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『妖は憂う』
F県U町にあるH山の中腹にある、ログハウスの建物がそれである。山奥にあるため、そこに喫茶店があることを知っている人は、ごく僅か。なにせ、近所の人が――。
「うおっ?! 喫茶店が! いつのまに?!」
と、驚くほどである。どんだけよ。
この幽世喫茶。そんなんで経営が成り立っているのかというと、全然成り立っていない。ただの張りぼてのようなものである。それでも、一応意味があり、だからこそいまだに営業している。
ここは幽世喫茶。人だけではなく、妖相手にも珈琲を出すお店。
今日のお客様は、いつもよりもちょっぴり珍妙です。
あぁ――。
なぜ――だ――。
私は――。
もう――。
何も奪いたくない――。
だから――。
放っておいてはくれないのか?
人の子よ――。
ズン――と、巨大な石が落下して大地を揺らすような音が響いた。外を見ると、鳥達が慌てて、真っ青な空へと逃げていく。その狭間に、彼女は声を聞いたような気がした。
「・・・何かしら」
書きかけの小説を保存して、パソコンの電源を落とし、店へと出る。マイセンカップの付喪神であるマイが、それに気付いて首をかしげた。
「どうされましたか? お客様は、まだいらしておりませんが」
彼女が、ぐうたらな生き物である事を、マイは良く知っている。マイが化生してからというもの、この店の清掃、さらに家事まで全てマイがこなすようになっていた。
ボサボサの髪をかき揚げ、彼女は椅子に腰をかけた。
「妙な気配を感じたから、客が来るかもしれないと思って」
「マイは、特に何も感じませんでしたよ」
「なら、気のせいなのかもしれないわね」
そう彼女は言ったが、部屋には戻ろうとはしなかった。カウンターの奥の椅子に腰をかけて、乱雑に積んである小説を読み始めた。マイも気を取り直して掃除を再開する。それから、二十分ほどが経過した。扉が、ギィ――と軋み、続いてカランコロンと鐘の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
マイが元気よく挨拶する。
客は、髪を短く切り揃えた女性だ。男物のスーツを身に纏っているが、ボロボロである。ぶらりとぶら下がった左腕を抱くようにして入ってきた彼女は、か細い声で『電話を・・・』と呟いた。
「マイ、電話だって。私、奥いるから、適当に対応してて」
「マスター?」
慌てたように彼女が部屋の奥へと逃げていこうとする。しかし――。
「兎渡子・・・?」
彼女は足を止めた。しかし、振り向かない。女性は、少し急ぎ足になって近づいていく。
「兎渡子なんだろう?」
諦めたのか、彼女は溜息を吐いて振り返った。諦念の表情だ。
「久し振り・・・」
「あ、あぁ・・・久し振り。元気、そうで・・・あ、うん、良かった」
女性は、歯切れが悪い。曖昧に笑い、電話を指差して『借りるわ』とごまかすように言った。
電話をかけた後、女性は疲れたように椅子に座った。そんな女性に、マイは彼女が淹れた珈琲を差し出した。
「ありがとう。兎渡子と契約しているのか?」
一目で、マイを人間ではないと見抜いたようである。
「えっ? 契約とか・・・私・・・付喪神ですから。勝手に憑いているというか、居候です」
「そう、兎渡子の下にいるなんて、変り種だね。アイツ、変な奴だろう?」
「いえ、そんなことは」
「その顔は、ちょっぴりそう思っているという顔だな。いいんだよ、兎渡子は誰もが認めるド変人だから」
「その折れた腕、へし曲げるわよ」
顔色一つ変えず、彼女は言う。それを女性は指差して苦笑した。
「見ろ、あれがアイツの本性だ。最低のサド野郎なんだよ」
「怪我人は、黙ってなさいよ」
マイは頭を下げて、カウンターへと戻っていく。女性は、珈琲が湛える黒い水面を見つめた。
「・・・兎渡子、もう戻る気はないのか?」
「ゴメン」
「謝らなくていい。兎渡子がそう決めたのなら、仕方ない」
「それ、誰にやられたの?」
「厄神社に新たな主が現れてね、そいつにやられた。兎渡子がいれば、あんなのには負けないんだけど・・・」
