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『ひふみの大冒険』
春野家にとって、彼女が生まれたことは本当に幸運な事だったろうか? 春野ひふみ。今では、九州で右に出るものがいないほどの感応士。感応士とは、人が五感で世界を感じているのと違い、霊的な感覚でそれを感じる事ができる能力を有すもの。人間型高性能レーダーとも呼ばれており、優れた感応士を有していると、それだけでアドバンテージが発生する。ようは、一目置かれるわけだ。 春野家は、近所で少し腕の立つ男が作った地域に密着した一族。その歴史の中で、特筆した力を有す者もおらず、平々凡々と、のらりくらりと世代を重ねてきた。そんな歴史を恥に思う人もあれば、だからこそ今も世代を重ねられている――そう思う人もいる。 千五百年中頃に九州に進出してきた、日本最強の除霊屋、橘家。春野家は、大した力を持っていなかったため、相手にされておらず、春野家もまた橘家に無条件で従った。三十人程度の春野家と、全国で数万もの除霊士を抱える橘家とでは、月とすっぽんである。 そんな春野家に、ひふみは生まれた。橘家がすぐさまそんな春野家を擁護してくれたからこそ、なんとか立ち行く事が出来た。それでも今までなかった軋轢に、苦しめられる事となる。 ひふみは、能力が確立した六歳の頃から屋敷の敷地から出ていない。もし、彼女が外を出歩けば、彼女を狙う他の除霊屋が黙っていないからだ。そんなひふみを哀れんだ当主が、ギリギリまで譲歩して、春野家の本家の敷地内は自由に動く事ができている。それと共に、ひふみにあらゆる娯楽を提供し、春野家の人間限定で面会も解放した。その影響か、ひふみは閉鎖された世界でも、普通に笑える子に育った。しかし、その笑顔が最近少し曇り気味である。仲良くしていた友達と姉のように慕っていた人が、同時に春野家を去ったからだ。 乙衣烏華と乙衣兎渡子。 除霊屋の仕事で失敗して、烏華が重度の霊障――霊的なダメージのこと、を負ったことは聞き及んでいるが、詳しい事は春野家の人間は誰も知らない。 二人がいなくなって、二年。ひふみの耳に、兎渡子生存確認の噂が飛び込んでくる。 ひふみに会いたい――。 その気持ちは、日増しに大きくなるのであった。 午後四時を回った、幽世喫茶。昼のピークも過ぎて、まったりとした時間が流れている。いつも通りメイド服に身を包んだ、マイセンカップの付喪神マイは、テーブルを綺麗に拭き上げており、喫茶店の主である乙衣兎渡子は、カウンターで本を読んでいる。時折、欠伸を噛み締めながら――。 そんな折であった。 「兎渡子! ひふみが来ていないか?!」 慌しく飛び込んできたのは、春野蓮華。相変わらずのスーツ姿で、凛々しい男性にしか見えない容姿である。彼女は基本慌しいが、今の彼女はその慌しさに焦燥やら恐怖やら見え隠れしていた。兎渡子もそれを読み取り、蓮華をまずはからかうという行動の順番をすっ飛ばして、本を閉じ、立ち上がった。 「なに? ひふみ? ここに来れるわけないじゃない」 春野ひふみ。春野家が保持する感応士――人間版高精度レーダーのような存在のことである。その力は、九州で現在右に出るものはいないほどのもの。春野家にとっては、至宝の宝のような存在だ。それ故に、彼女は他の一族に狙われており、六歳を過ぎた頃から一度も屋敷の外へは出してもらえていなかった。その彼女が、なぜここに居ることができるだろうか? それは当然の疑問だった。 「あの馬鹿・・・お前に会いに行くと、書置きを残して一人で出て行ってしまったんだ・・・!」 「はぁ?! 警備の人間はなにをしていた・・・あぁ、そっか、警備は外敵用だったわね。ひふみを捉えられるわけないか」 ひふみは、春野家の本家の別館で過ごしている。