第十一話『方向転換』
胸騒ぎがしていた。気持ちが落ち着かない。外の様子が、いつもに比べて 「なにやっているのよあの馬鹿・・・」 近くの椅子を蹴り飛ばす。琴菜のやりきれない思いの表れだった。 電話が鳴った。琴菜はびっくりして、電話を見る。ここに来てから一度も鳴った事がない、年代モノの電話がジリジリとけたたましい音を立てている。実は、琴菜でさえこの電話の番号を知らない。調べれば分かるのだろうが、必要性がないため放置していた。そんな電話が鳴る。鳴るはずのない電話。それは怪奇現象のように思えた。 電話は鳴り続ける。琴菜を急かすように。琴菜は意を決めて、重たい受話器を取った。 「もしもし・・・」 『もしもし、神山聡さんのご自宅で間違いありませんか?』 女性の声だ。柔らかくてとても通る声。どこかで聞いたことがあるような――だが、思い出せない。琴菜は、静かに感情を押し殺して『そうですが』と答えた。 『櫻町病院のものですが、夕方頃、神山聡さんが倒れられました』 「倒れた・・・?」 『でも安心してください』 琴菜のショックを見透かしているように、相手はすぐ次の言葉をつむいだ。 『極度の疲労で、現在点滴を受けて安定しています。明日の朝には、退院できると思います』 疲労――。 琴菜の心に、それは重くのしかかった。 『どうかご心配なさらずに』 優しい声音を残して、電話は切れた。電話番号のこと、聡のこと、それを知っている相手に疑問を感じることもなく、琴菜はただ黒い受話器を握り虚空を仰ぐ。 「・・・私はやっぱり疫病神ですか」 琴菜は、ポツリと呟いた。 櫻町病院の敷地内。消灯前であるため、まだ明かりが爛々とついている。その明かりの影になる場所で、携帯電話を彼女はポケットに入れた。闇夜にいつ溶け込んでもおかしくない、漆黒の髪と衣装に身を包んだ彼女は、とても美しい顔立ちをしていた。年の頃は、二十台の半ばかそれぐらい。丹念に作り上げた、工芸品のようである。彼女の瞳は揺れていた。その視線の先には、病室が一つ。 「自分がしてしまったこと、理解はしていたつもりでしたわ。でも、私は何も分かっていませんでした。これほどまでに、あなたを苦しめているなんて・・・そうよね、あの日、何もかもが終わってしまったのだから。先がない終わりは、悲しいことだわ。必ず、守って見せますわ。あなたがくれた優しさが、私をこの世界に導いたのだから」 彼女は、足音も立てずに――まさに闇夜に溶け込むように姿を消した。 学校の保健室前で倒れた神山聡。彼は、近くの櫻町病院に搬送された。CTをとってみたが、脳に病変はなかった。他の病気の可能性は、血液検査の結果を待たないと分からない。そのため、聡の様態はこれから先どう変化するのか、分からない状況にあった。ただ、バイタル――体温、脈、血圧に異常はなく、呼吸も乱れていないため、医師は過労の可能性を指摘していた。 次の日の朝、聡は何事もなかったように目を覚ました。回りが見慣れない光景であるため、少しの間混乱したが、特有の造りからここが病院だと分かるのにそんなに時間を要しなかった。 「・・・なんで病院なんかに」 思い出そうとするが、彼の記憶は学校に入ったところから途切れてしまっていた。 誰かが扉をノックする。看護師が来たなら丁度いいと思いながら返事をする。しかし入ってきたのは、看護師ではなかった。 「起きていたんだ。気分はどう?」 入ってきたのは、髪の長さが左右で違う不思議な髪形の女性。やわらかい笑みを浮かべている。女性は聡のことを知っている様子であったが、聡は彼女が誰なのか全く分かっていなかった。 「もう、いきなり倒れるからびっくりしたのよ」 女性が近づいてくる。ほがらかな彼女に対して、聡は嫌な汗をかいていた。分からないのだ。どんなに考えても。向こうは明らかにこっちを知っている。信頼感さえ感じる。なのにこちらは思い出せない。 適当に話をあわせるべきか――それが相手を傷つけない一番の方法だ。