女性は、珈琲を口に含んだ。その瞬間、爆発するように膨れ上げる記憶の渦。
兎渡子、兎渡子、兎渡子――。どれも兎渡子の顔ばかり。女性は、涙を零した。
「・・・やっぱり、嫌だよ」
「あ、間違えて幽世珈琲を・・・」
彼女は、女性に幽世珈琲を飲ませたことを後悔した。しかし、今更どうしようもない。女性の荒ぶる感情を見つめる事にした。
「どうして、私の前からいなくなったんだよ。私、兎渡子の力になりたかったのに。兎渡子を支えたかったのに。兎渡子のいない世界なんて、暗闇ばかりだよ」
「おれんは、そうやって私のために己を削っていくから・・・私は嫌だったの。私が、おれんを殺しているような気がして・・・もう、私は十分おれんに救ってもらったから。だから、もういいの。おれんは、自由に生きなよ」
「マスター」
震える彼女の手を、マイは静かに握り締めた。マイは、首を横に振っていた。それがなにを意味していたのか――気づいたとき、彼女も涙を流していた。
「そうね、違うわ。私はもう・・・傷つきたくなかっただけなのね」
彼女は、女性が口をつけた珈琲を、口に含んだ。そうすることで、女性が見た光景を見ることが出来るのだ。
「おれん、私、ここで珈琲を淹れることにしたの。姉を守れなかった力を捨てて、もう一度この指で出来る事を模索した結果でね・・・割と気に入っているの、この珈琲。素敵な音色だと思わない?」
「兎渡子らしい、悪趣味な味がする」
女性は、苦笑していた。
「まったく、素直に『おれん、超感激』とか言えないの?」
「なんだそれ? 何人だ、キモ過ぎるだろう」
『でも』、と女性は続けた。
「悪くは・・・」
頭を横に振る。
「私は好きだ」
そう、言い直した。彼女も、嬉しそうに微笑む。
「さてと、おれん。怪我が治ったら、また来て。私、この幽世珈琲で出来ることを見極めたいから」
「別にいいが・・・なにをするつもり? まさか、私を使って人体実験とかはやめてくれよ?」
「それはそれで楽しそうだけど・・・」
「い・や・だ! 基本的な人権を主張する!」
「冗談よ。相手は、おれんを負かした妖よ。私の珈琲を飲ませてみたいの」
「・・・それのほうがよっぽど冗談だ」
自信満々に彼女が言うものだから、女性はそれしか言えなかった。
三日後――。
「来たぞ」
女性――おれんは、やってきた。腕を組み、入り口で仁王立ちである。
「おれん、腕折れていたんじゃないの?」
「術と気合、あと常時エネルギーチャージ(食事)で、完治だ。除霊屋を舐めるな」
「除霊屋でもそれを無茶だと・・・ふっ、おれんに『無茶をするな』とか、言っても仕方がないか」
彼女は、すっぱりと諦める事にした。
「マイ、少し出かけてくるから。留守番、頼んだよ」
「私もご一緒してはいけないのでしょうか?」
彼女は、マイの頭を優しく撫でる。
「あんな所に近づいたら、穢れてしまう。私たち人間と違って、一旦穢れたら戻れないでしょ? だから、待っていて」
今から、おれんを追い払った主に会いに行くというのに、彼女は一点の曇りもなく笑って見せた。マイは、彼女を信じることにした。
「イエス、マイマスター」
彼女は、おれんを連れて喫茶店を後にした。
「・・・勿体無いぐらいにいい子だね」
「あげないからね」
「妖なんて、やると言われても断るよ」
タバコを取り出して、くわえるおれん。露骨に彼女は嫌そうな顔をした。
「タバコ、吸い始めたの?」
「妖避けだよ」
「なら、香でも焚けばいいじゃない。体に悪いわよ」
「香じゃ、気が紛れないんだよ」
おれんは、紫煙をぷかぷかとくゆらせた。
厄神社は、幽世喫茶から二十分ほど行ったところにある。半分かけた鳥居に、穴だらけの社。陰鬱な雰囲気が、べっとりとまとわり付いてくる。ここは、山の掃き溜めだ。山全体に悪いものが蔓延しないようにするための、壺のようなもの。ある程度澱みが溜まれば、除霊屋が一掃してくれる。ただ稀に、簡単には一掃できないような、大物が流れ込んでくる事がある。おれんを打ち負かした奴も、その一種なのだろう。
強い瘴気で景色が歪む。彼女は口をハンカチで塞ぎ、おれんはマスクを付けた。
「・・・この瘴気、半端ないわね」