その別館には、常に二人以上詰めているが、それはあくまで外部からの敵を排除するための人員だ。ひふみが、外に出ようと思えば、止める事はできない。なぜなら、ひふみの能力は、360度広範囲で霊的なスキャンをかけることが出来る。詰めている人間の動きや性格なんてものは、とっくの昔に見抜かれている。その隙を突けばいいのだから、彼女にとってそれは食事をするかのような気軽さであっただろう。 「もし、ここにひふみが来たら、連絡をくれ」 蓮華は、そう残して慌しく帰っていった。残されたのは、顔をしかめている兎渡子と、状況がまるで飲み込めないマイ。 「マイ、ごめん。私、タカの所に行ってくるから。お店のこと、頼んでいい?」 「はい、お任せください」 憂う主人を、マイは笑顔で送り出す。兎渡子は、そんなマイの気遣いに感謝しつつ、店を出て、タカのいる厄神社を目指した。 「ひふみ・・・なんで私なんかのために・・・」 悔しさで歯が軋む。今はただ、ひふみの無事を祈るばかり。 そもそもの事の始まりは、それから八時間ほど遡る――。 蓮華は、ひふみの召喚を受けて、別館へと赴いていた。 「ひふみ、入るぞ」 襖を開けて、蓮華は溜息を零す。横長の部屋には、所狭しと本やDVDが散らかっていた。その散らかった部屋の壁に背を預けて、携帯ゲーム機で遊んでいる女性が、春野家の至宝ひふみである。 「いい加減、片付けたらどうだ」 「混沌としているように見えても、それはそれで調和が取れているんだよー」 「そんなのはずぼらな人間の言い訳だ」 ひふみは、携帯ゲーム機の電源を落として、ようやく顔を上げた。少女のように愛らしい顔をしているが、これでも十分に成人をしている。蓮華とは、対照的な印象だ。顔もそうだか、胸の大きさも。 「で、用件は?」 本とDVDをずらして場所を確保してから座る。 「最近、レンちゃん、私を避けてるよね?」 蓮華の事を、ひふみは『レンちゃん』と呼ぶ。 「忙しいだけだ。そう思うように見えていたなら、謝る」 「忙しいのは知っているよ。でも、避けてるよね。それとは別に」 「回りくどい言い方だな。結局、何が聞きたいんだ?」 「それを言いたくないから、避けていたんでしょ? ひふみ、これでも怒ってるよ」 「怒っている理由が私には分からん」 「そう、なら別にいい。もう、レンちゃんには頼らないから」 ひふみは、再び携帯ゲーム機の電源を入れて、ゲームを始めた。 蓮華も、ひふみが何を聞きたかったのか、実はよく分かっていた。兎渡子のことを、聞きたかったのだ。 ひふみは、確かに外に出してもらえないが、春野家の人間ならば誰でも謁見する事ができる。蓮華、そして兎渡子は、ひふみにとっては大切な友達だ。その兎渡子が行方をくらまし、ひふみはしばらく落ち込んでいた。その兎渡子が見つかったことを、ひふみに伝わらないようにしていたのは、蓮華である。もう、兎渡子は春野家の人間ではない。居場所が分かっても、ひふみは彼女に会うことは出来ないのだ。ならば、行方不明のままのほうがいい。そう、蓮華は判断したのだが――。 「やっぱり、気付いているのか」 別館から出て、ぼそりと蓮華は呟いた。嫌な感じがして、別館へ向き直るが――蓮華は、気を取り直して、その場を後にした。次に蓮華が騒ぎを聞きつけてきたときには、『トトちゃんに会いに行ってきます』という置手紙だけが、部屋に残されていた。 厄神社。山の悪いものを溜めておく場所。昔は、定期的に春野家がここの浄化を携わっていたが、現在、その悪いもの――『穢れ』を管理する存在がいるため、必要なくなってしまった。その存在の名を、タカと呼ぶ。古くてボロボロの着物を纏った、ぼっさぼさの髪の男である。福岡の南部地方では、首に四千万もの報奨金がかけられていた。今は、すっかり兎渡子たちと仲良くなり、頼んでもないのに勝手に穢れを管理してくれている。 