まどろむ時間を、彼女は静かに流れるクラシックに耳を傾けながら過ごす。流れている曲の名前なんてものは知らない。彼女の母が買い集めていたのを、ただ流しているだけ。

 店内に客はいない。外から聞こえてくる鳥達の囁きが心地よく、店内に差し込む陽光は、誰もいない店内で踊っていた。

 しばらくすると、雨が降ってきた。喫茶店の雰囲気作りのために流されているクラッシクの音が、かき消されてしまうほどの豪雨。

「うわぁ・・・ちょっと、降りすぎ」

 彼女は、少しだけ嫌そうに眉根を細めた。しかし、別に外に出る用事もないので、雨が降ってもさしたる支障はない。

 音楽を切る。晴れている日でさえほとんど客が来ないのに、この雨の中、客が来るはずがない。店を閉めて、部屋で書きかけの小説を執筆しよう――腰を上げたその時、生ぬるい風が彼女の頬を触っていった。

 彼女は、表情を改めて座りなおす。客が来た――。

 ギィという音を立てて、扉が開く。入ってきたのは、この五月、初夏にあたる季節にも関わらず、分厚い茶色のコートを着た、ずんぐりとした体格の人。顔は見えない。つばの広い帽子で隠している。

「いらっしゃいませ」

 音もなく店内に入ってきたその人は、やはり音もなく近くのテーブルについた。不思議なことに、その人は一滴たりとも雨に濡れていなかった。それもそのはずだ。『それ』は、この世とは違う世界の住人。そこにいるのに、そこにいない。存在していたものの、抜け殻。彼女は、『それ』を認識し、理解している。そして、この喫茶店での客のほとんどが『それ』と同様の存在ばかりなのである。

 一杯のコーヒーを『それ』に差し出す。幽世喫茶のメニューの一つ、『幽世珈琲』である。優しい匂いが、白い湯気となり、『それ』を優しく包む。『それ』は、笑っていた。コーヒーの黒い水面に、望んだものが見えたのだろう。

 彼女がカウンターに戻り、振り返るともう『それ』の姿はなく、外から湿っぽい空気が流れてくるのみ。

「ありがとうございました」                                       

 残されたのは、満足げに微笑む彼女と、空になった珈琲カップ。

 

 ここは幽世喫茶。

 温かいコーヒーを出すお店。

 

 END

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