だが、それは逃げているのと変わりはしない。得たいのは、はっきりいえば彼女のご機嫌ではなく、失ってしまった記憶そのものだ。 「どうしたの? もしかして、私どっか変?! それなりに気合入れてきたんだけど」 聡は、覚悟を決めた。 「き、君は・・・」 言葉が出にくい。喉が渇く。これほど嫌な思いをするものなのか。つばを飲み込み、不思議そうにしている女性を真正面から見据えた。 「君は誰?」 彼女の表情が凍りついた。でも彼女は気丈だった。笑顔を無理矢理取り繕う。 「何真剣な顔をして、馬鹿なこと聞いているのよ・・・」 だが、彼女の気丈さは長くは持たなかった。聡の表情が、すべての答えだったからだ。 「・・・聡の馬鹿!! 私のこと忘れちゃうなんて、死んじゃえ! くたばっちまえ!」 大声をあげ、ベッドを蹴る。その威力は凄まじく、ベッドが引っくり返りかねないもので、思わず聡は柵にしがみついた。そうしている内に、彼女は部屋を出て行った。 このままではいけない。聡は、慌ててベッドから下りる。しかし足が完全に覚醒していなかった。よろめき、扉に顔から突入する。 「いってぇ〜〜〜〜!」 病院は意外に頑丈だったらしく、聡の体当たりを受けても扉は壊れなかった。扉が壊れなかったということは、ダメージが全て聡に跳ね返ってきたことを意味する。トナカイのように鼻が真っ赤。ついでに額も真っ赤で、涙目の聡。しかしここでめげるわけには行かない。聡は、病室を出た。 病室を出ると、ばたばたと看護師達が走ってきていた。あれほど大きな音をたてれば、仕方がない話である。 「どうしたんですか!」 ここで彼女達と関わっている暇はない。どうすべきか迷っていると、一陣の風が吹いた。そう、それは風と呼ぶしかなかった。次々と看護師たちが倒れていく。数秒後には、黒い髪を長く伸ばした――あの琴菜そっくりの女性だけになっていた。相変わらず、不気味なほどに笑顔を保っている。 「あの子は、エレベーターに向かいましたわ。そこの非常階段から先回りが出来ます。ついてきてください」 なぜ彼女がここにいるのか、質問している時間はないようだ。彼女は、看護師たちがやってきた方向とは逆に走り出し、非常扉を開けた。この非常扉は、外に出るものではない。普段看護師たちが使っている、関係者用の階段だ。 飛ぶように階段を下りる。全速力で降りる聡であるが、優雅に降りていく彼女との差は全く縮まない。さきほどの看護師を瞬く間のうちに眠らせた技量といい、この間見せた馬鹿力といい、なにもかもが人間離れしている。そんな彼女と聡に、どんな接点があるというのだろうか。その答えも、今は分かりようがない。 非常階段を降りきる。重たい扉を開けて出た先は、放射線科の前だった。慌てた様子で飛び出してきた二人を、順番を待つ患者達が不思議そうに見ている。 「こちらが玄関ですわ」 まっすぐ右側を指す。ここからでも、彼女が指差した先がロビーになっていることがわかった。 「すまない」 聡が例を言うと、彼女はいつもの笑みを絶やすことなく、軽く手を振っていた。 「頑張ってくださいね」 頷き走り出す聡。ふと気になり後ろを見てみるが、そこにはもう彼女の姿はなかった。 ロビーに出て、周りを見渡す。結構人がいる。だが、そこにあの特徴的な髪型を見つけることは出来なかった。もう外に出たのかもしれない。玄関のほうに視線を向けた時、ガラス張りの自動扉の向こう側に、いまだに走り続けている特長的な髪形の彼女を見つけることが出来た。聡は走り、自動扉が開く時間も惜しんだため、隙間に体を潜り込ませて外に出た。 「待ってくれ!!」 彼女は、あまり足が速いほうではなかった。彼女の前に回りこむ。しかし、それは大きな誤算だった。彼女は、スピードを緩めるどころか加速してきた。 「うおっ?!」 「どりゃーーーー!!」 加速を活かしての飛び蹴り。聡は慌ててしゃがんでそれを避ける。さきほどの病室の蹴りといい、なかなか暴力的な性格をした人物のようだ。