「タカ!」 いつものように朽ちた社の軒先でぼんやりと時を過ごしていた彼の所に、慌てた様子の兎渡子がやってきた。マイペースな兎渡子が慌てている様を見て、タカはその表情を引き締めた。 「なにかあったのか?」 「私の友達・・・感応士なんだけど、勝手に家を出ちゃって、探さないといけないの! えと、写真とか、あったっけ・・・」 「よい。状況は分かった。感応士なら、その波長で分かる。兎渡子が、私を頼るなど・・・これは、僥倖ぞ。すぐに探し出してやろう! 鉄の船にでも乗った気分で、待っているがいい!」 タカは不遜に笑うと、その体を人から本来の姿に近い、大きな鷹のような姿へと変え、凄まじい勢いで空を昇っていった。風で煽られる髪を押さえながら、兎渡子はそれを見守った。 「・・・お願い、あの子を見つけて」 これ以上、自分のために誰かが傷つく事。兎渡子にとっては、それが一番怖いことであった。 穏やかな晴天の下、増山浩二はまっすぐに家路を急いでいた。線路沿いの道は、付近の住民が使うか抜け道でしか使われていないためとても静かで、風に揺らされる葉のささやきさえも、耳に付くほどであった。 浩二は、近くの中学に通う生徒だ。特段、目立ったところもない、平々凡々とした容姿。家に帰って、ゲームの続きでもするかなぁ――なんてことを考えながら、歩いていた矢先、携帯の着信音が鳴り響いた。 「ん? ・・・げっ」 電話の相手の名前を見て、露骨に嫌そうな顔をする。液晶には、『悪魔』と書いてある。ここ最近、彼にとってその存在は災いを持ち込むものとなっているのだ。しかし、電話に出なければ、学校で会った時に、どんな目に遭うか分からない。いやいやながらも、出るしかない、これは強制イベントであった。 「はい、なに?」 『遅い! とっとと出なさいよね!』 いきなり怒鳴られて、思わず携帯を遠ざけてしまう。 「はいはい、で、なに?」 『いいこと、今から言うことをよく聞きなよ。ネジが足りてなさそうな、美人な女の人に出会ったら、即電話! オーケー?』 「はっ?」 『いいから、即電話や!』 電話は、そこで切れてしまう。一体、何なんだ? 彼は、電話を見つめつつ、首をかしげた。その時である。 「あの〜、すいませ〜ん、止めて、もらえませんか〜?」 妙に間延びした声が聞こえたかと思うと、坂の上からパタパタと女の人が走り降りてきていた。止まる様子はない。彼女の言葉を鵜呑みにするならば、どうやら止まれないらしいが、坂道を下るのに止まれない人間なんているのだろうか。そんな疑問もあったが、現実彼女は速さを増すばかり。彼に、逡巡の時間なんてものはなかった。 勢い良く突っ込んできた彼女を抱き止める。重たい衝撃と、柔らかい感触。一瞬、気が抜けたが、勢いを殺しきれず後ろに下がりつつあることに気付いて、慌てる。後ろは線路で、しかも下までおよそ二メートルはある。この高さを人一人抱えて落ちれば、きっと背骨が大変な事になる。咄嗟に右足を後方に伸ばし、それがガードレールにあたる。そこをバネにして――ギリギリのところで、なんとか女性を止める事ができた。 「・・・止まった」 「止まりましたね〜」 ふんわりと優しい匂いがした。すぐ近くにある女性の顔はとても愛らしく、こんなに可愛い人見た事がない、と彼が思うほどであった。彼は、今の状況がとても恥ずかしいことになっていることに気づいて、慌てて女性を押し戻した。 「ありがとうございました。まさか、坂道がこんなに恐ろしいものとは思いませんでした」 子供のように笑う。会話は、間延びしている上にネジが抜けているような印象であった。そこで、彼はさきほどの電話の事を思い出していた。 「急いでいますので、これで失礼致します。あなたに、優しい幸せが訪れますように」 女性は深々と頭を下げると、ガードレールに寄り、下――線路を見下ろしている。