「首にかかった賞金は、四千万だ。元々、八女の辺りにいた奴で、何度も祓おうとして祓えず、三十年。そんな奴だ。考え直したらどうだ?」
「顔を見て、話してから考えるわ」
「それじゃ、遅いだろう」
社に近づき、そして気配を辿って、社の左側に迂回する。強い瘴気を放つ存在は、社の軒下に腰掛けていた。ボサボサの髪が顔の左半分を覆っており、右目だけがギラリと光る。小汚い灰色の着物を着た、身長百七十センチ程度の男――のようだ。瘴気がなければ、浮浪者と間違いそうな格好である。
『また来たのか、人の子よ。こりない奴だ』
「妖風情が・・・人間様を舐めるなよ!!」
「あ、馬鹿っ!」
止める間もなかった。おれんは刀を抜いて、妖に斬りかかる。妖はそれを右手で受け止める。ぎらりと光る銀色の鋭利なもの。それは、妖自身の爪のようだった。
「ちょっと、おれん! なにさかってんのよ?!」
「気が変わった。三枚に下ろして、ミキサー処理して、川にばら撒いてやる! 小魚の腹の中で、おいしく分解されちまいやがれや!」
「やめろつってんでしょうが、この発情したメス犬!!」
手近な石を掴んで、彼女は投げつけた。ゴンと、頭部にヒット。頭を抱えてうずくまったかと思うと、おれんは投げた石を掴んで、彼女の元まで戻ってきた。
「お前、こぶし大の石とか、あたり所悪かったら死ぬぞ?」
「私は、おれんを連れてきた事を心の底から後悔しているわ。もう、帰れ」
『・・・ここは、遊びに来るような場所ではないぞ。早く家に帰れ』
妖にまでそんな事を言われる。おれんが、再沸騰する。
「あんだと・・・?!」
「おれん! アレ、久し振りに読みあげられたいわけ?」
おれんの動きが、面白いように固まった。
「・・・アレって、アレか?」
「それ以外の何があるのよ」
「まだ持っていたのかよ!」
「あんな面白いもの、早々に捨てられないわよ」
「酷い! 兎渡子のこと、見損なったわ!」
どうやら泣き出すと、口調が変わるようである。
「分かったから、どいてどいて。話が・・・」
まだ文句が言いたそうなおれんを押しのけて、気づく。妖は、優雅に足を組んで座っており、微妙に笑っていたのだ。
『気が済んだか? 喧嘩の続きは、帰ってすることだな。騒々しいのは嫌いではないが、女の声は、頭に響く』
「割と話が通じるみたいね。私の名は、乙衣兎渡子。あなた、名前は?」
『・・・タカだ。こんな私に、討伐以外のようでもあるのか?』
「営業よ。私が淹れた珈琲、飲んでもらいたくてね」
妖は、大笑いした。
『いかれた女だな。どういう教育を受けたのだ?』
「言っておくぞ、クソ妖。コイツとは同郷だが、いかれているのはコイツだけだ」
「おれん、あとで泣かすね」
笑顔で彼女が言うものだから、おれんはまた面白いように動揺する。
「このド変態! 骨は、拾ってやらないからね!」
彼女は、水筒に珈琲を入れて持ってきていた。それを紙コップに注ぎ、妖に差し出す。珈琲の湯気が、瘴気を薄めているのが分かる。
『なんだ、この怪しげな珈琲は?』
「私が淹れた、幽世珈琲よ。一番見たい記憶を、鮮明に蘇らせる事ができるの。試してみない?」
妖は、とりあえず受け取った。しばらく珈琲を見つめた後、にやりと笑った。
『まぁ、いいか。飲んでみよう』
珈琲を口に含んだ瞬間、妖は目を見開いた。見えたのだ。失ってしまった彼の過去が。
彼を崇める人々。麓の村人の生活を眺める毎日。急速に進んでいく近代化。削られてゆく山。遠くに鳥が見えた。しかし、その鳥がなんの鳥かまでは分からなかったが、彼にとってそれはとても大切なものだったように感じていた。
妖の瘴気が、僅かに削げた。
『・・・これは!』
「私の店の常連になりなさい。ずっと飲んでいれば、きっと戻れるわ。本当の姿に」
『私は、この有り様なのだぞ?』
「別に構わないわ。お客なんて、ほとんど来ないし。常連さんが出来ると、嬉しいし」
彼女は、屈託なく笑って見せた。妖もそれにつられて、うっすらと微笑んだように見えた。
『本当に・・・本当におかしな女だ』
ここは幽世喫茶。
穢れを背負ったモノも訪れるお店。
END
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