あんなのをまともにうけたら、今度はそう簡単に病室から出ることができなくなるだろう。 「頼む! 話を聞いてくれ!」 「ずっと待っていたの! あなたとの約束を信じて! それなのに・・・それなのに・・・!」 彼女は相当怒っていた。それはもう命の危機を感じるほどである。心が痛む。今更ながら、あの時選んだ選択肢を悔やんだ。 「話を聞いてくれ・・・!」 聡は、その場で土下座した。もうプライドとかこだわっている場合じゃない。それを見た彼女は、一滴の涙を流した。その表情は、果てしなく冷たい。 「話てなによ。私馬鹿みたい・・・アンタなんかの言葉を信じて三年も待っていたなんて」 「・・・記憶がないんだ」 「え?」 唐突な言葉に、彼女は話についていけていない。 「俗に言う記憶喪失なんだ、俺。名前以外、何も思い出せねぇ・・・君の事だって、思い出したくても思い出せないんだ・・・!!」 記憶がないことをこれほど悔やんだことはなかった。聡は、怒りと共に拳を地面に叩きつけた。 「でも、あの時名前を呼んだじゃない」 「あの時?」 彼女が何の話をしているのかが分からない。 「ほら、保健室の前、アンタが倒れる前よ」 「・・・すまん、学校に入ってからの記憶がないんだ」 彼女はしばらく考えていた。聡は、土下座の格好で固まっている。顔を上げて、彼女の顔を見る勇気がなかった。 「そんな馬鹿な話ないよ・・・」 涙を乱暴にぬぐった彼女は、ポツリとそう呟いた。 「ゴメンナサイ。今はちょっとダメみたいだから」 その後、『夕方五時、海の家で』と残して彼女は走り去っていった。 彼女を見送った後、病院に戻ろうとすると、例の黒髪の彼女が『手続きは全て私にお任せください』と言い、聡を中に入れなかった。そう言われてしまっては、聡としては反論も出来ない。仕方なく帰ることにした。 帰る前に虹野印刷所に顔を出すと、社長に頭を叩かれ、夏樹には目の前で大泣きされた。それをなだめるのに苦労しながらも、聡は自分のために涙を流してくれていることを嬉しく思っていた。その後、夏樹の家で電話を借りて由紀子に連絡を入れた。由紀子は、淡々としており、どこか呆れているような感じだった。だが、『頑張りすぎないでよね』というたった一言のねぎらいの言葉が、彼女の気持ちのすべてを表していた。 一通り挨拶を終え、家に帰ろうと山に差し掛かったとき、ふと聡は空恐ろしい思いに駆られた。本能が山を登ってはいけないと訴えかけている。だからといって、ここで回り右をするわけにもいかない。今のところ、住むところはあそこしかないのだ。 ログハウスの玄関前。聡は、悩んでいた。元気よく何事もなかったように入るか、それともこそこそと進入するか。さきほどの斎の時は、選択肢を明らかに間違えた。今日は、できればこれ以上のトラブルは避けたい。 聡は、覚悟を決めた。 「ただいま」 結局聡は、どちらでもない第三の選択肢を選んだ。変に演技しても、琴菜に通じるはずがないと思ったからだ。『おかえり』という返事は返ってこない。台所にはいない。奥の個室に通じる扉は閉ざされている。琴菜は、半分以上彼女の作業場と化しているリビングにいた。白紙のキャンバスに向かい合って、聡のことを気にかける様子もなく黙って座っている。異様なオーラが漂っていた。聡は、平常心だと呟きながらも、かなりビクビクしていた。 聡はとりあえず何事もなかったように、奥の個室を目指した。触らぬ神に祟りなしである。ドアノブを握って力を込めようとした時、琴菜がついに口を開いた。 「疲労で倒れたらしいわね」 何のことか一瞬分からなかった。だがすぐに思い出した。自分が倒れた原因が、過労になっていたことに。 「・・・正直分からない。気づいたら疲労ということになっていたが、俺はそこまで疲れていなかった。それに、学校に入ってからの記憶がない。なぜ倒れたのか、俺にもさっぱりなんだ」 琴菜は、黙って話を聞いていた。ちらりと様子を伺う聡であったが、無表情の彼女から得られるものは何一つなかった。 