首を捻っているかと思うと、今度はガードレールをまたぎだした。 「な、なにしているんですか! 危ないですよ!」 慌てて止めるが、女性は不思議そうな顔をしていて、なにが危ないのかまったく認識していない様子であった。 彼は、確信する。電話で言っていたのは、この人のことだ――と。 「お友達の所に行くには、ここを通らないといけないの。危ないの?」 「電車が来ると、轢かれますよ。それに、高さもあるし、落ちると危ないと思います」 「電車・・・」 ちょうどそこで下を、彼は電車と表現したが、電気を使って走っているわけではないので、汽車と表現したほうが正しい車両が走り抜けていく。 「時速三十二キロ、重量・・・百四十トン? あわわ、これは一撃でミンチになっちゃいますね〜」 どうやって測定、測量したのか分からないが、女性はそんな事を口にした。 「まっすぐ最短距離を目指していたのに、なかなかまっすぐ歩けないんですね〜」 ほっと息を吐いて、彼女は浩二が来た道を進んでいく。もう、浩二は確信していた。電話で言っていたのは、彼女の事だ。疑いようもない。浩二は、女性に背を向けて隠れるように電話をかけた。 『なに? 文句あんの?』 相手は、ワンコールで出た。しかも、いきなり喧嘩口調。かけなおすのが早すぎたため、苦情の電話か何かだと思ったのかもしれない。 「どうやら俺、見つけたっぽい」 『はっ? ・・・えぇ?! ちょ、マジ!? マジで言ってんの?!』 「マジマジ。物凄く可愛い人で、胸が大きくて、ボケボケとした人だよな?」 『・・・名前は? その特徴だと、間違いなさそうやけど・・・』 「まだ聞いてないけど、ガチで間違いないって。あんなネジの抜け方、俺、見たことがねぇ」 『相変わらず運が悪い人やなぁ。浩二、場所は?』 「丁度、新原と宇美駅の間ぐらいの・・・もう少し先に行ったら、公民館前の大通りに出る辺りだね」 『それぐらい分かれば十分。アンタは、早くそこから避難しな。巻き込まれたら、死ぬで』 「えっ? 死ぬって、いくらなんでも・・・」 『本当に命に関わるんよ。だから、早くそこから避難して。あんたを、これ以上ウチらの事情に巻き込むわけにはいかんのや』 声音がいつもと違う――仕事をしているときの彼女のものだ。電話の相手は、春野美由紀。春野家の除霊屋の一人。浩二は、彼女が妖たちと戦っている姿を知っている、数少ない一人である。 美由紀が言っていることは、冗談でもなんでもない。良くは分からないが、関わるのは危険な事なんだろう。少しずつ遠くなっていく、女性の背中。しばらくそれを見つめた後、浩二は自分に正直な結論を口にした。 「やっぱり・・・それは出来そうにないよ。なんだか、放っておけない」 『・・・言うと思った。あの人は、凄く優秀な人材なの。だから、怪しげな人が近づいてきたら、逃げる事。私たちも、すぐに向かうけん・・・信じて待って欲しい』 「分かった。春野さんは、いつも助けてくれるからな。今回も期待しているぜ」 『た、助けたくて助けているやないわ! ドアホ! アンタがポコポコと巻き込まれるけん、ウチがこんなせからしか思いをしないかんのや! ちったぁ反省して、迷惑のかからんよう、静かに生活せい!』 勢い良く電話は切られてしまった。とある廃病院の肝試しで、彼女に助けられて以来、浩二の運勢は急降下してしまったのだろう。ことあるごとに、霊的な厄介ごとに巻き込まれるようになってしまった。なにかに取り憑かれているわけではないとのことだったので、原因は今の所まったくの不明である。浩二も、巻き込まれたくて巻き込まれているわけではない――そんな風に思うのであった。 「あ、追いかけなきゃ。待ってくださーい!」 浩二は、女性――春野ひふみを追いかけた。 「はい? なにか、ご用でしょうか?」 