ましく、期待に満ちたものである。が、人の心は移ろいやすく、それにより構 | 成される世論がいつ何時、どういったきっかけで“沈黙の艦隊”に対し不審を抱くようになるか | 分からない。ある方向に向けての運動は、それが大きければ大きいだけ反動も巨大なものになる | のであって、一度芽生えた不信感はただちに恐怖を帯びたものになり、“沈黙の艦隊”はその正 | 義を失うことになるであろう。
| 「あらかた、積み終えたようだな。」
| 海上に顔を出した原子力潜水艦。その艦橋に、二人の男が立っている。
| 「はい。夜には市主催の晩餐会に皆(みな)招かれていますから、張り切っているようです。」
| 「最低限の人員は残していかねばならんのだが……。」
| 「すでに心得ているものは、心得ておりますし、わたしか艦長かどちらかが残れば、皆納得せざ | るを得ません。」
| 副長の言葉に、艦長たる男はふむ……と頷く。湾岸を見下ろす彼の目は、艦に荷を積み込むため | にくるくるとこまねずみのように立ち働く部下たちと、それを十メートルほど離れて取り巻き眺 | めている市民たちとの、その間に横たわる距離を注視していた。この距離を、どちらかが軽はず | みに縮めるようなことがあってはならない。それは両者に直接の触れ合いをもたらし、直接の触 | れ合いはどちらか一方、もしくは両方に対して何らかの実害をもたらし得るものとなるであろう。
| 「陸(おか)に上がる連中には、重ねて言い聞かせておかねば。」
| 「市民側との交流は間接を旨とすべし。間接とは、肉体的な接触を伴わないことである、ですね。」
| 「そうだ。未知のものとの接触は、ただでさえ神経を高ぶらせる。実体が伴えばなおさら。初心(う | ぶ)な男が初めて女に触れた時のような興奮、とでも言えば分かりよいだろう。」
| 「実によい例えです。」
| そつのない受け答えをしていた副長であったが、若さのためか、ここで少々顔つきがだらしなく | なる。
| 「……貴様には、まさにそうした意味合いにおいての警告が必要なようだな。」
| 「は?」
| 「女に色目を使われようが、手を握られようが、ふらふらついていくなと言っているのだ。」
| 「……自分には艦長がいるので。」
| 上司の言葉がまるでおかしなものに聞こえたらしく、副長は訝しげに首をかしげた。
| 「そ、そうか。それなら別に……。」
| 「あっ、艦長、あれを。」
| 「うん?」
| 副長の声に促されて右方を見やれば、二名の警官がざわつく群衆の整理に当たる中を、一台の市 | の公用車がゆっくりと埠頭(ふとう)に侵入してくる。作業をしていた原潜の乗員たちはその手 | を止め、自分たちを迎えてくれた市のことであるから一応は友好的な目を向けはしたものの、各々 | の立ち姿はさりげなく、しかし間違いなく万一の事態を想定していた。
| 「手前味噌ではあるが、なかなか。」
| 満足げに頷く艦長に対し、副長は合点のいかぬらしい面持ちで尋ねた。
| 「先ほど艦長たちが表敬訪問を終えたばかりだというのに、何でしょうか。」
| 「ああ、おそらくあれではないかな。」
| 「あれとは?」
| 「うむ、実はよく話を聞いていなかったのだが、おそらく何か後から届けるだの何だの、そういっ | た話をしていたように思う。」
| 「はあ、それでは。」
| 「タービュレントと通信する。」
| タービュレント艦長のストリンガーは、現在この原潜部隊を代表するものとなっている。代表者 とは顔であり、顔というのは人体の中で最も世俗的な注目を集めるものである。
| 「まったく……。」
| タービュレントとの通信を終え、中国原潜の艦長は呟いた。
| 「わたしが行かねばならんか。」
| 「ストリンガーは取材を受けている最中ですか。」
| 「ああ、代わりに頼むと。」
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