「昔々あるところに、貧乏なジジババがいました」 突然語りだした琴菜。いよいよ持ってわけが分からない。 「ジイさんは山に人狩りに、バアさんは川に水死体を探しにでかけました」 「ちょっと待て。おかしいだろう、それ?」 「知らないの? 日本残酷物語」 「知るか! てか、勝手に作るなよ!」 琴菜は、無表情で聡のほうを向いた。 「無知は愚かね」 「今の本が絶対にあるって言うんだな! じゃ、探してきてやるぜ! なかった時は・・・」 「裸踊り決定ね」 びしと指差され、聡は思わず顔をしかめた。これはもしかしたら本当にあるのかもしれない。聡は、嫌な汗をかきながらも『あ、あぁ、見ていろよ』と強がるので精一杯だった。 約束の時間が迫っている。着替えて外に出ると、琴菜が切り株に座って空を眺めていた。相変わらずの無表情である。 「また出かけるの? 忙しい人ね」 ドアの音で分かったのだろう、琴菜は背を向けたまま話しかけてきた。 「やっと見つけたんだ。俺を知っている奴を」 「そう」 琴菜の返事は、やはり素っ気ない。 「夕飯は? いるなら作っておくわよ」 意外な言葉が返ってきた。きょとんとしていた聡であったが、すぐに笑顔を浮かべた。 「そうだな、お願いしていいか?」 話次第では、ここにいる必要はなくなる。だが、ここを出て行くのは、行く宛てがちゃんと決まって、彼女に礼を言ってからだ。なにも焦る必要はない。それに琴菜の料理の腕は、聡の初出社の時に作ったカレーで、彼以上の実力だということは判明している。ただ、面倒臭がってなかなか作りたがらないのだ。そんな彼女が作るというのであれば、断る理由などない。 聡は、山を降りた後喫茶店『海の家』を訪れた。喫茶店のオーナーが斎の名前を覚えていたことから、ここが昔から使っていたたまり場であったことは予測できていた。店に入ると、とりあえずオーナーにコーヒーを頼む。オーナーは、意味深な笑顔を浮かべていた。その笑みが語るように、聡の事を知る女性はすでに来ていた。前、由紀子たちが座っていた丸テーブルに座っている彼女は、少しだけはにかんだ。 「少し待ったか?」 「そんなことないわよ」 聡が席に座ると、彼女はゆっくりと話し始めた。 「・・・色々考えたわ」 斎の話を黙って聞く聡。 「アンタが私を欺いている可能性、本当に記憶喪失の可能性、本当に忘却してしまった可能性・・・」 「・・・・・・」 「でも、結局答えなんて最初から一つだったのね。私はあの時、土下座するあなたの言葉を、必死で訴える聡を、信じていたんだわ」 「俺が記憶を失っていること、信じてくれるのか?」 彼女は、にっこりと笑った。 「えぇ、聡だもん」 その一言に秘められた思いは、計り知れないものであった。 「聡が記憶喪失なんて、泣くべきなのか喜ぶべきなのか」 「どういうことだ?」 そこでオーナーがコーヒーを持ってきた。彼女は、それ以上語ろうとはしない。仕方なく、コーヒーを一口飲む。 「甘党の聡が、素で飲んでる・・・」 聡は、二回目の苦笑を浮かべた。 「最初にコーヒーの味を確かめているんだ。昔はしてなかったのか?」 コーヒーに、砂糖とミルクを入れる。美味しいとはいえ、やはり素で飲むのはきつい。 「聡がそんなハイカラなことするわけないじゃない」 「・・・ハイカラてなんだ」 「この鋭い突っ込みの角度。やっぱり聡は聡だ・・・」 しみじみというその言葉には、深い悲しみがあった。 「そういえば私の名前、言ってなかったわね。私は、坂田斎。家は、聡の実家の隣で、物心付いたときから一緒だったわ。まさに絵に描いたような幼馴染よ」 「坂田斎・・・懐かしい感じだ」 「でも思い出せない?」 「さっぱりだ」 苦笑する聡に、『焦ることなんてないわよ』とフォローする。 「私は、聡がこの街に帰ってきて、こうやって話ができているだけでも、十分幸せなんだから」 斎はそこでふと緩んでいた顔を、引き締める。頬が微妙に赤い。 「私、素で恥ずかしいこと言っているよね。嫌だなぁ、軽く聞き流しといてね。