「えと、あの、なんだか困っているみたいだったから、力になれないかなって・・・道案内、出来ると思うんだけど・・・」 「まぁ、本当ですかぁ? それは助かります」 ひふみは、嬉しそうに笑った。無垢なる愛らしい笑みが、浩二の心臓の鼓動を急かせた。 「お友達の所へ向かう途中だったのですが、なかなか進めず困っていましたの」 「それって、どの辺りですか?」 ひふみは、すっと線路の向こう側、東にそびえる山を指差した。 「あの山の中腹です」 「えっ?」 遠いなんていう話じゃない。ここから歩けば、確実に日が暮れてしまう距離だ。 「この先にバス停があります。そこから、バスに乗れば早いと思いますよ」 「バス? あぁ、バスですね。誰でも乗れるものなの? 私、乗ったことがないのー」 「えっ?」 これは、意外に大変なのかもしれない――浩二は、この時心底そう思った。 浩二はひふみを連れて、バス停まで辿り着いた。今の所、怪しい人間は現れていない。少し大きな通り沿い。道路を渡った向こう側は、広い駐車場になっており、その先は川になっている。真後ろは、公民館だ。学生の帰宅時間であるため、自転車に乗った学生や、歩いて帰る生徒やら、人通りはそこそこにある。バス停にも女子高生が二人、大きな声で会話をしていた。 「えと・・・バスは・・・と」 普段、浩二はバスを使わないし、初めて使うバス停だったため、時刻表の見方が分からない。記憶を辿って、目指す山の近くの住所を思い出し――。 「・・・あっ、次は五十九分だ。ラッキー、あと十分ぐらいで来ますよ」 「そうですか〜。なんだか、楽しみですねー」 バスに何を期待しているのかは分からないが、ひふみは楽しそうである。ベンチは女子高生に占領されているため、壁際に並んで、バスを待つことに。 「浩二君は、学生さんなんですか?」 「はい、二年生です」 「そっか、若いね。いいなぁ、若くて」 「ひ、ひふみさんも十分に若いように見えますよ」 「そう? えへへ、なら十八歳ってことにしとくねー。ちなみに、職業はヒキコモリとニートだよ。時々、マジシャンもしているの〜」 ヒキコモリやニートは職業ではないのではないだろうか――そう思ったが、浩二は別のことに突っ込んだ。 「マジシャン? 手品師?」 「ネットゲーの話だよー。浩二君は、ネットゲーとかしないの?」 「家、パソコンないんで」 「そうなんだ。ねぇねぇ、浩二君はアニメ見る?」 「深夜にあるし、DVD買うお金ないし、ゴールデンであっているのはあんまり好きじゃないかな・・・」 そんなお話をしていると、急にひふみが顔を上げた。表情が、さきほどの柔らかいものから一変している。酷く真面目な顔――その顔を見て、浩二も危険が迫っていることを察し、彼女の視線を追いかけた。丁度、今から向かう方向。かなり遠いが、一人の男が歩いている。黒い服を着ていることぐらいしか分からないが、特段変わった所があるようには見えない。 「・・・データ照合・・・あっ、そっか、バックアップないんでしたー。えと〜・・・む〜ん・・・分からない・・・」 「逃げましょう!」 状況はさっぱり分からないが、美由紀の言葉を信じるならば、アレは敵だ。浩二は、ひふみの手を引っ張って走り出した。 「わっ! わっ!」 ひふみが足をもたつかせるため、なかなか速くは進めない。少し戻って、脇道に入る。ゆるやかな坂道が、公民館沿いに延びており、その先は住宅街に繋がっていた。バスが通る路線ではないが、この際わがままは言えない。本当に敵が来たのであれば、もうひふみは春野家に回収してもらうしかない。それまでの時間を稼げるなら、どこでも良かった。 しかし――。 「ダメ・・・前方二百メートルに不明の能力者反応が一つです。あっ、気をつけて! 後方から、さきほどの能力者が・・・この反応、鬼型の式・・・もう来ます!」 