今の私、聡が帰ってきてくれたことの嬉しさで、半分壊れ気味だから。ううん、九割ぐらい壊れているかも」 斎の言葉、動作一つ一つがとても懐かしく感じる。 斎が、一口コーヒーを含む。それが彼女なりのケジメだったのだろう、持ってきていた大きな紙袋からアルバムを一つ取り出した。取り出したアルバムは薄いピンクのもので、明らかに個人用であった。紙袋の中には、あと三つほど入っている。装丁から見て、学校のアルバムが二つに個人用があと一つといったところだろうか。 「とりあえず、これからも私みたいに聡を知っている人と出会うと思うから、親しかった人の説明を軽くしておくから。ちなみにこれは、昔の聡よ。今よりちょっとスリムね」 斎が見せてくれた写真を見て、聡は思わず眉根を細めた。彼女が言う通り、今よりも肩幅が狭くスリムな感じである。少し変わっていてもそれは確かに自分だと確信は持てた。問題なのは、その顔にあった。くたびれた表情に、なぜか目のところに青いアザ。プロボクサーに殴り飛ばされたような、情けない顔をしている。その彼の首に腕を回しているのは、今とあまり変わらない斎。なにやら勝ち誇った顔をしている。 「説明いる?」 斎が、悪魔の笑みを浮かべる。聡もあわせるように笑ったが、その笑みは引きつっていた。 「んにゃ」 短く説明を拒む。この時聡は思った。思い出したくない過去も確かにあるのだと。斎も、『そう』と軽く流し、ペラペラとアルバムをめくっていく。 「じゃ、ここら辺から説明するかな。小学校の時からの友達・・・というよりパシリね、岡島倉斗。その恋人の雨見麗。そして、聡の変態仲間の内藤恵子。てか、なんで高校生なのにこんなに化粧バリバリなのかしら」 妙な単語が聞こえたが、聞こえない振りをした。彼女が指差す写真を見ても、やっぱりピンと来ない。それはとても寂しいことだった。 聡の顔色が変化していないことに、斎も気づいていた。あまり深く説明せず、再び先ほどのアルバムを取り出す。 「で、後は説明したくないけど・・・これが鏑木郁子で、こっちが流鏑馬久留里。今、この町にはいないわ」 そこに写っている写真を見て、聡ははっとなる。そこに写っていたのは、体育祭で見た幻影、少女Bと少女Cだった。聡は、あれが間違いなく自分の過去の映像であったことを、この時確信した。ちなみに斎は、聡の表情が変化したと同時になぜか舌打ちをしていた。 「あ、忘れていた! この可愛い男の子が刈谷恭介。聡の弟子よ」 斎が指差した写真は、まだ中学生ぐらいの子供達に聡が囲まれている写真だった。その中でも飛びっきり整った顔をした少年が、刈谷恭介のようだ。 「俺の弟子?」 「そうよ、聡は昔、中学校で陸上部の臨時顧問していたのよ。これはその時の写真。刈谷君はね、あの頃から有望株だったけど、その後もメキメキ力をつけてね、聡と同じで高校生の時に全国大会まで勝ちあがったんだから。その後、不幸な事故で出られなくなったんだけどね。聡と同じで」 「俺と同じ?」 「えっ? あははは、最後のはなしなし。何も私言ってないよ」 笑って誤魔化している。彼女が話したくないようなので、聡も敢えて聞かなかった。 「誰か忘れている気が・・・あ、遙ちゃんか」 アルバムをぺらぺらとめくる。写っている写真が見つからないのか、斎は難しい顔でページを行ったり来たりしていた。 「あぁ〜、遙ちゃんの写真はないみたい。仕方ないか。あと一人は、沢村遙。私達よりも一歳年下の、元ヤンキー。今じゃ、歌宝山に事務所構えて、探偵しているのよ。とても、胡散臭いけどね」 いくつもの名前が出てきて、さすがに聡も覚え切れなかった。その中に、彼を救った琴菜の名前は出ていない。試しに聞いてみると、『えっ? 誰その人』という答えが返ってきた。 「聡は、何度かこの町を離れているから、私が知っていることは聡がこの町にいたときのことだけ。で、その琴菜て誰なのよ」 目つきが鋭くなった。聡は恐ろしくなって、愛想笑いを慌てて浮かべる。 