「えっ?」 坂を登りきろうとしていた所であった。後ろを見た浩二の視界を何かが過ぎって行った。ズン! と重たい音がして、大地が揺れた。体のバランスを崩しつつも、視線を戻した浩二は愕然となった。目の前に居たのは、頭部から突き出した角、筋骨隆々の体、そして優に三メートルを超えようかという巨躯――本で見る、『鬼』そのもの。赤く光る薄気味の悪い瞳が、浩二とひふみを睥睨していた。その側には、黒い服の陰気な男が一人。にやりと笑うその笑みは、鬼の表情よりも恐ろしく見えた。 「どうもこんにちは。いきなり逃げるんで、思わず式を召喚してしまいました。安心してください。私は、味方ですよ。さぁ、ひふみ様をこちらへ。その方のエスコートは、私が請け負います」 男が、手を差し伸べてくる。浩二には、その手が恐ろしく不気味に見えた。ひふみが、ぎゅっと浩二の手を掴んでくる感触。ひふみの震えが、緊張が浩二にも伝わってきた。しかし、その手が急にふわっと離れた。 「・・・お勤めご苦労様です」 ひふみが、男のほうへと歩き出す。今までの経緯から、目の前の男はひふみの知らない人のはずだ。それなのに、急に態度を一変させたその理由は――分からない。分からないが、ひふみを彼に渡してはいけないことだけは分かった。美由紀が言ったのだ。『信じて待って欲しい』と。断言できる。目の前の男は、美由紀の仲間でもなんでもない――! 「行ったらダメだ!」 「鬱陶しいですよ」 鬼の右腕が動き、浩二を横凪に払い飛ばした。 凄まじい衝撃。訳が分からないまま、浩二は一瞬青い空を見た。そして、誰かが泣いているように見えたが――もう、認識は出来なかった。 浩二が弾き飛ばされるのを目の前で見ていたひふみは、悲鳴を上げた。浩二の体は、ブロック塀に叩きつけられて、地面に落下した。 「浩二君!」 駆け寄って声をかけてみるが、まるで反応はない。ひふみの能力を使えば、彼がどんな状況なのかは分かるはずなのであるが、それを失念してしまうぐらい彼女は慌てていた。 「さぁ、私と共に。次はありませんよ」 逆らえば、浩二が殺される。彼は、親切でひふみを助けてくれた。それなのに、ひふみが原因で殺されるなんて、そんな馬鹿なことが許されていいはずがない。 外は危険だと教えられていた。だが、まるで実感はなかった。きっとなんとでもなると思っていた。しかし、現実はこの様。しかも、無関係の人に怪我まで負わせた。 「・・・彼には手を出さないで下さい。除霊屋でない人間を殺したら、面倒な事になっちゃいますよ」 精一杯強がりでそう言った。心は震えていた。 「私が殺すわけではありませんから。たまたま妖が彼を殺したので、私がたまたま妖を調伏した。私を法で裁くことは出来ませんよ」 実に楽しそうに笑う。実際、彼の言う通りだろう。妖による事件は、全て『事故』扱いになる。幽霊、妖、化け物――人以外の超常現象の申し子は、この世界では『いない』扱いになっている。『いない』ものに殺されたならば、それは『事故』と扱うしかない。除霊屋の人間を裁けるのは、同じ除霊屋の人間だけなのだ。 「・・・最低ですね」 「他人を巻き込んでしまったあなたに言われたくはありませんよ」 ひふみは、言葉に詰まった。 「さぁ、ひふみ様をお連れしろ」 鬼の右手がひふみに伸びてくる。もう、抗う事を諦めたひふみは、静かに目を閉じた。その時である――。 「汚ねぇ手で、触んじゃねぇぞ!!」 ひふみと男の間に割り込んできた女が、鬼の右腕を刀で寸断した。切り離された鬼の腕は霧散し、腕を切り落とされた鬼は先が無くなってしまった腕を抱えて悲鳴を上げる。 「はっ、気持ちの悪い声で鳴くんじゃねぇ!」 真下から真上へ――女は、鬼を一刀両断してしまう。その女は、ひふみの良く知る人だった。 「蓮華!」 「後で泣かす!」 