「いや、記憶をなくしてから会ったんだ。言っとくが、なんでもない仲だぞ」 納得していない表情である。聡は、空気を読んで話題を変えた。 「そこに入っているアルバムは、中学のか? ちょっと見せてくれないか?」 「そうだけど、あんまり顔ぶれ変わんないわよ」 櫻高校は、地元密着の高校。次に近い公立の学校が、電車で四十分も先ということもあってか、地元の中学生はほとんど櫻高校を受験する。そのため、顔ぶれがあまり変わらないのだ。 アルバムをめくる。中学の頃の自分とかには興味はない。話題を逸らすために見ているようなものだ。一組、二組と、ざっと見る。七組のページにたどり着いた時、聡はその手をぴたりと止めた。個人の写真の中に、一人だけ明らかに背景が違う生徒がいた。イジメか、病気か――そこに書いている名前が、見覚えのあるものでなければ、素通りしていたところである。写真の下には、『橘数馬』と書かれてあった。 「橘数馬・・・橘神社の関係者か何かか?」 「ん? あぁ、橘数馬君か。その人、事故で死んじゃったの。冬休みだったかな。普段からあまり学校にも来てなかったけどね。死んでなかったら、不謹慎かもしれないけど、記憶に残らなかったかも。て、聡は橘神社の人と知り合いなの?」 「いや、ただ気になっただけだ」 橘数馬――間違いなく、あの橘椿の兄だろう。橘椿の兄は死んでいた。彼女の硬くなさとあの暴走振りの原因は、ここにあるのではないのか、聡はそう思った。その理由は、橘数馬の表情にあった。彼の表情は、とても穏やかで、妹とも祖父ともまるで違っていた。 「まぁ、いいけど。ところで、質問ないの? 答えられることは、答えるわよ」 知りたいことはいくつかある。包帯の少女、茜、橘家が恐れるもの、琴菜と琴菜そっくりの女性の関係などなど。しかし、彼女がその答えを持っているとは考えにくい。そこでふと左手の薬指にはめてあるプラチナのリングが目に付いた。 ――これについては聞かないほうが無難かもしれないな。 「とりあえず、家を知りたい」 驚く斎。それからぽんと手を打つ古い動作をした。 「聡、今何処に住んでいるの?」 この質問は答えにくい。琴菜と同居しているなんて伝えたら、またもや暴走しかねない。 「・・・なんで答えないの?」 「いや、べ、別に。少し考えていただけだ。俺、行き倒れていたんだ、若草山で。今、そいつの所にお世話になっている」 「行き倒れていた? 若草山で? なんであんな辺鄙な所で」 「わかんねぇよ、それより以前の記憶がないんだからさ」 斎は、コーヒーを飲みながら考え込む。地元の人でも入り込まない若草山。そこで行き倒れていたというのは、なんとも不思議な話なのだ。若草山の向こう側の家科街に行くなら最短コースであるが、獣道も存在しないあの山を登って超えようとするものなんてまずいない。まさに、理解不能だった。 「・・・よく分かんないわね」 「だろう。俺もさっぱりだ。何処から来て、どうして倒れたのか。何度か町を離れていたと言っていたが、少しその辺りのことを教えてくれないか?」 「高校卒業後、聡は私に黙って東京に行ったわ」 斎は、今でもはっきり思い出すことができる。冷たい雨が降る日だった。春休み、暇を持て余していた彼女は、聡に電話をかけた。雨も降っていることだし、聡の家でゲームでもしようと考えていたからだ。 電話に出たのは、聡の父親だった。実際、電話越しで聡と聡の父親の声を聞き分けるのは難しい。何度恥ずかしい思いをしたか分からないほどである。 「斎ですけど、聡君いますか?」 「聡・・・何も聞いてないのか?」 「えっ? 何もて・・・何かあったんですか?」 「聡なら、昨日家を出た。行き先は、俺も知らない」 目の前が真っ白になった。その後、気づいたら朝になっていたのを彼女は覚えている。春休み中、家に閉じこもっており、やっと受かった大学も危うく入学式からすっぽかすところだった。 「その後しばらくして町に帰ってきたわ。