女――蓮華はそれだけ言うと、動きを止めずに残った男に向かっていった。その迫力にびっくりしつつも、ひふみは蓮華の背中を温かく見守る。もう、ひふみに不安はなかった。 「馬鹿なっ?! 私の鬼が・・・一撃だと!」 「お前は、三枚卸じゃすまさねぇ。十枚ぐらい卸して、網で炙りつくす!!」 蓮華の動きは、容赦がない。式を失って戸惑っている男に一気に詰め寄ると、大上段から刀を振るった。慌てて男は、刀を抜いて受け止めるが――。 「な・・・ば、馬鹿力が・・・!」 蓮華の力は、軽く男の力を凌駕していた。蓮華はそのまま男を押していき、ブロック塀に叩きつけた。蓮華には、際立った特殊能力はない。その代わり、彼女の霊力は『力』に作用する。霊力が作用した状態の蓮華ならば、止まっている自動車を易々と動かす事さえできる。 「お前・・・本当に女か・・・?」 苦し紛れに言った台詞が、蓮華の逆鱗を撫でる事に。それは、蓮華が一番気にしている事であった。 「・・・お前、三十枚卸だ。てめぇんちの庭の木に、貼り付けてやる!!」 途端、ガクンと体が動かなくなる。 「なっ・・・んだ?」 戸惑い、状況を確認――するほどの余裕はさすがにない。隙を突いて、男が右足で蓮華の腹を蹴り、押し飛ばした。 「ちっ!」 蓮華は倒れず、後退しつつ座り込んだ。その時になってようやく、蓮華は現状を把握した。蓮華の体に、無数の子供の手――そして、醜い老人のよう顔をした小さな子供がしがみ付き、ケタケタと笑っていた。 「餓鬼! もう一人いたか」 仏教に出てくる、飢えを癒せない亡者達――それが餓鬼。生前、贅沢をしていたものが陥る姿だとか、現代では飢えて死んだ人間の霊だとか、色々と言われている。蓮華に憑いているものが、どれに含まれるのかは分からないが、餓鬼達は一つとなって蓮華の動きを止めていた。一種の結界に近いもののようだ。 蓮華が言うように、餓鬼は目の前の男が放ったものではない。近くに、ぶつぶつと呪文を唱えている少し頭が禿げているおっさんの姿があった。 「さすがに、これでは動けないよな。殺して、お前で式を作ってやる」 「堂々と外法を口にするか。最低な連中だな、お前らは」 正しい式は、契約によって結ばれる。しかし、世の中には契約をせずに作る式というものが存在する。例えば、犬を無残に殺した後、その犬の首を式にする――そんな呪法だ。動物を式にするということは良くある事であるが、人間はその構造の複雑さから、生きたまま式には出来ない。それ故に、人間を式にするには『分解』するしかない。男が言っているのは、そういうことである。 「・・・まぁ、この程度で、この私をどうにか出来ると思っているところが笑えるな!」 蓮華は、力ずくでまとわり付いていた餓鬼を振り払った。これにはさすがに、男もはげ頭の男も、呆然。 「まずは、お前から潰す!」 蓮華は、相変わらず動きに無駄がない。すかさず男に突っ込んでいく――が、その途中で、刺すような敵意に蓮華は気付いた。その方向に顔を向けた蓮華の顔に、焦りが滲む。一本の矢が、まっすぐに向かってきていたからだ。もう避けられるタイミングは逸している。刀で打ち払う事はできるが――。 「爆符・・・!」 矢には、一枚の紙がぶら下がっていた。符術の一つ爆符――爆ぜる力を込めた、ようは爆弾だ。打ち払えば、確実に発動する事だろう。だが、そのまま刺さって爆ぜられてしまったら、あたり所では命を失うことになる。蓮華に選択肢は残っていなかった。 「ぬぅあぁ! なるにようになりやがれ!!」 刀を振りかぶったその時であった。何かが、割り込んできた。それは、蓮華に向かっていた矢を踏み潰し、爆符の爆発に巻き込まれてしまう。爆発の衝撃で発生した砂煙から、顔を守る蓮華。もうもうと立ち込める煙の中には、優に三メートルはあろうかという影が映る。