それから一年ちょっと櫻町にいて、そしてアフガニスタンへ。それ以後のことは知らないわ」 斎は、この時心の中でぽつりと呟いた。 ――こんな形で約束が果たされても、どうしろというのよ・・・! 二人は一通り話した後、聡の家の前に場所を移した。聡の家は、立ち並ぶほかの家と特に変わったところはない。少しくすんだ木の表札には、きちんと『神山』と書いてある。 家を見上げる聡。斎は、彼の後ろで様子を伺っている。 なんの感情も湧いてこない。聡にとって、この家は他人の家同然だった。本当に自分の家なのか――だが、斎が嘘を付くとは考えられない。ちなみに斎の家は、その隣の家だった。 五分ほど過ぎただろうか。動きを見せない聡の名前を、斎が呼ぶ。『ん?』と返す聡に、斎は言った。 「聡にとって、この家での生活はいいものじゃなかった」 「・・・そうなのか」 「聡はいつもお父さんと喧嘩していて、でも聡真面目だから、お父さんを許そうと頑張っていた。でも、お父さんが再婚して・・・」 「そっか」 最後まで聞く必要はなかった。この家は他人の家同然ではなく、もう他人の家なのだ。家から視線を逸らし、横を走る道路を見つめる。少し記憶が戻ってきた。雨が降る中、聡はこの家を後にした。 熊のぬいぐるみを抱えた――。 「・・・っ!?」 突然頭痛が走った。 「どうしたの?!」 斎が慌てて聡を支える。聡は脂汗をかきながらも、自分を支える斎の手を優しく叩いた。 「・・・もう大丈夫だ」 記憶はまた消えてしまった。だがこの家を後にしたときの気持ちだけは、心に残っていた。 「過去に縛られる必要なんてないから。過去の記憶がなくても、聡はこうして生活できているじゃない」 一つ間を置いて、斎は言った。 「前を向こう。後ろを向いていじいじしている聡なんて、らしくない。がむしゃらに突っ走ってこそ、聡よ!」 聡は笑った。家の前であるため、押し殺した笑い。声が上がるのを必死に抑えている。 「斎、君と再会できて本当に良かった」 ひとしきり笑った後の聡の言葉に、斎は顔を真っ赤にする。 「な、なに言っているのよ。本当に感謝をしているなら」 斎は小指を突き出した。 「約束して。もう二度と勝手にいなくならないて」 小指を絡める聡。斎の指は、ほっそりとしていてとても綺麗だった。 「あぁ、約束する。おっかないからな」 「約束破ったら、マジで針千本飲ませるからね」 この時、二人は気づいていなかった。聡の家の二階の窓、カーテンに隠れるようにして様子を伺っている人がいたことに。 日が暮れた。分厚いカーテンから漏れていた光が消えたことで、彼女はそう判断した。日が暮れると、安心する。長い一日がやっと終わるからだ。このまま消灯時間まで、今日も何もせずゴロゴロするべきか。そんなことを考えていると、誰かが扉をノックした。 「美香さん、入っていい?」 隣の部屋の子だ。今日は、ゴロゴロしなくてもいい日になりそうである。彼女は、訪問者を招きいれた。 「ねぇねぇ聞いた? 今日の騒動」 自分とあまり変わらない年の彼女は、話しながらベッドに座る。 「看護師が気絶していたというあれのこと?」 「そうそう! なんでも入院患者のところに駆けつけようとしていたらしいね」 「その患者の名前、知っている?」 「えっ? 美香さん、知っているの?」 「偶然聞いちゃった。神山聡ていうの。ふふふ」 「なにその不気味な笑い」 「不気味て、幸せの笑みと言いなさいよ!」 美香は、左の薬指につけているプラチナの指輪を見せた。 「この指輪をくれた人と同姓同名なの。そのこと思い出してね」 「同姓同名て、本人じゃなかったの?」 「顔までは確かめてないけど、あの人が私を追いかけてくるなんてありえないから。実際、もうあの人のところから離れて、二ヶ月。その間、連絡一つないもの。恨まれても、愛されることなんてないわ」 「でもその指輪、つけ続けているんだ」 「これは、私に課せられた業だから」 美香は、寂しそうに笑い、指輪の主を思い出していた。 第十二話へ続く。 |