それは、大きく羽を広げ、煙を一気に払いのける。煙が晴れた向こう側には、巨大な鷹の姿があった。 『こっちは任せろ』 そう言うと、巨大な鷹は空へと昇って行った。状況は分からないが、あの鷹が敵ではないということは分かった。もう、今はそれで十分だった。 「よし、邪魔者も居なくなったことだしな。覚悟は完了したか?」 「ふ、ふざけるなぁ! 春野家の除霊屋如きに、負ける道理なんてない!」 やけくそになったのか、男が突っ込んできた。しかし、その動きは蓮華から見たら稚拙そのものだった。元々彼は、式使いだ。近接戦闘は、おまけ程度の実力しかないのだろう。 「実に負け犬のようなコメント、ありがとうよ!」 男の横凪の一撃を掻い潜り、足を払って、バランスを崩した体を勢い良く蹴り飛ばす。続いて蓮華は飛び、転がった男の腹に膝を落としこんだ。まったく容赦のない一撃に、男も泡を吹いて気絶した。 「ふん、カス野郎が。あとで、たっぷり拷問してやる」 そんな、どっちが悪役なのか分からない台詞を蓮華が呟いているうちに、もう一人の頭の禿げた男は逃げ出していった。蓮華は、それを追いかけようとはしなかった。一人捕まえておけば、それで十分だと判断したからだ。 「蓮華!」 事が終わってすぐに、ひふみが蓮華の背中に抱きついてきた。嬉しそうに頬をすり寄せるひふみ。しかし、蓮華の表情は硬かった。 「ひふみ・・・」 「ほえっ?」 振り返った蓮華は、いきなりひふみの左側腹部を人差し指で突いた。 「ひゃうん!」 「さっき言ったよな。あとで泣かすって。だから、泣かす」 「えぇ! あ、いや、突かないで!」 蓮華は問答無用で、悶えるひふみの全身を人差し指で突きまくるのであった。 一通り、ひふみを突っついた頃には、すでに先ほどの巨大な鷹の姿はなくなっていた。アレが、一体誰だったのか。蓮華は、釈然としない思いで、鷹が飛んでいった先を見つめていた。 事件は収束した。蓮華が捕まえた一人と、道路で倒れていた男を一人回収。道路で倒れていた男は、弓を射った男なのだろう。弓を手にしていた。状況は分からないが、あの巨大な鷹が倒してくれたことは分かった。 ひふみをエスコートしてくれていた浩二は、救急車で救急病院へと搬送した。心配するひふみに、蓮華は『今すぐ、どうこうなるような怪我じゃない』と説明した。同伴は、遅れてやってきた美由紀に押し付けた。 そして――。 「ここまで来たんだ。ついでに寄っていくか」 「えっ? どこに?」 「決まっているだろう。兎渡子のところだ」 ひふみは、しばらく目をぱちくりさせていたが、言葉の意味を理解し、蓮華に抱きついた。 「蓮華、大好き! 今度、DVD貸してあげるね」 「またいかがわしいDVDを押し付けるつもりだろうが。んなものはいらん!」 「えぇ、触手とショタは貴重だよ」 「どうしてそんな不気味なものを押し付けようとするんだよ! もう連れて行かん!」 「あぁ〜ん、冗談だよ〜。ごめんね〜、レンちゃん」 そんな会話を聞いていた、別の春野家の男性が、顔を赤らめていたりしていたが――なにも問題ない。ひふみが、変態で奇人であることは、春野家で知らない者はいないからだ。 幽世喫茶――ひふみが、兎渡子の淹れた珈琲を飲んでいる。嬉しそうに微笑むひふみと、それをどこか困った顔で見ている兎渡子。 「ととちゃん、この珈琲、美味しいね!」 「そう、それは良かったわ。でも、もう無茶はしないでよ」 「無茶は、もうしないよ。うん。しない」 いつも子供っぽいひふみの顔が、年相応のものへ。彼女も、今回の事で色々と思うことがあったのだろう。そんな顔でそう言われたら、兎渡子もそれ以上強くは言えなかった。 ここは幽世喫茶。 可愛い後輩も訪れるお店。 END
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